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第1章
1.二人の国王
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『ユキちゃん』
誰かが、わたしの名を呼ぶ。
『なーに、そうちゃん』
その声に、幼いわたしが笑顔で振りむいた。
わたしは、夢を見ているらしい。
夢の中の幼いわたしは、一緒にいる男の子に向かって屈託のない笑顔を向ける。
『ユキちゃん。大きなったら、ボクと結婚しよな』
『けっこん?』
『ユキちゃんとボクが、誰にも邪魔されんと、ずうっと一緒にいれるってことやで』
『ほんと?』
『うん、ほんまに』
これは本当に夢だろうか。
幼いわたしは、その男の子に嬉しそうに抱きついている。
わたしはこの人を知っている。
陽の光に照らされて光る灰色の髪と、ひとまわり大きな体。少し低めの優しい声に、そしてわたしを包む温かい手。
今はもう、こんな風に普通に話すことができない、あの人だ。
夢の中で、わたしとあの人が内緒話をするようにささやきあっている。
『わたし、そうちゃんのことだいすき』
『嬉しいこと言うてくれるなぁ』
いとおしそうに、壊れ物を扱うようにあの人が優しくわたしに触れる。そして、そっとわたしの耳元に顔を近づけた。
*
「陛下、どうされました?」
「……え?」
目が覚めると、侍女が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。辺りを見回すと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
「……ごめんなさい、居眠りしてたみたい」
どうやら、書状を書いているうちに机に突っ伏して眠っていたらしい。
侍女はほっと息をついて、ティーカップを静かに机に置いた。そして散らかった机の上を手際よく片付けると、再び心配そうな顔をわたしに向ける。
「陛下、最近しっかりお休みになっていますか? 執務と鍛錬の時間をもっと減らした方が……」
「ううん、大丈夫。ちゃんと休んでるから」
「本当ですか? ……あ、この本! 陛下、もうこれはおやめくださいと……!」
「大丈夫よ。心配かけてごめんなさい、気を付けるから」
侍女はまだ何か言いたげな顔をしていたが、それには気付かないふりをして書状の続きを書き始める。そんなわたしを見て侍女もあきらめたのか、礼をしてそっと部屋を出て行った。
──正直言えば、わたしだって休みたい。でもわたしには、時間がないのだ。
去年の暮れに、わたしの父であるノース国王・トウジが亡くなった。
トウジには子どもが一人しかいなかった。彼は十数年前に亡くなった王妃──わたしの母を溺愛しており、彼女が亡くなってからも後妻を迎えようとはしなかった。
自動的に、一人娘であるわたし、ユキが王の座に就くことになったのだった。
女が王位に就くにあたって、ノース国民からの批判はほとんど出なかった。
ノース国、正称ノースカトライア王国は、豊かな土地と資源に恵まれ、そこに住む人々の気風も穏やかな国だ。
父が急死し、突然王になったときは戸惑った。でも、この地に住む民と共になら、この国を守っていけると思った。
王としての仕事は、今まで父に甘えながら過ごしてきたわたしにとって辛いことも多い。しかし、最近は自分が休む時間を減らせばなんとかなるということが分かってきた。
国民に、信頼できる王であると認めてほしかったわたしは、休むことを忘れ必死に「王」になろうとした。
そんなわたしを、国民は多少なりとも認めてくれていたのだと思う。手さぐりの状態で政務をこなしながら、その実感を得始めていた。
しかし、わたしが王位に就いて三カ月ほど経ったある日、隣国であるサウスカトライア王国から合併の提案が持ち込まれた。
『合併と言えば聞こえはいいが、どうせサウスの奴らは俺たちの土地が目当てなんだ!』
『しかも、合併したらサウスの一部になれって言うんだろ!? それじゃあ乗っ取られたようなものじゃないか!』
『国王が変わったから、ノースをどうにかできると思っているに違いない!』
『陛下、こんな話に絶対に乗ってはなりません!』
