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2.呼声

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 しんと静まり返った旅館の中で、私たちのいるこの一角だけは熱気が立ち込めている。熱気と言っても、特に大騒ぎをしているわけではない。ただ一人、妙に盛り上がってしまっている人物がいるだけで。
 
「うぅー……おい、天音! 俺から離れるな! まだ飲めるだろう!」
「はいはい。私はいいけど、あなた大丈夫なの?」
「なにぃ!? あっ、天音! お前、何を片付け始めている! 酒を飲め!!」
「……ねえ、お姉ちゃん。もう許してあげたら?」
 
 少し離れたところで私たちの飲みくらべを眺めていた妹たちが、呆れ気味に話しかけてくる。空になった瓶を片付けながら、私は盛大なため息をついた。
 
「あのー、お兄さん? 酔ってますよね? 私の勝ちってことでいいですかー?」
「ううう……かち、とは……どこの女だったか……」
「ああもう、これ駄目だわ。完璧につぶれてる」
 
 飲みくらべを始めて、早三時間。つまみも何もなくただただ飲み続けた結果、先につぶれてしまったのは先ほどまで偉そうな口を利いていた男の方だった。男は意味不明な言葉を発したあと、ゆらりと体を揺らしたかと思うと、そのままばたっと机に突っ伏してしまった。
 最初のうちは余裕綽々で色んな酒を飲んでいたが、私の顔色がまったく変わらないのを見て男の表情にも段々と焦りが見えた。そんな慌てた様子の男の姿は、悪趣味ではあるが見ていて面白かった。まさか女である私に負けるなど、微塵も想像していなかったことだろう。
 そして男が意味の分からない言葉を発し始めたあたりで、私は自分の勝利を確信した。
 
「勝ったのはいいけど、これじゃ謝らせるのは無理ね。土下座くらいしてもらいたかったんだけど」
「お姉ちゃん、怖い……さすが春日のうわばみ娘ね」
「何言ってんのよ、ケンカ吹っかけてきたのはこの人よ? うちの酒蔵バカにされて、黙ってられるわけないでしょ」
「でもうち、本当に潰れそうだよ?」
「嘘か本当かは問題じゃないの。プライドの問題よ」
 
 どこから調達してきたのかも分からない酒瓶は、もうすっかり空になっている。少なくともそのうち半分は私が飲んだことになるが、さすがに私もこの量を飲んだのは初めてだ。きっと、もう少し飲んでいたらまずいことになっていたと思う。その前にこの男がつぶれてくれて助かった。
 とりあえず酒瓶や酒器はテーブルの端に寄せて、後の片づけはこの男が目覚めたらやってもらおう。第一、どこに仕舞えばいいのか分からないのだ。
 
「結局この人、何だったんだろうね?」
「さあね。主催者とか言ってたけど、話聞きつけて忍び込んだ地元の不良とかでしょ」
「でもさ、不良にしちゃ身綺麗じゃない? 喋り方もおじいさんみたいだったし」
「どこが身綺麗なのよ。こんな髪ブリーチしてカラコンまで入れてるやつ、きっとろくな奴じゃないわ」
 
 真っ赤な顔で机に突っ伏して眠っている男を、ちらりと一瞥する。肩辺りまで伸びた銀髪は、染めたにしてはきらきらと美しく輝いている気がする。きっといいトリートメントを使っているのだろう。男のくせに。
 それに、自分は名乗らないくせに私たちの名前を聞き出して、いつの間にか私を「天音」と呼び捨てにしていた。しかも最後の方は甘えるように管を巻いてきたし、酔うと絡んでくるタイプらしい。鬱陶しいことには変わりなかったが、第一印象とのギャップに少し笑ってしまった。酒を飲むと本性が現れると言うが、あっちの方がこの男の本性だと思うとなんだか可愛いかもしれない。
 
「……もう、変なちょっかい出すのやめてよね」
 
 眠りこけている男に、そっと自分の着ていた羽織をかける。すると少し身じろぎしてから、あまね、と私の名前を呼んだ。一瞬どきっとしたが、きっと夢の中ではまだ飲みくらべをしているのだろう。懲りない男だ。
 
「さて! 私たちもそろそろ寝ないとね」
「うん、もう眠いー。明日も朝から何かあるんでしょ? 寝坊しちゃうよぉ」
「明日はたしか……どっかの大きい酒造の社長さんの講演会だったっけ」
「うげー、絶対寝るー!」
 
 大きなあくびをしながら、夕月と小春は心底面倒くさそうに不満気な声を漏らした。正直言って私も講演会を真面目に聞くのは面倒だが、ためになる話を聞けるかもしれない。そのためにも早く寝ようと、妹二人とともに部屋に戻ることにした。
 









 部屋を出て、年季の入った旅館の廊下を三人で歩く。途中で他の部屋から出てきた女の子と出くわして、おはようございます、とにこやかに挨拶をした。
 
「今の、どこの酒蔵の子だろうね?」
「さあ? 講演会のあとに自由時間があるみたいだから、そこで色んな子と話せるって言ってたよ」
「わー、楽しみ! 講演会が無ければいいのになぁ」
「小春ったら、遊びに来たんじゃないのよ? 講演の最中に寝てたら、お父さんに言いつけるからね」
「えー!!」
 
