天誅殺師 天誅殺参ノ件(くだん) 【短篇・中篇集】

比嘉環(ひが・たまき)

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惨劇ノ参事⑵・第捌章《屍肉に咲く呪花・腐れ首提灯の罰》(完)

拾参之罰「新谷淫獄変」ー外道達の狂宴ー

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「ただでさえ、うちとこは大所帯なんえ。『千土の堤も蟻の一穴より崩れる』なんちゅうことになりよったら、自分、どないしてくれんねん」
「千土の何ちゃらと蟻の何ちゃらは知りまへんが、蟻の戸渡りとミミズ千匹なら知ってはります」
飆は平然と三女の撫子に、幹部に対する物言いとは思えない言葉で返した。
「つ、飆、何言うとんのん!?」
 顔を真っ赤にし、相方のお雪が両頬を左右の掌で覆った。
 鬼眼は堪え切れずにぐぶっ、と噴き出し。
 然と蜷の兄姉は、かろうじて両肩を震わせ、耐えていた。
(ちい哥ぃ、笑たらあかん、て·····)
(しゃ、しゃあないやんか·····)
 左隣りに座している蜷が、左掌で口をふさぎ、軽く鬼眼の左ひじを突ついたが、却ってそれが悪かった。
 鬼眼がぐぶひゅっ、と奇矯な声を発してしまい、然は歯を噛み締め、蜷は下唇を噛んで両足の太もももに爪を立て、さらに笑いを押し殺さねばならない羽目になった。
 しかし百助と錠は、何故兄姉達がそうまで笑いを堪えているのか意味がわからず、きょとんとしている。
「飆ぇ! ぶち殺したろかワレェ!」 
 激昂した撫子が右ひざを立て、自身の暗器たる短刀を納めた、淡紅藤地に濃い梅紫色の、矢絣柄の細長い袋を収めた懐に、右掌をかけた。
「ほなら、わてとこのお雪と殺り合うて下さりはるんがよろしいかと」
 その場に居合わせた者全員が、飆の言葉を理解出来なかった。
「飆、自分、何抜かしとんのや?」
 女郎花が、刺すような鋭い口調で問うと、
「その心は。京女が短刀持って『これはドスどす』にあらしゃります」
 鬼蒜月の末の双子の兄弟達も、これには噴いた。
 だが組み方のお雪はいたたまれず、真っ白な肌を真っ赤に染め、困惑するばかりだった。
「撫子、飆。ええ加減にしいや」
かたん、と姆々代が筆を置き、配下の者達に向かい、振り返った。
「せやかて姆々姉ちゃーーいえ、屍ノ御前様!」
「そや、こないなアホ、一度図に乗せよったら、天井知らずの輩ですわ。一度きつう締めたらんといかんのと違ゃいますか」
 自身に鋭い眼をくれる女郎花の言葉に、飆はわざとらしく、我が身を抱き締めて怖がるそぶりを見せた。
「ーーあんなぁ女郎花、撫子。自分らは《惨討狩り》のために遥々遠征して、難儀な役目ぇ果たして帰って来よったちゅうに、誰にも労いの言葉ひとつかけてへんやないか。そんでも、弐拾七代目の側近かいな」 
「長姉のわたいが弐拾七代目屍ノ御前になりよって、側近の幹部に昇格したかて、自分らは今までどおり一介の殺女に過ぎんて、何度も言うとるやろが」
 その口調は、決して怒ってはいない。
 実妹達を含む部下を同等に 諌める、女にしてはやや低めの声が、しんと静まった地下に響く。
 首からかかった、黒瑪瑙に十明王の金の梵字入りの数珠をかけた姿を配下達の前に見せ、姆々代は灰青色の羽織りに袖を通さず、両肩にかけた。
「せやけど飆、自分も悪いで。これ以上はいわんといたるが、もちぃと場を弁えんかいな」
「へ、へえ·····えろう申し訳ありまへん、屍ノ御前様……」
「ほな、飆はこれで終いや。のうお雪、河内般若どもが、めっちゃゲスな悪事働きよったあの根岸なる土地の庭に咲いておったあの黒百合全部、わたしに捧ぎぃな。ほんだらこのアホの発言は全部ちゃらにしたる。ええな?」
「!?」
「し、屍ノ御前様、そりゃいくら何でも、無理と違ゃいますか!」
「そなたの非礼を、組み方にも背負わせる。それが自分らに与えよる罰や、このドアホが」
 撫子が、吐き捨てるように飆に言葉をぶつけた。
「··········」
 逃げ場はない。
 これが、自身に与えられた罰なのだ。
(さて、どう出よる? 復讐代行商人【鬼来迎】が一組、洛中崇仁蓮角が片割れ、隠れキリシタンがモルガンお雪)
 休憩時に使用する、脇息に左半身をもたせかけ、娒々代は内心では、この状況を楽しんでいた。
 そんな元締の心境など知る由もなく。
 我知らず、お雪は着物の中に隠した伽羅の十字架を握り締めていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「元凶ォ?」
 戀夏が、根本を木桶の冷水に浸された黒百合に近づいた瞬間、
『カ、ア!』
 鳶の如き素早さで、太く頑強そうな爪が生えた両足で、それをがしっとつかみ、かっさらって行った。
「「あ!?」」
 「ーーありゃ、ヤタ殿でやしたね。ただの鳴き声じゃありゃあせんでしたぜ」
「あんだァ?」
「これでやすよ」
 戀夏も青髭もまったく気づかなかったが、縁側に座す滅黯の右爪先に、道端で拾ったと思しき小さな小石を包んだ半紙が、落ちていた。
 戀夏が真っ先に飛びつき、中身を開いた。
 そこには、上部に白雪の身に南天の葉の耳に、同じく南天の実のふたつの紅い瞳の雪兎が描かれ。
 同じ壁の穴から顔を出した鼠と肩を並べ。
 その前に、蝋燭の火が点った小さな燭台を左前足に持ち、牙を剥いて右前足から鉤爪を剥き出しにして、後ろ足で立った、長い二本尾の猫の姿が、描かれていた。
「ちょオ、この鼠と一緒にいんの、あの雪兎ちゃんかァ!?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ーー··········キィィィィィィィィーーーーンンンンンンン··········ーー

 という突然の甲高い耳鳴りに、うっ、と思わず左耳をふさぎかけたが、
(案ずるでない。我はあの按摩の師なり)
 ザザッ、ザザッと言う雑音に混じって、左耳のすぐ側で、聞き覚えのない男の声が聴こえ、戸惑ったのはほんの一瞬。
 あの按摩の師という言葉と、
(我の指示に従え。あの牛車の上の鏡から、あの浪人を飛び出させしは我が弟子に仕込みし術よ)
 間違いなく自分以外には聞こえていないと確信した声に、お雪は軽くうなずいた。
「それどしたら、屍ノ御前様。いくつか御用意してはりたいお品があらしゃりますーー」
 ーー隠してその場に用意されたのは、
 壱、割れても良い鏡二枚
 弐、お手玉三つ
 参、緊張のあまりからからに乾いていたのどを潤す水
 それだけだった。
(合わせ鏡の間に座せ)
 という、お雪にしか聞こえない指示に従って。
続けて、何でも良いから唄を唄いながらお手玉遊びを続けろと、さらなる指示を出された。
 ーー信楽焼の湯呑みに注がれた水を飲み干すと、お雪は唄いながらのお手玉遊びを始めた。

「♪この子よう泣く守りばいじる   
 守りもいちにやせるやら どしたいこりゃ 聞こえたか」

「♪ねんねしてくれおやすみなされ 親の御飯がすむまでは」

「♪どしたいこりゃ 聞こえたか」

「♪泣いてくれよな 背中の上で 守りがどんなと思われる どしたいこりゃ 聞こえたか」

 白銀の髪を三つ編みにし、結び目を胸の前に垂らし。
 その結び目は赤目の白兎のつまみ細工で飾られ。
 左右のこめかみより少し上に、白い蘭に擬態した花蟷螂が髪飾りのように止まった白子の娘の姿は可憐で、さらに唄声は透き通るようで。
 場に居合わせた者達は皆、本来の目的を忘れ、その唄声にじっと耳を傾けた。
 