大臣たちに言われなくとも、断るつもりでいた。
ノース国とサウス国はもともとカトライアという一つの国であったが、何百年も昔に内戦により二つに隔たれていた。今となってはお互い相手に強い恨みがあるわけではないが、伝統として両国の交流はなかった。
国交を結べば、交通の便も良くなり商業も発展するであろうことは、国民全員が分かっていた。しかし、今でも十分豊かな国であるため、その伝統に逆らう者はほとんどいなかった。
それを、よりによって今、わたしが王であるこの時に合併しようというのだ。いや、合併ではなくサウスはノースを吸収しようとしている。
長い歴史を持つこの国を簡単に奪われてはいけないということは、わたしのような未熟な王でも理解できた。
コンコン、と控えめなノックの音がする。返事をすると、先ほどとはまた違う侍女がドアを開けて入ってきた。
「失礼します。陛下、鍛錬の時間でございます」
「……わかりました」
書き終えた書状を引き出しの中にしまって、立ち上がる。侍女が部屋を出ていくのを確認してから、重たいローブを脱ぎ捨てる。
鍛錬用の動きやすい服に着替えるが、わたしの気持ちは重いままだった。
半年前、サウスに合併を申し込まれたときはすぐに拒否した。しかし、サウス側はこちらが拒否するのをあらかじめ知っていたかのように、またすぐに書状をよこした。
その書状には、選ばれた兵士による決闘を申し込むという内容が書かれていた。お互いの国を代表する者同士が闘い、それに勝った国が負けた国を吸収できるというルールだ。そして、その決闘には両国王が必ず参加するという条件も付けられていた。この決闘を断った場合は、戦争をしかけるという脅しつきで。
数年前に、海を隔てた対岸の国と戦争をした経験のあるサウスと比べて、ノースは建国されてから戦争とは無縁の国だ。そのため、戦争だけはどうしても避けたかった。選ばれた兵士数人による決闘の方がまだ勝てる可能性があるし、国民が犠牲にならずに済む。
大臣たちは終始苦い顔をしていたが、わたしは決闘に応じることにしたのだった。
*
「お、ユキ!」
「あれ? 早いね、トーヤ」
鍛錬場に着くと、トーヤが既に鍛錬を始めていた。
トーヤは決闘に参加する兵士の一人で、わたしが気兼ねなく話せる唯一の存在でもある。
「張り切って早く来たんだけどよ、一人じゃ素振りぐらいしかできなかった」
「そりゃそうだよ。待っててね、すぐ準備するから」
「おう!」
トーヤは、数年前にノース国内で倒れていたところを保護された。話によると、他国で起こった戦争で両親を亡くし、行く宛てもなく彷徨っていたところノースに辿り着いたらしい。そんなトーヤを父が不憫に思い、城に住まわせた。それから、わたしと同い年ということもあって家族のように遊んで過ごした仲である。
「なあユキ、お前ゆうべもあの本読んでたんだって?」
「なんのこと?」
「とぼけるなって。もう十分紋章魔法も使えるようになったんだしさ、やめた方がいいんじゃないか?」
サウスに申し込まれた決闘には、「両国王が必ず決闘に参加する」という条件が付けられていた。この条件に、大臣たちはかなり不満があったようだ。
それもそのはずで、サウスの現国王は男であり、幼い頃から戦うための指南を受けているのだという。
一方、ノース国王であるわたしは、自分が戦うことなど考えたこともなかった女である。両国王が参加するという条件は、ノース側に足枷をかけるようなものだった。
「でもわたし、トーヤたちの足を引っ張りたくないの」
「足引っ張るだなんて、そんな……」
「きっと、サウスはわたしなんか簡単に倒せると思ってるもの。だから期待を裏切ってやりたいの」
なんてね、と言ってわたしは笑ってみせたけれど、トーヤは複雑そうな顔をしたままだった。
決闘の形式は自由だ。剣のような武器を使ってもいいし、もちろん素手で戦ってもいい。わたしも最初は剣や弓などの武器を試してみたけれど、やはり力がないといくら強い武器を持っても男には敵わなかった。
そして、わたしでも戦える方法を探しているうちに紋章魔法というものに行きついたのである。
その紋章魔法とは、簡単に言えば特別な呪いの本を読んで呪文を覚え、それを唱え紋章を自らの身体に刻むことで手にできる力である。
