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惨劇の参事⑶・第壱章《吃りの伴吉と夜鷹のおるい》

拾肆ノ罰「戀夏毒蛇花刺青抄」ー彫り師と女師と禍(まがつ)ノ生き刺青ー

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「ーーなァ、黯。何で夢ってェ奴ァ、目ェ覚めた途端に忘れっちまうんだろうねェ?」
 ここは浅草聖天町。  
 聖天宮のある隅田川を望む、山の上の待乳山診療所。
 患者として個人的に来所した戀夏は、彼女の腰を丹念に揉みほぐしながら、そんなつぶやきを聞いた。
 ーー通常、女性の患者は衝立の中で白い着物一枚に着替え、場合によっては乳房や両ひざの裏表を剥き出しにすることもあるのだが。
 その際は、必ず夏がけをかけ、乳房や臀部を覆い隠す。
 しかし、戀夏は違う。
 施術のための枕と敷布団を前に、身にまとっている着物と股引をすべて空蝉状に脱ぎ散らかし、平気で全裸になるのだ。
 上半身は前から見て両肩からひじ、左右の乳房を覆うよに、紅白の夾竹桃と蝮の刺青が彫られているため、平気で乳房をさらし。
 外国人の血を引いた、金の恥毛に覆い隠された陰部から臀部まで、平気でさらす。
「何ですかぃ、急にそんな話。何か気にかかる夢でも見なすったんで?」
 柳腰、という言葉そのものの細腰から、滅黯の両掌が、まず右のふくらはぎに移る。
 その足は一見すると、白い柔肌にしか見えないが。
 実は固くこわばっているふくらはぎを、左右の親指で上下に数回揉み込み。
 そののち、ひとしきり土踏まずから上と足首をつかみ、ぐりぐりと足首の関節をまわす。
「足がパンパンに張ってやすね」
「そりゃ当ったり前(め)ぇよお前ェ、三助の仕事ァ片ひざついて、お客様の背中ァ一面、八ツ半から六ツ半まで、がっしがし洗うんだからさァ。しかもあたしァ、人手が足りねェからって、薪割りまでやらされてんだぞォ?」
「へぇ、薪割りですかい。そんなら……」
 滅黯は、戀夏の肩甲骨の背骨に限りなく近い部分に、左右の親指の腹をぐっと押し当てた。
「んぎゃっ!」
 あまりの痛みに戀夏は悲鳴を上げたが、滅黯はそこへの刺激を止めない。
 そして左右の親指の腹から右親指の第一関節に変え、そこに全体重をかけた。
 滅黯本人はまだ齢十七の細身の体格だが、体格と按摩の施術とは別物だ。
「いっ、ぎっ、うっぐ~~」
 うつぶせになって顔を乗せている枕に顔をこすりつけ、布団の両端にしがみついた。
「どうでやすか、姐さん」
「痛っ……てェ、け、どォ……効いて、るっ……!」
「それでやしたら、こちらも」
 言いながら、ほぐす箇所を左右逆にすると、戀夏はまったく同じ反応を見せた。
「あっ、んぐっ、いっぎ~~!」
 そうして戀夏がひとしきり悶絶した後、滅黯はこともなげに、
「これで、背中のこりは完全にほぐれやした。そいじゃ、最後の仕上げと行きやしょうかぃ」
 滅黯が右拳で左掌を突き。
 続けざまに左拳で右掌を突いたた。
 そうして滅黯が気合いを入れたことに、戀夏はまったく気づかなかった。
 滅黯は背後から戀夏の両わきに両腕を通し、上半身を抱え上げた。
  そうして戀夏の両腕を高く持ち上げ。
 両ひざを戀夏の両足の爪先まで近づけて、戀夏の背中を思い切り弓なりにさせた。
「くぉおお、あっはァ~~、効っくわァ~~これェ~~」
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「ーー針で皮膚をえぐられて、絵の具刷り込まれる刺青(スミ)彫るときとくらべたら、あっしに手で揉まれるなんざ、大(てぇ)したこたねぇでしょうに」
 「……刺青(スミ)彫(い)れるより、おめェの手と指で揉まれる方が、ずっと痛てェよ」
「そいつぁ、身体が固まってる証拠でやすね。姐さんの背中にふくらはぎぁ、身体でこりを育ててるようなもんでやしたから」
 ーーやや深めの金盥に注いだ熱い湯に浸し、緩くしぼった手ぬぐいで全裸の戀夏の全身をくまなく拭きながら、滅黯が語った。
「ーーなァ黯。何でヤクザ者(もん)は背中に刺青彫るか知ってっか?」
「いえ、あっしゃその辺りのことにゃさっぱりで」
「『背負う』覚悟の表れなんだィ。自分ァ一生ヤクザ者として生きて行きますってェ誓いをその背中に背負う証としてなァーー」
「へぇ……そうなんですかぃ。ところで姐さん、着替え終わったらでよござんすから、ちょいとばかし、仰向けんなって足の裏ぁ見せて頂けやすか?」
「足の裏ァ? いいけどよ、何だィ、手相見みてェなもんでもすんのかァ?」
「違げぇやすよ、足の裏ってぇのは五臓六腑の経穴が集中してんでさぁ。そういうワケでやすからねーー」
 言いながら、滅黯は元より盲目の両眼の上に青海波の手拭いを巻いた姿で、指先で戀夏の両足の経穴を探り当てる。
「あぁ、ここと、ここと……へぇ、特にここでやすね」
 ぎゅっ、と。
 渾身の力を込めて、滅黯は戀夏の両足の土踏まずのほぼ真横を、左右の人差し指の第二関節に全体重をかけてツボを押した。 
 それと同時に、右足の薬指の少し下、同じく土踏まずの真横を右手の第一関節でーー。
 その瞬間、戀夏の声にならない悲鳴が上がった。
 滅黯が押したのは、胃と肝臓の経穴だった。
 大酒飲みの身にその経穴をいっぺんに力いっぱい押されたのだから、堪ったものではない。
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「それで、どうなった」
「……姐さんの両足の蹴りが、あっしの右顔と左胸に入りやしたが、金盥で防ぎやした。金盥はぶっ壊れやしたがね、あれがなきゃあっしの右の歯は前歯から親知らずまで折れてやしたでしょうし、左の肋(あばら)なんぞ、あらかた折れてやしたに違げぇありゃあせんや」
「そりゃ、傑作だ」
 熱々の鰯の梅煮を盛り、汁だくにして下の冷や飯を温めた丼をかき込みながら、浄眩はケタケタ笑った。
 青魚と醤油の匂いが染み込んだ、滅黯が赤紫蘇と一緒に漬けた、煮崩れた、あらかじめ種を抜いていた梅干しをふたつ口の中で噛みながら、冷酒でぐいっと飲み下した。
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「伴ォ~、いつもの頼むわァ」
「へ、へいっ」
  ーーここは、浅草通りの寺の門前町屋、新寺町。
 戀夏行きつけの天ぷら屋の屋台、定番の場だ。
 店主はまだ、数えで十八の伴吉(ともきち)という。
 常に水色、瓶覗、勿忘草色、白群、浅縹の無地の着物に藍白のたすきがけをし、同色の前かけをして、常に清潔感溢れる姿を心がけている彼を、戀夏は気に入っていた。
 かつて隅田の禰々子と名乗っていた舟饅頭にして、栂のやの酌婦も兼業していた時分、今は亡き栂のやの老主人手製の形見たる瓢箪製の焼酎入りの徳利と、同じく小ぶりの瓢箪から削り出して作って貰った、猪口も預けてある。
 【こいたき】
 ーーそれがこの屋台の屋号だ。
 揚げ物たる天ぷらにかけ、鯉の滝登りか描かれた凧が、屋台の上に置かれ、飾られている。
 風のある日は糸を伸ばし、空中ではためかせるのだ。
 この時代の天ぷらは魚介のみ。   
 衣に卵黄を混ぜた黄色みの強いものを金ぷらと呼び、白身だけを衣に混ぜたものが銀ぷらと呼ばれていた。
 当然ながら、金ぷらの方が高価だ。
 そして野菜を揚げたものは天ぷらではなく、精進揚げと呼び区別していた。
 天ぷらも精進揚げも、具を一切れ一切れ串に刺して揚げ。
 客は揚げ立ての天ぷらまたは精進揚げを、共通の深鉢の中の、醤油を出汁で割った大根おろし入りのつけ汁に浸してから食すのだ。
 ーー戀夏の「いつもの」は於多福屋で余った、冷えた麦飯を自前の小ぶりの丼によそってもらい、そこに揚げ立ての銀ぷらと精進揚げを乗せてもらい、つけ汁をさっとかけて、熱々のうちに箸でかき込む。
 何しろ於多福屋には朝昼晩と必ず二杯食べるおふくを始め、朝昼晩と丼で三杯は食べる新谷、茶碗は小さいながら食べ盛りのお松とが揃っているのだ。
 だがたまに、炊き過ぎてしまうことが度々ある。
 そのおこぼれに預かっているのが、戀夏である。
 戀夏の丼に乗る銀ぷらは車海老、蛸足一本とイカゲソの丸揚げ、鯋(はぜ)、鱚(きす)。
 海洋汚染された現代の東京湾とは完全に別物の、江戸前の釣果だ。
 加えて値段は一本四文、現代の価格にして百円という値段だ。
 そして夏が近い今、精進揚げは大葉、ししとう、紫蘇の実。
 春は菜の花、ふきのとう、筍。
 秋は銀杏、舞茸、しめじ。
 冬は春菊、くわい、蓮根。
 ーー以上が、戀夏の定番となっている。
 しかし、伴吉には屋台の主としては致命的な欠陥を抱えていた。
 それと言うのもーー。
「お、おぉ、お待たせ、いぃ、致し、や、やし、た」
 いつもの品が、小ぶりの丼によそわれた。
 自前の冷し麦飯入りの上に、さっとつけ汁がひとまわりかけられると、ジュっと音が立ち、戀夏が小ぶりの丼を両手で軽く持ち上げ、まず香ばしい匂いを嗅覚で味わうと、戀夏の長い睫毛が重なり合い。
 紅を差してもいないのに常に紅みを帯びた艶っぽい唇の口角が、緩みつつもやんわりと上がる。
「おい、伴よォ」
「へ、へへ、へぃ?」
 魚介の銀ぷらと精進揚げを一口ずつ口にした戀夏が、丼の上に割り箸を置いて、伴吉を呼び止めた。
 伴吉は、怯えながら怖々振り返ったが、戀夏は満面の笑顔を浮かべ、右手の親指を立てて見せた。
 その光景に、伴吉は一瞬脱力し、すぐさま真っ赤な顔面に笑顔を浮かべ、戀夏に向かって深々と頭を下げた。
 ーー元来気弱な性質(たち)で、さらに生まれつきのひどい吃り、赤面症、少しばかり足りない頭。
 そんな伴吉だが、それが故に先代の屋台主の父親に天ぷらの揚げ方から客への対応までを、徹底的に込まれ。
  かつ、その気弱さが転じて柔和な人柄となっていることを、戀夏を初め、得意の客達は皆わかっている。
 そして黒目がちのつぶらな瞳に、わずかに豚鼻、そばかすの散らばった顔。
 故に決して整った顔立ちではないが、その素朴さを、戀夏は気に入っていた。
  そして実際、伴吉の揚げる天ぷらは金銀、精進揚げともども衣はあくまでも薄く、しかし歯を立てればサクっと音が立つ。
  具は厚さのあるものも薄いものも、均等に芯まで火が通り、焦げも生焼けもまったくない。
 蛸足一本と丸ごとひとつのイカゲソの吸盤の歯ごたえ、鯋の深み、鱚のあっさり感。
 そして、精進揚げは大葉と紫蘇の実の独特の香りを味わい、ししとうはその柔らかな実を味わった。
 だがその至福の時も、そう長くは続かなかった。
 戀夏に限らず、この屋台に座して金ぷら銀ぷら精進揚げを食する常連客なら誰もが不快に思う三人組が、その合図代わりたる三者三様の下駄の歯を鳴らす音が、近づいて来たからだ。
 カラン、コロン。
 カッコッ、カッコッ、
 しゅす、しゅす。
 「ーー伴ォ、悪りィけど、あたしのデケェ方の徳利出してくんな。小せェのは、いらねェよ」
「は、ははは、は、はい?」
 戀夏が、まだ四分の一の食べかけの丼の右横に、伴吉がとん、と徳利と猪口を置いた。
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「おぅよ、ども吉~! 来てやったぜ、吃りの屋台によぉ!?」
 提灯の灯りに誘われるかの如くやって来たのは、数えで十八の伴吉と同い年とおぽしい、男ひとりと女ふたりの三人組だった。
 「あ、ごご、互一さんに、み、みみ、実花、さん、おきょ、お香(きょう)さ、ん。いぃ、いらっしゃいま、ませ」
 「オイオイ、俺の名ぁ【ご、ごご、互一】じゃねーって、何回言ったらわかんだよ?」
 露骨に嘲笑う、青々とした坊主頭の若い男は、瓦町在の若き瓦職の互一。
 白地にあぶな絵柄の着流しを身にまとい。
 深緋の帯から煙草道具一式を納めているとおぽしき、茄子色に宝文様尽くしの厚手の巾着を下げていた。
 細く吊り上がった三白眼気味の双眸が、あからさまに底意地悪く見える。
 
