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第一章

22.私の変化

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 始まる前は長いと思っていた夏休みは、いつも一瞬で終わってしまう。ほとんど勉強をして過ごした高校三年生の夏休みも、同じようにあっという間に過ぎ去った。
 
 二学期最初の授業日が終わってから、私は久しぶりに七海の家に遊びに行った。
 もちろん二人とも受験生だから勉強道具を持参している。でもやっぱり七海と二人になったらおしゃべりに興じてしまうのは仕方ない。
 
「はー、今日も暑いなー! ねえ倫、夏休みはどうだったの?」
 
 数学の問題を解き終わった七海が、ペットボトルのお茶を一口飲んで話を切り出した。英語の長文を解いていた私も、少し休憩しようと思ってペンを置く。
 
「どうって、もちろん勉強漬けだったよ」
「うっそだー! どうせ平原さんとラブラブイチャイチャしてたんでしょー!?」
「なっ……! し、してない! 何てこと言うのよ!」
「ええー、ほんとぉ? ていうかさ、本当に卒業するまでシないの?」
 
 これは前にも七海に聞かれたことだ。高校生と言えばやっぱりそういう話題が気になってしまうお年頃のようで、七海以外にも最近よく話すようになったクラスの女の子たちにも聞かれた。
 ちなみにいつかの平原さんファンたちによる嫌がらせ事件があってから、私がバスの運転手である平原さんと付き合っているという事実はクラス中に広まってしまっている。それで何かと声をかけられることが増えたのは嬉しいのだが、こういう話になると困ってしまうのだ。
 
「だ、だからしないって……」
「でもさ、家に行ったりしてるでしょ? 何もないの? ひと夏のナントカ的な」
「ないってば! もう、何回も言ってるじゃん」
「だって気になるんだもーん! ねえねえ、でもキスはしたでしょ? それくらい教えてよ」
 
 何か収穫がないと気が済まないのか、七海はしつこく食い下がってくる。こういう話はどうも苦手なのだが、何か話さないと終わりそうにない。
 
「えーっと、あのー、うん……キス、は、したかな……」
 
 本当は、「したかな」どころではない。恋愛ドラマや少女漫画で見たのと違う、呼吸すら危うくなるようなキスをされた。平原さんの言葉を借りると、夏休み中に私が彼を誘惑した一件からはもっとすごい大人のキスまでするようになってしまった。
 でも、決してそれ以上には進まない。それは平原さんなりのけじめらしい。
 
「いやー、照れちゃって! でもよかったよ。倫、すごく幸せそうだもん」
「うん、まあ……それはそうかも。最近はね、家にいるのも息苦しくなくなった」
「そっかあ、よかったじゃん! 平原さんと付き合ってから雰囲気柔らかくなったしね、倫」
「え、そう?」
「そうだよ! いじめ事件があってからかなぁ、クラスのみんなも倫に話しかけやすくなったって言ってたし」
「ああ……」
 
 それには心当たりがある。あの一件から、心配してくれたクラスのみんなと頻繁に話すようになったのだ。
 今までの私は、仲の良い友達は一人いればそれでいい、無理に交友関係を拡げなくていいと思っていた。でもだんだんとたくさんの友達と話すことが楽しくなってきて、自然と学校で笑うことも多くなった。
 
「高校生活もあと半年だねー。勉強ばっかりじゃなくて、もっと遊びたいなぁ」
「確かに、それもそうだね……でも遊びすぎて大学落ちたら悲惨だよ」
「まあね! 倫は浪人なんかしたら、平原さんをもう一年待たせちゃうから頑張らないとねぇ?」
「だっ、だからもうその話は終わったでしょ! ほらっ、七海だってこの前の模試やばかったんじゃないの? 一緒にがんばろ!」
「はいはい!」
 
 こんな風に軽口を叩きながら七海と勉強したりおしゃべりしたりする時間は、やっぱり私にとって大切な時間だ。家族と話すのとも、平原さんと話すのともまた違う。
 もう一度数学のテキストを開いた七海を見て、私もペンを取った。
 




 ようやく蝉の鳴き声も聞こえなくなった頃、私はいつものように学校近くの喫茶店へと足を運んだ。
 一週間か二週間の一度のペースでこの喫茶店で平原さんと待ち合わせをしているものだから、店員さんにもすっかり顔を覚えられてしまったみたいだ。
 
「いらっしゃいませ。……ああ、待ち合わせですね。もういらしてますよ、こちらへどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
 
 にっこりと笑ったおじさんはこの喫茶店のご主人だ。最近知ったことだが、この喫茶店はこのご主人と奥さん、それからアルバイトの大学生が交代で働いているらしい。
 そんなすっかり顔なじみになったご主人に席まで案内してもらうと、相変わらず綺麗な顔の平原さんが本を片手にコーヒーカップを傾けていた。その姿がとても絵になっていて、何となく近づくのを憚られる。
 