 ーーそこまではただ、お雪が「竹田の子守唄」を唄いながら、三つのお手玉をぽしゃぽしゃしているだけだったが、二番目の歌詞に入ってから、様子が変わり始めた。
 三つだったお手玉が四つに。
 四つが五つに増え、五つが六つに増えて行く。
 かと思えば六つが三つに戻り、四つがふたつに減る。
 五つがひとつ、ふたつが六つ。
 飆を筆頭に、鬼蒜月の五兄姉弟達、女郎花に撫子らが、その異様な光景に、思わず眼を奪われた。
 しかし。現、屍ノ御前こと娒々代だけが微笑を浮かべ、平然としている。

「♪寺の坊さん 根性が悪い 守り子いなして 門閉める どしたいこりゃ 聞こえたか」
 
 ーーぴき、ぱき、と。
 お雪を挟んだ二枚の鏡に、次第に稲光のようなひびが入り始めた。

「♪久世の大根めし 吉祥の大根めし またも竹田のもんば飯ーー」
 
合わせ鏡のひびが、いっそう広がる。
 そこでお雪は、すぅと軽く息を吸い、吐いた。

「♪盆が来たかて 正月が来たて 難儀な親もちゃうれしない どしたいこりゃ きこえたか」
 
 ぴきぴき、ぱきぱきと、合わせ鏡のひびがさらに広がり、稲光に似ていたそれが、瞬く間に蜘蛛の巣状に密集して行く。

「♪見ても見飽きぬ お月とお日と 立てた鏡とわが親と どしどしたいこりゃ きこえたか」

「カラス··········?」
 お雪の後ろ側の鏡の中から、何か太く黒い物体が、ガンガン鏡の内部を突ついているのに、百助と錠の双子だけが気づいた。
 
「ガ、ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」

 ーー『神』『阿』の二文字が、場に居合わせた者らの脳裏にはっきりと浮かび、すぐさま消えた。
 嘴太鴉の嘴が鏡をバリン、と突き破ったのだ。
 ーーその瞬間、お雪を挟んだ二枚の鏡が粉々に砕け散った。
 
「お雪ぃーーっ!?」
 真っ先に、組み方の飆が叫んだ。
 しかし、尖った破片となって辺り一面に散乱するかに思われた割れたそれらは、予想だにしない姿へと変じ始めた。
 まず、お雪の後ろにあった鏡の破片は、まんべんなく砕かれた砂となって宙に浮き上がり、その形を変えて行く。
 前側の鏡はふたたび鏡として再生し。
 そこから墨染めの僧衣をまとった、比較的若い男の右掌に握られた黒百合が、根岸の寮の庭に咲いていた分がすべて、正座した娒々代の顔の前に突き出された。
 
「ぎゃーー!! 何やの、鏡ん中から腕が出よったーー!!」
 鬼蒜月の紅一点にして第三子の長女、蜷が悲鳴を上げた。
 
「♪早よも去にたい あの在所こえて 向こうに見えるは 親のうちどしたいこりゃ 聞こえたか··········」

 唄い終えたお雪は、ふたつに戻ったお手玉を左側に置き。
 上半身を伏せ、その状態で、ひっそりと顔の前で十字を切った。
 
 娒々代が黒百合の束を左掌にしっかり受け取ると。
 僧侶らしき者の腕が突き出た、前方の鏡は元通りになった。
 その前に顔を置いた者の姿そっくりに、そして字を逆さに映す、ごく当たり前の、ただの鏡に戻った。

「♪·····いちじく にんじん さんしょに しいたけ ごぼうに むくろじ ななくさ はつたけ きゅうりに とうがん·····」
 
 鏡の中から、人の手と墨染の衣の袖口とともに現れた切り花の黒百合を、娒々代は数え唄で数えて行く。
 合わせて、十八本の黒百合の切り花であった。

「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、や··········ふむ、しかと十八本揃うとるで、お雪。かの六と六と六の和とおんなしやなぁ」
(ーー!)
 気力も体力もほぼ使い果たし、朦朧としていたお雪がはっきりと意識を取り戻すのには、その一言で充分過ぎた。
 666ーー悪魔の数字。
 しかし今この場で、娒々代が何故そのことを知っているのか。
 間違っても、それを訊ねるわけには行かなかった。
 お雪はただ、娒々代の前ににじり寄り、土下座畳に上半身を伏せ、感謝の言葉を述べた。
「きょ、恐悦至極に、あ、あらしゃりますーー」
 そのとき、娒々代の文机の左右の端に、濃い涅色の、だが中身が薄く透けたギヤマンの花瓶が、仏像の形となって置かれた。
 中には花瓶の底から湧き出した、新鮮な水が湛えられている。
 ーー仏像は、文机に座す娒々代から観て、右に不動明王、左に愛染明王。
 ふふっと軽く笑いながら、娒々代は、その花瓶に一本ずつ黒百合を挿した。

「飆。自分が【洛中宇治硯緋雨】(らくちゅううじすずりひさめ)が屍遣いの華里(かり)と伊毬(いまり)に頼みよったんは、とぉにわかっとるんやで。屍の腐れ止めと、役人が何度回収しよったかて、何度でも五条大橋の欄干に戻す術をなぁ」
「はぁ、それがどないかしました? わては何もあかんことはしとりまへんえ」
「そん通りや。自分は【鬼来迎】の掟ぇ侵すこっちゃ、何もしとらしてまへん。せやけどーー」
 娒々代が飆に右手をかざした瞬間、飆は言葉を失った。
 常に上下に金の鋲を打った、口周りを隠す黒革の覆いの左内側に忍ばせている、剥き出しの剃刀が、挟まれていたからだ。
「わたいの特技はな、拷問尋問だけやない。ちぼ(=掏摸)もや。顔ン近くに手ぇ伸ばされよったのに、何も気づかんかったんかいな」
 鋭い剥き出しの刃物という、ものがものだけに投げつけられることはなく、剃刀の刃は飆の座す畳の上にそっと置かれた。 
「自分、そないな甘っちょろさで、一丁前に【鬼来迎】の商人名乗っとるんかい。アホンダラ!」
 飆は慌てて、それを本来の収納場所である黒革の口周りの片隅に戻したが。
 お雪も飆も、内心では【屍ノ御前】なる地位に就く者と、自身らの能力とのあまりの差を思い知らされーー。
 ふたりの顔色は青ざめ、口は自ずとつぐまれた。

(·····? 何や妙やな、崇仁の連中······屍ノ御前様になんのかんのどやされるんは、ワシらの茶飯事やけど·····)
 鬼眼だけが、その違和感に気づいていた。
 ーー今、天井から見て、文机に背を向けた娒々代の上手に女郎花、下手に撫子が座し。
 女郎花の側に北摂堺鬼蒜月の面々が、撫子の側に洛中崇仁蓮角のふたりが肩を並べている。
 娒々代は、元通りになった鏡を左右両端の少し先に置いた。

「♪·····うーさぎうさぎ、何見てはねる 十五夜おー月さーん見てはーーあぁーーねぇーー·····る·····」

 娒々代が軽く唄うや否や、突然、鏡に映った瑞ノ江屋の地下内から、五条大橋の光景に変じた。
【河内般若】のふたり、ころがし梅弥と是之源の腐れかけの生首が、髪で結ばれて欄干にかけられている。
 捨て札も、そのままに。
 ーーいくら役人達が首を遠くに運び、どれだけ深く穴を掘って埋めようが、捨て札を叩き壊そうが、
翌日には首も捨札も、すべて元通りになっている。
 もはや役人達も、完全に為す術はなかった。
 だからと言って、毎日人だかりが出来るわけでもない。
 五条大橋を通る者達は皆が皆、そこを避け、顔をそむける。
 忌み場と化した五条大橋の欄干に、西陣織の着物、そして頭から紗の薄衣をかぶり、両掌でその襟をつかんで、橋の上に蹲踞している者がいた。
 口元を、鼻の上から垂らした布が、顎より長く顔の下半分を隠している。
「「あーーっ、於苑様や!」」
 百助と錠が揃って身を乗り出し、思わず異口同音に屍ノ御前最側近の【御記書御渡役】の名を呼んだ。
 その声が聞こえたとばかりに、鏡の向こうから百助と錠に視線を向けたかと思うと。
 於苑は、橋の上で数回ぴょーんぴょーんと裸足で飛び上がった。
 そして、小さな両足の左右の爪先だけを使い、その身を右へ左へ、左から右へ、繰り返し回転させた。
 それだけではなく、橋の上で上下に身を回転させてさえ見せた。
 瑞ノ江屋地下の面々が、思わずその光景に眼を奪われているとーー。
 鏡の中から、どこからともなく、重なり合った童女の唄声が聞こえて来た。

