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惨劇ノ参事⑵・第七章《絵死花仕舞い・地獄極楽逝画之筆と甲賀瑞ノ江三姉妹》
拾弐之罰「新谷淫獄変」ー外道達の狂宴ー
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ヴルルルル……とのどを鳴らし、慚愧と化した新谷は、こともあろうに、牙と化した上下の犬歯で、地にうつ伏せに倒れ伏した澪の髪に喰らいつくや否や、頭皮ごとむしり取った。
「いぎぎゃあぁぁっ!!」
と、澪の短い悲鳴が上がったが、新谷は獣の針金のように尖った剛毛を生やした、三角に盛り上がった澪の身を蹴り転がして仰向けにすると。
澪ののどを右足で、腹を角ばった大きな左足で、踏みつけにした。
両手首から先を失った新谷が、口に咥えた澪の長い黒髪をぶん
っと振ると、お雪と飆によって吹き飛ばされた左掌に絡みついた。
それは瞬時に手ん棒となった新谷の左手に繰り寄せられた。
そして何本もの澪の髪が幾本かに離別し、刺繍糸のように束ねられ。
先端が針穴に通された中細の糸のようになり、ぞぐっ、ぶつっ、ぞぐっ、ぶつっと。
左腕を刺繍糸を通した針のように、かがった。
ががり縫いにされた糸自体は、手首が縫い付けられると同時に消えたが。
代わりに傷痕は赤く、くっきりはっきりと残った。
まるで、長く鋭い荊の棘のような痕跡を遺してーー。
(おいば、あん、京の隠れキリシタンばおなごば言っちょった【慚愧】に成り下がりよったとね?)
ーー姿見の鏡も、その代わりに相当するものなど、その場に何もない。
だと言うのに、脳裏にはっきり映し出されている。
勝手に伸びた犬歯をギリギリ噛み鳴らすと同時に。
ズタボロに裂けた、着流しの帯より上の、着流し。
固い三角状の、途中で盛り上がった分厚く尖った獣の爪が生えた、十指の先端。
羆並みの剛毛にびっしりと覆われた、指先から両ひじ。
それは、両ひざまでズタズタに裂けた両脚も同じだった。
そして、右掌にはお雪が身代わりになって、短刀で貫きーー。
左掌には、飆が三本の畳針で貫いたーー「聖痕」の痕跡が、棘々の赤い傷跡を残しながらも、既に皮膚に塞がれていた。
妹の縫の顔を、半分以上覆っていた、あの生まれつきの青痣を、新谷は思い出さずにはいられなかった。
そのとき。
新谷の耳に、棒読みのような言葉が聞こえた。
「ーーおっかさん……」
地に這いつくばって、銀色の鱗にびっしりと覆われた両腕を二の腕まで剥き出しにし。
新谷と同じ獣の爪を地面に突き立てた、澪がようよう絞り出した声だった。
「……金のために、私を、まだ未通女だった私に、こんな肥えた醜男の、夜伽の役目なんかさせやがって……そのくせ……」
バリバリと地を掻きむしる澪の獣の爪が、大量の血を流して剥がれて行く。
「知ってたんだからな、月のものが来るようになって、乳が膨れてからは、あんたは、あんたは……」
ーーぃぎゃぁああああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
と、凄まじい奇声を発して身を起こし。
あちこちざんばらになり、新谷に頭皮ごとむしられ、生乾きの血でところどころ固まりかけた髪を、爪のない血まみれの十指の先で掻きむしった。
「素っ裸にされて! 亀甲縛りにされて! 猿轡を噛まされて、肥後随喜の褌締めさせられて! 尻に張形突っ込まれて! こいつの部屋の押し入れン中で! 私達のまぐわいを見せられてたんだってねぇ!」
聞いているだけで吐き気を催しそうな話を、新谷は慚愧の姿のまま、険しい顔でただ澪の独白に聞き入っていた。
「随喜で、小便漏らしたみたいにまんこが濡れても、さねの皮が剥けて真っ赤におっ勃って、我慢出来なくて。緊縛されたまま土下座してまでちんぽをねだろうと、こいつは一切あんたを抱きも犯しもしなかったそうだねぇ? 理由はーー」
「『顔ばかり良くて、裸になって見ればたらちねで、乳輪がでかくて黒ずんだ乳首と、股を開けば両足の付け根まではみ出したびらびらが真っ黒の女のまんこなんぞ舐めたくもない』だぁ? 三段腹の肥えた短小包茎の醜男が、よく言えたものよ! そんな男に、金と暮らしのためだけにひっついていたあの女もあの女だがのぅ! 貴様言うたであろう『汀はそなたの若く美しい身体と肌に嫉妬しておる』となぁーー」
「もう、よかぁ!!!」
腹の底から、辺りをはばからぬ胴間声で叫んだ。
「おいが、おいが……なんでんかんでん、終わらしちゃるけん!」
その瞬間、澪の額に刃物で斬られた鋭い痛みが走った。
次に新谷の左掌のみで首をわしづかみにされ、絞め上げられながら両足が軽く宙に浮くと同時に、つ、と。
腰巻きの奥のさねに、冷たく鋭いものが当たったと感じると同時に、澪の全身はものの見事に着物ごとまっぷたつに、逆唐竹割りにされ、乳房と陰部を剥き出しにして、土に汚れた白足袋を投げ出して、地に仰向けに倒れた。
澪の額に刻まれたのは、逆十字ーーキリシタンにとって、悪魔を意味する刻印だった。
澪の返り血を体の前面に浴び、新谷は荒く息を吐いていた。
(新谷よ)
新谷はしばらく、自分の名が呼ばれたことに気づかなかった。
(新谷よ、新谷、あ・ら・や!)
「……あ……、旦……那……?……」
(そうだ私だ。新谷、一刻も早くそこを去りやれ。門の外に、黒子の籠を控えさせておる)
「……承知……致し、ました……」
上半身裸で、背中に白百合を両腕に抱えた聖母マリアの刺青に、全身煤と血まみれになり。
首から下げた血赤珊瑚のロザリオ。
焦げた臭いが染み込んだ、ざんばら髪。
まだ【慚愧】としての姿のままの新谷が、ふらつきながら花乞吹雪屋の寮の門を出ると、そこには右足で立てひざをつき。
黒い足袋を履いた左足の五指を立て、握り締めた左掌を右ひざの上に置いた、黒子ふたりが慇懃な姿で待ちかまえていた。
ほとんど気を失うようにして、新谷は籠の中にどっと倒れ込んだ。
新谷の六尺越えの身を完全に籠の内側に納めた特製の大型の籠は、黒子ふたりの足音を一切立てることなく、電光石火の勢いで走り出した。
その直後に、寮で連続して起こった爆発音を、新谷は聞くことはなかった。
一方その頃、待乳山診療所の裏庭ではーー。
滅黯がその掌中に、密かに【貰い火】をしていた、花乞吹雪屋の裏庭に掘られた土壇場で、お咲耶と太夫を燃やし尽くした火の一部が、篝火となって燃えていた。
現在、夜四ツ亥の刻。
診療所の敷地内に建てた風呂の中に浄弦と滅黯が、あらかじめ精製した聖水をたっぷりと湛えておいた風呂の中に、板と漬物石を乗せてしばらく沈められた。
ふたりの意識はすぐさま戻ったが、意識が戻っても、人が水中に沈んでから失神するまでの三分間を、無理やり過ごさせられたのだ。
その魔の三分が過ぎ、ふたたび気を失ったふたりが、ようやく引き上げられ、ややあってから。
ーーぴったり並んだ布団の中で、同時に目を覚ました飆とお雪の身なりは、完全に元通りになっていた。
新谷の、沸騰した百度の高温を有したどす黒い返り血を浴びたお雪の着物、飆の上半身から返り血は完全に消え去り。
すべてがカラリと乾き切っていた。
「……あっ……蘭丸……白蘭……やな?」