 「ほれ、【ゐろはにほへと】つつっかえねぇで言えるまで、注文したらねぇぞ? さん、はい」
「·····い、いぃ、ろ·····」
 「オイ、何初っ端からつっかえてんだよ!俺ら腹ぁ減ってんだ、ボケ!」
 「す、すす、すみ、ません·····」
 伴吉はうつむき、決まり悪げに白の前かけをいじった。
「··········」
 そのやり取りを、丼の底に残った、たっぷりと魚介の出汁を吸い込んだ麦飯と衣と大根おろし入りのつけ汁ごと、箸でかき集めてすすりながら、戀夏がじっと横目に見つめている。
 音を立てず、空になった丼の中に箸を入れると、戀夏はすぐさま徳利を開け、手酌で猪口に生(き)の焼酎をついだ。
「互一っつぁ~ん、そりゃ禁句だよぉ~」
 互一の連れの女ふたりのうち、襟の合わせ目を大きく開き、晒しを巻いた女がけらけら笑いながら、互一の右腕に自身の両腕を絡ませ、抱きつきながら言った。
 ーー髪の分け目をギザギザにして、左右に高く結い上げた髪の結び目に、金襴緞子の帯の生地で、蝶結びに飾り。
 髪の先端は螺子のように渦巻いている。
 さらに、着物は戀夏のような尻端折りではなく、本来なら両足首まであるはずの着物の裾をざっくり切って、右ひざは隠す長さにし。
 左ひざは丸出しにして、ひざより三寸高く、太ももはあらわにしながらも、左右の裾はしっかり縫われた奇矯な意匠の振袖を、身にまとっていた。
 生成りの生地に太めの黒い縞模様。
 その上から、紅白の蔓薔薇がびっしりと巻きついている。
 帯は前から見て、赤、橙、黄色、緑、青、藍、紫と、虹の七色の鉢巻状の細長い布ですべて二重に巻き、蝶結びにした結び目を、ばらばらに散らしていた。
 足元は黒い高下駄のかかとを、極端に細く高く削り出している。
  その奇抜な風体が売りの、浅草東仲町の若き芸者、実花。
 源氏名も同じだ。
 そして、もうひとり。
  前髪は額のぎりぎりまで。
 両耳があらわになるまでざん切りにし。
 その極端に短くした髪を特殊な薬品で黒髪を、光り輝くような黄蘗色に染め抜いてーー緋の口紅を唇に塗り、左右の眼の周りに銀粉をたっぷりまぶした灰青の白粉状の粉を、たっぷり塗りたくっている。
 烏の濡羽色の着物に、向かい合った竜虎が牙を剥いているーー。
 まさに【竜虎相まみえる】光景の最中に雷鳴が轟いている。
 ちぎれた数珠があしらわれた灰桜色の帯から下は、両ひざの上から左右ともに広がって、前下がりの意匠になっており。
 そこからひらひらと波打つ藍白のふちどりが、裾まであらわになっている。
 それがレースという名の舶来の装飾品であることを知っているのは、戀夏だけである。
 (こいつら·····)
 ちびちびと生(き)焼酎を味わいながら、戀夏は明らかに伴吉を見下している連中の様子を伺うことにした。
 ーーふたり目の女は、花川戸在の娘。
 父親と小さな一軒家にふたり暮らしらしいが、父娘揃って近所の者達とはほとんどつき合いがなく、父親も何をしているのか、まったくわからない。
 時おり人の出入りはあるらしいが、密かに賭場でも開いているのではという噂があるが、真偽のほどはわからない。
 通称、琴爪お香(きょう)。
「だぁね、互の字。こんな吃りにすらすらいろは言わせようとするだけ、時間の無駄だぃ。何でもいいから早く食いてぇのさ。実花もそうだろ?」
 「そぉだよ互一ぃ、アタシ腹減った。減った減った減ったっんだてばぁーー!」
「仕方ねぇなぁ、お香姐さんにゃ逆らえねぇ。そんじゃ俺ぁーー」
 互一、実花、お香の順に、屋台の中の文鎮で押さえた半紙に、伴吉が注文の品を筆硯すらすらとで書き連ねる。
 (読めねェけど、綺麗だなァ·····)
 戀夏は文盲だ。
 唯一きちんと漢字で書けるのは自分の名前だけで、ひらがなを読むのすら、いろはに五十音のうち、ちるぬるを、までがやっとだ。
 書道を習得した者は墨を含んだ筆を持って、何枚字を書こうとも墨で手が汚れないと言うが、実際、伴吉は何人もの客の注文を書き記しても、墨汁一滴つかないに対し。
 戀夏は名前と、ちりぬるをの十三文字を細筆で書いただけで、両掌が真っ黒になる有り様だというのに。
 ーー互一は鯵、スズキ、メバル。
 ーー実花は穴子、太刀魚、白鰻。
 ーーお香は鮎、イサキ、鱧。
  以上が彼らの注文の品だった。
 「へ、へへ、へい、お、お待ちどう、様!」
  薄くカラっとした衣を、高温の油でさっと揚げながら、具にはしっかり火が通り、湯気すら立つ揚げ立ての天ぷらが、九本同時に差し出しされた。
「遅っせーよ、ども吉ぃ!」
 互一が身を乗り出し、満面の笑顔でごつん、と伴吉の頭に拳を喰らわせた。
 それに続き、
「もー、遅ーそーいっ! はい、バツとしてこーしちャうぞー、だっ!」
 実花もまた、一見無邪気そうな笑顔で、伴吉の左頬をぎゅーっときつくつねり上げた。
「·····」
 お香は腕組みし、不機嫌丸出しのしかめっ面で、細眉と切れ長の一重の両眼で、上目遣いにねめつけていた。
 しかし、伴吉は半笑いで、
「も、もも、申し訳あ、ありやせ、せん、でした」
 と、頭を下げるしかない。
 そしてすぐさま深鉢の中のつけ汁を、おたまですくって逆台形の皿によそい、各自の前に置く。
 三人は黙々と、各自が注文した品をつけ汁につけては口に戻し、口につけてはつけ汁をつけてを繰り返し、食べた。
 無法者達に有無を言わせることすら出来ない味と仕上がりなのだ、伴吉の天ぷらは。
 坊主頭の互一が小さくげっぷをすると、実花とお香が順に食べ終えた。
 しかし、三人は無言でその場を立ち去ろうとする。
「え、あ、あぁ、あの、お、おぉ、お代·····」
「あぁ? ツケにしろっていつも言ってんだろ?」
「で、でやすが、こ、この、ま、前も、そ、その前、も、ま、まだ·····」
「あのねー、互一んとこはお父っつぁんがー、アタシんとこはおかみさんがー、んで、香ちゃんとこはおっ母さんがぁ、後でまとめて払いに来ることになってるんだから~。ツケだよぉ、ツ・ケ!」
「そういうわけでぃ。男が細かいことを気にするもんじゃねぇやい」
「あ、あぁ、そ、そうでやしたかい、こ、これはと、とんだ、し、し、失礼をーー」
 言いながら、伴吉がなーんだ、そういうことかと純真な笑顔で頭をかいたと同時に。
 ぷっ。
 くすくす。
 頭が弱えぇってぇのは気楽でいいよなぁ、俺は絶対なりたかねぇけど。
 ーー三者三様に、伴吉を嘲笑した。
 そのときだ。
 屋台からせり出したわずかな食事の場を、ガチギレした戀夏が、力まかせに拳で叩いた。
「オイてめェ、いい加減にしろやァ! てめェはな、こいつらにいじめられてんだよォ!」
 だが戀夏の怒りの矛先は三人組ではなく、伴吉に向けられた。