「「♪まる たけ えびすに おし おいけ あねさん ろっかく たこ にしき·····」」
 
 実に無邪気に楽しそうな様子で、豪奢な振袖を身にまとい。
 手を繋いだ、十かそこらの童女達が現れた。
 ふたりは梅弥と是之源の晒し首と捨札の前に立ち、じっとそれらを見つめる。
 ーーその様を、前後から通りすがる大人達が、ひどく不気味そうに横目でちらちら見やるが、誰も何も言う者はない。
 まったく同じ顔なのは当然で、ふたりは百助と錠と同じく、双子だ。
 ひとり目、漆黒に白い立葵の花と、常磐色の葉を全体に伸ばし、金襴緞子の帯は花流水矢に結び。
 ふたり目は、乳白色に紅赤の立葵。
 片割れと同じく、全体に常磐色の葉が伸びた着物で、金襴緞子の帯は文庫結び。
 よくよく見れば、足元は小鉤の着いた白足袋で両足を包み、鹿の子柄の鼻緒の浜下駄を履いている。
 漆黒の着物が、姉の華里。
 乳白色の着物が、妹の伊毬。
 一見すると、完全にどこぞの大店の娘達のような風貌だが、髪型が奇抜であった。
 華里は長い髪を左右にわけて高く結い上げ、帯と同じ生地で、先の四角い、六辨の花のように飾っている。
 伊毬は髪を頭頂近くまで結い、姉と同様に帯と同じ生地で飾っているが、太めの蝶結びにしているだけだが、その結び目から垂れた髪は、ひと束が一寸ほどの細い巻き髪で、根元からきつく巻かれて、それが無数の束になっている。
 ふたりが同時にその場にしゃがみ込むと、まず伊毬がすぼめた両掌を華里の左耳に近づけ、何やら内緒話を始めた。
 華里の耳から伊毬の耳が離れると、華里が左右の指先を口に当て、くすくすと笑った。
 すると、今度は華里が伊毬の右耳に、同じく内緒話の仕草をする。
 伊毬の反応も、華里とまったく同じだった。
 そのやり取りが数回続くと、ふたりは立ち上がり、向かい合った。
 顔を見合わせ、それまで気づかなかったが、どちらにも、左右の耳に直に穴を開けた、左右色違いの耳飾りが下がっていた。
 瞳を逆さにした形の純銀の枠内に、瑠璃と水晶が嵌め込まれている。
 正面から見て、華里は右が水晶、左が瑠璃。
 伊毬は右が赤瑪瑙、左が翡翠。
 双子は左右互い違いに耳飾りを交換し合うと、ふたたび両手を握り合った。

「♪し あや ぶっ たか まつ まん 
 ごじょう」
 
 唄い方こそ違えど、ふたりが始めた手遊びは、完全におちゃらかほいであった。

「♪せった ちゃらちゃら うおのたな」

 その瞬間、五条大橋の欄干に、本人の髪で吊り下げられていた梅弥の左眼窩から、三本の黒百合が飛び出した。
 眼球は視神経と繋がったまま、えらまでずるりと滴り落ち、ぶらぶらと垂れ下がる。
 それと同時に、口腔に押し込められていた、斬り落とされた陰茎が死臭を放つ茶色の泥水と化して梅弥の口からばしゃと滴り落ち。
 ーー内側から何かに押されるように飛び出した右眼が、ずるずると顔をつたい、人中を滑り落ちて行くと。
 ぎゅぼ! と異様な吸引音を立てて梅弥の唇で止まり、大きく開かれたその唇が、第二の眼窩と化し、外側からは唇が眼の形に変形し、内側は口腔いっぱいに、視神経が肉の根を張ったーー。
 
「♪ろくじょう さんてつ とおりすぎ」
 
 華里の、よく手入れされたほどよい長さの五枚の爪が突然一尺の長さに伸び、それぞれが極細の柳刃包丁のように変じるや否や、是之源の頭が、頭蓋骨ごと断たれ、左側に勢いよく吹き飛んだ。
 それと同時に、剥き出しになった脳髄から、五本の黒百合がぽん、と咲いた。
 
 そこでようやく、橋を渡る通りすがりの者ーー恐らく若い女が、凄まじい悲鳴を上げた。
 しばらく、周囲の者達は何が起こったのかわからなかったが、ややあっから、ざわめきが起こり、あちらこちらで金切り声が上がる。
 双子はふたたび顔を見合わせ、微笑み合った。

「♪しちじょう こえれば はち くじょう」

 シャキッ!と。
 伊毬の履いた、鹿の子柄の緒の下駄、右足側。
 その底の先端から突き出した、限りなく透明に近い、薄く鋭いギヤマン製の諸刃の暗器で、梅弥と是之源の鼻を凪ぐようにすらっと削ぎ落とし、ふたつの鼻孔に一本ずつ、黒百合が挿さった。
 残り四本の黒百合は、組み方の梅弥と逆に、右の眼窩から眼球を弾き出して。
 梅弥とお揃いに、三本の黒百合が咲いたーー。

「♪じゅうじょう とうじて とどめさす」
 既に大混乱をきたした五条大橋から、きゃははははっ!と手を繋いで、双子はそこから逃走した。

「♪とどめさす、とどめさすぅ」

「六と六と六の和の呪詛花、これにて花仕舞い。二本は、わたいの文机に飾っとくさかいなーー以上や、『散』!」
 『散』は解散の散。
 それと同じく、この件はこれにてすべて終い。終わったことには触れるな、二度とこの件に触れてはならない、の意である。
 その一言に、北摂堺鬼蒜月の五兄姉弟達、洛中崇仁蓮角のふたりは娒々代に向かって上半身を倒して深々と頭を下げ、皆一様に、娒々代に一礼してから、瑞ノ江屋の地下を出て行く。
 去る者の最後のひとりとなったお雪に、娒々代が声をかけた。
 ーー一度この部屋を出てすぐに頭を下げたら、二度と振り返ってはならない約定ゆえ、飆は気をもみながらも、お雪につきそうことは出来ない。

「ようやったのう、『モルガンお雪』キリシタンとやらは西洋の妖術も成せるんか?」

「!? 違ゃ、違ゃいます、あれはーー…………」

 お雪の身も心も硬直し、舌がもつれたその瞬間。
 筆耕の途中で、硯の右脇に置いていた小筆と、試し書き用に文机の右下に置いてある半紙がふわりと持ち上がった。
 小筆はわずかに墨溜まりに先端から墨を吸うと、
 さらさらと半紙に字を書き始めた。

【我、江戸八百八町に在す天誅殺師らが元締め、天狗浄眩黒羽(あめくじょうげんくろう)なる 有髪の生臭坊主也 其処な隠れ吉利支丹が娘御に術を施し、鴉を遣わししは、我と我の弟子にて候】