飛び起きたお雪の、いつの間にかふたつに分けて胸元に垂らされ 、ゆったりと三つ編みにされた白い髪の結び目に、二匹の相方達が乗っていた。
二本の三つ編みの結び目は、元結できつく結われ。
その上から、小さな赤目の白兎の顔のつまみ細工が飾られていた。
「アッハハハハ、寝てる間に勝手に髪型変えちまって、悪りィねェ、上方のお嬢ちゃん。キラキラしてて、あんまり綺麗だったからさァ。と、イガ栗坊主よォ? あぁでもしなきゃ、【慚愧】とかって奴になっちまったあの野郎の血の穢れは流れねェし祓えねェって、旦那と黯が言うもんだからァーー」
突然現れた、声の主は若い女らしい。
その容貌が暗闇の中で、彼女が手にしていた、銅製の手燭に照らし出されたその姿に、飆もお雪もぎょっとした。
そして、寸分の間を置かず、しばし見惚れざるを得なかった、その灯りと声の主はーー。
「おいよ、旦那ァ。本当にこんなんでいいのかァ?」
「四の五の抜かさず、私の言うとおりにしておれば問題ない」
「ーーだァから心配なんだってんだよォ、こんの生臭坊主がよォ!」
待乳山診療所の屋根の上には、極端に短くした、上はへその下、下は太ももの付け根までしかない黒の股引に、一枚布の晒しを三つ折りにし、乳房だけをきつく巻いた姿の戀夏が、屋根瓦の上で弓をつがえていた。
方向は、言うまでもなく澪が主の根岸の寮だ。
屋根の下、待乳山診療所の裏庭には篝火が燃え盛り。
屋根の上の雨樋の上に腕を組んで立つ、托鉢姿の長髪の三十前後の男。
そしてお雪と飆は、まるで花火でも観るかのように招かれた客のように、檜製の縁台の上に腰かけていた。
ふたりの間に置かれた、来客用の盆の上には、江戸ではほとんど馴染みのない冷やし飴が、お雪に向けて。
飆には、上方では【柳陰】と呼ばれる本直しが置かれていた。
生姜を利かせた清涼水と、江戸時代のカクテルたる冷酒は、原材料のすべてから中身を注いだ江戸切子まで、すべてを網袋で包み、井戸の底で冷やしていたものを、つい先ほど引き上げて、滅黯がこしらえたものだ。
「美味しおすなぁ……」
「あぁ、美味めぇ」
ふたりは同時に屋根の上に、真顔を向けた。
屋根の上で弓をつがえる女ーー戀夏の不動明王の刺青が、こちらを睨みつけている。
だがふたりとも、その程度のことにたじろぐタマではない。
ーーお雪と飆が初めて戀夏と対面した際、絶句したのは彼女の容貌のあまりの美しさに加え。
半裸に近いその姿までもが、あまりに均整の取れた造形をしていたからだ。
戀夏の髪の色が金茶色。
そして双眸が、うっすら青みがかった紺碧色であることなど、ふたりにとって驚く要素ではない。
お雪は先天性の白子。
飆の頭髪は、自ら染髪した栗蒸色だ。
……ふと、お雪の目の前を名も知らぬ大ぶりの蛾がはたはたと、金緑色のカナブンがぶぅうーんと二枚の甲を広げ、その下からあらわにした薄い羽を拡げ、横切った。
蛾もカナブンも本能のままに、篝火の火の中に惹かれ、導かれて行く。
そしてあっけなく、大ぶりの蛾もカナブンも篝火の穂先に絡め取られ、瞬く間に黒焦げの死骸と化し、篝火の足元に落ちた。
「まさに、飛んで火に入る夏の虫やわぁ……ふふふっ」
三枚折りにしてぎゅうぎゅうに締めつけ、背中で固結びにしたのは、豊満な乳房は弓を射るのに邪魔になるからだ。
「あん姐様の両腕の刺青、蝮の潜り込みよった夾竹桃の花と、葉っぱやんな?」
「せや。毒持ちの葉の花やのに、紅いんも白いんも、めっちゃ綺麗なんえ、夾竹桃の花は。綺麗なもんと怖いもんが混じると、綺麗なんが際立ちはるのんて、何や不思議なもんやなぁ……」
キンキンに冷え切った冷やし飴と本直しを味わいながら、お雪と飆はその光景を見守っていた。
篝火の前に立ち、滅黯はひたすら九字を組み続け、さらに不動明王真言を唱え続けていた。
一本足の下駄はいつも通りだが、身にまとっているのは浅葱色の甚平ではない。
わざと左前に着た、白だ。
「何や!?」
思わず声を出したのは、飆の方だった。
風ひとつない夜にも関わらず、篝火から伸びた細い炎が。
全身に夾竹桃の花々と鮮やかな緑の葉を彫り込んだ、屋根の上で戀夏がつがえた矢に右巻きの螺旋状に絡みつき、鏃(やじり)の篦口(のぐち)から口巻の篦の部分まで、一瞬にして炎に包まれた。
「ふぁ!? 何で熱くねェの、おいコラ、何で熱くねェんだよォ!?」
ギリギリと矢尻を曳きながら、ひどく戸惑った様子で、戀夏が喚いた。
ひゅんっ、と地上で一回転してから、滅黯が戀夏の背後で左ひざと左足の五指を立てて瓦の上に付け、右ひざは立てひざをついて。
両掌を皮の上に広げて乗せた。
「姐さん、そこよりちぃとばかし右に」
「こォかァ? それとも、こっちかよォ、黯?」
「気持ち、左でやす。一寸、ほんの一寸!」
そこであえて、戀夏は両まぶたを閉じた。
(一寸、一寸……ーー)
くんっ、と。
戀夏の爪先が何かに押し止められるような指先の微妙な感覚をかろうじて感じられたのと。
滅黯が叫んだのは、完全に同時だった。
「今ですぜ。射ちなせぇ、姐さん!」
「ーーおォよォ!」
弦鳴りの音が、闇の夜空に響き渡った。
弓など扱ったことのない戀夏が、慣れない手つきでしかし標的目がけて確実に弓を放った。
滅黯が手にした、残り八本の矢に、飆が口元を覆い隠す黒革の下から、にんまりと笑みを浮かべていた。
「知っとるか、お雪。紅い炎よりもーー……熱いんは、青の方なんえ!」
ぐびっ、と一気に本直しを飲み切り、江戸切子をお雪に手渡すと同時に。
地を蹴って待乳山診療所の屋根に飛び移った。
「わてに貸しぃや!!!」
有無を言わさず、飆は戀夏と滅黯の手から、弓と矢を奪った。
右手の指先をわずかに口元を覆い隠す黒革の上部にかけるや否や、その口元から旋風を吐くとーー。
弓と矢の両方が、轟! と青い炎に包まれた。
ーー参、肆、伍、陸、七、捌、玖、拾ーー
凄まじいまでの弦鳴りの音が、屋根の上にいる戀夏、滅黯、浄眩の鼓膜を激しく揺すった。
それはまぎれもなく、完全な熟練の者にしか不可能な速射であった。
ふぅ~、と息を吐き、弓を握り締めた飆が、屋根瓦の上にへたり込んだ。
「ーーそなたの弦鳴りの音、腹の底まで響いたぞ。見事なり」
満面の笑顔で親指を立てた浄眩に対し、飆は双眸を細めて同じ仕草を返した。
「おい、坊主!!」
白く透き通るようなかかとが頭頂に振り下ろされる寸前で、飆はその足首をつかみ、難を逃れた。
「オイシイとこだけかっさらってくんじゃねーよ、いちびりの上方者(もん)のガキがよォ!」
足首を軽く振り払われた戀夏は、ごく軽く、右拳で飆の頭頂をこつん、と叩いた。
戀夏はそれきり両腕を組み、紅い唇を尖らせ、そっぽを向いたが、
「ありがとうごぜぇやした」
と、滅黯は飆に対し、深く頭を下げた。
ーー次の瞬間、ドゴォ! という遠くに聞こえる爆発音をともなった盛大な地響きが、辺り一面を揺らした。
「間違げぇなく全的命中ーーでやすね、お師匠さん、姐さん」
「何やいな、それ」
「大(てぇ)したこたぁありゃあせん。あの性悪女の寮の屋根瓦ン下に爆竹を仕込んどいたんでさァ」
「んぁ? ほなら、わてとそこの刺青の姐様が射りよった弓は、全部ーー…………」
「火種に決まってんじゃねェかよーーオイ金柑坊主、今ァこっち見んな!」
三つ折りにして豊満な乳房を締めつけていた晒しを外し、一枚布に戻して上半身裸になった戀夏が、背中を向けていた。
(ーー!?)