「·····は? い、いじ、め?  そ、そんな、わきゃ、あ、ありやせん。ご、互一さんも、み、実花さん、も、お、お香さんも、い、いつも、ご、ごひ、ご贔屓に、してく、下さってーー」
「じゃあよォ、今までにちゃんとこいつらの親父(おや)っさんかやおふくろさんらに、ツケェ払ってもらったことあんのかィ!?」
「·····あ、ありゃ·····せ、ん·····が·····い、ぃ、いずれ、は·····」
  伴吉は困惑しきりで、三人組のうち、互一は坊主頭のてっぺんを撫でて、めんどくさいとばかりの表情を浮かべ。
 実花は互一の背後にまわり。
 あざとく怯えた様子で、彼の左右の二の腕を握り締めている。
 そしてお香は、左掌を脇腹に当てて右足の爪先を伸ばし、気だるげにしている。
 「おィコラ、てめェ実花とか言ったよなァ、ハマチっ娘(こ)」
「ふ、ふぇ? ハマチ?」
 意味がわからず実花が口にすると、
「鰤(ぶり)がガキんときの名前をハマチってんだィ。ぶりっ子って意味だよォ! 男と一緒にいるときゃァ散々調子くれといて、立場が悪くなりゃァその男の後ろに隠れやがってよォ。だいたい何だィ、一丁前に晒しなんか巻きやがって。その一枚布ひっぺがしたら、まな板か洗濯板に小梅つけた程度の乳だろうがよォ!? 」
  そして戀夏は、実花の晒しを谷間すらない左右の乳房の間に手をかけ、一気に引き裂いた。
「きゃあぁぁーーーー、いやぁぁぁぁーーーーっっ!!!」
  実際、実花の裸の胸は栗まんじゅう程度の膨らみしかなく。
 乳首など曙色の綺麗さだったが、
「イキって晒しを巻くにはなァ、百年早えぇんだよ、このメスガキがァ! 」
 と、戀夏に怒鳴りつけられ。
 左右交互に、思い切り頬を張られた。
 倍になって返って来た自身の悪事に対する戀夏の罵倒と、両頬に真っ赤な手形がくっきりついた痛みに、実花の顔が歪み始めた。
 ややあってから、実花は両腕で小さな乳房を隠しながら地べたにへたり込み。
 悲鳴を上げるようにして、幼子のように号泣し始めた。
 ふん、と戀夏が鼻を鳴らしたのも束の間。
「うぉい、コラァーーー!!!」
  実に聞き苦しく耳障りな胴間声が、辺り一面に響き渡った。
 声の主は、互一である。
「ーーてんめぇ、俺っちの女ぁ泣かせやがったな? 調子こいてるだけじゃなしに、暴力まで振る·····っ!?」
 ギン!と。
 互一と視線が合った戀夏の両眼には、凄まじいまでの目力があった。
 自分の黒い双眸とは異なる、瑠璃色に近い紺碧の瞳の色。
 そして、やや開き気味の襟の間から覗く、実花と同じく晒しを巻いた胸ーー。
 実花とはくらべものにならない程の、三尺強はあろうその乳房の豊満さに、悲しいかな、男の性(さが)で、目が釘づけになった。
「おィコラ、人様の乳ィジロジロ見てんじゃねェぞ、坊主。てめェァ今、どこもかしこもーー」
 その声に気づいたときには、もう遅かった。
「ガラ空きなんだよォ、オラァ!」
 紅緒の黒いぽっくり下駄を履いた足が、見事にかかと落としを決めると、
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ」
 と唸り声を上げ、両掌で頭を押さえ、その場にうずくまった。
 その両掌をがつんと踏みつけてから、右足のぽっくりの爪先で互一の顎をぐいと上げると、
「チンポと金玉やらなかっただけでも感謝しろよ、ジャリッパゲ。あたしの蹴り一撃でも喰らったら、てめェァもう一生フニャチンの種なしになってたんだかんなァ?」
 我知らず、互一の口からヒッ、と小さな悲鳴がもれた。
 気づけば両手両足がガクガクブルブルと震え、女のように両掌で口を塞いでいる自分に気づき、愕然とした。
「で、よォ。そこの金髪ざん切り頭」
 くるりと振り返った先には、琴爪お香が険しい表情を浮かべ、戀夏を睥睨していた。
 その瞬間、自分達が食べ終えた九本の串をまとめて左掌に握り締めたお香が、戀夏の背後を取って見せた。
 右腕で戀夏の首を押さえながら、素早く戀夏の股引をひざまで引きずり下ろし、九本の串を剥き出しになった局部すれすれに近づけた。
 尻端折りにした着物の裾の中で、お香が握り締めた串が一本上に押し出されると、戀夏の全身が、びくん! と跳ね上がった。
 ごく軽くではあるが、女のいちばん敏感な部分を突かれたのだ。
「何でェ、お香さんとやら。ずいぶんと卑猥な真似してくれるじゃないかよォ、こりゃァ」
 口調はいつもどおりの威勢の良さを保っているが、内心では冷や汗をかく思いでいる。
「ふふふ、ヤクザも黙る上野の女不動のお戀様も、さすがにおさねと観音様をぶっ刺されるのは怖いかい」
「ーーあたしじゃなくてもよォ、女ならそんなのみんな当ったりめェだろォが!」
 だが、そこは戀夏。
 お香が手にした串をまとめてバキボキと寸単位にへし折り、寸分の間も置かず、お香の鼻柱に裏拳を叩き込んだ。
「ぎゃぶっ!」
 反射的に、お香が両掌で鼻を押さえると、戀夏は左足を軸にしてからだを半回転させ。
 それと同時に、お香の右脇腹に蹴りを入れ、みぞおちにぽっくり下駄の裏を叩き込み、力まかせに突き飛ばした。
「·····っあ、っぐ·····」
「けっ、お互い急所狙いだ。文句はねェだろ」
 戀夏は素早く股引をたくし上げると、お香の両腕右掌でひねり上げた。
「ふーん、琴爪のふたつ名はこれかィ」
 お香の右手の親指、人差し指、中指には、爪の生え際より下に黒い革の輪が通された、先端が雫のように尖った、山田流の琴爪が嵌められていた。
 本来なら練色のはずのそれを爪紅を使い、ほんのりと薔薇色に塗り潰し。
 さらに、本来の琴爪の長さは本来二寸弱から四寸弱だが。
 お香の右手の親指、人差し指、中指に嵌められた琴爪は軽くそれらの指と同じ長さに改造してある。
 「あらあらこれは、ひと瓶四千文もしやがられます爪紅を塗られなさいました琴爪を指の裏にはめられまして、暗器気取りでございますこと?  お香お嬢様ァ」
「ーー!!」
 現代のポリッシュ(マニキュア)たる爪紅は、鳳仙花の花びらを杯に入れ、花びらを潰しながら、ミョウバンと鬼灯の皮を潰しながら混ぜ、手間暇かけてようやく出来上がる。
 【紅一匁 金一匁】
 ーーと称されるほどの高級品で、骨で出来た専用の針を使って爪に塗る。
 ちなみに、金一匁は現代の約十万円に相当する。
 それほどの高級品を、お香は琴爪の色塗りごときに、惜しみなく使っているのだ。
 お香が戀夏の右掌から無理やり両腕を振り払い、怒りに任せて戀夏の横っツラに、奇遇にも、地べたに転がっていた石を握り締めた。
 自身の掌より大きくはみ出した石を握った拳で顔を殴られては、さしもの戀夏もーーとなりかけた、その瞬間だった。