【我らは殺しはすれど 金は貰わず ただ人のうらみとすくい求む魂の意思と遺志を代行する者 其方(そちら)への敵意も悪意も皆無たるを御理解致したく 筆を取りし次第】

「ふん、江戸八百八町の天狗浄眩黒羽ーーかいな」

 半紙に書かれた〆の部分には、天狗浄眩黒羽の名と、その真下には、親指の血判が押されていた。
 
地下だというに、ガァ! という野太い鴉の鳴き声が、娒々代とお雪の耳に届いた。

「江戸の者の使いやな? せやったら、主によう伝えといてや。わたいらは上方の商いで手一杯で、江戸にはよう行かれまへん、自分らと関わる暇もありまへん、てなーー」
 その直後、ガァ、ガァ、ガァ……と、遠ざかって行く鳴き声が響いた。
「鴉の使いなんぞ、やかましだけや。うちとこの於苑みとうな可愛いらしいのがええ。東の者(もん)らは紫(=醤油)をぎょうさんぶち込んだ黒いうどんなんぞ喰っとるから、塩(しょ)っ辛いつゆでのど枯れよって、江戸の鴉もあないな汚いガラガラ声しか出せへんのや」
「あ、あの、屍ノ御前様、あ、あては、どないしたらーー」
「早よ帰り。向こうから、用が勝手に済みよったさかいな」
 お雪はもう一度、先ほどよりさらに深く頭(こうべ)を垂れ、地下から瑞ノ江屋の裏口を目指し、小走りに歩み始めた。

 ーーややあって、娒々代はふう、と溜め息にも似た息を大きく吐いた。
「……女郎花、撫子。自分ら、八つ時の菓子買うて来(き)ぃ。わたいはーー」
「いつもの道明寺やろ、娒々姉ちゃん」
 完全に、三姉妹の末っ子に戻った撫子が、無邪気に長姉に声をかけた。
「わかっとんなら、いちいち言いなやーーあぁ、わたいは、今日はお茶やのうて、桜茶にしてや」
「桜茶? どないしたん、お姉やん」
 女郎花の素朴な問いに、
「どないしたかてええやろ、気分や。わたいは基本、口を開くんも面倒臭い、蛤やて知っとるやろが」
「はいな」
 女郎花と撫子が、少しばかり髪を整えてから。
 花や果物の形の練り切りにしようか、葛饅頭にしようか、栗羊羹にしようか、うぐいす餡の鹿の子菓子にしようかーー。
 そんなやり取りをしながら、きゃいきゃいと、ごく普通の若い年頃の娘達らしく、近所の和菓子屋に出かけて行った。

「江戸は天誅殺師が元締め【天狗浄眩黒羽】ーーふふふ、なかなかおもろそうな奴っちゃ」
 娒々代が、姉妹の中でいちばん茶を淹れるのが上手い女郎花に、桜茶を淹れるよう指示した理由は、これだった。
 そして、娒々代は左顔の上半分、額、左眼、鼻、唇の上までを覆い隠す、狐の面を外した。
 その凛として端正な美しい顔の四分の一は、真っ青な痣ーー現代なら太田母斑と称されるものだがーーに、隙間なく覆い尽くされていた。
 ーーーーーーーーーーーーーーーー
 その日のうちに、五条大橋の吊るし首が眼球を弾き、鼻が削がれ、頭が河童の皿のように切られて脳髄が剥き出しになり、そこかしこから黒百合の花が咲いた話は、洛中一帯に広まった。
 刻は、酉の刻六ツ半。
 百入茶地に湊鼠の縞模様の着物に、蝋色の帯を引き抜き帯に締めた、素朴を絵に描いたような女が、カタカタと素足に下駄を鳴らしながら、五条大橋の前までやって来た。
 年の頃は十六、十七。
 湿った桶を持ち、手ぬぐいで襟足を拭きながら、いつもの湯帰りの道の、五条大橋を渡ろうとするがーー。
 昼間聞いた噂が脳裏によみがえり、思わず歩みを止めた。
  思わず眼を背けたが、右袖で視界を隠しながらその場所を恐る恐る眼を向けると。
 確かに、左右の吊るし首に、何か長いものが突き出しているーーかのように見えた。
 まだ桃割れの髪に、申し訳程度の櫛を差し、簪は平打ち一本という、若い京女にしてはかなり控え目な身なりだ。
 遠まわりするには、道がわからない。
 近道も、知らない。
 このまま五条大橋を一気に走り抜けるしかないか、と迷う中、娘の口が突然、背後から塞がれた。
(!?)
「お嬢ちゃん、せっかくの湯帰りやのに、すんまへんなぁ」
「違ゃうわ、岸(き)っしゃ。湯帰りの綺麗な身やさかい、ちょうどええやん」
「おっほ、石(い)っさん、自分頭ええなぁ」
 恐怖のあまり抵抗する術もないまま、娘はふたりの身から漂う悪臭で、すぐさま察知した。
 この辺りでは悪名高き要注意人物たる中年のお菰、岸兵衛と石正に菰で簀巻きにされ、連れ去られたのだ。
 五条大橋の袂に、あばら屋とも掘っ立て小屋とも言えない、すべてが拾い集めた簾、茅葺きの屋根、藁を敷きつめて出来た、かろうじて寝床と言える、綿が四方八方に飛び出した、ズタボロの布団が三分割されている、かろうじて寝床と言える穴蔵だった。
 穴蔵の中の真ん中に、袖は肩まで、裾はひざ丈までだろう、ボロをまとい、腹に薄汚れーーどころではなく、深く汚れた晒しを巻いて、あぐらをかき。
 履き古されたぶかぶかの襁(むつき)に似た短い股引を足首まで下ろし、真っ白く毛深い陰毛の中からそそり勃った巨根を、自身の両掌で上下にしごいていた。
「濵の与助爺っつぁん、連れて来よったでぇ、お・な・ご」
 その瞬間、娘は恐怖と絶望に腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
 濵の与助は、近隣に住む者なら知らない者は居ない、性欲だけが残った、淋病で痴呆の老乞食だ。
 その証拠に、先走りの我慢汁ではない、精液がだらだら滴り落ちている。
 岸兵衛が茶色に染まったボロ切れ同然のほっかむりを外し、真ん中て、ふたつ結び目を作り、
 それを猿轡代わりにし、娘の口を塞いだ。
  寸分の間も置かず、石正が娘の腰巻と着物をたくし上げ、掌中に収めていた荒縄で、幾重にも縛りつけた。
「与助の爺っつぁんの病気が伝染(うつ)るんは、何ちゅうてもかんにんやさかい、わてらが先に犯っとるんやで、お嬢ちゃん」
「石っさん、こん間は自分が先におめこの方ハメたやんか。せやから今日はわてが先におめこでしよって、石っさんがケツやでぇ?」
「わぁっとるって、いちいちーー……?」
「どないしたん、岸っしゃ。ん、何や?」
 いつもこうして下半身を剥き出しにし、捕縛し攫った娘を挟んで。
 前からは両ひざの裏を持ち上げられ、両足を股関節の限界まで押し広げられ。
 後ろからは、太ももの付け根を両腕でがっちりと固定され。
 その体制で、五条大橋の下で前後の穴を同時に貫き、犯す。
 そして岸兵衛と石正に両穴責めにされ、前にも後ろにも膣内射精(なかだし)して、すべての気力を奪ってから、濵の与助に屠らせる。
 この犯り口で、これまで下は数えで九つの幼女から、三十路の女まで、どれだけ犯したか。
 娘を五条大橋の下に連れ込んで、さっさと浴衣を引き剥がして全裸にし。
 いつもの体位を決めようと、したその瞬間ーー。
 岸兵衛と石正の肩が、後方からとんとん、と。
 感触からして、細い指に突つかれた。
 本能的に、ふたりが同時に振り返ると、
「「ばぁっ!」」
 橋の欄干に両足を絡ませ。
 逆さになって提灯を垂らした童女ふたりと、視線がかち合った。
「「五条大橋六条河原、賞金首ども、見ぃ~つけはったでぇ~♪」」
 きゃははははっ! と、奇怪な童女らは、逆さまになって高笑いした。
「いひっ!?」
「うぎょっ!!」
  岸兵衛と石正が異口同音に悲鳴を上げると、その童女らが差し出した提灯は、吊るし首にされていた男達の生首であることに、ふたりが気づくまで、しばしの間を有した。
 