「……あ、倫! 何してるの、早くおいで」
「え……あ、はいっ、こんにちは」
 
 思わず見惚れていた私は、平原さんに声をかけられてようやく椅子に座る。
 私が座るのを確認すると、彼は嬉しそうに本を鞄に仕舞った。
 
「久しぶりだね。って言っても、一週間と少しか」
「そうですね。でも、私も久しぶりに感じます」
「ふふっ、俺なんか倫と離れて五分もしないうちにまた会いたいって思っちゃうよ」
「へっ……あ、その、わ、私もです……」
 
 こうやってよく平原さんは唐突に甘い言葉を言うから、その度に私はどきどきしてしまう。きっと彼は、私をどきどきさせようと思ってその言葉を言っているつもりは無いのだろう。彼に自覚がないからこそ、私はいつも心の準備ができないのだ。
 
「学校はどう? 変わりない?」
「はい、相変わらず受験モードですよ。最近は推薦でもう大学が決まった人もいるから、何となくみんな気を遣い合ってて……」
「ああ、そっか。それはそれで大変だね」
「そうですね……ん? 平原さん、携帯鳴ってませんか?」
 
 振動音を感じ取ってそう言うと、平原さんが上着のポケットからスマートフォンを取り出す。
 しかし画面を見ても少し首を傾げるだけで、それに出ようとはしなかった。
 
「出なくて大丈夫ですか?」
「うん、非通知だからいいや。最近やけにこういうのが多くて困ってるんだけど、どうしたらいいのかな」
「あ、それなら私方法知ってますよ。非通知の電話はほとんど勧誘か詐欺だから出るなってお父さんに言われて、最初から拒否する設定にしてるんです」
「へえ、そうなんだ。じゃあ倫にお願いするよ」
 
 そう言って平原さんは振動の止んだスマートフォンを私に手渡した。
 バスの設備にある機械はあんなに器用に扱っているのに、やっぱりこういった電子機器の操作は苦手らしい。苦手というより、きっと興味がないのだろう。平原さんも自分で興味がないことには手を出す気になれないと言っていた。
 
「……はい、これで非通知の電話はかかってきませんよ。解除したいときは、ここを押して……」
「ああ、いいよ。解除したいときはまた倫に頼むから。ありがとう」
「え……あ、はい……」
 
 平原さんが遠慮なく私に頼ってくれるのが嬉しくて、そんな彼が可愛く見えて私は思わず微笑んでしまう。平原さんと出会ってもう半年近くになるが、最初は完璧に見えた彼の弱点も少しずつ分かってきた。
 
 ジェットコースターが苦手なこと。
 今みたいに、電子機器の操作が嫌いなこと。
 それから、その場の空気を気にしないこと。
 興味を持ったものには一直線で、周りが見えなくなること。
 その優しげな外見からは想像もつかないほど強引で、変に男らしい一面があること。
 そして、私なんかを好きになってしまうくらい女の趣味が悪いことだ。
 
 でも、そのすべてが愛おしい。出会った頃から私は平原さんに心をときめかせてばかりだけど、最近はそんな彼と一緒にいるときが一番落ち着くのだ。
 
「そうだ。倫、この前電話で生物が苦手って言ってたよね? 生物だったら俺も少しは教えてあげられるよ」
「えっ……本当ですか!? 教えてほしいです!」
 
 平原さんからの有り難い申し出に前のめりで返事をすると、彼は笑いながら鞄からノートを取り出した。そしてそれを開くと、教科書の要点をまとめたような綺麗な表と文字の羅列が見えた。
 
「それ……もしかして、平原さんが……?」
「うん。俺の高校のときの教科書はさすがに残ってないから、さっき図書館で調べてまとめただけなんだけど。生物なら得意だったから大丈夫だと思ったけど、やっぱり昔のことは忘れちゃって駄目だね」
 
 その言葉を聞いて思わず目を剥く。
 私のためにわざわざ図書館まで行って、その上こんな手の込んだノートを作ってくれたのか。
 そう思ったら感謝と共に、言葉にし難いほどの感情が込み上げてきた。
 
「ひ……平原さん」
「ん?」
「あ、ありがとうございますっ……! 私、頑張って受かります!」
「ふふっ、どういたしまして」
 
 俄然やる気が出てきた私は、平原さんから受け取ったノートを隅から隅まで見渡した。
 私が理解できていなかったところが分かりやすく丁寧にまとめられている。それに、平原さんの字だと思うとこのノート自体も愛しくてたまらなくなった。
 
「じゃあ、今日はここで勉強会にしようか。口で説明した方が分かりやすいと思うし」
「は、はい! あの、平原さんっ」
「ん、なに?」
「好き……じゃなくて、大好きです! 平原さんのために頑張ります!」
 
