上 下
18 / 61
第三話 殺らずの雨

兄と妹

しおりを挟む
 兄と妹を偽装してはいても、舟宿の女将も女中も弥七とにはなんの関心も抱いてはいないようであった。
 二日前から降り出した雨が、ときに突風をともなってが横殴りに部屋のなかをかき回すのだ。その対応と窓や戸の修繕のために、猫の手も借りたいほどの忙しさで、弥七とは、竈場かまどばに隣接する三畳の物置きに泊まることになった。
 大広間での雑魚寝が、舟宿ではあたりまえで、街道筋の旅籠はたごとは違うのだ。
「あいにくの雨で、川止めのお触れが出て、客室が足りなくなるほど人が多くて……ここで、ご辛抱を……」
 女将なのか年増の女中なのかはわからないが、てきぱきと部屋割りをこなしていく。雑魚寝の相部屋だとおもっていた弥七はさすがに驚いた。は、れっきとした譜代の家柄で、しかも上士じょうしと呼ばれる藩士のなかでも身分のある家の長女なのだった。それをふたりきりで同じ部屋に泊まるというのは、弥七には想定外のことで、慌てて、大部屋にしろと迫ると、
「そこもいっぱい。横になっては眠れないほどですから」
と、けんもほろろに断られてしまった。

「わたしはどんなところでもよろしいのです」

 はあっけらかんとして言う。相手が落ち着いているとわかればわかるほど、弥七は気が動転してしまう。
「それと、わたしのことは、“ふさ”、“おふさ”と、呼び捨ててください。そんなにぎこちなくしていれば、かえって目立ってしまいます」

 そんなことまでは指示するのだ。自分より十歳以上も下の女人のほうがよほどしっかりとしていることに弥七は驚かされてもいた。



 そもそもは、雨は大の苦手である。
 降るか降らないかといった、曇るか曇らまいかといった、そういうれったさの狭間はざまにある光景を、はとくに好んだ。
 ここ、神坂こうさか藩は、三塞さんさいの国といわれる。
 ……三辺を険しい山々が襲い、一辺が日本海へ注ぐ神坂川の支流に面している。川を下っていけば、海につながるが、他藩の領域であって、神坂は海のない国であった。
 さらに、表日本側に続く峻嶺な山の谷間を流れる神坂川は高梁川の支流のひとつで、大河ではないにしても、さながらとぐろまくごとくに曲り折れている。神坂川の向こう岸は幕領ばくりょう(幕府直轄地・天領ともいう)で、公儀直参じきさんの旗本らの所領が多い。戦国期にけられた大橋はとうにちかけていて、補修が必要なのだが工事の予定はない。
 しかも、この舟宿のあたりは、他の二つの藩と幕領との境界にあって、本来は通行を監視する関所や番所があって当然なのだが、設ければ設けたで他藩の武士同士の争いを誘引しがちなこともあり、それも治外法権、いわゆる無法地帯に近い状態になっていた一因でもあった。言葉をえるならば、誰かに支配されているという感覚は少なく、中世的な自遊民感覚に通じる面があったといえなくもない。

「そんなことをテラさんが言ってましたが、そんなおかしな一帯には見えないがなぁ……」
 弥七もそう見てとった。
 さすがに道中と観察眼をしっかりと働かせていたらしかった。
「むしろ、向う岸にある御公儀代官所の巡回が、治安の維持に役立っているようです」
 が言った。
 さすがに藩公直属の隠密組織“御筆組”の女忍びである。が、弥七はの真の正体は知らない。
「宿にいる客は、幼子を含めて三十八人。この中から、隠密を見つけるなんて、とんでもないお役目だなあ」

 溜め息混じりに弥七は続ける。 

「……上客は、奥の広間に六人。みんな、おさむらいだが、うち三人は浪人だ……一人は、隠居ふうの老侍、いつもぶつぶつとつぶやいておらあな。名を聴いても洩らしてはくれぬ。あるいは、けて、おのが名すら忘れているのかも知れねえ。ま、みんながみんなとんでもなく怪しいとくりゃあ、長雨が止むまでに隠密を探し出せるかどうか……」

 とにかく弥七はよく喋る。
 言葉をつむぎ続けることで、いつものように事前に得た知識を自分なりに整理しようとしているのであろう。
 その姿勢は天晴あっぱれでもある。
 ところが。
 “呆けた隠居ふうの老侍”と聴いたは、ハッとからだを揺らした。それが祖父、木下太左衛門にちがいない、とおもった。けれども、いまは、まだ近づかないほうがいいと判断したのだ。
「わたしは竈場と台所を手伝ってまいります。人手が足りないようなので、混じって働きながら、宿側の人たちのことを探ります。は、大部屋もおさむらい部屋などで、詳しく調べてみてください」
「や」

 兄さま……と呼ばれて思わず喜んだ弥七の頬に、瞬く間に炎のようなしゅがさしのぼった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛
歴史・時代
 八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。  服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。  忍者同心の誕生である。  だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。  それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

RUBBER LADY 屈辱の性奴隷調教

RUBBER LADY
ファンタジー
RUBBER LADYが活躍するストーリーの続編です

【淀屋橋心中】公儀御用瓦師・おとき事件帖  豪商 VS おとき VS 幕府隠密!三つ巴の闘いを制するのは誰?

海善紙葉
歴史・時代
●青春真っ盛り・話題てんこ盛り時代小説 現在、アルファポリスのみで公開中。 *️⃣表紙イラスト︰武藤 径 さん。ありがとうございます、感謝です🤗 武藤径さん https://estar.jp/users/157026694 タイトル等は紙葉が挿入しました😊 ●おとき。17歳。「世直しおとき」の異名を持つ。 ●おときの幼馴染のお民が殺された。役人は、心中事件として処理しようとするが、おときはどうしても納得できない。 お民は、大坂の豪商・淀屋辰五郎の妾になっていたという。おときは、この淀辰が怪しいとにらんで、捜査を開始。 ●一方、幕閣の柳沢吉保も、淀屋失脚を画策。実在(史実)の淀屋辰五郎没落の謎をも巻き込みながら、おときは、モン様こと「近松門左衛門」と二人で、事の真相に迫っていく。 ✳おおさか 江戸時代は「大坂」の表記。明治以降「大阪」表記に。物語では、「大坂」で統一しています。 □主な登場人物□ おとき︰主人公 お民︰おときの幼馴染 伊左次(いさじ)︰寺島家の職人頭。おときの用心棒、元武士 寺島惣右衛門︰公儀御用瓦師・寺島家の当主。おときの父。 モン様︰近松門左衛門。おときは「モン様」と呼んでいる。 久富大志郎︰23歳。大坂西町奉行所同心 分部宗一郎︰大坂城代土岐家の家臣。城代直属の市中探索目附 淀屋辰五郎︰なにわ長者と呼ばれた淀屋の五代目。淀辰と呼ばれる。 大曽根兵庫︰分部とは因縁のある武士。 福島源蔵︰江戸からやってきた侍。伊左次を仇と付け狙う。 西海屋徳右衛門︰ 清兵衛︰墨屋の職人 ゴロさん︰近松門左衛門がよく口にする謎の人物 お駒︰淀辰の妾

処理中です...