 ーー·····ピィーー·····ピィーー·····

 捕方の、呼子笛の音が遠くに聞こえた。
「互の字! 実花! さっさと立ちゃ上がれ!」
 チッ、と舌打ちすると、お香は痛みにうめき続けている互一と、上半身裸で泣き続けている実花とを連れ、その場から脱兎の如く逃げ去った。
(やべっ·····)
 捕方が先ほどまでのケンカを誰から聞きつけ、駆けつけて来たのなら、自分も番屋にしょっ引かれーーと焦ったのは、ほんの一瞬。
「助かりやしたね、姐さん。あっしのおかげで」
「ーー黯!」
  滅黯が、物陰からひょっこり姿を現した。
 両眼にはいつもの青海波の手ぬぐいを巻き、一枚歯の下駄を履いた両足に白杖をついて、屋台に歩み寄って来る。
 きょとんとしている伴吉に見られぬよう、左掌の人差し指でのどをつく振りをすると。
 左右の口角を上げ、唇の真ん中に人差し指を立てた。
 ーー呼び子笛の音は、滅黯の変声術だったのだ。
「あ、あぁ、あの·····」
 事情を知る由もない伴吉は、青い顔をしてひたすら戸惑っていたが、
「心配すんなィ、伴。さっきの捕方の呼び子笛ァ、こいつの得意技の声真似の嘘っぱちさ。あの連中が勝手にてめェらのことだと勘違いしやがっただけだィ」
「そ、そうで、すか。そ、それならよ、よかった。と、と·····ころで、お、お戀さん、そ、その按摩さんは·····」
「あたしのツレだよ。浅草聖天町の待乳山で診療所構えてる、滅黯っての」
「お晩でやす。お初にお目にかかりやす、按摩の滅黯と申しやす。呼びは黯、でよござんす」
 滅黯が軽く会釈すると、伴吉は前かけの前で両手を重ね、深々と頭を下げた。
「あ、あっしは、この屋台の、【こいたき】の、主の、と、伴吉と、も、申しやす
こっ、ここ、こちら、こそ·····」
 自己紹介の途中で、伴吉が咳き込み始めた。
 「おっと、こりゃいけねぇ。伴吉さん、水飲んで一息つきなせぇ」
「へ、へへ、へい」
 伴吉は、手元に置いていた竹包から、ぬるんだ水をがぶ飲みした。
「吃りがあるからってぇ、無理しちゃいけやせんぜーー伴吉さんとやら、あっしも何か揚げてくれやせんかぃ」
「へ、へい! な、何にい、致、致しや、しょう?」
 「申し訳ありゃあせんが、あっしゃ、このとおりの盲でね。品書きぁ読めやせん。姐さんはこんな綺麗な色の眼ぇしとりやすが、ゐろはにほへと、ちりぬるをまでしか文字が読めやせん。いかが致しやしょうかねぇ?」
「あたしの『いつもの』の精進揚げ抜き、全部。そんでいいよ」
「え、ぇ?」
  気を取り直し、手酌で焼酎をあおりながら、戀夏がそう注文した。
「こいつさァ、おめェとタメの十七のくせしやがって、坊さんみてェな飯ばっか食ってんだよォ。酒も呑むし、魚も食うけどな。だからたまには開きや目刺し以外の魚の天ぷらも、がっつり食ってみろってんだィ」
「そいじゃあ、それでお願げぇ致しやす」
 「わ、わわ、わかりやした!」
 伴吉は、素早く戀夏の『いつもの』たる、車海老、蛸足一本、イカゲソの丸揚げ、鯋、鱚を一度に揚げにかかった。
 そして何故か戀夏は両手の指を折り、さらに足の指まで使って、何やら数を数え始めた。
「·····が八本でェ·····が、五本だろ? んだからァ·····えっと
ォ·····」
 学がないなりに必死に何かを数えながら、ようやく答えを出した戀夏は袂をまさぐり。
 おふくに作ってもらった、右に真朱、真ん中に水柿、左に甚三句の三色を編んだ、やや細めの組紐を両絞りにして口に通した、薄葡萄の綿入りの厚手の生地に、梅紫の矢絣柄の巾着をこっそり広げた。
「おいよ、黯。四文銭に十三を掛けたら、いくつだァ? 」
「五十二文でやすね」
 その直後、戀夏は巾着の中身をまさぐると、四文銭が細布をこよりのようにして束ねられ、何束も入っていた。
 戀夏がひぃふぅみぃよぉと数える必要もなかった。
 その四文銭の束には、わざわざおふくが、
【四もんせん ひとたば十まい は 四十もんせん(=現代の四百円)】
 と、小筆に墨で記された藁半紙がくくりつけられていた。
 残りの半端な小銭はそのまま、ばらになっている。
(うっひょォ~、神様仏様おふく様、ありがとォございます! 今度、うぐいす餡の鹿の子菓子と大納言の甘納豆買ってお礼に参ります!)
 戀夏は思わず手を合わせ、心の中でおふくを拝んだ。
「お、おぉ、お待たせ、い、致たし、やした!」
 ーー魚介だけの天ぷらが五本乗った平皿と割り箸。
 そして醤油の出汁割り大根おろし入りのつけ汁入りの丼が、滅黯の前に差し出された。
「あ、あの、あ、あぁ按摩さ、い、いぇ、あ、黯、さん。そ、その·····」
「心配(しんぺ)ぇ御無用。あっしら盲ぁ、目の見える御方と違って、鼻と舌だけで本当に食いもんの匂いも味もわかりやすんでさぁーーそれが美味ぇもんなら、余計にねぇ」
 そのとき、四文銭十枚二束が、伴吉の手前に置かれた。
「おぉ、お戀さん? お、おぉ、おれ、お戀さんの、お、お代は、さ、三十二文、でーー」
 ひどくとまどう伴吉に、戀夏は生焼酎を二杯立て続けに飲み干し、ぶはーっと息を吐いてから、
「そいつァあたしの『いつも』と、こいつの分だァよォ」
 と、滅黯に向けて顎をしゃくり、ぶっきらぼうに言い放った。
「いいんですかぃ、姐さん」
「あたしがいいつったらいいんだよォ! 黯、てめェァまがりなりにも江戸っ子だろがィ。黙って受け取れェ! あと伴、釣りはいらねェかんな。これ以上、代金のことァ話すな。はい、終わり!」
「そんじゃ遠慮なくごっつぉになりやすぜ、姐さん」
「·····」
 だが何故か、戀夏は無言でそっぽを向いた。
 そしてちびちびと、生焼酎をごくひと口ずつ、すするように呑み直し始めた。
 「あ、あの、お、お戀、さ·····」
 元来自責感の強い伴吉は、自分が何か戀夏に不用意な発言をしたかと勝手に思い込み、恐る恐る声をかけようとしたが、その瞬間、滅黯が伴吉の左手首をつかんだ。
 そして両掌の内側を重ね合わせ
 るや否や、実に不可解なことが起こった。
 目の前で、滅黯の両手が様々な仕草を取り、形作る。
(姐さんは、こう見えて意外に照れ屋なんでさぁ。ですから、放っといてくるのがいちばんでやしてねェ。お頼申しやす)
 ーーそれは、現代における聾唖者のための手話に似ていた。
 だが、吃音の伴吉と盲の滅黯とのやり取りには、本来不必要なものだ。
 だというのに、気づいたときには、伴吉は頭の中で滅黯と声なき会話を交わしていた。
(お戀さんが照れ屋だなんて、そんなこたぁ意外でも何でもありゃあせんよ)
 伴吉は、はっと気づいた。
 頭の中とはいえ、まったく吃ることなく、すらすらと話せている。
 しかも、自分達以外にはこの会話はまったく聞こえていないようだ。
(い、いってぇこのお人は·····?)
 滅黯が、唐突に腰を中腰に落とした。
 そして右掌を見せるように、麹塵の甚平の袖に覆われた右腕を突き出し、
「手前、生国と発しますは、江戸は吉原ありんす国。お茶挽き女郎が一晩の酔狂な客に孕まされ、中条流を施すも、流れず死なずの已の子にてーー」
 芝居がかった、渡世人の仁義(あいつき)を真似た滅黯の語りに、伴吉は思わず観入り、聞き入った。
「鬼灯効かず水銀効かず、十月十日ののちに月満ちてオギャアと産声上げしも、母の業にて盲に産まれ、数え四まで育ちしも」
「水銀にて盲なり。忘八者にもならぬとて、ざんぶとお歯黒どぶに投げ込まれしを、捨てる母あれば拾う生臭坊主ありしとて、今十七まで、按摩となりて生き延びし次第ーーおっといけねぇ、天ぷらが冷めちまいまさぁ」
 滅黯はまず、鱚の天ぷらに軽く出汁をつけ、口にした。
「ほっ、熱っつう。あっさりして、いいお味でさぁ」
  そして蛸足一本からイカゲソの丸揚げに鯋。一匹ずつ丁寧に頭と足、背わたを取った車海老ーー。
 あっという間に、串に通した天ぷらは滅黯の腹の中に消えた。
「おっと、いけねぇいけねぇ」
 皿の上に、食べた順にきちんと串を横に並べ、天ぷらを食べ終えた滅黯が、ぺちんと自分の頭を叩いた。
「あっしゃ、常日頃から粗食でやしてねぇ。でもせっかくでぇ、天ぷらと一緒にこれを食べようと持って来たんでやすが、あんまり天ぷらが美味過ぎて、食うどころか、出すのを忘れっちまってやした」
 ーー口元に笑みを浮かべ、滅黯が笹で包んだふたつの握り飯を取りだし、片方を伴吉に差し出した。
 それは、玄米のみの握り飯だった。
「あっしゃ、濃い味付けの煮魚や塩ょっ辛い開きの魚をこれと食うのが好きでやしてねぇ。お近づきの印でさぁ」
「あ、あぁ、ありがと、ご、ごぜぜぇ、ま、ます!」
 どちらからともなく、伴吉と滅黯は同時に玄米だけの握り飯を口にした。