ほんの一瞬、視界に入ってすぐに眼をそらしたが、そのしなやかで透き通るように白い肌にびっしりと彫り込まれた不動明王の刺青が、紅い炎で覆われているように見えたのだ。
ーーほどなくして、ぐい、と。
戀夏は人より遙かに深い胸の谷間に晒しの上端を、深くきつく差し込んだ。
上半身に晒し一枚。
下半身は極端に短い股引に素足と、なかなかに粋であった。
(はぁ、あないに肌晒すん、間違うてもあてには出来はられへんけど……めっちゃ綺麗や、綺麗やわぁ……)
「ーーん? ありゃ黒子ちゃん達でねェの?」
鳥目故、夜はいまいち視力が落ちる戀夏が、額に右掌の端をかざし、両眼を細めた。
待乳山診療所の前で止まったその籠の中から姿を現したのは、間違いなく新谷だった。
右肩に面長の大蛇の頭蓋骨が喰らいつき、首の付け根から繋がった三尺ほどの矢頭形の長い尾が生えーー。
全身に返り血を浴び、髪は逆立ち。
両腕両足には、逆立った羆のような獣毛に似た、剛毛が生えている。
背中のマリア像の刺青も丸出しで、血赤珊瑚のロザリオを裸の胸元まで垂らしている。
「……新谷……おめェ……!?」
真っ先に新谷の異変に気づいたのは、さすがというべきか、戀夏だった。
その瞬間、滅黯とお雪の背中に、突然冷水を浴びせられるような凄まじい怖気と寒さが襲いかかった。
「! ーー新谷さん、あんた様、まさか……」
「あァ、い、嫌や、嫌や!」
「どないしてん、お雪!?」
我と我が身を抱き締めて、激しく頭(かぶり)とともに三つ編みに編まれた髪を振り乱すお雪に、屋根瓦から飛び降りた飆が駆け寄った。
「おゆーー……!?」
お雪が、飆の両腕にしがみつき、瘧にかかったかのように全身をガタガタ震わせ。
その紅の双眸からは、ボロボロと涙を流していた。
「足りひんかった、足りひんかったんや、あん御浪人はんには……両掌の聖痕(スティグマ)だけや……」
「オイ黯! 新谷の奴どうしちまったんだよォ!?」
「ありゃあ【慚愧】でやす……」
「【慚愧】ィ……? あっ、逃げろォ、黒子ちゃん!」
ーー【慚愧】と化した新谷の左掌に、あるはずのない槍が握られ
それが籠の前を担いでいた黒子の首を斜め横に貫いた。
黒子は、首に穴の開いた紙で出来た人型(ひとがた)に姿を変えた。
それと同時に、槍も霧のように消え去った。
「戀夏、これはそなたの役目ぞっ! ぬかるな!」
「言われねェでもわかってらァ、旦那よォ!」
戀夏が屋根から飛び降り、やや身を屈めて新谷に向かって駆け出した。
その間にも、逃げ去ろうとするもうひとりの黒子に、新谷が刀を投げつけ、喉仏から七寸ほど先を貫いた。
刀は地に落ち、そのかたわらに、のどを横に切られた紙の人型がひらりと舞い落ちた。
「だァーーらっしゃァ!」
ゆるゆるとした足取りで、刀を拾い上げようとした新谷の背中に、赤い鼻緒の黒いぽっくりを履いた背中に飛び蹴りを、そして右ひざを盆のくぼに叩き込んだ。
新谷は激しく咳き込みながら地を転がり、戀夏は素早く刀の鞘を爪先で蹴転がし、刀は空中で弧を描き、待乳山診療所の裏庭に突き刺さった。
それよりわずかに速く、戀夏は自身より一尺以上背丈の高い、六尺越えの新谷の上半身にまたがり。
右ひざで新谷ののどに体重をかけ、右足で新谷の左の二の腕を踏み。
左足で、右ひじから右手首までを抑えつけていた。
「そのロザリオは、血赤珊瑚つっても、てめぇの血なんぞで汚したかァねェからよ、アタシが代わりに首からかけて、晒しの中に押し込んどいてやる。てんめェ、っの野郎ーー!!」
右も左もなく、ただもうめちゃくちゃに左右の拳で、新谷の顔を殴り散らかした。
六尺越えの大柄な浪人が、五尺と二寸強の細い腕に、殴(や)らるがままだ。
鼻血を垂らし、口の中を派手に切ったのだろう、唇の両端から大量の血を流し、意識が朦朧となったところで、左右の拳の連打がようやく止んだ。
「ーー来い、コラァ! どうせ立てやしねぇだろうから、アタシが連れてってやらァ!」
蓬髪をわしづかみにし、返り血を髪に、顔に、晒しに。
点々と血で染めた姿に加え、汗で濡れた金茶色の髪を振り乱して、戀夏は待乳山診療所の裏庭にある風呂場に向かった。
あの、聖水を湛えた特製の風呂場にーー。
バン! と音を立てて風呂場の戸を開けるや否や、戀夏はうつ伏せにした新谷を浴槽に沈め。
晒しと極端に短い黒の股引を履いた、着の身着のままの姿で、新谷の背中に重なり、自身も聖水風呂に浸かりながら、両腕で後ろから新谷の首を締め上げた。
「姐さん!」
(はっ、アタシは隅田の禰々子河童と呼ばれた舟饅頭さね。水ン中でしばらく息止めるぐれェ、どうってこたねェさーーそれより、これ!)
水面から突き出された戀夏の腕には、新谷が命の次に大事にしている、あの血赤珊瑚のロザリオだった。
そこに駆けつけて来た飆とお雪が、ともに眼を見開いた。
「お預かり致しやす」
滅黯は恭しくロザリオを受け取り、懐にしまい込んだ。
「おほっ、江戸のおなごは、えろう気性が激しゅうおますわいなぁ」
腕組みし、風呂場の戸口に寄りかかりながら、飆が笑った。
「……いや、あの御方は江戸どころか、東(あずま)のおなごン中でも、別格中の別格でやすぜ」
その瞬間、聖水風呂に沈められていた両腕両足が、激しくもがき始めた。
息苦しさに悶えているのかと思いきや、とうに泣き止んでいるものの、まだ飆の右腕にしがみついて離れられないでいたお雪が叫んだ。
「ーー蛇!!」
「蛇? でやすか?」
強力な術者にして日本古来の神道に、密教を会得した滅黯には何も感じられなかったが。
生粋のキリシタンたるお雪には、見えたのだ。
あの林檎の樹木に絡み、キリシタンにとっては始まりの男女に原罪を負わせ、楽園を追放させた蛇の逸話を当たり前に知っている者として。
「蛇が、蛇が御浪人はんの体内を隠れ蓑にしてはります」
「ざけろや、まだ生き残っとったんかいな、あの性悪蛇女」
「確かに蛇は水棲でもありやすが、これは聖水風呂。傍から見りゃ息が出来ねェで危のうごぜぇやすが、聖水にやられた不浄の蛇より長く浸かってられりゃ、新谷さんが勝ちやすーー敬虔な信者でごぜぇやすからねェ」
「せ、せやけどーー」
「……どうしてもこの御浪人と姐さんを救いてェってんなら、歌をお頼み申しやす、上方のお嬢さん」
「う、歌?」
滅黯が、指先で喉仏をつついた。
「……♪……あぁ~参ろ~うや、参ろ~うや~なぁ~……ハライーソの寺にーぞ、参ろ~うや~な~ぁ~……」
滅黯ののどから、新谷の歌声が溢れ出した。
驚き、思わず襟の合わせをきゅっと握ると、あの本真珠と伽羅の原木で出来た、正方形のロザリオを胸元から取り出し、両掌で握り締めた。
「ハライソ~の寺に~ぞ参ろう~やなーぁ……ハライ~ソの寺と~は……申す~やな~ぁ~……」
「『広い~ぃ~寺と~は申す~やなぁ~……狭い~な広い~は我が胸~にあ~りぃ~……』」
その瞬間、ごげばぁっ、と奇矯な声を上げ、
背中にのしかかっていた戀夏を跳ねのける勢いで、聖水風呂から飛び起きた新谷が、風呂の縁に腹を乗せ、口の中から大量の長い黒髪を吐いた。
「うっぎゃ!」
飆が思わず、頓狂な大声を上げ、風呂場の外に尻餅をつき、左掌でかろうじて身を支えた。
だが、髪だけで終わりではなかった。
長い黒髪だけに留まらず、続けて赤ん坊ほどの小さな人間の頭が。
しゅるしゅると山中の叢の中に逃げ込むように身をくねらせて風呂場から逃げ出したその下半身は、まぎれもなく蛇の身であった。
真っ先に風呂場から飛び出したのは、ずぶ濡れの戀夏だった。
ーー待乳山診療所の裏庭まで逃げ出した人頭蛇身の異形のものは、その場でとぐろを巻くほどに大きくなり、その上半身は乳房のふくれた大人の女の姿に、一瞬にして変化したーーが、その身は頭頂からへそ下に至るまで、左が一寸ほど高く、右もまた一寸低く下がり、身体が左右非対称にずれていた。
ーー澪だ。
根岸の寮で、新谷に逆唐竹割りにされた澪の怨念が、死に際に飲み込んだ、まだおたまじゃくし状の小さな蝮とヤマカガシを裂けた股の中に押し込み、屍の胎内で孵化させたのだ。
「っの蛇女ァ! あたしがまたまっぷたつにぶった斬ってやらァ。下は白焼きと蒲焼両方にして、酒のアテにしてやんよォ!」
だがごくわずかの隙をつき、澪の下半身が戀夏の首から腰までぐるりと巻きつき、その細い身体を右足のひざまで、骨がきしむまで締めつけにかかった。
「ーー!!」
首だけではなく、片足のひざまで浸透するあまりの息苦しさに、戀夏の全身ががくがくと震えた。
耳元まで裂けた口に壮絶な笑みを浮かべ、だらだらと毒液を滴らせた上下の牙が、戀夏の右首筋に迫って来る。
だというのに、いつもの怪腕力がまったく通じない。
「……っの、ォ……て、てめぇみてェなバケモンなんか、に、よォ……」
ギリギリと首を締めつけられながら、戀夏は口腔にたっぷり溜めていた自身の唾液を、文字通り「蛇の目」になった澪の双眸に、ぺっ、と吐きつけた。
「!?」
どうやら、常日頃から喫煙している戀夏の唾液には、蛇が嫌う煙草の成分が少なからず含まれていたらしい。
視界を塞がれた澪が身悶えしたその瞬間を狙って、戀夏は澪の左首筋に思い切り歯を立てようとしたーーが、その瞬間。
突然、夜には不釣り合いなガァ! という野太い鳴き声が辺りに響き渡った。
(ヤ、ヤタどん!)
