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2.農民と王子(1)
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おかしな手紙がミーアのもとに届いてから、一ヶ月ほどが経った。
あれから再び手紙が届くことはなく、やはり誰かのいたずらだったのだと父はほっと胸を撫で下ろしていた。この国の王子が平民のミーアを妻にするなどという、どう考えてもあり得ない内容だというのに、父の慌てっぷりはミーアが目を丸くするほどだった。
ミーアは昨年成人したばかりで、これまで恋人がいた試しもないし、今のところその予兆すらない。いつか人を好きになり、その誰かと結婚できたら父は喜んでくれるかな、と淡い期待を抱いている程度だ。
本人がその調子なのだから、突然降って湧いた縁談のようなものに父が慌てふためくのも無理はないかもしれない。
でも、そんないつ訪れるかも分からない未来の話よりも、明日の天気の方がミーアにとって何より大事だ。ここ最近はまた雨が続いていて、父と二人で家の中から恨めしく畑を眺めていることしかできずにいる。
「モルイの芽、もう少しで伸びてくるかしら。ここのところ、あまり太陽が出ていないから……」
「まあ、水はたっぷりもらっているから大丈夫だろう。天気ばかりは仕方がないさ」
「でも、そろそろ夏野菜を植える準備もしたいのに。これじゃあ、市場に持っていく野菜がなくなってしまうわ」
「そうだなあ……明日あたり、少しは晴れるといいんだがな」
そんな会話を交わしていると、誰かが玄関の扉をドンドンと叩く音がした。はあい、と返事をしながら、ミーアが立ち上がる。おおかた隣のおしゃべり好きなおばあさんが、お茶でも飲みに来たのだろう。こんな雨の日に訪ねてくるのは彼女くらいのものだ。
そう思いながらミーアが扉を開ける。しかし、その先にいたのは、この辺りでは見たこともない裾の長い不思議な衣装に身を包んだ長髪の男だった。
「……ほう。あなたがミーア様ですか?」
「え……はい、そうですが。どちら様でしょうか」
男は品定めするかのように、ミーアの足の先から頭のてっぺんまでじっくり見回した。そして、独り言のように「これなら良いんじゃないですか」と言ってにたりと笑う。
無遠慮なその視線にミーアが無言のまま眉根を寄せると、その男はごほんと咳払いをしてから居住まいを正した。
「突然の訪問、失礼いたします。わたくし、ソルズ王に仕える星読師のトガミと申します。以後お見知りおきくださいませ」
「は……ソルズ王? 星読師って……」
聞き慣れない言葉に、ミーアは困惑する。娘の様子からただ事ではないと察したのだろう、部屋にいた父も慌てて玄関までやってきた。
「うちの娘に何の用だ!?」
「ああ、あなたがお父上ですか。先日、書状をお送りしましたよね? それなのにいつまで経っても城を訪ねてきてくれないものですから、こちらから参った次第ですよ」
「書状……!?」
「はい。あれ、もしかしてお読みになっていない? あなたの娘のミーア様を、リオン殿下の妻として迎え入れたいとお願いしたはずですがねえ」
トガミと名乗ったその男の言葉に、ミーアと父は同時に目を見開いた。
「なんだ、やっぱり読んでくれてたんですねえ。届いてないのかと思いましたよ」
「な……っ、で、でも、まさかそんなこと」
「ふふ、信じられないのも無理はないですけど。でもねえ、困ったことにこれが本当なんですよ。ねえ、殿下?」
言いながら、トガミが背後を振り返る。そして、彼と入れ替わるようにミーアの前に立ったのは、燃えるような銀朱色の髪をもつ長身の男だった。
「初めまして、ミーア。それと、お父上様。ソルズ王国第一王子、リオンと申します」
恭しく片膝をついてそう挨拶した男――リオン王子の姿に、ミーアは息を呑んだ。
ミーアと父が暮らすこの土地は、王都からは遠く離れている。
王都に住む者であれば、行事の折に国王や妃、それに王子たちの姿を遠目に見ることが許されているらしいが、もちろんミーアは目にしたことなどない。
ただ、ソルズ王家の血を引く者は美しい銀朱色の髪と黄金に輝く瞳を持っているのだと、誰からともなく伝え聞いていた。
実際にその姿を目の前にして、ミーアは自分の身に起きている事態の重さをやっと理解する。
「はあ……王族が直々にこんな農村地域にやってくるなんて、普通はありえないんですよ? なのに殿下がどうしてもと言うから、この忙しいってのに僕がこうして付き添う羽目になってしまった」
「だから、それは悪かったと言っているだろう。こうでもしなければ信用してもらえないと思ってね」
「そりゃあそうかもしれないですけど、王子がこんなとこにいるなんてばれたら大騒ぎですからね。ちゃっちゃと連れて帰りましょうよ」
彼らのそんな軽いやり取りを、ミーアも父もただただ黙って聞いていることしかできなかった。よく目を凝らしてみれば、リオンの背後にはトガミだけでなく数人の護衛が控えている。
雨の中出歩く人は少ないとはいえ、こんな事件が起きていると近所に知れたらトガミの言う通り大騒ぎになってしまう。ミーアは動揺しつつも、前に立つリオンの目を見据えて言った。
「と、とにかく、中へどうぞ。私にも理解できるよう、説明していただけませんか」