 先に気づいたのは、伴吉の方だった。
「め、滅、あ、黯さん、こ、これ·····」
「へへっ、玄米ぁそれだけじゃちぃとも美味くありゃあせんからねぇ。粘りを取ったひきわり納豆の刻みに名古屋の赤味噌をほんのちぃっとばかり混ぜた、特製の葱味噌でさぁ」
 ーーあえて辛味を残した刻み白葱。
 出来る限り粘りも臭みを取り去ったわずかなひきわり納豆。
  兎知平の土産の、わずかばかりの赤味噌。
 「ぅ、うぅ、美味い、で、す」
  半分以上食べ終えてから、ようやく伴吉が感想を口にした。
「あ、あぁ、あの、よ、よろしかったら、お、お礼、をか、兼ねて、食、食ってい、頂きてぇも、もんがーー」
「ちょォ、待ちやがれィ」
 元より抜けるように白い肌色の顔の戀夏の両頬がわずかに紅潮していた。
 伴吉の食べかけの握り飯を奪い、がっつくや否や、
「野郎がーァ、ふーたーりーだーけーでェ、美味めェもんをひとり占めすんじゃねェぞ、ゴルァ。その、黯に食って頂きてェもんとやら、あたしにもよこせェ」
「へ、へ、へい!」
  伴吉が、張り切ったように何かを揚げ始めた。
「姐さん、だいぶ酔ってやすね」
「あァ? 酔ってなんざいねェよォーだァ」
 ーー典型的な酔っ払いの受け答えだ。
 三本の串を揚げる音の後にすぐさま出されたのは、三つの具を刺した天ぷらだった。
  戀夏と滅黯、伴吉が同時に串のいちばん上を同時に食した。
「·····美味めェ·····」
「こりゃあ、美味しゅうござんすねぇ·····」
 戀夏と滅黯が手放しに誉めると、伴吉ははにかんだ。
 伴吉はそれを咀嚼しながら、
「で、でや、しょう?」
 滅黯は持参した特製葱味噌入りの玄米の握り飯を口にする。
 魚介ではなく、獣肉だ。
 二番目。
 やはりこれも獣肉だった。
 だが、一番目とは明らかに味が違う。
 一番目ががっつりと野趣に溢れた味わいなら、こちらはまだ穏やかだ。
 三番目。
 これは鮮烈だった。
 にんにく醤油が効いた、あえて半生に火を通した獣肉。
 気がつけば、戀夏と滅黯はあっという間にそれらを平らげていた。
「いやいや、すげぇ馳走でやした。伴吉さん、こいつぁ何でぇ?」
「え、ヘヘ、へ。【花札と桜天ぷら】で、やすよ」
「花札ァ?」
 いぶかしむ戀夏に、伴吉が答えた。
「そ、そりゃ最近、う、うちのな、馴染みになってくだすった、も、もも、百獣屋さんからの、い、頂きもんでやして。う、上からじゅ、順にーー」
 牡丹、紅葉、桜だという。
「オイ黯、あたしァ花札は知ってっけど、どういうこったよ」
「へい、花札の絵にちなんで猪ぁ牡丹、鹿ぁ紅葉ってこってさぁ。あぁ、馬は桜ってんですがね」
「はァ!? 猪と鹿と馬ァ!? ンなもん食えんのかよォ!?」
「食えんのかって、現に今食って、美味ぇって言いやしたでしょうに。あっしらみてぇな貧乏町人にゃとんと縁がありゃあせんがね、百獣屋って店じゃ、猪と鹿は鍋、馬に至りゃあ、馬刺しって、おろしにんにく溶かした醤油につけて生で食うのが定番なんですぜ」
「うーわ、あんだそれよォ、あたしもそれで一杯やりてェなァ!けどよォ、何で馬ァ桜なんだィ?」
「馬は冬の間に草ぁたくさん食って、桜の咲く頃にゃ脂が乗って美味くなるからだの、馬の生肉ぁ空気に触れると桜色になるからとか言われてやすが、どっちが正しいはわかりやせん」
「ひょー、さっすが黯。何でも知ってやがんねェ、おめェァ」
「そりゃ、あっしもでさぁ。焼酎呑みの姐さんだけありやすねぇ、馬刺しってのぁ肥後国の名物で、焼酎の本場なんですぜ」
「ほわっ、マジィ!?」
 当時、江戸の世において肉食は仏教の影響で禁忌とされていたが、それはあくまで表向きのことだ。
 猪は牡丹、または山鯨。
 鹿は紅葉。
 馬は桜。
 と、花札の絵にちなみ。
 鶏肉は柏。
 兎は月夜(げつよ)。
 などと呼び名を変え、食されていた。
 ジビエ料理は、江戸時代からすでに存在していたのである。
「ところで、伴吉さん。その百獣屋ってぇのは·····」
「りょ、両国ひ、広小路の、こ、麹町に、み、店開いたば、ばっかりの、も、百獣屋さんのご、御主人と、か、看板娘の、お、お妾の、おぉ、女の方と、ば、番頭の、お、男の方の、お、お三方が、そ、揃って、い、いらっしゃい、やして」
 三人は、ともに上方の言葉を話していた。
 ーーどこか中性的で、涼やかな印象の主人は緋砂と名乗り、あっさりした蕎麦切色に、細い水浅葱の菱模様の着流しの上に、灰色縦縞の羽織り。
 背の中ほどまである髪の先端を、元結でゆったり束ね。
 まるで舞台で着る絢爛豪華な衣装を脱ぎ、化粧を落とした旅芝居一座の名物女形のような、切れ長の一重まぶたに濃くまつ毛を生やした容貌だったという。
「主、こん屋台、酒ぇ持ち込むんはええのんか?」
 低いが、よく通る澄んだ声で訊ねられた。
「へ、へぇ。うちとこは、かまいません。何なら、お預かりもしてやすんで」
「さよか、おおきに」
 ーー風呂敷に包まれた一升瓶を、その男は皿を出される台の片隅に置き。
  懐から取り出した、眼を見張るような蒼の猪口を、とん、と自分の前に置いた。
「あ、あの、し、失礼とは、ぞ、存じやすが、そ、その海鼠色ぁ、し、信楽焼、で、ご、ござんせ、せん、か?」
「何やおまはん、まだ若こぅて喋りは江戸っ子やのに、信楽の焼き物てわかるんかい」
「へ、へぇ。あ、あっしの、と、遠縁の、も、もう、ふ、ふたり揃って、あ、あの世に、お、おりやすが、じ、爺婆夫婦が、こ、ここ、小料理屋、やってやして、や、焼き物に、こ、凝って、て、あ、あっしが、ガ、ガキの頃、その海鼠色の、ちょ、猪口が、あ、あ、あんまり、き、き、綺麗で、ほ、欲しくて、欲し、欲しくて、た、堪らなかった、も、もん、でして」
「そんときの海鼠色ン猪口ぁ、今ぁどないなっとる?」
「あ、ぁ、あっしの、の、た、宝物で、ご、ごぜぇや、やす。か、神棚に、お、置いて、か、飾っと、とりや、やす!」
 ふふっ、と。緋砂は眼を閉じて微笑した。
「ほなら、これの名前はどない思う?」
 緋砂がつん、と。
  台の上で両手を組んで、緋砂がが持ち込みの一升瓶に顎をしゃくった。
「あ、も、申し訳、あ、ありやせん。あ、あっしは、こ、これ、この通りの、ど、吃りで、や、やして、そ、それを、か、から、か、かわれるのが、い、嫌になっちまって、て、寺子屋に半年通ったか通わねぇで、が、学なんぞ、これっぽちもねぇんでーー」
 「これなぁ【七本槍】言うねん。味はもちろんやけど、名前がカッコええやろ?」
「し、しちほん、や、やり·····な、なんぞ、え、えろうお強い、戦国の世の武将様方、み、みたいな、お、お名前、で、や、やすね」
 んふっ、と。女が笑いかけた。
「坊やの主(あるじ)ぃ。自分、学がない言うとる割りに、勘はめっちゃええやんかぁ。七本槍てのはなぁ、加藤清正公と福島正則公が入りよった【賤ヶ岳の七本槍】それから来てんねんで」
「は? は、ぁ·····?」
 本当に学のない伴吉には、それが褒め言葉だと、まったく理解出来ていなかった。
「わしら、先月まで京の保津峡越えた先にある、洛外の園部ちゅうとこに住んどって、そこを拠点に、上方全域に商売しとったんやけどーー」
「もう大所帯にもほどがありよってな。丁稚に端女、手代に女中と全員まとめて仕切るんのに、ええ加減きつうなってもうてな。ほんで、上方中の店の主ん中からわての跡目継ぐ者(もん)がようやっと決まって、思い切って江戸で新生活したろ思て、上野広小路の麹町で、百獣屋始めよったんや」
 そこまで一気に、しかし実に聞き心地のよい声で静かに語ると。
「跡目継ぎよったんは、近江は甲賀のおなごや。三姉妹のいちばん上の姉貴でなぁ。女三人よれば姦しいちゅうが」
 そこに、女がいきなり口をはさんだ。
「せやな、確かに瑞ノ江屋の連中で姦しいんは、次の女郎花と、末の撫子だけやわ。お母はんの腹ん中から産まれて来た道が無口と姦しと分かれてはったんやろか?」
 天然じみた言葉に、緋砂が軽く噴き出した。
「姉妹が三人揃って、名前通りのべっぴんなだけええやないかい。無口と姦しだけでなしに、べっぴんと醜女にまで分かれとったら、最悪やないかい」
「うわ、ホンマや。無口なべっぴんの姉様と、やっかましい醜女の妹ふたりなんて、落語やんな」
「娒々代なぁ。京の都のお姫ぃさんみとぉな、はんなりしよった見た目で無口の蛤のくせしてはるちゅうのに、辣腕振るぅて実にえぇ仕事してくれはる。おまけに、よう気が利く」
 ーー彼らが、それまでどんな商売をして来たのか。
 少しばかり頭が弱いがために、何ひとつ質問出来なかったのは、伴吉にとって不幸中の幸いだった。