浄眩が使役する、嘴太烏のヤタだ。
嘴太の名通り、漆黒の太い嘴に何か小ぶりの包みを下げ、それを上空に向かって掲げていた主の右掌の上に落とすと、浄眩の頭上を数回飛びまわりながら、一声、
「カ・ア」
と鳴き、黒い羽を巻き散らしながら、夜空に飛び立って行った。
「『神』が『阿』と鳴いたーー」
その直後、十枚ほどの御札が、澪の蛇身に巻きつくように貼りついた。
燃え盛り続ける篝火でかろうじて見えたのは、十枚の札を通した釣り糸と、返しのついた釣り針。
声にならない声を上げて澪がのどを激しくかきむしり、人間の女の裸身が、血まみれになる。
蛇の下半身から、極細の釣り糸がギリギリと喰い込むのを止めようと、十枚の爪の中まで、血で真っ赤に染まった両手の指で引き抜こうとすれば、左右の指がボロボロと落ち、鱗の身に刺さった釣り針を引き抜こうとしようものなら、鱗身がぐちゃぐちゃに抉られ、澪は激しく狂乱した。
そして、屋根瓦からどざざざーーっと、大量の煙草臭い砂が、澪の頭から尾の先まで降り注ぎ、戀夏までそれを浴びる羽目になった。
「安珍居らずの清姫様、御執着が過ぎまするぞ」
澪、ではなく。
安珍居らずの清姫様、と呼んだ浄眩が、ひとり屋根瓦の上に座り、つぶやいた。
「薩摩は霧島の、大穴持神社の蝮避けの札と、守砂ぞ。それに、若煙草の葉を燃やしたものを混ぜ込んだのよ。さぞ苦しかろうよーー兎知平に長旅を頼んだ甲斐があったわ。後でうんと労ってやらねばな」
「てめコラ、糸目の生臭坊主ぅ! 何でアタシまで!」
「けっこう毛だらけ猫灰だらけ~文句があるなら、その安珍居らずの清姫に八つ当たりせぬかえ」
「あー、そーかいそーかい。ほんじゃ、全殺上等で斬らせて頂きますよ」
言うなり、戀夏は塩をかけられたナメクジの如く地でのたうちまわっている澪の頭に手をかけた。
草むしりをするかのように、両掌に一束ずつ髪をむしり取りながら、その頭皮を血まみれの荒地にして行く。
「どんだけの怨念があんだか知んねェけどなァ、たかが人外の蛇女如きがよォーー」
戀夏は素手で、蝮の毒液の源である上下の牙をへし折った。
あろうことか、上の毒牙は澪の上半身の両乳首に貫き。
かろうじて人間の女性器を保っていた股間に、さね(クリトリス)の包皮をむしり、真っ赤な無防備になった女性に、左右互い違いに突き刺した。
当たり前だが、女の一番敏感な部分に、鋭く尖った毒塊が突き刺さったのだ。
断末魔に似た澪の悲鳴が、澪ののどからほとばしった。
「へっ、舟饅頭時代、医者見習いの客に、注射器とかって舶来物の細っせーーぇ竹筒みてェなもんで阿片を刺されそうになったとき、聞いたんだィ。何でも、乳首と豆に針刺して、葦(よし)の髄みてェな穴開けて、そっから液を流し込むと、煙草にして吸うよか、ど頭(どたま)がイカれっちまうんだってねェ?」
ーー人中の上から、拳を一発。
続けざま、下前歯、右頬、左頬と左右の拳を口まわりに喰らわせると、澪の左右の口端から大量の血があふれ出し。
真っ赤な鉄臭い血溜まりが出来。
そこに、血とは対称的な白い塊がいくつも浮かび上がった。
「姐さん、後はあっしが始末しやす。今はとにかく、すぐにでも風呂の中の聖水を全身に浴びるなり浸かるなりして下せぇ!」
「わーった、黯、あと頼むな!」
滅黯の左手には、二枚の半紙が握られていた。
そのまま、慣れた手つきで浅葱色の左袖をまくり、素早く両袖にたすきがけをした。
そして近くに突き刺さっていた新谷の刀を、抜き取ることなく、左腕の内側と垂直に何度もこすり合わせると、当たり前ながら、大量の血が滴り落ちた。
その血を、左手の人差し指の腹でなぞり上げると。
赤い墨代わりに血で濡れた指先は、観音経の一節をさらさらと半紙に記した。
「念彼観音力 疾走無辺方 蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自迴去」
もう一枚にも、同じ経文を。
その二枚の半紙の四隅の角が一分のずれもなく重ね合わされると、盲目の上に青海波の手ぬぐいで目隠しをしているとは思えないほど器用に素早く、篝火に半紙を傾けると、それは瞬く間に火に侵食され、澪の上半身と下半身にわけて落とした。
全身に蝮除けの札を貼られ、同じく蝮祓いの守砂に、若煙草の焼き殼をまんべんなく混ぜ込んだものを全身に浴びた澪の身は、前述した塩をかけられたナメクジのように縮み、消失した。
(何ちゅうやっちゃ、あないな珍妙な術者(もん)に、拳ひとつで人ひとりの歯ぁ、全部へし折りよるおなごに素早く、斬鬼の御浪人はんーー死んでも敵にまわしたらあかん奴らやで、こら)
飆の全身が、ぞわっと粟立った。
「ーー上方の殺し屋はん、何やらウチとこのヤタどんと似た、使いの者(もん)が来たようですぜ」
「何やて?」
まるで人の心の中を見透かしているような、滅黯の言葉に。
飆は、暗闇の夜空を見上げた。
すると確かに、西陣織の豪奢な着物を身にまとい、羽衣代わりの紗(うすぎぬ)を頭からかぶり。
鼻から下を長い一枚布で覆い隠した齢十ほどの少女が、月明かりに照らされて、待乳山診療所の空中に浮かび上がった。
「御記書御渡役様、えろう……いえ、たいへんな御足労にございます」
「於苑様、嵐山よりのお出で、お疲れ様でございます」
お雪は地の上に正座して三つ指をつき。
飆も正座し、左右のひざ頭にそれぞれ掌を置いて、額が両ひざにつきそうなほど、深く頭(こうべ)を垂れた。
於苑、そして御記書御渡役様(おしるしがきおわたしやくさま)と呼ばれた、市松人形の如き艶黒の髪の少女は、爪がよく整えられた裸足を地面からわずか四寸弱ほど浮かして、飆に右腕を伸ばした。
飆が、油紙に包んだ折り目だらけの半紙を一枚、天女もどきの娘に手渡した。
「こんで、間違うあらしまへん。弐拾七代目、屍ノ御前様からの御命令に預かりはりました、《惨討狩り》弐拾陸と弐拾七ーー【河内般若(かわちばんにゃ)】の是之源と、ころがし梅弥のふたりの血ィで引きよった、死留メの証どすわ」
於苑なる娘は、折り目だらけの半紙に目を通し、ふたたび折り目に沿って半紙を畳み直すと、それを懐に差し込んだ。
だが次の瞬間、於苑は既に京に向け、闇の夜空に遙か高く、舞い戻ってしまった。
ーー屍ノ御前から、彼らの任務遂行を意図する半紙一枚を残して。
興味津々に、浄眩がその半紙を拾い上げた。
硯の上で丁寧に良く擦られた墨を含んだ細筆で記された、恐ろしく達筆な字を読み上げた。
『弐拾七代目 屍ノ御前御側仕
惨討狩り死留メ証
聢承候 御記書御渡役
兎口ノ於苑 月のを参る
弐拾七代目 屍ノ御前 拝……』
浄眩が、くすりと笑いを漏らした。
「ふふ、兎故に月のをとなーー屍ノ御前様とやらは、ずいぶんと風流な御方と見ゆる。【鬼来迎】ーーなかなか面白い殺し専門の商人衆のようだの」
「ふたつ文字
牛の角文字
すぐの文字ーー」
「何や、あの目隠しの若い按摩はんはともかく。斬鬼になってまうほどの御浪人はんに、あんだけ荒くれ者の姐さん従えとるさかいに、この手のことはさっぱりかと思うとりましたが、おわかりにならはりますかいな」
飆が、腕組みしながら素直に驚いた様子を見せつつ、浄眩に話しかけた。
「そなたらは、やはり京の洛中の者か」
「へぇ、藤原教通様の『月』と、小式部内侍様の『を』の故事に倣いましてんーー」
お雪が、判じものたる詠の続きを口にした。
「ゆがみ文字とぞ」
「君を忍びつ」
「月のを参るーー」
具合良く、お雪の可憐な声で詠が終わる。
「お雪とやらに問う、ふたつ、牛、すぐ、ゆがみの心は?」
「こ・い・し・く、に。あらしゃります」
「そなたらは、ともに京の洛中の生まれであろう?」
「へえ、せやけどーー……」
お雪と飆が、ともに黙り込んだ。
「わてらーー……生まれは京は京やけど、崇仁の生まれやさかいに……」
「崇仁……あぁ、左様であるか」
「せやさかい、あてらは何代も前から【鬼来迎】に属して、死男と殺女としてしか生きられへんかったんどす。上方は東(あずま)より、そないな場所が多おすから」
「けっ、生まれた場所があんだってのさ」
金茶色の髪を上に束ねながら、先ほどまで聖水風呂浸かっていたがためにびしょ濡れの髪をねじって水気を絞りながら。
滅黯に、通常より大きい左右の乳房の大きさを考慮して、やや幅広く裁断してもらった晒しを上半身に巻き、下は待乳山診療所の、客用の白い浴衣を縮緬帯で端折り。
細長い色白の素足を剥き出しにして、現れた。
「ーーあたしのかかさん、長崎出島のらしゃめん。黯は吉原はお歯黒どぶの捨て子さね」