たまたま、王室が所有する図書館の奥深くに眠っていたその本を見つけ、試しに簡単な紋章を体に刻んだところその激痛に耐えかねて気を失った。しかし目が覚めると、まるでずっと昔から知っていたかのように魔法が使えるのだ。共に戦う兵士たちにも反対されたが、わたしがみんなの役に立つためにはこれしかないと思った。
それから、自分の力不足を認識するたびに紋章を体に刻んできた。遠くから見れば体中が真っ黒に見えるほど刻んだ紋章を見て、皆が眉をひそめる。でも、これはわたしの唯一の武器だと思えば何も気にならなかった。
「みんな集まってきたし、始めよっか」
「……おう」
トーヤもこれ以上何を言っても無駄だと思ったのか、素直に鍛錬を始めた。
***
「陛下! 決闘の日まであと二か月ですよ!? 少しは兵士の相手でも……」
「ああ、堪忍なぁ。今他のことで忙しいて無理や」
「この国の将来が、その日に決まるのですよ!? 勝てる相手ではありますが、万が一ということも……」
「うるさいなぁ、ノースくらいすぐ倒せるやろ。向こうには女の子もいてるんやし」
宰相がうるさくせっついてくる。ノースと決闘をして吸収合併してしまおうと提案したのは、他でもない自分である。しかしそれはノースを屈服させて従わせるためでも、国を大きくするためでもなかった。
「一応、陛下の耳にもお入れしておきますが」
「ん、何?」
「ノース国王は、ここ最近必死になって紋章魔法を会得しているそうですよ」
「……は?」
「偵察の者が申しておりました。体中に紋章を刻み込んでいたと」
自分で言うのもおかしいが、自分は動揺しない人間だと思っていた。
前国王である父が死んだときも、悲しみよりもまずこの先のことを考えた。自分より親が先に死ぬということは分かり切っていたし、自分が将来王になるのだと幼い頃からずっと教えられてきた。
そんな自分にも予想できなかったことに、宰相をもう一度問いただす。
「それ、ほんまに紋章魔法なん?」
「衛兵に化けて近くで見たそうです。腕まで紋章を刻んであったとか」
「紋章魔法ってあれ、楽に覚えられるけど痛いんやろ? 刻んでからも毎日痛むって」
「は、そのようでございますな。よっぽど我が国に勝ちたいのでしょう」
「……なんや、それ」
それでは自分が決闘を申し込んだ意味がない。絶対にノースが負けて、サウスがノースを吸収して、それで自分の願いは叶うはずだった。
「……ユキちゃんが痛い思いしたら、意味ないやん」
「は?」
「ボク、ちょっと城空けるわ。ほなあとよろしく」
「へっ!? ちょっと、陛下!?」
慌ただしく自分の部屋に戻り、簡素な服に着替える。
前ノース国王が亡くなってから、いや、ノース国王が病に侵されていると聞いた時から計画を立て始めた。それが、サウスとノースをひとつの国にすることだった。しかし、それが最終目的ではない。
正直、王の地位や国の威厳にさほど興味はない。サウスの民や城の者たちにさえ言っていない、本当の目的のために自分は動いている。
彼女にも決闘に参加するよう求めたのは、絶対にサウスが勝たなければ意味がないからだ。決闘か戦争か選べと言って、戦争に縁のないノースが決闘を選ぶことは目に見えていた。ただ、単純に選ばれた兵士による決闘をしたのでは必ずこちらが勝つとは言い切れない。女であるノース国王を決闘に引き摺り出すことで、戦力を少しでも落とすのが狙いだった。それに、両国王を含めて闘うのなら国民も納得すると考えた。
最初に軽い攻撃で彼女の気を失わせてから、あとは兵士のみの戦いに持ち込み、勝利する。この決闘は、最も穏便にノースを吸収するための一つの策であり、公正に国を合併するのだと国民に知らしめるための単なる儀式だ。これで、彼女をほとんど傷つけることなく、自分の願いは叶えられる。そう思っていた。
しかし。自らの国を何よりも大切に思う彼女が、決闘を申し込まれてどう思うか。しかも、自分にも決闘に出ろと言われて、黙って何もせずにいるだろうか。
そんなわけはない。少し考えれば容易に分かることだった。自分に対する苛立ちを隠せず、壁を思い切り殴る。
──彼女が絡んでくると、どうしても思い通りにいかない。
「……もうすぐや」
思い通りにいかなくても、どうにかするしかない。自分の理想のためならば、どんな犠牲を払おうとかまわないと決めたのだ。たとえ、自分が誰に憎まれようとも。