まず、岸兵衛の背後、姉の華里。
 こちらは頭が無事な方ーー梅弥で、八寸弱の浅蘇芳の持ち手の先に、返しのついた釣り針が垂れ。
 それが、百会に深々と喰い込んでいる。
 鼻が曲がりそうに凄まじい悪臭を放つ、茶色い腐水にまみれた、第三の眼窩と化した唇の真ん中にある肥大した眼球が、岸兵衛をぎろりとねめつけた。
 岸兵衛はその場にへたり込み、それまで年甲斐もなくいきり勃っていた垢まみれの陰茎はあっけなく縮み上がり。
 失禁し、涙と鼻水まで大量に垂れ流しながら、ひっ、ひっ、と、泣き笑い始めた。
 光源は縦七寸、直径二寸はあろうかという太い蝋燭を、左右のこめかみに五寸釘で打ち込んだ、蝋燭であった。
 
 次に石正の背後、妹の伊毬。
 頭を河童の皿状に切られ、脳髄が剥き出しになった是之源の首もまた、同じく八寸弱の浅蘇芳の持ち手からぶら下がっていた。
 脳髄が剥き出しになった生首は、太い針金で前後左右と上下を囲んだ、粗雑な作りの籠状の中に納められていた。
 ーーガクガクブルブルと全身の震えが止まらず。 
 数日前、六条河原に打ち捨てられていた、折り詰めの残りを喰らって見事に中(あた)り、下していた腹から滴り落ちる軟便と小便が一緒に滴り落ち、ボロい使い古しの褌を汚して、股下を大小便で汚していることすら、気づいていない有り様だ。

「ーーあらあらあら、おふたり揃ってアホほど粗相しはって、まだそないな御齢やあらしまへんでっしゃろ? どないしはったんどす? ーーせやけど、えろうお久しぶりどすなぁ、岸兵衛はん、石正はん」
「はぁ?」
 壮絶なまでに痴態をさらしている、自身の粗相の自覚がまるでない石正が、キレ気味に問い、威嚇してみせたが。

 その言葉に身に覚えはないものの、つい先ほどまでの、素朴で気弱な印象とはまるで違ったーー。
 猿轡を噛まされているがために、ふがふがした口調ながら現代でいうハスキーボイスでの、微塵も怯えを感じさせない娘の態度に、石正は本能的に恐れをなし。
 自ら攫って来た娘から、思わず身を離し、後ずさった。
「華ぁ里ぃ~、伊ぃ~毬ぃ~、わてのこと縛りくさっとるこんアホの猿轡とアホ縄ぁ、早ぅ切って外してくれへんかいなぁ~」
 口をふさがれているためか、くぐもった上に間伸びした口調で。      
 女がふたりの奇怪な童女達らしき者の名を呼び、助けを求める。
 五条大橋の欄干に両足をかけ、逆さまになっている双子がしばし視線を合わせ、同時にうなずくと。
 ふたりは同時に空中で身を翻し、五条大橋の下に、これまた同時に着地した。
 カッコンカッコンと小気味良く、浜下駄の歯の音を鳴らし、娘の前と後ろに立つ。
 双子の身の丈、ともに四尺五寸弱。
 娘の身の丈、五尺三寸。
 真の暗闇であることと、うりざね顔に柳腰という言葉そのものの娘の身のか細さ故に気づかなかったが、意外にも、女にしては長身であった。
 ーー娘の前後に立った双子が、示し合わせたかのように、またまた同時に己の暗器を出現させた。
 前にいる姉、華里は、ほどよく切り揃えられた右手の五指を揃え、親指を折って外に向けた。
 それらが一斉に一尺の長さに伸び、四枚の爪が同化して、良く研ぎ抜かれた出刃包丁と化すと、猿轡はあっさり斬り落とされた。
 そして、後ろにいる妹の伊毱は。
 姉妹でお揃いの鹿の子鼻緒の浜下駄の底に仕込んだ、あの左右とも刃物状にしてあるギヤマンの暗器を突出させ、娘の胴体を縛っていた縄を、難なく斬り裂いた。
 岸兵衛と石正に見せつけるよう、縄全体が指でつまむことすら出来ない、麻の屑になるまで。
「!? な、何や、お前!?」
「つれないなぁ、ついこの間会うたばっかやあれへんやないかいーーあんたはんらに、ここで身ぐるみ剥がされて犯されて」
  娘は、取り返した浴衣に両袖を通してから左袖で顔を覆い。
 よよよ、と、芝居がかったわざとらし過ぎる仕草をしーー。
「最後は顔を焼かれて六条河原に流された、あの夜のおなごどすえ?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「「なぁ天之(あまの)の、天之はんならあの程度の猿轡と縄ぐらい、自分でほどけますやろ? 今夜は、どないしはったん?」」
 手を繋いだ双子が、異口同音に訊ねた。
「今はお月さんが右に出とるさかい、今のわては天之は天之でも、邪鬼(じゃき)の方やのうて、探女(さぐめ)の方やねん」
「「あ、そやったわぁ。失礼なこと言うてしもてほんま堪忍な、探女の!」」
「何やのもう、ふたりして同じこと言いはって。そないちんまいこと気にせんといてぇな、華里も伊毱も」
 ーー【今は】探女、そして別名ながら同一人物、邪鬼(じゃき)。
 半陰半陽の両性具有者だ。
 月の満ち欠けの内、右に月が出ている間は女として過ごし。
 左に月が出ている間は男として過ごす。
 左の月の間は乳房がへこみ膣はふさがり陰茎が突出し、髭も生える。
 探女は腰まで伸びた艶黒の髪を高く結い上げ、今までまとっていた縞模様の浴衣を脱ぎ捨て、両袖と両裾に紐を通し、きゅっと締めた、 立湧柄の作務衣に着替え。
 履き物も、やや小さめの黒い鼻緒の下駄に変えた。
 五条大橋に差しかかったところで身にまとっていた着物も帯も、手にしていた湯屋通いのための桶と濡れた手ぬぐいも、すべて六条河原に投げ捨てた。
 それらは濱の与助、岸兵衛、石正に輪姦されたあげく顔を焼かれ、六条河原に打ち捨てられた若い娘の遺品であった。
 ーー今回の復讐代行商への依頼主は、娘の両親だった。
 膣と肛門を隔てる薄い粘膜が貫通している状態から始まり。
 未通女の娘の娘の膣は、破瓜というにはあまりに無惨にーー。
 股がへその下まで裂け、大量の白濁の汚液に混ざり、大出血しただろう破瓜の血など、わずかばかりという惨状だった。
 肛門は鮪の中落ちのようにえぐられてズタズタに裂け。
 菊門が外側に大きく広がったまま、血の混じった大量の大便が、内ももからくるぶしまで滴り落ちていたのである。
 近隣に住まう者達はこぞってあの三人の仕業だと噂したが、捕り方達は濱の与助一味に形だけの聞き込みをしただけで、凶悪な通り魔の仕業だろうというだけで、片をつけたが、誰ひとり信じる者などいるわけがなかった。
 たまたま、湯帰りの娘が穴蔵に押し込められ、犯されてから顔を焼かれるまでの一部始終を観ていた老爺のお菰が、罪悪感に耐え切れず。
 娘の両親が住む長屋を訪れ、目撃者たるお菰は、大工である娘の父親に自身が目撃者であることを伝えた。
 両親はふたりがかりで、お菰に詰め寄った。
 そして激しくなじった。
 ーー何故娘に声をかけなかったのか。
 ーーせめて一声かけていれば、連中はまずいところを見られたと、逃げ出したのではないか。
 ーー娘も危険を察知し、逃げおおせられたはずだ、と。
 しかし、お菰にも言い分はあった。
 生来の白痴であり、襁を吐いた垂れ流しの老爺たる濱の与助はともかく、何故か与助とともにいる岸兵衛と石正の、腕っぷしの強さと凶暴さは、その界隈では悪名高く、下手に関われば、命はないとも。
 それだけ必死に訴えると、お菰は一目散に彼らの元から逃げ去った。

 父は当人の商売道具たる鑿で、
 母はいつも台所で使っている包丁で。
 連中の心の臓をひと突きにしたいと願った。

「その恨み、買うたりまひょか」
 開け放たれたままの貧乏長屋の戸口の前に、探女が腕組みして立っていた。 
 探女の両腕にしがみつきながら、華里と伊毬が、ひょいと同じ顔を覗かせたーー。
 