えっ……と、お雪と飆が口だけを開き、驚愕した。
「だけどねェ、露草も白粉花もたんぽぽも薊も、綺麗に花ァ咲かせて、町中どこにでも生えて、あぁ綺麗だねって言われるだけだィ。どこから飛んで来た種だろうと、誰も気にしやァしねェぞォ?」
「そない言われても、崇仁に生まれはったさかいに、わてらは【鬼来迎】の屍ノ御前様に代々お仕え出来はるんや。わてにとってもお雪にとっても、崇仁生まれの死男に殺女なんは、心からの誇りや!」
「なら、それでいいじゃねェかよ、何の文句があんだよ」
「…………あ…………」
戀夏の一喝に、しばしの間を置いて。
飆が、そっくり返って盛大に笑い声を上げた。
口元をずっと覆い隠していた、上下に鋲を打った黒革の覆いを外し、素顔を晒した。
彼の左頬には、
《鏖》
そして右頬には、大きな蝿と、その羽根に髑髏の下に二本の骨を交差させた、ベルゼバブの刺青が彫られていた。
「ええやろ、こん刺青。知ってはるやろ、蝿のすばしっこさーーこいつぁ、悪い意味での『俊敏さ』ちゅう意味で彫ったんや」
「へー。あ、そ」
「はぁ?『あ、そ』て何やいな! もちっと何ぞ反応せんかい!」
戀夏は一言つぶやくと、両足をふらつかせながら、縁台の上に仰向けに寝転がり、そのままあっさりと眠りについてしまった。
「あ、姐さん!?」
慌てて駆け寄った滅黯に、浄眩は素っ気なく言い放った。
「ただの焼酎の飲み過ぎだ。あの澪なる姿形だけのうわばみ娘より、本物のうわばみだからのう、こやつは」
急ぎ足で夏がけと枕を診療所の中から持って来た滅黯が、縁台の端から濡れ髪を垂らした戀夏の頭の下に敷き、夏がけを腹の下から足首までかけてやった。
「このバカ、聖水風呂で血を流した後に井戸水で身を浄めて、風呂上がり気分で本直し用に冷やしておいた焼酎を飲んだなーーおい滅黯、そんなに世話焼いてやる必要はない、放っとけ!」
「いえ、こうでもしとかねぇと、寝てる間に大股おっ広げちまって、姐さんの観音様が御開帳になっちまいまさぁ」
まだまだ冷え切っている、一升瓶の焼酎の底から残りわずか四寸弱になっているのを、浄眩は井戸の脇に転がっていたのを拾い上げ、蓋を開けてラッパ飲みにした。
ぶはーーっと、口から胃の腑が焼けるかのような、熱い息を吐いた。
浄眩は、その空になった一升瓶を手に乗せると、硝子細工のように赤く灯し、燃え上がらせた。
お雪と飆がともに眼を見張ると、一升瓶は瞬く間に元の原形を留めないほどに変化した。
ひとつは翡翠に、極細の輪がついた指輪。
もうひとつは、筆によるめちゃくちゃな黒い落書きのよう文字のようなものが浮かび上がり。
前者は、直径一寸ほどの翡翠に雪兎が描かれた、か細いお雪の左手の小指に、小さな指輪となってはめられ。
後者はベルゼバブの悪魔記号となって、飆の左首筋に、何の痛みもなく彫り込まれた。
「「!?」」
「有髪の坊(ぼん)さん、あんたいったい何者(もん)や」
「ーー趣旨は違えど、我らはともに人から依頼を受けて恨みを晴らす者同士。我らは、そなたらと違い金は貰わぬ。しかしそなたらは金銭のやり取りを行い、商いとする死の商人(あきんど)と見ゆる。故に、互いに名は名乗らぬ方がよかろうよ。しかしーー」
「我らは知ってしもうた。【鬼来迎】なる一味の者達の名を。なれば、こちらも名乗らればならぬが礼儀。そなたらが上方一帯を支配しておるのならばーー」
「我らは江戸八百八町を、うらみとすくいのふたつのすだまの懇願により、金は一銭も受け取らず秘密裏に断罪する者也。あの若い目隠しの按摩、うわばみ娘、斬鬼と化したは、八百八町に点在する【天誅殺師】が『上野喰代サの四番』らの『壱・盲針』『弐・雪血華』『参・錆刀』ぞ」
「ーーと、あんた様方の元締め【屍ノ御前様】に該当なさるんは、【暁に祈る巫女様】と申しやす」
「おおきに」
飆は黒革の顔隠しを外し、両ひざに両掌をついて頭を下げている滅黯に、同じ格好で頭を下げた。
「ほなら、せめてわてらの組み名だけでも名乗らせてや。わてらは【洛中崇仁蓮角(らくちゅうすうじんれんかく)】ーー」でおます。それと……」
「あの御浪人様に、よろしゅうお伝え下さりはるよう……あての洗礼名はモルガンお雪、どす」
「こちらこそ、御丁寧にありがとうごぜぇやす」
「帰ろな、お雪」
「せやな」
飆の言葉に、お雪がうなずいた。
それと同時に、飆が懐から何枚もの黒い折り紙で折られた凧を取り出すと。
素早く九字を組むや否や、その紙の凧は、百枚近い三角凧を連ねた連凧に変じ、飆が口から吐いた息で、ぶわっと夜空に舞い上がった。
飆がいちばん手前の三角凧につけた二本の手綱のようなものの右側を操り、指抜き手袋を両掌にはめ、手綱のようなものを幾重にも巻きつけ、もやい結びにした。
そして、お雪が帯から下げていた、西陣織の香り袋の中から、何かを取り出し、すぼめた両掌を差し出すと、ふたたび九字を切るとーー。
蝙蝠の形に折られた折り紙だったそれは、身の丈六尺の大きさに化けた。
広げられた翼は、横五尺、縦三寸ほど。
お雪は連凧の左側につけられた綱を腰に巻きつけ、固結びにしてから蝙蝠の背に、斜め座りに乗り、その身を預けた。
「飆、偲(しの)はいつでも立てるえ」
偲とは、この蝙蝠の名だろう。
それを耳にした途端、飆は、腹をへこませるほど深く息を吸いながら瞬足で駆け出すと、その先にあった民家の垣根を足場にし、口元から吐いた大量の息を旋風に変えーー。
ふたりは、闇夜に消えて行った。
「あぁ、そういやお師匠(おっしょ)さん! 新谷さんは風呂場であのまんまですぜ!?」
「え? あぁっ!!」
慌てて浄眩と滅黯が風呂場に駆けつけると、そこには思いもよらない光景があったーー。
――――――――――――――――――――
数日前。
一晩を待乳山診療所で過ごし、
昼の四ツ半頃に『於多福屋』に帰り着くるなり。
新谷は見事に風邪をひいた。
完全な湯冷めだ。
二階の自室の障子を全開にし、本来なら夏用の簾を垂らし、とにかく風に当たった。
元より体温の高い六尺越えの大男に、発熱は並の者より堪える。
寝巻きの浴衣をはだけ褌を晒し、ひたすらにうちわで自分で自分を仰ぐしかない。
熱があるようだすぐさまおふくとお松に訴え、万年床に入った途端、歯の根が合わずにガチガチと音が鳴るほどの凄まじい悪寒に襲われ、あっという間に高熱を発した。
ーー三十九度。
夕餉種抜きの梅干しを匙で潰しつつ、
「アタシャ、この齢になって初めて知ったよ。『バカは風邪ひかない』ってのは嘘か『バカでも風邪はひく』のどっちだろうねぇ?」
ケタケタ笑うおふくの戯言を真に受け、
「ひっちゃかましか、こんふーけもんのババアが!」
あまりにツボに入ったらしく、おふくがそっくり返って笑った途端、そのはずみで、彼女はぎっくり腰になった。
そのため、当面は待乳山診療所での療養が必要になったからだ。
ーー同居中のお松はわずか十歳ながら、待乳山診療所のおふくには着替えと、空き地や野原で摘んだ花を届け。
その代わりに、洗い物になって戻って来るおふくの浴衣や腰巻き。
滅黯が処方する熱冷ましの麻黄湯、咳止めの五虎湯を持ち帰り、届けてくれる。
さらには、新谷には朝夕に焼き鮭や干物の鯵のほぐし身、ちりめんに刻み大葉、三つ葉、昆布の佃煮と、毎日安い具材を変えて自作の粥に乗せ。
食前に服用するための漢方薬二種類を服用するための水と、飲用の氷水をわざわざ別にして運んで来てくれるのだ。
それも、間違いがないようにわざわざ一階の戸棚から探した、水差しと大ぶりの湯呑みな分けて、だ。
「お松坊」
「何? 新谷の兄ィ」
「わいば、まうごつよか嫁ごになれるっちゃん。男のおいが保証しちゃるけんな」
「へ?」
「お松坊ば、あと五、六年したら、やっちゃべっぴんになりよるて、ババアがよう言うとるけん、そいはおいもそんげん思っとるばい。十五、十六ばなったお松坊ば、男ば放っとかんとやろな」
「え、ぁ……?」
「上野は甘味処【紅はこべ】の小町娘て、どこぞの絵師が美人画にしとるかも知れんったいなぁ」
言われた途端、お松は両頬を真っ赤に染め、ひどく困ったように、左右の掌で顔を押さえ、うつむいて無意味に視線をあちこちにさまよわせた。
空になった、底に菜種油色で銀杏(いちょう)の絵が描かれた、内側は藍白、外側は無地ながら海松色に染まった丼と、黒鳶色の木匙を慌てて盆の上に乗せると。
無言で新谷の住む四畳半の部屋を飛び出し、足早に階段を駆け降りて行った。
ちなみに今日の粥に乗っていたのは、お松がおふくに習って作り方を教えてもらった、野沢菜の浅漬けを刻んだものだった。
