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第二話 羞恥の向こう側
奇妙な叱責依頼
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その日の多恵は天を睨むたびに、
(早く暮れたらいいのに……)
とおもった。
酉の下刻に、家老の谷崎家から迎えの駕籠が寄越される手筈になっていた。谷崎家用人の寺田文右衛門が、口頭にて告げにきたのが三日前。なにやら谷崎家老から直々に多恵に依頼したき事あり……ということであった。
そのとき多恵はハッとして頬をやや赤らめながら頷いたはずである。
思い当たることといえば、谷崎家の嫡男、壮一郎のことであった。もともと、多恵の父、山本正一郎と谷崎家老とは剣友であって、若き頃、冗談めかして、
『将来……互いに子ができれば、ともに娶せようぞ』
と、言い合った仲である。
事実、その約定通りといっていいのか、多恵が十七になったとき、谷崎家から正式に壮一郎の嫁にとの内意がもたらされた。
ところが、その直後、山本家に不運が襲った。長年、病の床にあった多恵の母が逝き、それと入れ替わりに父が突如として倒れた。意識はあるのだが、身体が動かなくなった寝たきりになった父の世話と、病弱な弟の行く末を案じるあまり、谷崎家からの申し出は辞退せざるを得なかったのだ。
……それから、八年が過ぎた。
父はいまだに寝たきりの状態で、弟は無事に元服は了えたものの、どういうわけか人嫌いが嵩じて一歩も屋外には出なくなった。
とはいえ、いまではこの二人の世話にも慣れてきて、離れに住まう叔父、正二郎が、一家の賄を引き受けてくれているおかげで、介護のための老女を雇うこともできていた。
その矢先に、谷崎家からの内密の話……というのなら、
(きっと壮一郎さまのことだわ)
と、多恵が想像したのも無理からぬ流れというものであったろう。
壮一郎は一男一女をもうけた妻を昨年亡くしていた。
(た、ぶ、ん、壮一郎さまの後妻のお話なのだ……)
そうおもったからこそ、多恵は内心、久方ぶりに高揚をおぼえた。
八年前なら山本家の将来の不安が先立って、縁談を辞退するしかなかったけれど、いまなら、父と弟の二人の世話の要領も覚え、また、とうに三十路を過ぎても独り身の叔父一人の実入りに頼る暮らしより、かりに、自分が壮一郎の後妻になれば、それはそれで、谷崎家からのなにがしかの援助も期待でき、叔父正二郎の負担が減らせるだろうといった打算もあった。
迎えの駕籠のなかでも、あれやこれやのおもいに多恵は揺れていた。これこそ、山本の家にとっては幸先のいい波の揺れのようにもおもわれてならなかった。
谷崎家老は、
「ほ……見ないうちに、お美しゅうなられたの」
と、開口一番、そんな甘いことばを多恵に投げかけた。
それから、父と弟の様子をたずねられ、そつなく返した多恵の耳に、想像だにしていなかった家老の一言が響いた。
「……話というのは他でもない……正二郎のことじゃ」
え……? と驚いて声を立てそうになった多恵は、かろうじて動揺を抑え込んだ。
(あら……叔父上のご縁談のほうだったの)
ほんの少しだけ落胆を味わったあとは、
(でも……叔父上にも幸せになってもらわねば……)
と、気持ちを切り替えた。
ところが、さらに、思いもしなかったことばが、家老の口から洩れた。
「あの正二郎の放屁……なんとか、ならないものかの?」
「ほ……? ひ……?」
「そうじゃ、あやつ、ところかまわず、屁をこきよるわ……この前など、国境の争い事を審議する重要な会合の席で、ぷぅと連続でぶちかましよったぞ。の、そなたは知るまいが、城中ではの、あやつのこと、屁こき二郎、と、皆がかように呼んでおる。ほとほと困ったものじゃ。上司から、その上まで苦情がきての、ついに、わしのところまできよった。これは、そなたにしか頼めぬことだ、の、わかってくれようか」
「・・・・・・」
「いや、放屁だけにの、そなたが、なんとかしてくれたならば、ほうびを取らせようぞ」
そのとき、多恵はいまにも卒倒してしまいそうな大揺れのなかに居た。あるいは、谷崎家老の深刻げな表情までもが、おならを必死でこらえているさまにも似ているような気がしてきて、多恵はぎゅっと唇を噛み締めた……。