「一殺ひとり頭五両、全額一括前払い限定でちはやぶる(=血早振る、【鬼来迎】に殺しを依頼する)条件や。今回は岸兵衛、石正、与助と、合わせて十五両。せやけどあのお父はんもお母はんも、そないな金ぇ、あらへんかった。あるわけがないんや、」
「せやな、せやけど、あてらは慈善事業やなしに『商い』してはるんやさかい、金は払うてもらわんと」
 華里が、探女の言葉を継いだ。
「人様に難儀な仕事頼むんは、それ相当の銭ぃ払うんが当たり前て、金持ちも貧乏人もわかっとらんのばっかりや。十のわてらでもわかってはるのに」
「「大人て、案外アホなんやな~思うわ~。な!!」」
 声と顔と視線を合わせて、華里と伊毬が異口同音に言葉を発した。
「あ。ほんであのお父はんとお母はんら、神代きかんかて(=一殺五両を一括払い出来ない)」
 伊毬がそこまで言うと、
「龍田川(=頭部と視界のみ完全に意識のある、局部麻酔で行う腑分け)や。今は、夫婦揃って韓紅に水くくっとる頃(=腑分けの真っ最中)たんと違ゃうん?」
「頭はっきりしてはるのに、まぶたをいのいちばんに切られよって、どんなに嫌やかてお目々ぱっちでおらなあかんて、めっちゃ怖いわぁ」

(まぁ、医ノ部頭(がしら)の火納戸《ひなと》センセも、完全に頭イカレとるでなぁ)
 
 探女が、心の中でぼやいた。
 凌遅刑にも似た、五両代わりのこの腑分けののち。
 一括で五両が払えない依頼者の肉体は、全身の血液を抜かれ。
 五臓六腑、全臓器をホルマリン漬けにされるか、移植用臓器にされるのだ。
 そして【鬼来迎】にはもうひとつ、
 《闇医ノ部(やみいのべ)》
 と称される、殺しの依頼をしたくとも、どうしても金を用立てられない者達が、自らの肉体や、腹の中の臨月の赤ん坊や、孕み月を問わず、胎児を依頼料の代替とする施術を行わせられる者達もいるのだ。
 所属している面々は正規の医者から、闇医者、医師の卵、果ては堕胎専門の産科医に、産婆までいる。
 そしてもうひとつ。
《人型ノ部(ひとがたのべ)》
 男女問わず、見目麗しき容姿の者の四肢を切断し。
  生きた性玩具【日本だるま】の名で、日本から遙か遠き外国(とっくに)の好事家達に売買する者達で構成されている。 
 ーーその中には、装飾品としてだけでなく、年齢も長さ太さも諸々の、切り落された陰茎。
 産まれると同時に、闇医ノ部の産婆に首を絞められ、柔らか過ぎる首の骨を折られた胎児。
 あるいは、強制的に流産させられたり。
 中絶させられたり。
 母体の中にいた月齢も性別も、てんでばらばらな胎児を、張形にして売買する。
 これがまた国内国外ともに、前述のとおり、こちらもまた、国内外の好事家ーーいや、完全な変態達と言っていいーーに、凄まじいまでの高値で売れるのだ。
 そのため、この部署には剥製の技術を持った者達も多数在籍している。
(闇医ノの火納戸センセと、人型んとこのヤソハカのおやた、どっちがイカれとるんやろ……まぁ、えぇ勝負やろな)
「せやけど、娘の仇が取れるんを、最初から最後まで見届けはってから、腑分けされはったんや。腑分けやのうても、どないな死に方かて、あのお父はんお母はんは満足やったんと違ゃうん? それでええやん」
「そーやわ、そーやわ」
 と、華里。
「憎っくい憎っくい人様の命、あてらに代行させよるんなら、手数料も含めて、金がかかるんは当たり前やちゅうこと、どないしてわからへんのやろなぁ? 世の中、タダほど高こぅもんはないっちゅうに」
 と、伊毬。
「あてな、いっつも思うとんねん」
 探女は、そこでぴたりと歩みを止め、夜空を仰いだ。
 