やはり、美味かった。
(あんげん照れてあせがって、こいばちょおっとちんちょかもばい。ばってん、こいでお松坊ばケガでもさせよったら、ババアと姐さんに半殺しにされるかも知れんばい。もう止めにすっとがよかけんな)
「か~~っ、不覚ばい。おいがきゃーげんちーたるたぁ~~」
この時代、言うまでもなく体温計などないが、現在、新谷の体温はやや下がったとはいえ、まだ三十八度七分だ。
なかばやけになってふて寝を決め込み、毎日お松が干して取り替えてくれる煎餅布団の上に大の字になると。
新谷は知らぬ間に両掌に出来ていた【聖痕】の傷跡を見た。
(おいんごときが、こげんたいそうなもんーー)
しかし、新谷は思い出していた。
亡父から教えられた、聖痕を我が身に現した外国(とっくに)のキリシタンの逸話を。
ーー現代では旧東ドイツ、ベルリン西南はドイツ共和国内のプランデンブルク郡独立市ポツダム付近のウィルスナック寺院にて、聖餅が血を噴出させた逸話。
アッシジのフランチェスコ。
ドミニコ修道会の、シエナの尼僧、カタリナ。
ーー加えて、一八一二年十二月より、アンナなるシスターが、両掌と両足の甲から、十一年もの間、毎週金曜日に血液を噴出させたという話もある。
(おいんば、聖痕やなしにただの不名誉の傷跡ばい……)
そのとき、ふとーー。
心地よい涼風に吹かれ、夏用の簾が室内に向かってめくれると、簾の裾から、一羽の鳩が飛び込んで来た。
「何ね!?」
鳩はおとなしく、飛び起きた新谷のかたわらに止まり。
首から下げた小さな巾着をデーデー、ポッポー、と鳴きながら、見せつけた。
「こいに、何ぞ入っとるとか?」
鳩の首から巾着を外し、中を取り出した。
逆三角に結ばれた、小さな文。
それから、金銀の千代紙が皺ひとつなく貼られた、大ぶりの蛤の貝殻。
そして大雑把に見て、縦二寸、横四寸ほどの、かのシエナのカタリナの、楕円形の木枠に納められた、油絵の肖像画だった。
新谷は慌てて逆三角に結ばれた文をほどくと、差出人はお雪だった。
ただ、モルガンお雪より、としか書かれていない。
「ゆき……お雪て、誰(だい)ね?」
「上方の、白子の雪兎ちゃんですたい。それも、キリシタンのねェ」
「あ、あぁ、姐さん!?」
めくれ上がった簾の下。
あられもなく大股を広げて、ぽっくりを履いた両足を障子の桟の上に乗せ、左掌で簾を持ち上げていた。
上半身ーーというより、豊満な乳房に晒しを巻き、下はいつもの股下一寸ほどの黒い股引。
その上に、寸づまりのような、腰まであるかないかの黒襟に、白地に緋牡丹柄の法被に袖を通して。
「艶文かァ?」
「ち、違うとです!」
「それよか姐さん、そぎゃん格好ばして、どこん何しに行くとですか?」
「花仕舞いだァよォ」
「……花……仕舞い……?」
「あの蛇女の住み処に咲いてた、燃えちまった花の供養と、まだ残ってる花ァ集めに行くんだよ。糸目の生臭坊主と、黯と一緒にねェ。ところで、よォ」
何を聞かれるのか。
高熱でぼんやりした頭で、新谷は思わず身がまえた。
「おめェ、松っこの奴、何かからかいやがっただろ」
図星を突かれ、新谷は二の句が継げなかった。
「《於多福屋》は休業中だってのに、わざわざ店の前掃き掃除してっから、ご褒美に、近所の婆っちゃからもらった五家宝やったんだよ。んで、二階に通してくれって頼んだら、顔真っ赤にして入り口閉めたと思ったら、鍵ィ、がちゃん! で、それっきりだィ」
「…………」
「あんなァ、松っこに何言ったんだよ? 事と次第によっちゃ、ただじゃすませねェ性質(たち)なのは、おめェがいちばんよく知ってんだろがィ。教えろや、ほれほれ」
ニヤニヤしながら、戀夏は浴衣をはだけていた新谷の褌の中に右掌を差し入れ、手コキを始めた。
素早く上下に、ときにじらすように、わざとゆっくりり、ゆっくりと。
風邪をひき熱を全身に帯びていても、いや、だからこそ、この淫靡な尋問は普段より実によく効いた。
「あ、お、おいば、お松坊ばーー」
「それからァ?」
すぐさま、戀夏の尋問は口淫に変わった。
男根を根元まで口に含んでは、柔らかく、かつ丁重に陰嚢を両掌で揉むかと思えば。
舌先で鈴口だけを舐める。
「こ、小町娘、ばなる、て……」
「あんだ、そんなことかよ」 ペりペりと音を立てて、豊満な乳房をあらわにすると。
戀夏は谷間に新谷の男根をはさみ、こすり上げながら、すでに先走り汁がにじみ出している亀頭を口に咥え、執拗なまでに舐め尽くし、舌先で鈴口を突き続けるとーー。
「んふ。あんたの汁は、いつも甘くて美味いねェ」
精飲し終えた戀夏は、左の口端から垂れた精液を左手の人差し指で拭い、じゅるりと舐めた。
「ただ、甘くて美味いのはいいけど、のどが乾くんだよねェーーあァちょうどいいや、これ、貰うよォ」
とうにぬるくなってしまったが、戀夏は新谷の枕元に置かれた氷水だったものを、ほぼ一気に。
それも、さも美味そうに飲み干した。
謙虚にも、それまで外に控えていた鳩が簾をくぐって、晒しを乳房に巻き直した戀夏の左肩に止まった。
「お、鳩ぽっぽ何だよ。しかしやることやって、あたしが乳に晒し巻き直すまで外で待ってるたァ、賢い子だねェ、あんた」
「…………」
何故か自分が異常に情けなくなり、ちり紙でひとり後始末をしていると、戀夏がいちばん触れられたくない話題を口にした。
「そういや黯かず、ら聞いたんだけどよォ、おめェ背中に刺青(スミ)彫れたんだってェ? 水臭せェなァ、何であたしにいのいちばんに見せてくんね……」
「姐さん、いけんばい!」
しかし、帯を緩めていた浴衣はすぐさま腰まで引きずり下ろされた。
「ーー!? あ、新谷、てめ、これ……」
白百合を抱く聖母マリアの刺青如きに驚く戀夏ではない。
さしもの戀夏さえ絶句したのは、刺青のマリア像の双眸。
背中から腰、臀部、太ももの裏からひざの裏、果ては左右のかかとまで果てしなく滴り落ちる、血の涙だった。
「……っだよ……これ……!?」
思わず右手の人差し指で触れたが、その血は指の腹には付着しなかった。
そのとき鳩がつんつくつんつく、金銀の千代紙を貼った蛤を嘴でつついた。
「あんだよ、お香立てかァ?」
戀夏が蓋を開けると、かぐわしい芳香が、ふわりと立った。
「!!」
新谷は突然戀夏と向かい合い、彼女の右掌からそれを奪い取るや否や、鼻を近づけて香りを嗅いだ。
「こ……香油ばい!」
「へェ、それかよ。おめェらの間で香油ってェと……」
キリシタン達の間に於いて、香油はただ香りのよい軟膏程度のものではない。
牛乳とバターに香りをつけ、病気の者の身に注ぎ、慰めの効果を持つとされる、ある種の秘薬であり。
油そそぎなるキリシタンの儀式に使われる。
つんつくつんつく、鳩は新谷の背中をつついた。
「おっしゃ、わかったぞ鳩ぽっぽ!」
戀夏が新谷から金銀の千代紙を貼った蛤を奪い取り、人差し指でぐりっと軟膏状の香油をえぐり取り、唇に挟んだ。
「あ、姐さ、何しょー……っ!」
戀夏の唇の熱さにほどよく溶けた香油が、マリア像の刺青の右眼に触れた。
次いで、左眼にも。
「っ……」
仰向けかつ全裸にされ。
背中の両側に、痛みもなければ浴衣にも布団に染み込むこともない血の滴りが、溶けた香油を含んだ戀夏の唇になぞられる。
戀夏の唇の線に沿って、マリア像の刺青から滴り落ちる血が、嘘のように消えて行く。
だが香油を含んだ戀夏の唇の感触には、性的かつ官能的なものは一切感じられなかった。
ただただ、安らぎばかり。
心の底からの温かさに、いつしか新谷は眠りに就いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「悪りィ、遅れちまったィ!」
かの、全焼した澪らの春画描かき専用の裏庭に、三人の人物が集まって既に作業を始めていた。
一人目、滅黯は花鋏を持ち、いつも両眼を隠している青海波柄の手ぬぐいを広げ、目隠ししながら残りの手ぬぐいで、立髪の頭を覆っている。
足元はいつもの一本歯の下駄ではなく、古びた軍足と、粗末な草鞋だ。
「禰々ちゃぁ~~んっ!!」
かろうじて焼け残った、裏庭の目隠したる、竹を敷きつめる形式の建仁寺垣をひょいと飛び越えると、いきなり薄柿地に小豆色の立湧柄の野良着を着、頭に色の抜けた、紅掛花色の井桁模様の人物が飛びつき、抱きついて来た。
「へ? あんた、古琳さぁ? どこのおばはんかと思ったよォ」
「やぁねぇ、同い年じゃないのよぉ、アタシ達それにーー」
「あたしはもう禰々子じゃねェよ」
「アタシも、もう古琳さぁじゃなく、極楽寺の男庵主、菊門尼青髭よン?」