誰かが、わたしの名を呼ぶ。
『なーに、そうちゃん』
その声に、幼いわたしが笑顔で振りむいた。
わたしは、夢を見ているらしい。
夢の中の幼いわたしは、一緒にいる男の子に向かって屈託のない笑顔を向ける。
『ユキちゃん。大きなったら、ボクと結婚しよな』
『けっこん?』
『ユキちゃんとボクが、誰にも邪魔されんと、ずうっと一緒にいれるってことやで』
『ほんと?』
『うん、ほんまに』
これは本当に夢だろうか。
幼いわたしは、その男の子に嬉しそうに抱きついている。
わたしはこの人を知っている。
陽の光に照らされて光る灰色の髪と、ひとまわり大きな体。少し低めの優しい声に、そしてわたしを包む温かい手。
今はもう、こんな風に普通に話すことができない、あの人だ。
夢の中で、わたしとあの人が内緒話をするようにささやきあっている。
『わたし、そうちゃんのことだいすき』
『嬉しいこと言うてくれるなぁ』
いとおしそうに、壊れ物を扱うようにあの人が優しくわたしに触れる。そして、そっとわたしの耳元に顔を近づけた。
*
「陛下、どうされました?」
「……え?」
目が覚めると、侍女が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。辺りを見回すと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
「……ごめんなさい、居眠りしてたみたい」
どうやら、書状を書いているうちに机に突っ伏して眠っていたらしい。
侍女はほっと息をついて、ティーカップを静かに机に置いた。そして散らかった机の上を手際よく片付けると、再び心配そうな顔をわたしに向ける。
「陛下、最近しっかりお休みになっていますか? 執務と鍛錬の時間をもっと減らした方が……」
「ううん、大丈夫。ちゃんと休んでるから」
「本当ですか? ……あ、この本! 陛下、もうこれはおやめくださいと……!」
「大丈夫よ。心配かけてごめんなさい、気を付けるから」
侍女はまだ何か言いたげな顔をしていたが、それには気付かないふりをして書状の続きを書き始める。そんなわたしを見て侍女もあきらめたのか、礼をしてそっと部屋を出て行った。
──正直言えば、わたしだって休みたい。でもわたしには、時間がないのだ。
去年の暮れに、わたしの父であるノース国王・トウジが亡くなった。
トウジには子どもが一人しかいなかった。彼は十数年前に亡くなった王妃──わたしの母を溺愛しており、彼女が亡くなってからも後妻を迎えようとはしなかった。
自動的に、一人娘であるわたし、ユキが王の座に就くことになったのだった。
女が王位に就くにあたって、ノース国民からの批判はほとんど出なかった。
ノース国、正称ノースカトライア王国は、豊かな土地と資源に恵まれ、そこに住む人々の気風も穏やかな国だ。
父が急死し、突然王になったときは戸惑った。でも、この地に住む民と共になら、この国を守っていけると思った。
王としての仕事は、今まで父に甘えながら過ごしてきたわたしにとって辛いことも多い。しかし、最近は自分が休む時間を減らせばなんとかなるということが分かってきた。
国民に、信頼できる王であると認めてほしかったわたしは、休むことを忘れ必死に「王」になろうとした。
そんなわたしを、国民は多少なりとも認めてくれていたのだと思う。手さぐりの状態で政務をこなしながら、その実感を得始めていた。
しかし、わたしが王位に就いて三カ月ほど経ったある日、隣国であるサウスカトライア王国から合併の提案が持ち込まれた。
『合併と言えば聞こえはいいが、どうせサウスの奴らは俺たちの土地が目当てなんだ!』
『しかも、合併したらサウスの一部になれって言うんだろ!? それじゃあ乗っ取られたようなものじゃないか!』
『国王が変わったから、ノースをどうにかできると思っているに違いない!』
『陛下、こんな話に絶対に乗ってはなりません!』
大臣たちに言われなくとも、断るつもりでいた。
ノース国とサウス国はもともとカトライアという一つの国であったが、何百年も昔に内戦により二つに隔たれていた。今となってはお互い相手に強い恨みがあるわけではないが、伝統として両国の交流はなかった。