(早く暮れたらいいのに……)
とおもった。
酉の下刻に、家老の谷崎家から迎えの駕籠が寄越される手筈になっていた。谷崎家用人の寺田文右衛門が、口頭にて告げにきたのが三日前。なにやら谷崎家老から直々に多恵に依頼したき事あり……ということであった。
そのとき多恵はハッとして頬をやや赤らめながら頷いたはずである。
思い当たることといえば、谷崎家の嫡男、壮一郎のことであった。もともと、多恵の父、山本正一郎と谷崎家老とは剣友であって、若き頃、冗談めかして、
『将来……互いに子ができれば、ともに娶せようぞ』
と、言い合った仲である。
事実、その約定通りといっていいのか、多恵が十七になったとき、谷崎家から正式に壮一郎の嫁にとの内意がもたらされた。
ところが、その直後、山本家に不運が襲った。長年、病の床にあった多恵の母が逝き、それと入れ替わりに父が突如として倒れた。意識はあるのだが、身体が動かなくなった寝たきりになった父の世話と、病弱な弟の行く末を案じるあまり、谷崎家からの申し出は辞退せざるを得なかったのだ。
……それから、八年が過ぎた。
父はいまだに寝たきりの状態で、弟は無事に元服は了えたものの、どういうわけか人嫌いが嵩じて一歩も屋外には出なくなった。
とはいえ、いまではこの二人の世話にも慣れてきて、離れに住まう叔父、正二郎が、一家の賄を引き受けてくれているおかげで、介護のための老女を雇うこともできていた。
その矢先に、谷崎家からの内密の話……というのなら、
(きっと壮一郎さまのことだわ)
と、多恵が想像したのも無理からぬ流れというものであったろう。
壮一郎は一男一女をもうけた妻を昨年亡くしていた。
(た、ぶ、ん、壮一郎さまの後妻のお話なのだ……)
そうおもったからこそ、多恵は内心、久方ぶりに高揚をおぼえた。
八年前なら山本家の将来の不安が先立って、縁談を辞退するしかなかったけれど、いまなら、父と弟の二人の世話の要領も覚え、また、とうに三十路を過ぎても独り身の叔父一人の実入りに頼る暮らしより、かりに、自分が壮一郎の後妻になれば、それはそれで、谷崎家からのなにがしかの援助も期待でき、叔父正二郎の負担が減らせるだろうといった打算もあった。
迎えの駕籠のなかでも、あれやこれやのおもいに多恵は揺れていた。これこそ、山本の家にとっては幸先のいい波の揺れのようにもおもわれてならなかった。
谷崎家老は、
「ほ……見ないうちに、お美しゅうなられたの」
と、開口一番、そんな甘いことばを多恵に投げかけた。
それから、父と弟の様子をたずねられ、そつなく返した多恵の耳に、想像だにしていなかった家老の一言が響いた。
「……話というのは他でもない……正二郎のことじゃ」
え……? と驚いて声を立てそうになった多恵は、かろうじて動揺を抑え込んだ。
(あら……叔父上のご縁談のほうだったの)
ほんの少しだけ落胆を味わったあとは、
(でも……叔父上にも幸せになってもらわねば……)
と、気持ちを切り替えた。
ところが、さらに、思いもしなかったことばが、家老の口から洩れた。
「あの正二郎の放屁……なんとか、ならないものかの?」
「ほ……? ひ……?」
「そうじゃ、あやつ、ところかまわず、屁をこきよるわ……この前など、国境の争い事を審議する重要な会合の席で、ぷぅと連続でぶちかましよったぞ。の、そなたは知るまいが、城中ではの、あやつのこと、屁こき二郎、と、皆がかように呼んでおる。ほとほと困ったものじゃ。上司から、その上まで苦情がきての、ついに、わしのところまできよった。これは、そなたにしか頼めぬことだ、の、わかってくれようか」
「・・・・・・」
「いや、放屁だけにの、そなたが、なんとかしてくれたならば、ほうびを取らせようぞ」
そのとき、多恵はいまにも卒倒してしまいそうな大揺れのなかに居た。あるいは、谷崎家老の深刻げな表情までもが、おならを必死でこらえているさまにも似ているような気がしてきて、多恵はぎゅっと唇を噛み締めた……。
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