いつも通りのやり取りを交わしてから、戀夏と青髭は右掌を重ね合わせ、ぱん! と小気味よい音を打ち鳴らした。
「可哀想に、燃えちまった花はアタシがもうあらかた刈っちまったよ。だからアタシの仕事は、これからアンタ達に出すお茶とおにぎりの支度さね」
「で、あたしの仕事ァ?」
「黯ちゃんと同じよン。まだ燃えないで残ってる花を摘んで頂戴な」
言いながら、青髭は花鋏を戀夏に手渡した。
ふと見ると、極楽寺の寺男にして青髭の男役の愛人ーー作造が、両掌を煤だらけにしながら、燃えてしまった花を束にして、細い縄で括り、猫車の上に乗せていた。
ゾっとするほど鋭い目つきに、細く長い眉、坊主頭。
利休色の作務衣に、地下足袋。
拷問と緊縛の名手たる、痩せてはいるが身の丈は新谷と同等で。
よく見れば相当に端正な顔立ちなのに、常に無感情かつ無表情で無口と、三拍子揃った冷酷な印象しかない寺男の顔に、燃えてしまった花々に対する悲哀のようなものがにじみ出ているのを、戀夏は確かに見た。
「見えやしたか」
「うん……」
花鋏を手に、戀夏は物悲しい気持ちになった。
「そんな顔、姐さんにゃ似合いやせんぜ」
「バーカ、あたしだって悲しくなるときぐらいあらァ」
ふたりの間には、井戸水を溢れんばかりに湛えた木桶が、逆正三角形の形に三つ並んで置かれていた。
その中に、まだ咲き残っている六種類の花々が、縦に差し込まれている。
しかし、戀夏は後方の木桶が妙に気になった。
「黯よォ、おめェ盲のくせしやがって、何で燃えてねェ花ァわかんだよ?」
「へへ、盲ってのは眼が使えねぇぶん、鼻と耳が見える連中よりよく鼻が利いて、耳がよく聞こえるんでさぁ。姐さん、風邪ぇひいたときに、鼻がつまって飯の味がわからなくなっちまったこと、ありゃあせんかぃ?」
「あたしゃバカじゃねェから、風邪ひいたことなんざいくらでもあらァな。それが、どしたィ?」
「あの逆と思ってくれりゃ、よござんすか」
「んーー…………」
戀夏は滅黯の言葉に、わかるようなわからないような、微妙な反応しか返せなかった。
「あぁ、言い忘れてやした、姐さん。切った花の茎は、斜めに切ってから桶に入れてくだせぇ」
「あんで?」
「そうしやすとね、切り花は水を吸い上げて花がよく開くんでごぜぇやすよーー」
「へーえ、おめェ本当何でも知ってんなァーー」
――――――――·――――――――――――
「アタシと作造は『いちおう』庵主と寺男だから、お魚はダメなの。だから禰々ちゃんのおにぎりは筋子よン」
「なー古琳さぁ、おめェらの分の握り飯の中身ァ?」
「梅握りと、昆布と豆の佃煮が半分ずつねン。あぁ、黯ちゃんは塩にぎりだけでいいのよね? 玄米の」
「へい、お手数おかけしやして、申し訳ござんせん」
飆が天井を吹き飛ばした、裏庭に面したあの部屋、その縁側。
戀夏、滅黯、青髭、作造は何も知らず、そこで青髭の握り飯を食べることになった。
戀夏の分。
滅黯の分。
青髭と作造の分。
それぞれが青々とした竹の皮に、ひとり三つずつ包まれていた。
作造がわざわざ麦から煮出し、冷やした麦茶が、戀夏、滅黯、青髭の素焼きの茶碗に出された。
「……素焼きの茶碗は……割って捨ててしまえば、土に還ります……ので……」
それだけ言って握り飯をひとつ手にすると、作造は部屋の中に引き込もり。
そこで正座をしてちびちび黙々と、昆布と豆の佃煮入り握り飯を口にし始めた。
「もぉ、禰々ちゃんも黯ちゃんもごめんなさいねぇ、あいつ、ああいう奴だからーーところでさぁ禰々ちゃん、その桶に花を分けて入れた理由、わかる?」
「全然」
焼き海苔と筋子の握り飯の味の方が優先な戀夏は、素っ気なく答えた。
実際、戀夏はその意味をまったく知らない。
「花言葉。でやしょう?」
「まっ、さっすが黯ちゃんね!」
ふたつの木桶に、ひとつめは三種類、ふたつめには二種類ずつ。
そして何故か、黒い花が他の花々と離されるように、一種類だけ別にされている。
花の根元近くが細い棕櫚縄でゆったりと縛られ、まとめられている。
合わせて、六つの花。
それは何を意味するのかーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「おい」
ーーとある貧乏長屋。ひとりの痩せ衰えた老人が、かけ布団も敷き布団も汚ならしい、ズタボロの布団の中で仰向けになっている。
ただ虚ろな両眼で、天井の木目を意味もなく見つめていた。
戸を開けた音も気配もなかったのに、一枚の障子を開けてすぐの場に置いた、老人から見て水龜の左隣に、天台宗の雲水が立っていた。
「まずこれね、花海棠(はなかいどう)よ、花言葉は【艷麗】」
花桃よりの桜のような、艶やかな花であった。
「それからこれが風蝶草【貴方の容姿に酔う】よン」
何故か黒い編笠をかぶり、錫杖をたずさえて。
顔はわからないが、声は若い。
二十代後半程度だろうか。
「…………」
「お前は私を知らぬだろうが、私はお前を知っておるわーー『袖吉』にして、淫水舐安」
その名に、老人は青ざめた。
実はこの男は、まだ老人ではない。まだ三十六歳の壮年だ。
あの一件以来がったりと老け込んで、江戸きっての貧民窟、乞胸仁太夫がお膝元、下谷山崎町の長屋である。
表向き、自ら焼死した娘のお咲耶こと本名・お振は、唐突な心の臓の病で死んだことになっている。
まだお振が数えで五つの歳に逝った亡妻、おらくも心の臓に病いを抱えていたため、誰も何の疑問も持たなかった。
他の長屋の住人達に線香さえ上げさず、通夜さえ行わなかったのは、あまりに突然のことで、それどころではなかったと伝え。
こちらも、誰ひとり不信に思う者はいなかった。
お振の死を知らされた翌日から、袖吉がまさしく玉手箱を開けてしまった浦島太郎並みに、瞬く間に老け込んだのも手伝って。
人並みに髷が結えるほどの黒髪はあっという間に抜け落ち、まばらな白髪になり。
決して太めではなかったが、中肉中背の身は骨と皮ばかりに痩せ衰え。
元よりあちこち欠けていた歯は、あらかた抜け落ち、今や上は、向かって右側の前歯が一本。
下は、こちらも向かって右の口端の歯と。
前歯二本の、すぐ左隣りの歯、一本を残すのみで。
歯茎は紫と黒の入り混じった歯槽膿漏の体(てい)をあらわにしている。
長屋の奥にある共用の厠にも行けず、四畳半一間の部屋の隅に置いた木桶で大小を済ませ、それが満杯になれば厠に捨てに行く有り様だ。
全身に褥瘡が出来、それがひどく痛む。
「残念ながら、そなたの娘はまだ
仏には成らずーーともに死んだ、あの啞で聾の男とも、離れ離れのままなり」
袖吉は、心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けた。
「それはな、貴様が己が手で生きながら火にかけたも同然の娘を、いまだ娘の身を喰いものにして大金を得たいと願うておるからよ」
「…………ぁ、ぅ…………」
袖吉が涙とよだれを両眼と左右の口端からだらだら垂らしながら、内側に掌をすぼめて、爪で虚空をかきむしるしぐさを繰り返し、両腕を上下させた。
「そんで、この実が千両でやしょう? 【富、財産、恵まれた才能】」
「で、この紅と白の色違いの花が立葵でーー【大望、野心】」
「父御と母御に恵まれなかった者同士、せめて天の蓮の花の上で手を繋がせ、幸せにしてやろうとは思わぬのか。この期に及んでもなお、娘が犯し尽くされる姿を描き、それで大金を稼げればと、執着しておる。故にそなたの娘は上には行けぬ」
歯が皆無に近いが故に、まともに嗚咽も漏らせず。
袖吉は布団から這い出して、畳の上に突っ伏した。
右腕の上に顔を乗せ、左掌を握り締め、ケバ立って日焼けしきった古畳を、何度も何度も叩いた。
「お前の絵師としての人生最後の仕事を与えようぞ。しかし業の深さ故、何を描かこうが貴様は地獄行きと決まっておるがな」
言いながら、浄眩は一本のまっさらな小筆を差し出した。
「紫馬簾菊は【あなたの痛みを癒します】」
「馬酔木は【犠牲、献身、貴方とふたりで旅を】ーー」
気がつくと、便壺代わりの木桶以外には何もないはずの四畳半一間の部屋には、大量の和紙が散乱していた。
震える手で、つ……と、袖吉は一枚の和紙を取り、絵を描き始めた。
その白い小筆の先からは、白いみまま、何色も穂先に含まれ。
決して色が混ざり、濁ることもない。
さらさらさらさらと、畳の上に正座し身を乗り出して、袖吉は一心不乱に描き続けた。
その筆がようやく止まったと同時に、袖吉の上半身がびくん! と反り返った。
澪だ。