 そんなたわいのないやり取りをしながら廊下を進んでいくと、前方から汗だくの男性が私たちに向かって走ってくるのが見えた。ぎょっとして立ち止まると、それはこの交流会の主催者である東雲酒造の社長さんだった。
 
「ああよかった! いた! はぁっ、はぁっ、春日酒造の、えっと、天音ちゃん!」
「は、はぁ……おはようございます。どうしたんですか?」
「おは、はぁ、おはよう! あの、悪いんだが、天音ちゃんだけ、別の部屋に来てくれないか!?」
「え……?」
 
 ぜえぜえと荒い息を吐く社長さんは、どう見ても切羽詰まった様子だ。朝からどうしたというのだろう。
 隣に立つ妹たちも、慌てた様子の社長さんを見て心配そうに眉を下げている。
 
「ど、どうしたんですか? 何かトラブルとか?」
「そういう、わけではないんだが……す、すまない。詳しいことは私の口からは言えないんだ。とにかく、天音ちゃんは私に付いてきてほしい。夕月ちゃんと小春ちゃんは、予定通り講演会に向かってくれないか」
 
 一瞬、夕月と小春が不安気に私の顔を窺った。それでも、なぜか必死な様子の社長さんの剣幕に圧されて「分かりました」と頷く。小春はまだ不安そうな顔をしているけれど、夕月が一緒にいれば大丈夫だろう。
 
「……夕月、小春のことよろしくね。用事が終わったらお姉ちゃんも行くから」
「うん、分かった」
「すまないね、三人とも……じゃあ天音ちゃん、こっちへ」
 
 ようやく呼吸の整った社長さんの後に続いて、大広間とは逆の方向へと歩き出す。何が起きているのかはよく分からないが、一番年長である私が呼ばれたということは何か手伝ってほしいことがあるのかもしれない。そう思って、私はもう何も聞かずに社長さんの背を追った。
 









 東雲酒造の社長さんに連れられてやってきたのは、旅館の離れのような場所だった。私たちが泊まっている本館とは廊下一本で繋がっているだけで、どうやら部屋は一つしか無いようだ。ここに一体何の用事があるのだろう。
 
「……着いたよ、天音ちゃん。ここから先、私は入ることができないんだ」
「え? ど、どういうことですか?」
「騙していたようで、言いづらいんだが……私はある方の言いつけで、この交流会を開いたに過ぎないんだ。この地域の酒蔵に昔から伝わる言い伝えが、まさか本当だったとは思いもしなくて……」
「あ、ある方? それに言い伝えって……?」
「とにかく、後のことは天音ちゃんに託されているんだ。私にもどうなるかは分からないが、きっと悪いようにはならない。でも一応、これを持っていてくれ!」
 
 そう言って渡されたのは、布製の小さなお守りだった。よく見てみると、そこには「災難厄除」の文字が刺繍されている。災難って、一体どういうことだ。
 
「な、なんですかこれ!?」
「役に立つかどうかは分からないが、私にできることはこれだけなんだ! すまない、天音ちゃん! 健闘を祈る!」
「健闘って!? ちょ、ちょっと社長さんっ!」
 
 何やら不穏な言葉を残して、社長さんは全速力で廊下を走り抜けて行ってしまう。ぽつんとその場に残された私は、その後ろ姿をただ茫然と眺めることしかできなかった。
 
 一体、何が起こっているのだろう。
 社長さんに無理矢理持たされたお守りを手に首を傾げたそのとき、背後の部屋からゴトン、と物音がした。
 
 びくついて、恐る恐る後ろを振り返る。そして、私はもう一度体を竦ませた。
 さっきまで閉じていたはずの部屋の襖が、私を招き入れるように自然と開いていたからだ。誰もいないのに、ひとりでに。
 
「……き、きっと、自動ドアなんだわ。うん。最近の旅館はハイテクね……」
 
 恐怖をごまかすように独り言を言ってみたが、何の意味も為さなかった。開いた襖の先は、まだ朝だというのに真っ暗な闇に覆われていて何も見えない。それなのに、この中に入らなければならないのだと、私の本能が知らせている。
 
 入りたくない。怖い。逃げたい。
 しかしそんな私の意思とは裏腹に、少しずつその闇に向かって足が動く。まるで操られているかのように、足だけが私の支配下に無かった。
 
 そしてとうとう、右足がその闇に一歩を踏み出す。その瞬間、まるで電気が点いたように部屋の中がぱっと明るく目の前に映し出された。
 
「なっ、なに……!?」
 
 その眩しさに耐えきれず、思わず手で目を覆う。そして少しずつその手を退けていくと、そこは二十畳はありそうな広い和室だった。
 ただの旅館の一室なのだとほっとしたのも束の間、その和室の中央に座る人物に気付いて、私は目を見開いた。
 
「よく来たな、天音。待ちわびたぞ」
 
 広い和室の中央に堂々と座っていたのは、つい昨日私が酔い潰した銀髪の男だった。
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