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第三話 殺らずの雨
兄と妹
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兄と妹を偽装してはいても、舟宿の女将も女中も弥七とふさ恵にはなんの関心も抱いてはいないようであった。
二日前から降り出した雨が、ときに突風をともなってが横殴りに部屋のなかをかき回すのだ。その対応と窓や戸の修繕のために、猫の手も借りたいほどの忙しさで、弥七とふさ恵は、竈場に隣接する三畳の物置きに泊まることになった。
大広間での雑魚寝が、舟宿ではあたりまえで、街道筋の旅籠とは違うのだ。
「あいにくの雨で、川止めのお触れが出て、客室が足りなくなるほど人が多くて……ここで、ご辛抱を……」
女将なのか年増の女中なのかはわからないが、てきぱきと部屋割りをこなしていく。雑魚寝の相部屋だとおもっていた弥七はさすがに驚いた。ふさ恵は、れっきとした譜代の家柄で、しかも上士と呼ばれる藩士のなかでも身分のある家の長女なのだった。それをふたりきりで同じ部屋に泊まるというのは、弥七には想定外のことで、慌てて、大部屋にしろと迫ると、
「そこもいっぱい。横になっては眠れないほどですから」
と、けんもほろろに断られてしまった。
「わたしはどんなところでもよろしいのです」
ふさ恵はあっけらかんとして言う。相手が落ち着いているとわかればわかるほど、弥七は気が動転してしまう。
「それと、わたしのことは、“ふさ”、“おふさ”と、呼び捨ててください。そんなにぎこちなくしていれば、かえって目立ってしまいます」
そんなことまでふさ恵は指示するのだ。自分より十歳以上も下の女人のほうがよほどしっかりとしていることに弥七は驚かされてもいた。
そもそもふさ恵は、雨は大の苦手である。
降るか降らないかといった、曇るか曇らまいかといった、そういう焦れったさの狭間にある光景を、ふさ恵はとくに好んだ。
ここ、神坂藩は、三塞の国といわれる。
……三辺を険しい山々が襲い、一辺が日本海へ注ぐ神坂川の支流に面している。川を下っていけば、海につながるが、他藩の領域であって、神坂は海のない国であった。
さらに、表日本側に続く峻嶺な山の谷間を流れる神坂川は高梁川の支流のひとつで、大河ではないにしても、さながらとぐろまくごとくに曲り折れている。神坂川の向こう岸は幕領(幕府直轄地・天領ともいう)で、公儀直参の旗本らの所領が多い。戦国期に架けられた大橋はとうに朽ちかけていて、補修が必要なのだが工事の予定はない。
しかも、この舟宿のあたりは、他の二つの藩と幕領との境界にあって、本来は通行を監視する関所や番所があって当然なのだが、設ければ設けたで他藩の武士同士の争いを誘引しがちなこともあり、それも治外法権、いわゆる無法地帯に近い状態になっていた一因でもあった。言葉を換えるならば、誰かに支配されているという感覚は少なく、中世的な自遊民感覚に通じる面があったといえなくもない。
「そんなことをテラさんが言ってましたが、そんなおかしな一帯には見えないがなぁ……」
弥七もそう見てとった。
さすがに道中と観察眼をしっかりと働かせていたらしかった。
「むしろ、向う岸にある御公儀代官所の巡回が、治安の維持に役立っているようです」
ふさ恵が言った。
さすがに藩公直属の隠密組織“御筆組”の女忍びである。が、弥七はふさ恵の真の正体は知らない。
「宿にいる客は、幼子を含めて三十八人。この中から、隠密を見つけるなんて、とんでもないお役目だなあ」
溜め息混じりに弥七は続ける。
「……上客は、奥の広間に六人。みんな、お侍だが、うち三人は浪人だ……一人は、隠居ふうの老侍、いつもぶつぶつとつぶやいておらあな。名を聴いても洩らしてはくれぬ。あるいは、呆けて、おのが名すら忘れているのかも知れねえ。ま、みんながみんなとんでもなく怪しいとくりゃあ、長雨が止むまでに隠密を探し出せるかどうか……」
とにかく弥七はよく喋る。
言葉を紡ぎ続けることで、いつものように事前に得た知識を自分なりに整理しようとしているのであろう。
その姿勢は天晴でもある。
ところが。
“呆けた隠居ふうの老侍”と聴いたふさ恵は、ハッとからだを揺らした。それが祖父、木下太左衛門にちがいない、とおもった。けれども、いまは、まだ近づかないほうがいいと判断したのだ。
「わたしは竈場と台所を手伝ってまいります。人手が足りないようなので、混じって働きながら、宿側の人たちのことを探ります。あにさまは、大部屋もおさむらい部屋などで、詳しく調べてみてください」