「へ、へぇ。そ、そしたら、その【七本槍】て、さ、酒は、も、もしか、して、あ、跡目、つ、継いだ、お、おなご、て、か、方、が?」
「はははっ、わてらとは商いの類ぃ全然違ゃうが、やっぱり商売人の勘は同じやなぁ?」
「?」
 そっくり返って笑う緋砂の海鼠色の信楽焼のすぐ隣りに、あまりにも見目麗しい美女が、節分の豆まきに使う寸法の枡を置くと。
 勝手に栓を開け、まず緋砂の海鼠色の信楽焼の猪口に。
 そして自分の袂から取り出した枡に、とっとっとっ、と酒をついだ。
「桜乙、自分は枡で呑むんやなしに、枡で一杯何合か量りよってから、漏斗(じょうご)使こうて小滝みとぉにして、どほどぼ呑みよった方がちょうどえぇんと違ゃうかぁ?」
「おやたぁ、あては確かにうわばみ女やけど、養老の滝に棲んどる蛇やあらへんでぇ、てんご言わんといて」
「坊やの主はん、うち、百獣屋の【花散里】の看板娘の桜乙言うねん。よろしゅう頼むなぁーー。なぁ、もしあったら、迷迭花(まんねんろう=ローズマリー)ぎょうさんまぶしよった鰯の天ぷら頼むわ。無ぅなかったら、梅肉と大葉でえぇさかい。あと、芋、蛸、南瓜の串、二本ずつ。おやた、おやたは何にしよるん?」
「ん、ほなーー」
 言いながら、緋砂は右手の人差し指と親指で顎に触れ、屋台の中の短冊形の品書きに眼をやった。「·····吃りが、いちびっとんなや·····」
 庇髪の若い男が、誰にも聞こえない小声で憎々しげに呟いた。
――――――――――――――――――――
 ーーそれがふたり目、名を桜乙(おと)なる女。
 大阪は道頓堀の茶屋を経て、京の宮川町なる茶屋にしばらくいたところを緋砂に身請けされたと、注文の品が揚がるまでに、簡素に語った。
 簪に笄ひとつ差してはいないが、髪を天神髷に結い、目を見張るような青の浴衣に、襟から裾まで前後合わせて軽く百匹はいそうな、色とりどりの錦鯉が、水中を渦巻くようにして泳いでいた。
「そ、その、か、方。お、桜乙さんて、ての、がーー」
 伴吉は顔を赤くし、もじもじしながら、
「お、お戀さんと、こ、こ、甲お、乙、つ、つけが、て、てぇぐれぇの、のーー」
「『ごっつぅ【べっぴんさん】やったんやろ?【伴吉はん】?』」
 突然上方の言葉を口にした戀夏に、伴吉は素直に驚いた。
「お、おぉ、お戀、さ、ん!?」
「めっちゃ驚いた【やろ】。実はあたしなァ、十四で上野に腰落ち着けるまで、一年だけ【やけど】大阪に【住んどったんや】。【せやさかい】上方ン言葉ァちぃとばかし話せるし【わかんねん】」
「そ、そう、でやした、か·····」
「【伴吉はん、ほんで? 続き。もひとり、男はんはどないなお人やったん】?」
「·····え、えぇ、と·····」
「ちょっ、ちょっ、と。こ、怖い感じのおひ、お人でや、やした。か、顔はそ、そりゃ、い、いぃ男でやしたけど、な、何かその、ば、博徒とか、そ、そんな、か、感じの·····」
「博徒風の、庇髪の男ですかぃーーそりゃちぃと、穏やかじゃありゃあせんね」
「そ、それと、ちょ、ちょっと変わったお、お人、で」
((変わったお人?))
 口には出さなかったが、戀夏と滅黯は、頭の中で同等に思った。
 何故か、博徒風の庇髪のその男は、頑なに名を名乗ろうとしなかったという。
 しかし、伴吉からの頼みに、仕方なしに名乗った名は、明らかに偽名だった。
「ハヤニエ、って、そ、素っ気なく、な、名乗って頂きや、やし、てた」
「『ハヤニエ』·····?」
 何故だか引っかかるものを感じ、戀夏が猪口をあおる手を、いったん止めた。
 それが何かはわからない。
 ただ突然、のどに魚の小骨が引っかかったような感覚に襲われた。
「は、鱧を、い、いちば、ん、た、食べ、な、慣れてるってんで、つ、つけ出汁と、い、一緒にお、お出しし、し、やして。そ、そしたら、は、端っこ、を、ちびっと付けただ、だけなの、に、『しょ、しょっぺえ、なぁ!ど、どないして、こ、こう、あ、東のつゆは、う、うどんも、そ、蕎麦とか抜、抜かす、よ、ようわからん食いもん、も、ま、真っ黒で、さ、魚臭そうて、しょっぺえもんばっかな、なんや、ド、ドアホ、がァ!』て、ど、怒鳴られ、や、やし、てーー」
 両腕を交差させて震える我が身を抱き、怯える伴吉に反し、
「アァッハッハッハッハッハッハァ! 昔のあたしまんまじゃねェかィ。そうなんだよォ、江戸だけじゃなしに、東の汁物(もん)ァどこ行っても、醤油の味しかしねェんだよなァ! 出汁は昆布じゃなしに、鰹節だしだから、今は何ともねェけど、初めはもォ魚臭せェったらなかったしよォ!」
 腹を抱えて、戀夏は呵呵大笑した。
「ーーそれで、そのお人は?」
 滅黯が、軽く口角を上げて訊ねた。
「へ、へぇ·····そ、そ、それが、そ、そ、の····」
 緋砂が桜乙に向かって軽く顎をしゃくると、しかめっ面で出汁をつけずに、鱧の天ぷらをもそもそ食していた、その串を奪い。
 鱧の天ぷらが二本刺さり残ったそれを、自分のつけ出汁にどっぷりと浸し、串を横咥えにして頬ばった。
 つけ出汁に浸された鱧の天ぷらをむっしむっしと咀嚼し、それをますについだ七本槍で一気に流し込むと、ぷはぁと息を吐き。
 右手の甲で口元を拭うと。
白地に紫紺の鹿の子の褞袍を羽織り、その下に木蓮色地に砂色の毘沙門亀甲の着流しをまとった、庇髪の男ーーハヤニエの左頬に、桜乙が拳を喰らわせた。
 地面に転がるハヤニエののど元に、軽く裾をまくって下駄履きの右足を乗せると、
「自分、うちらの店にお客が来はって、あんた自慢の牛尾(うしお)汁(=テールスープ)飲んで、味薄いて文句言われたら、お客に帰れて怒鳴りよるんか? あン?」
「や、やめぇや、桜乙·····堪忍しとぉせ!」
「じゃかましい! こんならちゃら梅と笙連れて来た方が、まぁーだよかったわい!」
 ガッコンガッコンと鈍い音を立て、両足に履いた下駄の歯、合わせて四本で。
 ハヤニエの顔面を、左右交互に蹴り転がす。
 ーーその際にめくれた桜乙の裾から覗いた、左眼を短刀で貫かれた女の生首。
 その下に、満開の牡丹。
 片方の足には、餓者髑髏を大将格にした、無数の屍と妖怪絵図。
 あまりに恐ろしい光景だったが、その下地たる桜乙の真っ白な、細身に見合った少しめ太くない両腿に恐ろしいほど、なまめかしく映えていたことを。
 こればかりは、伴吉は口にしなかった。
 というより、伴吉の極度の純情さに、出来るはずがなかった。
 ーー話は戻り。
 しかし、ハヤニエも黙ってはいなかった。
「ア、アホか桜乙! あないな癩上がりのガキ連れて来たかて、味なんぞわかられへんやろが!」
「あ、あの、お、お止めし、し、てください、ひ、緋砂さ、さん!」
 伴吉は血相を変えて頼み込むんだが、
「えぇねん」
 その一言だけだった。
 完全に他人事で、不穏極まりないその場に不釣り合いなほど、実にしっとりとしたたたずまいで。
 甲賀の銘酒・七本槍を、海鼠色の透き通った蒼にたゆとう七本槍を、ゆったりと味わっていた。
「味なんぞわかられへんでも、あいらなら『めっちゃしょっぺえわ、めっちゃしょっぺえわ』て、失礼言(ゆ)うたかて『せやけど飯が進んで、めっちゃ美味いなぁ~!』ちゅうて、笑ろうて楽しそぉに美味そうに食いよったわい。だいたいなぁ、今晩ここん屋台に来よったんは、上方のうちらがどないしたら江戸の者に受け入れられる味調べしよるためやったん、忘れたんかい!」
 ハヤニエは、はっ、と何かに気づいたような表情を見せたが、時すでに遅し。
「あないなふくれっつらして食われる鱧の身にもなってみんかぃ!ボケ、カス! 博打で身ィ持ち崩しよった板前くずれのダボがぁ!」
 ひッ、ひッ、と。
 声にならない声をもらし、身動きが取れなくなりそうになった伴吉に、緋砂がつぶやいた。
「主ーーいや、伴吉はん。遅ぅなったが、わて、まだ何も注文しとらへん。まだ間に合いやったら、こん屋台で一風変わり種の串、頼むさかい。えぇか?」
「へ、へ、へい! あ、あの、そ、それでや、やしたら、青ネギとあさりのぬ、ぬたの、て、天ぷらな、なんぞ、い、いか、がで、や、やしょう?」
「えぇな。それ頼むわ」
「へ、へい!」
「この間なぁ、深川鍋ちゅうもん初めて食いよったんや。東やと青ねぎ使わんし、あさりの剥き身も上方やよう食わんーーせやけど、あないな美味いもんが出来上がりよるとは、思わんかったで」
「ふ、深川な、鍋、食ったんで、ですかい。あ、ありゃ、あっしのお、おふ、おふくろの、あ、味、な、なんで、さぁ。で、でも、京の、し、白味噌てぇのは、ず、ずいぶん、あ、甘い、て、は、
話でーー」
 それから、ぬたを揚げた串を提供すると、緋砂はほんの少しだけつゆ出汁につけただけで、あとはさも美味そうに食ったという。