警戒心をむき出しにしながらやっとのことでそう言ったミーアに、リオンはふっと表情を緩める。そして、「それでは、失礼する」と狭い家の中に立ち入った。
あれから再び手紙が届くことはなく、やはり誰かのいたずらだったのだと父はほっと胸を撫で下ろしていた。この国の王子が平民のミーアを妻にするなどという、どう考えてもあり得ない内容だというのに、父の慌てっぷりはミーアが目を丸くするほどだった。
ミーアは昨年成人したばかりで、これまで恋人がいた試しもないし、今のところその予兆すらない。いつか人を好きになり、その誰かと結婚できたら父は喜んでくれるかな、と淡い期待を抱いている程度だ。
本人がその調子なのだから、突然降って湧いた縁談のようなものに父が慌てふためくのも無理はないかもしれない。
でも、そんないつ訪れるかも分からない未来の話よりも、明日の天気の方がミーアにとって何より大事だ。ここ最近はまた雨が続いていて、父と二人で家の中から恨めしく畑を眺めていることしかできずにいる。
「モルイの芽、もう少しで伸びてくるかしら。ここのところ、あまり太陽が出ていないから……」
「まあ、水はたっぷりもらっているから大丈夫だろう。天気ばかりは仕方がないさ」
「でも、そろそろ夏野菜を植える準備もしたいのに。これじゃあ、市場に持っていく野菜がなくなってしまうわ」
「そうだなあ……明日あたり、少しは晴れるといいんだがな」
そんな会話を交わしていると、誰かが玄関の扉をドンドンと叩く音がした。はあい、と返事をしながら、ミーアが立ち上がる。おおかた隣のおしゃべり好きなおばあさんが、お茶でも飲みに来たのだろう。こんな雨の日に訪ねてくるのは彼女くらいのものだ。
そう思いながらミーアが扉を開ける。しかし、その先にいたのは、この辺りでは見たこともない裾の長い不思議な衣装に身を包んだ長髪の男だった。
「……ほう。あなたがミーア様ですか?」
「え……はい、そうですが。どちら様でしょうか」
男は品定めするかのように、ミーアの足の先から頭のてっぺんまでじっくり見回した。そして、独り言のように「これなら良いんじゃないですか」と言ってにたりと笑う。
無遠慮なその視線にミーアが無言のまま眉根を寄せると、その男はごほんと咳払いをしてから居住まいを正した。
「突然の訪問、失礼いたします。わたくし、ソルズ王に仕える星読師のトガミと申します。以後お見知りおきくださいませ」
「は……ソルズ王? 星読師って……」
聞き慣れない言葉に、ミーアは困惑する。娘の様子からただ事ではないと察したのだろう、部屋にいた父も慌てて玄関までやってきた。
「うちの娘に何の用だ!?」
「ああ、あなたがお父上ですか。先日、書状をお送りしましたよね? それなのにいつまで経っても城を訪ねてきてくれないものですから、こちらから参った次第ですよ」
「書状……!?」
「はい。あれ、もしかしてお読みになっていない? あなたの娘のミーア様を、リオン殿下の妻として迎え入れたいとお願いしたはずですがねえ」
トガミと名乗ったその男の言葉に、ミーアと父は同時に目を見開いた。
「なんだ、やっぱり読んでくれてたんですねえ。届いてないのかと思いましたよ」
「な……っ、で、でも、まさかそんなこと」
「ふふ、信じられないのも無理はないですけど。でもねえ、困ったことにこれが本当なんですよ。ねえ、殿下?」
言いながら、トガミが背後を振り返る。そして、彼と入れ替わるようにミーアの前に立ったのは、燃えるような銀朱色の髪をもつ長身の男だった。
「初めまして、ミーア。それと、お父上様。ソルズ王国第一王子、リオンと申します」
恭しく片膝をついてそう挨拶した男――リオン王子の姿に、ミーアは息を呑んだ。
ミーアと父が暮らすこの土地は、王都からは遠く離れている。
王都に住む者であれば、行事の折に国王や妃、それに王子たちの姿を遠目に見ることが許されているらしいが、もちろんミーアは目にしたことなどない。
ただ、ソルズ王家の血を引く者は美しい銀朱色の髪と黄金に輝く瞳を持っているのだと、誰からともなく伝え聞いていた。
実際にその姿を目の前にして、ミーアは自分の身に起きている事態の重さをやっと理解する。
「はあ……王族が直々にこんな農村地域にやってくるなんて、普通はありえないんですよ? なのに殿下がどうしてもと言うから、この忙しいってのに僕がこうして付き添う羽目になってしまった」
「だから、それは悪かったと言っているだろう。こうでもしなければ信用してもらえないと思ってね」
「そりゃあそうかもしれないですけど、王子がこんなとこにいるなんてばれたら大騒ぎですからね。ちゃっちゃと連れて帰りましょうよ」
彼らのそんな軽いやり取りを、ミーアも父もただただ黙って聞いていることしかできなかった。よく目を凝らしてみれば、リオンの背後にはトガミだけでなく数人の護衛が控えている。
雨の中出歩く人は少ないとはいえ、こんな事件が起きていると近所に知れたらトガミの言う通り大騒ぎになってしまう。ミーアは動揺しつつも、前に立つリオンの目を見据えて言った。
「と、とにかく、中へどうぞ。私にも理解できるよう、説明していただけませんか」
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