「や」
兄さま……と呼ばれて思わず喜んだ弥七の頬に、瞬く間に炎のような朱がさしのぼった。
二日前から降り出した雨が、ときに突風をともなってが横殴りに部屋のなかをかき回すのだ。その対応と窓や戸の修繕のために、猫の手も借りたいほどの忙しさで、弥七とふさ恵は、竈場に隣接する三畳の物置きに泊まることになった。
大広間での雑魚寝が、舟宿ではあたりまえで、街道筋の旅籠とは違うのだ。
「あいにくの雨で、川止めのお触れが出て、客室が足りなくなるほど人が多くて……ここで、ご辛抱を……」
女将なのか年増の女中なのかはわからないが、てきぱきと部屋割りをこなしていく。雑魚寝の相部屋だとおもっていた弥七はさすがに驚いた。ふさ恵は、れっきとした譜代の家柄で、しかも上士と呼ばれる藩士のなかでも身分のある家の長女なのだった。それをふたりきりで同じ部屋に泊まるというのは、弥七には想定外のことで、慌てて、大部屋にしろと迫ると、
「そこもいっぱい。横になっては眠れないほどですから」
と、けんもほろろに断られてしまった。
「わたしはどんなところでもよろしいのです」
ふさ恵はあっけらかんとして言う。相手が落ち着いているとわかればわかるほど、弥七は気が動転してしまう。
「それと、わたしのことは、“ふさ”、“おふさ”と、呼び捨ててください。そんなにぎこちなくしていれば、かえって目立ってしまいます」
そんなことまでふさ恵は指示するのだ。自分より十歳以上も下の女人のほうがよほどしっかりとしていることに弥七は驚かされてもいた。
そもそもふさ恵は、雨は大の苦手である。
降るか降らないかといった、曇るか曇らまいかといった、そういう焦れったさの狭間にある光景を、ふさ恵はとくに好んだ。
ここ、神坂藩は、三塞の国といわれる。
……三辺を険しい山々が襲い、一辺が日本海へ注ぐ神坂川の支流に面している。川を下っていけば、海につながるが、他藩の領域であって、神坂は海のない国であった。
さらに、表日本側に続く峻嶺な山の谷間を流れる神坂川は高梁川の支流のひとつで、大河ではないにしても、さながらとぐろまくごとくに曲り折れている。神坂川の向こう岸は幕領(幕府直轄地・天領ともいう)で、公儀直参の旗本らの所領が多い。戦国期に架けられた大橋はとうに朽ちかけていて、補修が必要なのだが工事の予定はない。
しかも、この舟宿のあたりは、他の二つの藩と幕領との境界にあって、本来は通行を監視する関所や番所があって当然なのだが、設ければ設けたで他藩の武士同士の争いを誘引しがちなこともあり、それも治外法権、いわゆる無法地帯に近い状態になっていた一因でもあった。言葉を換えるならば、誰かに支配されているという感覚は少なく、中世的な自遊民感覚に通じる面があったといえなくもない。
「そんなことをテラさんが言ってましたが、そんなおかしな一帯には見えないがなぁ……」
弥七もそう見てとった。
さすがに道中と観察眼をしっかりと働かせていたらしかった。
「むしろ、向う岸にある御公儀代官所の巡回が、治安の維持に役立っているようです」
ふさ恵が言った。
さすがに藩公直属の隠密組織“御筆組”の女忍びである。が、弥七はふさ恵の真の正体は知らない。
「宿にいる客は、幼子を含めて三十八人。この中から、隠密を見つけるなんて、とんでもないお役目だなあ」
溜め息混じりに弥七は続ける。
「……上客は、奥の広間に六人。みんな、お侍だが、うち三人は浪人だ……一人は、隠居ふうの老侍、いつもぶつぶつとつぶやいておらあな。名を聴いても洩らしてはくれぬ。あるいは、呆けて、おのが名すら忘れているのかも知れねえ。ま、みんながみんなとんでもなく怪しいとくりゃあ、長雨が止むまでに隠密を探し出せるかどうか……」
とにかく弥七はよく喋る。
言葉を紡ぎ続けることで、いつものように事前に得た知識を自分なりに整理しようとしているのであろう。
その姿勢は天晴でもある。
ところが。
“呆けた隠居ふうの老侍”と聴いたふさ恵は、ハッとからだを揺らした。それが祖父、木下太左衛門にちがいない、とおもった。けれども、いまは、まだ近づかないほうがいいと判断したのだ。
「わたしは竈場と台所を手伝ってまいります。人手が足りないようなので、混じって働きながら、宿側の人たちのことを探ります。あにさまは、大部屋もおさむらい部屋などで、詳しく調べてみてください」
「や」
兄さま……と呼ばれて思わず喜んだ弥七の頬に、瞬く間に炎のような朱がさしのぼった。
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