「伴吉はん、一杯どないや?」
「も、申し訳、あ、ありゃあせん、は、恥ず、恥ずか、かしながら、あ、あっしは、お、男のくせに、げ、下戸でやんして、い、一杯も、の、呑めやせ、せん」
「男やのに下戸やから恥ずかしいなんて、誰が決めよったんやいな。うちとこの桜乙なんぞ、酒入りよったら、うわばみ娘の喧嘩上等のじゃじゃ馬通り越して暴れ馬や。見たやろ?あれ、股の下から足首までびっしり刺青彫っとる。下戸ちゅうと、甘いもん好きか?」
「おまはん、ホンマ可ぁ愛いらしいなぁ」
「う、はぁ」
 同性ながら、女形のような美男に微笑を向けられ、伴吉は真っ赤になった。
「なぁ伴吉はん。物は試しや。同じ食い物の商いしとる者(もん)、それも食の常が違う土地柄同士、ものは試しやーー」
 こうして、
【こいたき】と【花散里】は、業務提携するに至ったーー。
「そ、そんで、あ、あっしは、し、蜆のつ、佃煮。は、花散里屋の、ひ、緋砂さんか、から、は、きょ、京の、な、生八ツ橋とか言う、か、菓子折り、い、頂き、やして」
「生八ツ橋ィ!?」
 いきなり、戀夏が声を張り上げた。
「え、と。あっしは、は、初めて、く、食いやしたが、こし餡に、抹茶餡に、白餡の、や、柔らかい……」
「うっわー、生八ツ橋。あれ美味ぇんだよなぁ~。甘くて柔らけェ米粉の皮にニッキが効いててさァ。あたしは抹茶皮にこし餡包んだのが好きだったよ。んっは~、久しぶりに食いてェなァ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「·····あのぅ·····」
  突然聞こえた、酒枯れしたその抑揚のない声に、戀夏、滅黯、伴吉が、一斉に声のした方に顔ごと視線を向けた。
 裾と左右の袖口の厚みがすり減った、蘇芳香の縞木綿の着物。
 一重太鼓結びにした、色褪せた梅染色の帯。
 左右の耳の上の鬢がほつれにほつれた深川髷。
 土の色が全体に薄く染み込んだ、青い蚊屋釣草が染められた、手ぬぐいを頭からかぶり。
 その端を唇に薄く食(は)んだ、薄汚れた、夜鷹が立っていた。
「あんだコラ、客が取れねぇで物乞いしに来やがったかよォ、夜鷹ちゃん」
 「·····」
 露骨に敵意をあらわにした戀夏に対し、夜鷹は無言だった。
 ーーそれは、今から十年前。
 とうに処女ではなくなり、齢に不釣り合いな豊満な肉体を持っていた戀夏は、身売りしながらの流浪の果てにたどり着いた江戸に来て間もない、十四の歳。
 その身ひとつで生きるため、夜の路地でこれまでのように身売りして生計(たつき)を立てようとしていた。
 しかし戀夏は、江戸の夜鷹なる夜の街娼の存在をまったく知らなかった。
 戀夏の身売りのやり口が夜鷹なる最下層の売春婦達とまったく同じだった上に、ある晩、夜鷹集団の縄張りに足を踏み入れてしまった。
 江戸夜鷹特有の集団制度。
 縄張り意識の強さ。
 火の着いた線香を使っての、縄張り荒らしに対しての、拷問と同等の、女性器をズタズタにして二度と使いものにさせなくする集団私刑に合う寸前。
 あまりの恐怖から、戀夏の異能力たる怪力に開眼かつ覚醒したのだ。
 首領たる大年増の夜鷹が立て続けに口にする、火を点つけた線香による、乳首や女陰焼や、剃刀を使っての女陰削ぎという、無数の無残極まりない私刑を提案し、子分らに指示した女首領の両足首をつかんで逆さにし、その勢いのまま、彼女のへそまで股裂きにし、止めを刺してしまったのである。
 あげく、あまりに唐突な形成逆転に身動きが取れなくなった夜鷹達を、戀夏は無我夢中のまま殴る蹴るし、激しく泣き叫びながらその場から脱兎の如く逃げ出したのだ。
 戀夏の記憶にはないが、その夜鷹集団の半数近くは、半殺しの目に合わされていた。
 ーー両耳を顔の真横から引きちぎられた者。
 ーー髷を頭皮ごと引き剥がされた者。
 ーー頭が真後ろを向いた者。
 ーー鼻を粉砕骨折され、大量の鼻血を噴き上げながら地に倒れ伏した者。
 ーー腕や足の関節を、あらかた逆向きにへし折られた者達が、無数。
 ーーここまでされれれば、実際に被害を被り、泣き叫びたかったのは、明らかにその夜鷹らとその残党達の方だろうがーー
 その出来事のせいで、戀夏は夜鷹を激しく嫌っている。
「姐さん、お止めなせぇ」
 滅黯の小声の制止に、戀夏はケッ、と小さく呟いて、そっぽを向くや否や、生の焼酎をなみなみと湛えた猪口から、中身をがぶがぶとあおった。
 その間に、半吉は昼から夜までの客の残り物を取っておいた筍の皮の包みを、縦横に紐で結び、手渡した。
 夜鷹はそれを受け取るや否や、無言で深く半吉に会釈して、足早に去って行った。
「っだよ、あの夜鷹ァ。食い物恵んでもらって、礼のひとつも言わねぇでよォ」 
  いつの間にか、真っ白な右掌の人差し指と親指で、雁首が六角柱の如心の煙管を。
 羅宇の下部ではなく、小口の手前を人差し指と親指で挟んだ完全な博徒の持ち方で、煙草を吹かしていた戀夏が、紫煙を吐き出すとともに、悪態をついた。
「す、すいやせん、あ、あ、あの方、お、おるいさんて、よ、夜鷹で。く、首に、ちょいと……」
「え?」
 すでに姿を夜の暗闇の中に消した、おるいなる夜鷹の去った方向に、何故か青海波の手ぬぐいで覆った盲目の両眼を向けていた滅黯が、反応した。
 ーーはぁ、はぁと息を切らしながら、おるいが駆け込んだ先は、朽ち果てた廃神社の周りを取り囲む、六尺近くぼうぼうに雑草が伸び放題に伸びた、叢の中だった。
 そこで、伴吉から施された、屋台の客の残りものを、十爪に泥土がつまったひびだらけの右掌で、ガツガツと貪り喰らった。
 精進揚げも天ぷらも、それ以前に、具が何であろうと関係ない。
 ただ、この空きっ腹を満たしてくれるのならーー。
  ようやく人心地がつき、包みをその場に放り捨て。
 昼は隠れ家、夜は商いの場にして寝床たる廃神社に戻ろうとしたその瞬間。
 背後からいきなり襟首をつかまれ、そのまま砂利道に引きずり出され、勢いよく地面に左半身を叩きつけられた。
「……うっ、ぐ……」
  自分の身に何が起こったのかなどわかるはずもなく、ただ右半身に突然襲いかかった鈍痛に呻きながら、かろうじて上半身を起こすや否や、吊り提灯越しに、三本の蝋燭が辺りを照らし出した。
「おめぇ、夜鷹だな。あのども吉の天ぷら屋の、施し受けてやがんのかぁ?」
 若い男女の三人組が、おるいから見て幅の狭い逆三角に陣形を組み、それぞれが手にした提灯の中に、太い蝋燭を差している。
 先頭に互一。
 右後ろに実花。
 左後ろにお香だ。
「ケッ、何でェ何でェ、最近の若造は年増の夜鷹一匹いたぶって、女の前でイキって見せようってのかィ!? あっちもヤキがまわったねェ!」
 予想外の反応に、互一は思わずたじろいだ。
 夜鷹は懐から匕首を取り出し、 刃を上に、鞘を右手で横向きに構えた。
 そのドスの効いた酒枯れした声に、情けなくも互一は怯んだ。
 背後にいる実花は、すでに内股になった両ひざが笑い、無意識に握った左拳を、口に当てている。
 わずかばかりの灯りの中、博徒の悪友から習った短刀の使い方を奮うべく、鞘を両掌で握り締め、
提灯を脇に置き。
 ようよう立ち上がろうとしている夜鷹ーーおるいに突進して行ったが。
 完全に舐めてかかっていたが故に、粗末な下駄しか履いていないおるいの爪先で、左のこめかみと、同じく左の顎関節の間に、恐ろしくバネの効いたまわし蹴りを入れられると。
 互一は、あえなくその場に仰向けに倒れた。
 砂利道でしたたかに後頭部を打ちつけ、げっぷのような音を漏らすと、舌を突き出し、左右の口端から泡立った唾液を垂れ流した。
「ご、互一っつぁん!?」
 手から取り落とした提灯が燃え盛るかたわらで地べたにへたり込み、今は左右の拳を口に当て、全身を瘧のように震わせている実花に顔を向けた。
「何でェ、そこのギザギザ分け目の派手な嬢ちゃん。こォんなヘタレの女だったのかィ」
「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 許してください、許してください!」
 実花は泣き喚きながら、その場に上半身を伏せ、土下座しようとしたが、左右の腰に両掌を当てたおるいの履いた下駄の前の歯を、口腔の両奥歯まで押し込まれ、制止された。
 ーー上からは青い満月の月光に照らされ、下からは互一と実花が手にしていた提灯が燃える赤い炎に煽られたおるいの顔は、頭に手ぬぐいをかぶり、ほとんどよく見えなかったものの。
 おるいが自ら手ぬぐいを外し、ほつれ切った髷をほどくや否や、ゆるく波打った長い髪が細長い蛇の群れのように、両肩から腰まで滑り落ちた。