「『金より大切なもんがある』とか、熱う主張してはる奴っちゃ、反吐が出るねん。ほんなら、今自分が着とるべべ、履いとるもんは何やねん、てな」
「「同意やわぁ、探女の!」」
「ほなら、今夜はあてんとこ泊まるか?  今のあては女やさかい、風呂も布団も一緒に出来はるえ」
「「泊ーまーるー! に決まっとるやん!」」
「ほなら、夕餉は手毬寿司に、かぼちゃのいとこ煮や」
 齢相応にきゃいきゃいはしゃぎながら、華里と伊毬は探女の腕にぎゅっとしがみつき、五条大橋から遠ざかったーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 さて、それからほどなくして。
 濱の与助、岸兵衛、石正へ、死よりも惨い罰を与えた、
【洛中宇治硯緋雨】
 の三人が去った後の、濱の与助らが置き去りにされた、穴蔵へ向かう者があった。
 髷も結っていないどころか、肩より少し長く伸びた、縮れた長い髪を束ねもせず。
 ときどき頭をかいてはフケが埃のように立ち、顎には無精髭を散らした、がに股気味の、まるで覇気のなさそうな、こ汚い身なりの中年の男だった。
 何故か、全体に色の抜けた褐返の作務衣の上から、丈がすねまでしかない白い着物に袖を通している。
 これは、外国(とっくに)の医師が仕事中にまとう、白衣なるものの真似ごとらしい。
 足元は、素足に下駄。
 ーーひとり、ひどく気だるそうに大八車を押して。
  一部始終を五条大橋の上に立って見つめていた於苑から、『月のを』の文と。
 何しろ、自宅兼闇医ノ部本部から、現場までの地図を記された文とを二通、【御記書御渡役】の於苑から受け取ったのだ、行かないわけにはいけない。
 ーーこの風変わりな男こそが、【鬼来迎】闇医ノ部の頭、医師の火納戸であった。
 穴蔵の前に着き、のそのそと穴蔵の中に入ると、そこには凄惨極まりない光景が広がっていたが、それは常人の感覚でのこと。
 こともあろうに、火納戸はふぁあと大きなあくびをした。
 ーーそこには、化粧もせず全体に垢じみて、薄汚い十代後半ほどの女達がいた。
  火納戸はその場にしゃがみ込み。
 両ひざの上に両ひじをついて、頬杖をつき。じろじろと彼女らを凝視する。
 女、その一は両眼と両ひじ、両ひざから先を切断され。
 呻き声を上げながら、ズタボロの布団の上に仰向けに寝転がっていた。
 四肢の切断面には、太い針金がきつく巻かれ、壊死しかけている。
「……腕とひざの間の斬り口、どっちも【雀之御宿】使こたな。今はお月さんが右側に出てはるさかい、これしよったんは、探女の方か。ありゃぁおなごになりよると、どえらいべっぴんやけど、何やあいつ、男んときよりおなごんときの方が、殺り方えげつないんと違ゃうか?」
 その暗器の形状と使用法は早い話が、大型の糸切り鋏だ。
 全長四尺強の内側の左右に刃渡り二尺の出刃包丁並みの刃を備え、二刀流で使用する。
 女達は、なんと岸兵衛と、石正なのだ。
「おっほー、相変わらずあれの【陰陽転じ】の術は見事やな。おっぱいも乳首も、よぅピンと張り出しとるし。はぁさて、肝心のおめこばどないな具合や?」
 ーー性感染症の危険があるため、間違っても火納戸は自身の指で確認したりはしない。
 代わりに使うのは、張形だ。
「ふん、思うとったよりよう締まるし、雁もしっかり引っかりよる……てなぁ!」
 火納戸が、穴蔵の中ながら、天を仰いだ。
「探女ぇ、なんぼ腹立ったからかて、眼ぇ潰しよったらあかんて、何回言うたらわかんねん! 黒髪黒眼は外国(とっくに)じゃ、えろう高値が付きはるんや! 義眼にしよると、がったーーん値ぇ落ちよるんやで!どーーアーーホーー!!!」
 ひとしきり叫ぶと、火納戸はくるりと視線と首をある方向に、鋭い視線を向けた。
 ーーそれは、女体化した岸兵衛と後背座位に興じている濱の与助だった。
 淋病持ちの、半ば呆けた老爺に犯されるなど、通常なら吐き気が催す事態だろうが、元・岸兵衛は。
 四肢を切断され、その先端に太い針金を巻かれて壊死寸前という、石正同様の姿ながら、背後から何度も何度も与助に突き上げられながら、老人班だらけの、骨と皮ばかりに近い両掌に乳房をねっとりと揉みしだかれながら、艶めかしい嬌声を上げ、口の両端から大量の唾液を垂らしながら、ひたすらに腰をくねらせていた。
「ーーおまえら、ごっつうきっしょいねん、ボケ!!」
 思わず頭に血が昇った火納戸が、まず前の元・岸兵衛の鳩尾に蹴りを入れ。
 人体の最大の急所を攻撃された元・岸兵衛は苦悶とアヘ顔の入り混じった表情のまま。
 次いで、背後から元・岸兵衛を犯していた与助の鼻柱から人中ににかけて、拳を一発叩き込むと。
 与助は元・岸兵衛の乳を握り締めながら、顎をのけぞらせ。
 血の混じった唾液と、かろうじて残っているが、ほとんど役目を果たしていない、黄ばんだ砂利のような歯を数本、皺々の口から大量に湧き出し。
 鼻孔からは大量の血を噴き出しして、その場に仰向けに倒れ込んだ。
  全身が激しく痙攣しているが、命に関わりはないと、火納戸はわかっていた。
「ーーさて、この淋病のジジイは、わてらんとこで腑分けして、花柳病のええ資料になりよるな。ほんで、残りふたりは……」
 火納戸は岸兵衛と石正の顔を覗き込み、
「何や。よう見ると、えっらいブッサイクなツラしとんなぁ、こいつら。しゃあない、わてらんとこで顔ぉいじって、あとはヤソハカのおやたんとこにまわして、日本だるまやな。ほい、決まりぃ~」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 場所は変わり、同刻の江戸。
 仲町は旧小料理屋【栂のや】の二階。
 上野池の端仲町、不忍池の南端の町で、小料理屋、茶屋で賑わう土地だが、
 この【栂のや】の二階部分は、数年前から、とある女の、家賃のない住み処となっている。
「……花に囲まれてするってのも、なかなか艶っぽくていいもんだろォ? ……」
「咲いてた場所が場所ばってんが……花に罪はなかとですけん……」
「どこに咲いてたって、花ァ花だよ。貧乏長屋のドブのふちに咲いてようが、江戸城の御庭に咲いてようがねェ」
 天井から見て、汗で湿った布団の上に、かけるものすらなく、互いに全裸で身を寄せ合っている男女のしどけない姿があった。
 ーー新谷と戀夏だ。
 路地に面した雨戸と障子、さらには右側と足元の四枚の襖を締め切って密室にし。
 枕元に置いた粗末な行灯だけが、この暗い密室の光源だ。
 布団の左側で、六尺越えの大柄な身を大の字に横たえて。
 脇の畳の上に、灰地に白の雲竜柄の生地に、白雲を突き抜ける二匹の昇り竜が入った着流しと褌を脱ぎ捨てて、無地の麹塵の帯を波打たせている。
 左向きに寝転び、夾竹桃と蝮の刺青が彫られた左腕で、新谷の左肩をつかみ。
 細く白く、しなやかな長い左足を、新谷の右すねに絡ませているその足の爪は、わずかな金粉を散らした、濃紅に塗りつぶされていた。
 布団の脇より離れて、閉めた四枚襖の前に、尻端折りの折り目がついた、薄紅梅に黄アゲハが舞う着物の中に、三寸竹の黒股引が、蝉の抜け殻のように広がったその上に、縮緬の切れ端が置かれていた。
 新谷と戀夏、それぞれの着物と下履きだ。
  ーーまだ体の芯に、埋み火がほんのり点っている。
 戀夏は、汗に濡れた髪をつかみ、手櫛で左肩に寄せると、いつも片方の頭の上で高く結っている縮緬の切れ端で、ゆったりと束ねた。金茶色の髪が、左乳房から脇腹まで垂れた。
 布団の足元に散らかしてあった白襟の赤襦袢に白い帯紐を重ね巻くと、かつてこの店で使われていた、猪口と徳利を盆に乗せ、ひとり分持って来た。
 つい先ほどまで、自分が寝ていた場に斜め座りになり、盆足の裏の側に置くと。
 大の字に寝ていた新谷の頭の下から枕を外し、その頭を自身の右太ももの上に引きずり寄せた。
「あっ、あぁ、姐さん!?」
「たまにはいいだろォ、こんなもよォ」
  手酌で冷酒を一口あおり、ふぅと一息吐いてから、しれっと返した。
 この状態で、自分だけ全裸であることに気づくと同時に強い羞恥に襲われた新谷は、素早く自分の下半身に、雲竜柄に昇り竜の着流しを被せた。
「何で隠すんだよ、あたしが何度おめェのちんぽしゃぶって、手で抜いてやったと思ってんだよォ」
「いや、その……そんでもおいだけ裸……やけんば、こっぺの悪かですばい」
「こっぺ?」
「九州(くに)ん言葉で、その、バツが悪い……ごたる……」
「へっ、デケェ図体しやがって、変なとこ恥ずかしがるねェ、あんた。あたしゃあんたのケツの穴も舐めたし、指まで挿れてんだぞォ?」
「そ、そげんこつされよってても! そいとこいとは別、ですけん……」
「アッハハハハハ! 悪りィ悪りィ、なーんだかさァ、あんたがあんまり可愛くて、ついからかっちまったィ」
 髷を結わずに伸び放題の新谷の頭髪を、戀夏がぐしゃぐしゃわしゃわしゃと撫でまわした。
 「…………」
 まるで子ども扱いされながらも、不思議と新谷は不快ではなかった。
「あの、花瓶ーー」
 ひざ枕をされながら、新谷が部屋のあちこちに置かれた、様々な形の、しかしすべて陶器の花瓶の群れに、視線を向けた。
「あァ、これな。全部あたしが禰々子時代にこの店で酌婦やってた頃、店主の爺っちゃと婆っちゃが、旅の土産に買って来たもんなんだよォ」
 細長いもの。
 徳利を小さくし、下を大きく広げたような型のもの。
 上が逆三角、下が三角のものを真ん中で繋ぎ合わせ、中央がくびれた形のもの。
 釉薬も様々で、無色の上釉だけをかけた素朴なもの、二色の釉薬をかけたもの、上釉が全面に雫のように滴り落ちていたりとーー。
 無数の《個性派揃い》であった。
 そこに、花季を無視した狂い咲きの花々が飾られている。
 花海棠。
 風蝶草。
 千両の紅い実の枝。
 紅と白の立葵。
 紫馬簾菊。
 馬酔木。
「これに、婆っちゃが季節の花ァ飾ってさァ。店先に置くんだよ。けど、酔っ払いのおっさんどもがそんなもんに興味持つわきゃねェから、結局は誰にも見向きもされねェで、枯れておしまいーーって、あたしもそうだったけどさァ!」
 猪口につがず、徳利から直(じか)に冷酒をふた口飲んでから、ケラケラ笑いながら、新谷の額をぺちぺち叩いた。
 ーーだが、まだ酔いはまわっていない。
「ばってん、部屋中見渡してみれば、陶器だけばい。東(あずま)には、磁器ってのはなかとですか?」
「磁器ィ? んー、あたしはそういうのちっともわかんねェんだけどさァ、爺っちゃが言ってたなァ」
 何を? と、新谷はあえて口には出さず、戀夏の昔語りに耳を傾けた。
「『とてもじゃねぇが、磁器の名産地の九州くんだりまで旅に行ける金も体力も、俺っち達にゃねぇ。だからって負け惜しみじゃねぇや、真っ白でヒビひとつ入っちゃねぇ磁器ってぇのは、どうも気に入らねぇ』って、さ」
「ーー気に入らない?」
「陶器は女に例えりゃ可愛い。だけど磁器は美人だ、ってねェ」
「美人ば、気に入らんとですと?」
「『昨日今日生まれたばっかの赤ん坊から、いつぽっくり逝っちまってもおかしかねェ百近けェ婆様まに、コロコロ太ってようが、眼が小っちゃかろうが、にっこり笑えば、みィんなあばたもえくぼって奴よーーだから陶器として見りゃ、この世の女ァ全員、可愛いんだ』って、爺っちゃがねェ」
「…………」
「『けど美人ってぇのは、顔も体も頭仕草に所作、すべてが【完璧】じゃねぇといけねぇんだよ』」
「『でもよ、そんなん本人が窮屈で堪らねぇだろがぃ。年取って婆になりゃ、若けぇ頃ぁ美人だったのになぁーーって、男どもぁ好き勝手言いたい放題だ。だから美人は不憫で仕方ねぇ』ーーだってさ。今思うと、爺っちゃってば、イイ男だったァねェ~」
「『美人ば、不憫』とですか……」
 新谷の左掌が、布団の上からずずっと畳の上にどかされ。
 戀夏が手にしていた徳利が、突然起き上がった新谷に奪われた。
 まだたっぷり残っている中身は、冷酒ではなく焼酎だった。
「あァ? ちょ、新谷ァ!? そんなキツい焼酎、一気に飲むんじゃねェよ!」
 それは、戀夏が新谷と過ごす夜のために。
 密かに長崎から取り寄せていた地酒の焼酎【櫻坂】ーー。
 