国交を結べば、交通の便も良くなり商業も発展するであろうことは、国民全員が分かっていた。しかし、今でも十分豊かな国であるため、その伝統に逆らう者はほとんどいなかった。
それを、よりによって今、わたしが王であるこの時に合併しようというのだ。いや、合併ではなくサウスはノースを吸収しようとしている。
長い歴史を持つこの国を簡単に奪われてはいけないということは、わたしのような未熟な王でも理解できた。
コンコン、と控えめなノックの音がする。返事をすると、先ほどとはまた違う侍女がドアを開けて入ってきた。
「失礼します。陛下、鍛錬の時間でございます」
「……わかりました」
書き終えた書状を引き出しの中にしまって、立ち上がる。侍女が部屋を出ていくのを確認してから、重たいローブを脱ぎ捨てる。
鍛錬用の動きやすい服に着替えるが、わたしの気持ちは重いままだった。
半年前、サウスに合併を申し込まれたときはすぐに拒否した。しかし、サウス側はこちらが拒否するのをあらかじめ知っていたかのように、またすぐに書状をよこした。
その書状には、選ばれた兵士による決闘を申し込むという内容が書かれていた。お互いの国を代表する者同士が闘い、それに勝った国が負けた国を吸収できるというルールだ。そして、その決闘には両国王が必ず参加するという条件も付けられていた。この決闘を断った場合は、戦争をしかけるという脅しつきで。
数年前に、海を隔てた対岸の国と戦争をした経験のあるサウスと比べて、ノースは建国されてから戦争とは無縁の国だ。そのため、戦争だけはどうしても避けたかった。選ばれた兵士数人による決闘の方がまだ勝てる可能性があるし、国民が犠牲にならずに済む。
大臣たちは終始苦い顔をしていたが、わたしは決闘に応じることにしたのだった。
*
「お、ユキ!」
「あれ? 早いね、トーヤ」
鍛錬場に着くと、トーヤが既に鍛錬を始めていた。
トーヤは決闘に参加する兵士の一人で、わたしが気兼ねなく話せる唯一の存在でもある。
「張り切って早く来たんだけどよ、一人じゃ素振りぐらいしかできなかった」
「そりゃそうだよ。待っててね、すぐ準備するから」
「おう!」
トーヤは、数年前にノース国内で倒れていたところを保護された。話によると、他国で起こった戦争で両親を亡くし、行く宛てもなく彷徨っていたところノースに辿り着いたらしい。そんなトーヤを父が不憫に思い、城に住まわせた。それから、わたしと同い年ということもあって家族のように遊んで過ごした仲である。
「なあユキ、お前ゆうべもあの本読んでたんだって?」
「なんのこと?」
「とぼけるなって。もう十分紋章魔法も使えるようになったんだしさ、やめた方がいいんじゃないか?」
サウスに申し込まれた決闘には、「両国王が必ず決闘に参加する」という条件が付けられていた。この条件に、大臣たちはかなり不満があったようだ。
それもそのはずで、サウスの現国王は男であり、幼い頃から戦うための指南を受けているのだという。
一方、ノース国王であるわたしは、自分が戦うことなど考えたこともなかった女である。両国王が参加するという条件は、ノース側に足枷をかけるようなものだった。
「でもわたし、トーヤたちの足を引っ張りたくないの」
「足引っ張るだなんて、そんな……」
「きっと、サウスはわたしなんか簡単に倒せると思ってるもの。だから期待を裏切ってやりたいの」
なんてね、と言ってわたしは笑ってみせたけれど、トーヤは複雑そうな顔をしたままだった。
決闘の形式は自由だ。剣のような武器を使ってもいいし、もちろん素手で戦ってもいい。わたしも最初は剣や弓などの武器を試してみたけれど、やはり力がないといくら強い武器を持っても男には敵わなかった。
そして、わたしでも戦える方法を探しているうちに紋章魔法というものに行きついたのである。
その紋章魔法とは、簡単に言えば特別な呪いの本を読んで呪文を覚え、それを唱え紋章を自らの身体に刻むことで手にできる力である。
たまたま、王室が所有する図書館の奥深くに眠っていたその本を見つけ、試しに簡単な紋章を体に刻んだところその激痛に耐えかねて気を失った。しかし目が覚めると、まるでずっと昔から知っていたかのように魔法が使えるのだ。共に戦う兵士たちにも反対されたが、わたしがみんなの役に立つためにはこれしかないと思った。