 いろんな思いが込み上げてきて、私はここが喫茶店だというのも忘れて盛大に告白をしてしまった。はっとしたところでもう遅く、今度は平原さんが驚いたように目を剥いていた。
 
「ご、ごめんなさい! 私、ついっ……!」
「……ああ、もう。これだから何でもしてあげたくなっちゃうんだよ」
「えっ?」
「いや……俺はただ倫の喜ぶ顔が見たくて、できることをしようと思ってやっただけなんだ。それなのに素敵なご褒美をもらっちゃったね?」
「あっ……あの、あんなのが、ご褒美になるんですか……?」
「なるんだよ。はぁ、ごめん……倫に打たれた胸が痛いから、ちょっと時間がほしい」
「う、打たれたって……」
 
 顔をほんのり赤くして胸を押さえる平原さんを見て、いつもの私みたいだと思った。いつも彼の何気ない一言に胸を打たれて苦しいのだ。思わず言ってしまったことは恥ずかしかったけれど、たまには平原さんにだってそんな思いをしてもらうのもいいかもしれない。
 そんなことを思いながら、私は平原さんの気持ちがこもった大切なノートを胸に抱え込んだ。
 




 平原さんと別れてバスを降りる。
 通学用の鞄の中には平原さんが作ってくれた私専用の勉強ノートが入っている。喫茶店で彼と一緒に勉強をして、苦手だった生物も少し好きになれそうだ。
 浮かれた気持ちで家に帰る道を歩いていると、少し先の道端にしゃがみこんでいる人が見えた。道路脇の草むらをがさがさとかき分けているあたり、どうやら何か探しているらしい。
 困っているようだったので話しかけようかどうか迷っていたら、その男性は私の姿を見つけると向こうから走ってやってきて、がしっといきなり私の手を取った。
 
「すみません! 実はここの草むらで定期入れを落としてしまったんです! 一緒に探してくれませんか!?」
「えっ……えっと、はい。いいですよ」
「ありがとうございます! 目が悪いもので、なかなか見つからなくて!」
 
 その人は、私がかなり目線を上げないと目が合わないほど背の高い男性だった。少し長めの茶色の髪をさらりと靡かせて、大きなサングラスをかけている。サングラスのせいで顔全体はよく分からないけれど、かなり整った顔をしているように見える。高そうなブランド物の洋服を着ているし、もしかしたら芸能人か何かかもしれない。
 
「えっと……僕の顔が何か?」
「え? あっ、す、すみません! 誰かに似てるなぁと思って、その、芸能人の方なのかな、と思っちゃって……」
「ああ、そうでしたか。芸能人ではありませんが、たまに雑誌や新聞に出ていますから、それを見てくださったのではないでしょうか」
 
 なるほど、雑誌や新聞ということは読者モデルのようなものだろうか。確かに背が高くてすらりとしている。でも身に付けている香水のせいか、何となく近付きづらい人だ。
 気を取り直して、その人と一緒に草むらを探す。辺りは少し暗くなってきたし、草は長く伸びているから見つけるのは大変そうだ。
 
「……あれ? もしかして、これですか……?」
 
 そう思った矢先、道路からほど近い草むらに落ちている革の定期入れを見つけた。それを手に取って見せると、その男性はやけに大声を出して喜ぶ。
 
「それです! ああ、助かりました! あなたは僕の救世主です!」
「そ、そんな大げさな……すぐそこにありましたから」
「いえいえ、僕一人では見つけられませんでした! ありがとう! ぜひお礼がしたいので、お名前を教えて頂けませんか?」
 
 名前を聞かれて少し警戒する。
 無駄に大きな声以外は自然な流れだけど、この人の素性も知らないし安易に名前を教えるのはいかがなものだろう。
 
「あ、あの、お礼はいいですから。すみません、私はこれで失礼します」
 
 お礼をされるほどのことはしていないし、この前痴漢に遭ってから私は知らない人に対して必要以上に警戒するようになっていた。それにこんな平凡な住宅地にこの人みたいな派手な格好をした人がいるのも、なんだか違和感がある。そう思って、私はその人と目を合わせないようにして足早に立ち去った。
 
 少し歩いてから、ちらりと振り返って後ろを見た。追いかけられたらどうしよう、と思ったけれど、あの男性はすでにいなくなった後だった。
 
「……変な人」
 
 確かに綺麗な出で立ちをした人だったけれど、やっぱり平原さんの方が優しいしかっこいい。あんな風にこれ見よがしにブランド物を身に付けているのも嫌いだし、香水の匂いがきついのはもっと嫌いだ。
 そんなことを考えながら家に帰ると、玄関を開けた瞬間にカレーの良い匂いが漂ってきた。それだけでさっきの鼻につく香水の匂いも、少し不思議なあの男性のこともすっかり忘れて、私は笑顔でリビングの扉を開けた。
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