 ーーややあってから。
 新谷は空になった徳利をドン! と、盆の上に置いた。
「姐さん。おいば図体ばデカかくせしよって、肝っ玉ば小さかですけん、やけん、酒ん力ば借りんと、こげなこと言われんし。出来んとです」
「ふぁ?」
「姐さんば、窮屈なとこばいっちょんもなか美人で、やっちゃ可愛かお人ですばい」
「ちょ、おめェよォ。何言……!?」
 むせ返りそうなきつい酒匂とともに、新谷が喰らいつくように戀夏と唇を重ねた。
  あっという間に新谷の舌が戀夏の舌を絡め取った。
「ーー!!」
 衝動的に、戀夏が固く左右のまぶたを閉じ、肩幅も背中も広い新谷の身を抱き締め返した。
 袖を通した赤襦袢が、白い腰紐を結んだ上半身まであらわにされ、夜気にゾクッとしたのは、ほんの一瞬。
 すぐさま、女の身より体温の高い高い男の身に全身を包み込まれ、褥の上に押し倒された。
 ーー左右の豊満な乳房を、ごわごわとした固い皮膚の、六尺越えの身の丈の分身のような大きな左右の掌に揉みしだかれながら、体の真ん中に、ぎゅっと押し寄せられ、そこに新谷が顔を埋めた。
「はぁ、温(ぬ)くとかぁ。やっちゃ柔らかったい」
「は、あぁ」
 細眉を八の字に寄せ、戀夏は
【この男がたまらなく愛しい】
 その思いひとつで、容易に絶頂に達し。
 全身をがくがくとわななかせていたーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「戀という字は、糸し(=愛し)と糸しと言う心ーー」
「急にどうしやした、お師匠(おっしょ)さん」
 待乳山診療所の客間で、刻みネギと天かすと七味を大量にふりかけた二八の夜鳴きそばをずるずるすすりながら、浄眩がぼそりとつぶやいた。
 待乳山診療所の、患者の待合室。
 夜中に一方的に尋ねて来て何かと思えば、小腹が空いていたところを、奇遇にもそばの屋台が通りかかったからと言って、両手に丼を持って、待合室の畳の上に置くと。
 勝手知ったる他人の家ーーとばかりに、弟子の家の台所を漁って。
 長ねぎに天かす、ひょうたん型の七味入れをかき集め、勝手に待合室に上がり、畳の上にあぐらをかいて、そばをすすり出したのだ。
「糸の字ふたつに言と心ーー……お師匠さん? もし姐さんの閨でも覗いてんでしたら、今すぐおやめくだせぇ。あっしらの力ぁ、そんなもんに使うもんじゃござんせんぜ」
 正座して、素のかけそばをすすりながら。
 静かに、しかしわりと本気で怒っている風な弟子の進言に、浄眩はいったん丼を畳の上に置き、口元を拭った。
 その仕草に、滅黯は千里眼による覗きを認めた証だと、すぐに理解した。
 異能力者同士故の、やり取りだ。
 ずぞっ、ずぞぞっと。
 互いに向かい合い、無言のままそばをすする音が、しばらく待合室に響いた。
「んがっ!?」
 ゴリっ、と。浄眩の右奥歯が何か固いものを噛んだ。
 とっさに右掌に吐き出してみると、それは胡麻でも芥子の実でも麻の実でもない、七味に入っているはずのない、植物の小さな種だった。
「蓮の種ぇ!? おい黯、お前どこで七味買ってんだぁ?」
「去年、兎知平さんから、東海道の土産に頂戴致したもんでごぜぇやすよ。蓮の実が入ってるなんざ、聞いたこちゃありゃあせんぜ?」
「んじゃ、こりゃ……」
「で、やしょうね。ほれ、あっしのはーー」
 空になった滅黯の丼は、洗ってもいないのに、澄み切った水に満たされ、鴇色と白磁の小さな蓮の花がふたつ、満開になって浮いていた。
「ーーっの、ガキゃあ!」
 突然立ち上がった浄眩に、畳の上に叩きつけられるはずだった丼と箸を、滅黯はしっかと受け止めた。
「いくら自他ともに認められとりやす生臭でも、物に当たんのぁいけやせんぜ、お師匠さん」
 にまにましながら言われた弟子の言葉に、浄眩はそっぽを向き、思わず舌打ちをした。
「ーーまぁ、そうヘソを曲げねぇでおくんなせぇよ。熱燗の般若湯の用意が出来とりやす」
「お前、早くそれ言わねぇかよ」
 突然落ち着きを取り戻した師匠に、滅黯は笑いを噛み殺しながら、竈の片隅で煮たてられている鍋の中の四本の銚子を一本、来客用の盆の上に、あらかじめぬるま湯に漬けておいた猪口とともに乗せた。
 待合室には、舶来品の額縁に収められた、淫水舐安が死の間際に描いた肉筆画が一枚。
 長押に飾られていた。
 少女春画の対象たる【お咲耶】ではなしに、娘ーーお振を想い、贖罪、懺悔、後悔、苦悩、凄まじいまでの自己嫌悪。
 極めつけは、地獄に堕ちて業火に焼き尽くされては甦り。
 血の池、針山、釜茹でと、ありとあらゆる贖罪を何百何千年と受けなければ魂が清められず、贖罪の叶わないだろう、ひとり娘に向けての想いを以て描かれた。
 たった一本で何万もの色が出せる小筆で描かれた、一枚の絵。
 それは羽衣をまとい。長い黒髪の頭頂部を前髪ごと結い上げて。
 その結われた髪はいくつもの輪を作り、金色(こんじき)の、迦陵頻伽の豪奢な細工で飾られていた。
 三重に着た着物はすべて白く、帯は腰の前で結ばれ。
 ほんのりと湛三紅の唇には、うっすらと微笑を浮かべーー。
 その背後には、何枚もの蓮の花びらが、おびただしく舞い散っている。
 その両掌には、紅白色違いの蓮の花が、いくつも浮かんでいた。

(完)

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参考資料「放送禁止歌」
解放出版社(@竹田の子守り唄)


 

  

 
 
 
 
 







 
 
 








 
 

 
 



 
 




 




 



 



 
 






 
 


 
 

 
 

 

 

 
 
 










 



 

 


 
 
 
 
 

 
 
 





 





 

 
 
 


 


 
 
 
 
 
 




 



 
 

 


 
 
 




  
 

 
 





 
 
 


 
 
 
  


  
 
 
 


 


 
 
 


 



 
 


 



 
 

 


 
 






 




 


 



 
 

    
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