それから、自分の力不足を認識するたびに紋章を体に刻んできた。遠くから見れば体中が真っ黒に見えるほど刻んだ紋章を見て、皆が眉をひそめる。でも、これはわたしの唯一の武器だと思えば何も気にならなかった。
「みんな集まってきたし、始めよっか」
「……おう」
トーヤもこれ以上何を言っても無駄だと思ったのか、素直に鍛錬を始めた。
***
「陛下! 決闘の日まであと二か月ですよ!? 少しは兵士の相手でも……」
「ああ、堪忍なぁ。今他のことで忙しいて無理や」
「この国の将来が、その日に決まるのですよ!? 勝てる相手ではありますが、万が一ということも……」
「うるさいなぁ、ノースくらいすぐ倒せるやろ。向こうには女の子もいてるんやし」
宰相がうるさくせっついてくる。ノースと決闘をして吸収合併してしまおうと提案したのは、他でもない自分である。しかしそれはノースを屈服させて従わせるためでも、国を大きくするためでもなかった。
「一応、陛下の耳にもお入れしておきますが」
「ん、何?」
「ノース国王は、ここ最近必死になって紋章魔法を会得しているそうですよ」
「……は?」
「偵察の者が申しておりました。体中に紋章を刻み込んでいたと」
自分で言うのもおかしいが、自分は動揺しない人間だと思っていた。
前国王である父が死んだときも、悲しみよりもまずこの先のことを考えた。自分より親が先に死ぬということは分かり切っていたし、自分が将来王になるのだと幼い頃からずっと教えられてきた。
そんな自分にも予想できなかったことに、宰相をもう一度問いただす。
「それ、ほんまに紋章魔法なん?」
「衛兵に化けて近くで見たそうです。腕まで紋章を刻んであったとか」
「紋章魔法ってあれ、楽に覚えられるけど痛いんやろ? 刻んでからも毎日痛むって」
「は、そのようでございますな。よっぽど我が国に勝ちたいのでしょう」
「……なんや、それ」
それでは自分が決闘を申し込んだ意味がない。絶対にノースが負けて、サウスがノースを吸収して、それで自分の願いは叶うはずだった。
「……ユキちゃんが痛い思いしたら、意味ないやん」
「は?」
「ボク、ちょっと城空けるわ。ほなあとよろしく」
「へっ!? ちょっと、陛下!?」
慌ただしく自分の部屋に戻り、簡素な服に着替える。
前ノース国王が亡くなってから、いや、ノース国王が病に侵されていると聞いた時から計画を立て始めた。それが、サウスとノースをひとつの国にすることだった。しかし、それが最終目的ではない。
正直、王の地位や国の威厳にさほど興味はない。サウスの民や城の者たちにさえ言っていない、本当の目的のために自分は動いている。
彼女にも決闘に参加するよう求めたのは、絶対にサウスが勝たなければ意味がないからだ。決闘か戦争か選べと言って、戦争に縁のないノースが決闘を選ぶことは目に見えていた。ただ、単純に選ばれた兵士による決闘をしたのでは必ずこちらが勝つとは言い切れない。女であるノース国王を決闘に引き摺り出すことで、戦力を少しでも落とすのが狙いだった。それに、両国王を含めて闘うのなら国民も納得すると考えた。
最初に軽い攻撃で彼女の気を失わせてから、あとは兵士のみの戦いに持ち込み、勝利する。この決闘は、最も穏便にノースを吸収するための一つの策であり、公正に国を合併するのだと国民に知らしめるための単なる儀式だ。これで、彼女をほとんど傷つけることなく、自分の願いは叶えられる。そう思っていた。
しかし。自らの国を何よりも大切に思う彼女が、決闘を申し込まれてどう思うか。しかも、自分にも決闘に出ろと言われて、黙って何もせずにいるだろうか。
そんなわけはない。少し考えれば容易に分かることだった。自分に対する苛立ちを隠せず、壁を思い切り殴る。
──彼女が絡んでくると、どうしても思い通りにいかない。
「……もうすぐや」
思い通りにいかなくても、どうにかするしかない。自分の理想のためならば、どんな犠牲を払おうとかまわないと決めたのだ。たとえ、自分が誰に憎まれようとも。
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