 そのとき初めて、ふたりはおるいがその首に、入念に晒しを巻いていることに気づいたが、その理由を問い質す間も、ひっぺがす余裕もなくなっている由もなくなっていた。
 その瞬間だ。
 おるいは突然下ろした髪を両掌に握り締めて胸の前に垂らし。
 粗末な縞木綿の着物の前をかき開き、後ろ向きになって両袖から両腕を抜くと、
 あちこち弛んではいるが、三十路過ぎの年増の豊満かつ熟成した肉体のその背中には。
 粘い網目状の巣に六本の脚をがっちり這わせた、黄色と黒の毒々しい色合いの女郎蜘蛛の巨躯が、背中一面に張りついていた。
 ーーそれはもちろん、刺青だ。
 その瞬間、実花は口に下駄の先を押し込まれた状態で、甲高い悲鳴を上げながら、失禁した。
 無害な虫も爬虫類も両生類も、すべて大の苦手な若い娘に、その刺青は視覚的にも精神的にも、あまりに刺激が強過ぎた。
「ふん、ヤッパ一本使えねぇヘタレ坊主に、小便臭いどころか、本物のションベン垂れのアマっ娘たぁ、よくお似合いだよ!」
 ーーしかし、最後まで怜悧なたたずまいを崩さず、最後まで威風堂々としたたたずまいで、事の成り行きを見守っていた、互一の背後に立ち、実花の左隣りにいた若い女が、つかつかと歩み寄ってから来た。
「お、お香の姐(あね)ぇ……」
「おぎょ、お香……ぢゃん、だ、だ、助じゅげ、だ、助じゅげ、で……」
 お香と呼ばれた、金髪かつ散切り頭の極端な短髪の女の両足に、互一と実花が涙に鼻水、唾液にまみれたぐちゃぐちゃの顔で、彼女の雷鳴轟く、龍虎相まみえる帯を前で結った、烏の濡れ羽色の左右の足首と裾に、それぞれすがりつき、ふたりはかろうじて肩まで身を起こした。
 しかし、お香は不敵を通り越し、妖女のような不気味ながらも妖艶なまでの笑みを、その鮮烈なまでの、切れ長で、長く濃い一重の双眸に烈火の如く灯した。
 袂から線香をひと束取り出すと、まだ燃えつきていない実花が手にしていた提灯に、六本の線香を抜き、上下に火を点けた。
 お香はわざと息で火を吹き消すと、実花の襟を開き、晒しを巻いていないまっさらな上半身を夜気に晒すや否や。
 何本もの細い縫い針の穴に釣り糸を通して繋ぎ合わせ、下から針の先端を一寸ほど突き出した特製の線香を、左右の乳首に突き刺した。
「イイギヤアアアアアアアア゙ア゙ア゙アア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!」
「さ、次はおめぇだよ、互の字」
 袂から取り出した、幅一寸、長さ四寸弱の、芯の通っていない、両端を丸くした蝋燭。
 それを、ほとんど身動きの取れない互一から身ぐるみを剥がし、褌まで剥ぎ取り、全裸にした。
「互の字よぉ、情けねぇったらありゃしねぇなぁ、あんだけ大口叩いといてドス握っときながら、握っただけでお終めぇだ。クソの役にも立ちゃしねぇ!」
 お香は、砂利道に転がった、鞘から抜いただけのさら(新品)の互一の短刀を手に取ると、彼の腰から帯を引き剥がし、それで素早く襷がけをした。
 彼の襟首をつかんで近くの楢の木の幹に、その身を引きずり上げ、上半身と背中を密着させた。
 脱力した両腕を持ち上げ。
 互一の両掌を外側にして右足の裏で押さえつけ、重ね合わせるや否や、帯の中から金槌と、数本の五寸釘を取り出した。
 釘を口に咥え、両掌の真ん中に狙いを澄まし、二本の釘の先端を当てがうやーー。
 金槌でガッゴン、ガッゴンと幹に打ちつけた。
「アギヤア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!!!!!」
 血飛沫が飛散し、返り血となって、お香の金髪から、美しく透き通った白い顔、両腕を汚す。
 激痛と恐怖のあまり、完全に幼児並みに萎縮し、縮み上がっている互一のしなびた竿を握り締めると、
お香は内側に琴爪形の暗器もどきを嵌めた手で上下にしごき初めた。
 初めはゆっくりと、緩慢に。そしてじわじわと、性急に。
 しかし、互一のイチモツはいっこうに勃たない。
「何でぇ、このフニャチンがよぉ。金玉も金玉だよ、お稲荷さんどころか、ただの油揚げじゃねぇかぃ!」
 かろうじて意識を保っている、いや、保たされている互一にとって、恋人の実花を含めた三人の女の前でのこの仕打ちと暴言は、互一の男としての自尊心を、木っ端微塵に打ち砕いた。
「やべでよ、お香ぢゃん、あだじ達、友達でじょ、仲間でじょ、やべで、やべで、やべでぇよぉぉ」
 自身もお香から与えられた、唐突な責め苦にのたうちまわる中。  
 実花が身をよじらせ、涙と鼻水を垂らしながらのひどい鼻声での必死の訴えにーー。
 お香は、実は鉄下駄であった自分の履物の裏で。
 実花の顔面を、太腿の付け根が剥き出しになるほど高く左足を上げてから、全力で踏み潰すことで、返事に変えた。
 「女陰焼きってのはねぇ、本当はじっくり時間をかけてまんこの中まで焼くんでぇ。てめぇはそん代わりに、尿道焼きにしてやるよ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 あの両端の丸い蝋燭をじゅるりと口に含み、潤滑油代わりの唾液まみれにすると。
 お香は異物を挿入される身体反応としての反発たる圧を無視して、蝋燭を互一の尿道に、一気に根元まで押し込んだ。
 そしてまたその尿道に、自身の女たる実花と同じ造りの線香を挿入したのである。
 決して抜くことの出来ない精密な責め苦が急所に与える、拷問を通り越した立て続けの責め苦に、互一は失神していた。
「……あんた……あんた……何してやがんでぇ!?」
 両の拳を震わせ、それまでのいきさつを見守るしかなかったおるいが、声の限りに、辺りをはばからぬ胴間声を上げた。
「俺っちにとっちゃ、ただのチンカスとマンカス以下の、世間を舐め腐ったどうしようもねぇクソガキどもだけどねぇ。仲間じゃねぇのかい、このオスガキとメスガキ達ゃあ!」
 激昂するおるいに、お香は、
「仲間ぁ? そんな上等なもんじゃねぇよ、こいつらは。だいたいが、こいつらだってあていを仲間なんて思っちゃいねぇさ、あたしは体(てい)の良い金づるさね。だからこそなんだよ、てめぇにちょっかい出させたのよ」
「はぁ? だから何で俺っちなんだい! 俺っちぁこのガキどもに施しなんぞした覚えもないけどねぇ」
「こいつらぁ、ただの手駒さね。だから頭ぁすっからかんで充分だったけど、ここまでバカで使えねぇたぁ、思わなんだよ」
 お香のその発言に、互一の手から奪い、彼の帯を斬り離し。
 急拵えの襷がけをってからずっと、境界線のようにお香とおるいの間の地面に突き刺さっていた短刀を左手で引き抜くと、自身の護身用にして愛用の匕首を両掌に握り締め、お香に突進していた。
 その間、おるいの心中を占めていたのは、ただ殺意。
 殺意。
 殺意。
 殺意。
 殺意。
 殺意。
 殺意と、わずかばかりの、けれども凄まじいまでの憎悪。
 それだけだった。
 しかしーー。
 お香は我が身に襲いかかって来た二本のわずかな刃物の先に両足を乗せ、夜空に高く舞い上がった。
 そして、両腕でその身を両ひざを抱え、空中で軽々ととんぼ返りすると。
 右足の爪先だけで着地し、おるいからわずか二尺先に着地するやや否やーー。
 その白くしなやかな若い裸身の背を、剥き出しにした。
 それが煌々とした満月の蒼白い光に、くっきりと照らし出されると、
「…………!!」
「ーー毒も持っちゃねぇ、デカくてケバいだけの蜘蛛になんざ、用はねぇのさ。これからあの女の蝮を含めて、三竦みの取り合わせになる、あんたの新しい彫り物と、もう二匹の彫り物(もん)はーー……」
 おるいはお香と同様、上半身を夜気に晒しながら、血の気の引いた顔で、その場で気を失い、ゆっくりと倒れ込んだ。

 
 
 
 






 
 
 
 




 

 
 
 

 

 
 
 

 
 

 

 

 

 

 
 
 
 


 
 
 
 

 



 
 






 



 
 

 

 




 


 
  

 



 

 
 
 
 
 
 



 
 
 



 
 
 


 

 

 
 
 
 

 


 
 


 














 
 
 



 
 
 
 
 
 

 
 



 

 

 
 
 
 
 
 
 

 




 
 
 



 

 
 

    
    
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