蝮とヤマカガシの四本の毒牙が袖吉の首筋に刺さり、毒を流し込みながら、背中から左胸を貫いた左掌の先端に尖った五枚の爪が、心臓を握り潰した。
「……ご…………ぉ…………ぉ…………」
袖吉の息の根が、止まった。
半身半蛇の澪は浄眩を見てニヤリと微笑むと、その姿を消した。「邪念と蛇念と因業と、淫業とが絡み合うての地獄行き」
浄眩が土足のまま畳の上に上がると、完成した絵が描かれた紙を一枚、手にした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
シャン、シャンと錫杖を鳴らしながら、浄眩は長屋を後にしようとしかけたとき。
長屋の入り口から、ツギハギだらけのボロい着物をまとい、風車を手にした幼子ふたりーーともに男児であるーーと、ぶつかりそうになったが、するりとよけた。
「おっちゃんに見せるーー!」
「おっちゃんに見せるーー!」
その後から、頭に鮫小紋がところどころに散らばった手ぬぐいを、姐さんかぶりにした腹の大きい若い内儀が、背中に赤子をおぶって、小走りにとことこ駆けて来た。
「これ、丑松、卯之助! 待ちなってのが聞こえねぇのかいーー腹の中に赤ん坊がいるおっかちゃんを走らすんじゃないよ、背中のお巳代も起きちまうじゃねぇかよ、もう!」
すれ違いざま、内儀は申し訳なさそうに会釈し、浄眩もそれに倣った。
「あ、あの、お待ちくだせぇまし、雲水様!」
しかし次の瞬間、浄眩は内儀に呼び止められた。
「……うちには銭(ぜぜ)こさねぇで、こんなものしかありゃあせんで、申し訳ねぇですが……」
内儀が手渡したのは、包丁でふたつに切った薄紫色の皮の果実、木通だった。
「ほう、木通か。これは善きかな」
浄眩は内儀に向かって、そして内儀もまた、合掌一礼で返した。
「善き子を産まれよ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「袖吉さんよーぅ」
ボロボロの草鞋を放って脱ぎ捨て、名前からして年の差がわかる幼い兄弟は、袖吉が眠る布団の周りを、カラカラまわる風車を持ちながら、どたどた駆けまわっている。
「あのねぇ、袖吉さん。木桶なんかで用足さなくてもいいようにしたんだよ。ほれ、こいつらがまだ赤ん坊の頃、おむつ作ったときの布がまだたくさん残っててーー………ん、花……?」
水龜のすぐ前に置かれた浅い金盥の上に、白と薄紅の蓮の花が、澄んだ水の上に浮いていた。
「何だいねぇ、蓮なんて、季節でもないのに。でね、うちにゃまだお巳代もいるし、あと少しで腹の子も産まれるしで、縫うのも使うのも洗うのも、ふたりも三人も変わらねぇからさぁーー」
ーー半透明で、乳白色のとろりとした果実の、野趣溢れる山の天然の甘味を味わいながら、浄眩は残った皮をごくん、と飲み下した。
「けど、明らかにおかしかありゃあせんかぃ? 庵主様」
「あら、やっぱり黯ちゃんにはお見通しだったのねンーーアタシもそうよ」
「はァ? 何がおかしいんだよォ?」
「ーーこの五種類の花ねぇ、全部じゃないけど、狂い咲きなのよ」
「……庵主様、滅黯どの……それは……黒百合が呪詛花だからでございましょうぞ……」
「さすがにおわかりになりやすねぇ、作造さん」
「おォこらァーー! 話ィわかる連中だけで、話してんじゃねェよ、 あたしにも教えろよォ!」
「禰々ちゃん、元凶はあれよ」
青髭が、一束だけ離されている黒百合の束を指差した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
同時刻、上方は甲賀。
現・復讐代行商人【鬼来迎】総元締めたる、弐拾七代目「屍ノ御前」甲賀瑞ノ江屋の姆々代の元に《惨討狩り》を命じられた二組の配下の者達が、彼女の元に集められていた。
表向きは「瑞ノ江屋」なる、次女の女郎花が店主を勤める、小さな茶屋だ。
曾々祖父母の代から甲賀名産の茶、土山茶と朝宮茶、そして祝いの席用の桜茶のみを扱う小さな店であり、今は姆々代の妹達である次女の女郎花が店主を勤め、三女の撫子のふたり姉妹で細々と営まれている。
五代に渡って続く、昔ながらの客に加え。
客商売の血筋を受け継いだ、しっとりと落ち着いた次女の女郎花。
愛嬌たっぷりで、客あしらいの上手い三女の撫子と、各々がお気に入りの、美女揃いの姉妹達目当ての若い男客達も、少なくはない。
しかし、今日は軒先に張り紙が貼られている。
【誠に勝手ながら、本日は臨時休業とさせていただきます 店主】
そこは、地下。
忍びの里らしく、店舗の一階部分の《ある箇所》に、各々に与えられた、すべて形状の異なる鍵を差し込み、ひとりひとり違う回転数で左右上下に動かさねば、入ることは出来ない仕掛けになっている。
ーー壱組目、北摂堺櫓見衆改め『鬼蒜月』が五人兄弟妹、長男の然、次男の鬼眼、長女の蜷、双子の兄の百助、弟の錠。
ーー弐組目、『洛中崇仁蓮角』の飆とお雪。
鬼来迎は摂津、河内、和泉、山城、紀伊、但馬、播磨、近江、淡路、伊勢、伊賀、志摩、丹後、丹波、京の洛中洛外を支配下に置く広域組織だが、元締めの屍ノ御前が代替わりするごとに、本部は当代屍ノ御前の地元となるが習いだ。
「ーー御苦労であった」
弐拾七代目屍ノ御前姆々代は、左顔の上部ーー額から左眼、鼻、唇の上までを覆い隠す、上部から白磁の狐面が着いていた左顔だけをちらりと後ろに向けた。
葡萄色の垂髪袋に長い髪を隠し納め。
素鼠色の地に、黒紅の八重咲きの木槿が施された泥大島紬に、鬱金色の無地の帯を締めた、一見質素ながら、実はもっとも高貴な装いをした、唇に紅すら差さない顔で、姆々代が無感情かつ無表情につぶやくと。
北摂堺鬼蒜月と、洛中崇仁蓮角の面々が、深々と頭を下げた。
向かって左隣には、女郎花。
髪を本紫色の絹地で蝶結びにし、左肩から葡萄の房のような太く大ぶりな巻き髪を、胸元まで数本垂らしている。
黒地に緻密に浮き上がらせた紋織は、全体に白と金彩。
そこに本紫で描かれた紅白の牡丹と千菊の柄。
同じく向かって右隣りには、撫子がそれぞれ正座で背筋をぴんと伸ばして座し、まるで長姉を護るかのように座している。
特に撫子は、三姉妹の末っ娘の若さゆえ、いちばん艶(あで)やかな装いである。
《辻が花染め 辻が花模様》
と呼ばれる、室町から安土桃山時代の末期までの間の、わずかな時期の、幻の絞り染めだ。
手描きの線と刺繍、摺り箔と、豪奢を尽くした振袖だ。
髪を高く結い上げて団子状にまとめ、周囲を長さ一尺、幅一寸の西陣織の切れ端で飾っている。
左右の耳の両端からは、あえて結ばずに垂らした髪が細いひと束ずつ帯まで垂れ下がり。
先端は緩く巻かれている。
普段、姆々代は決して店に出ることなく、ここで赤墨色の文机の上で、筆耕の仕事をしている。
「もったいのうございます」
その場にいた計七人が、異口同音に心の底から口にした。
「飆、お雪ーー」
「あい」
「河内般若のスケコマシふたりの首ぃ取って、三条大橋の欄干に髪で括りつけて晒し首にしたんは文句あれへんけどな、むしろ溜飲が下がりよったし」
なお、ころがし梅弥と是之源の首級は、飆の手によって、額に五寸釘の先端で繰り返し削られては墨を擦り込まれ。
【糞】という刺青にされた。
ふたりの男根は、わざわざ亀頭を外に向けて口腔に押し込まれた。
そして、左右の欄干に吊り下げられたふたりの首の隣りには、江戸におけるふたりの凶状を書き連ねた、飆作、ひらがなだけの筆記による捨て札が建てられていた。
捨て札とは江戸時代、処刑される罪人の氏名、年齢、出生地、罪状をあらかた記して公示し、処刑後も一ヶ月は刑場に建て置かれる、高札である。
「せやけど、あんまり調子こきなや、飆ぇ。いちびりが過ぎて、下手こいてそっから足つきよったら、かなわんしな」
「へーい」
まったく反省する様子もなく、口先だけで返答した。
「いぎぎゃあぁぁっ!!」
と、澪の短い悲鳴が上がったが、新谷は獣の針金のように尖った剛毛を生やした、三角に盛り上がった澪の身を蹴り転がして仰向けにすると。
澪ののどを右足で、腹を角ばった大きな左足で、踏みつけにした。
両手首から先を失った新谷が、口に咥えた澪の長い黒髪をぶん
っと振ると、お雪と飆によって吹き飛ばされた左掌に絡みついた。
それは瞬時に手ん棒となった新谷の左手に繰り寄せられた。
そして何本もの澪の髪が幾本かに離別し、刺繍糸のように束ねられ。
先端が針穴に通された中細の糸のようになり、ぞぐっ、ぶつっ、ぞぐっ、ぶつっと。
左腕を刺繍糸を通した針のように、かがった。
ががり縫いにされた糸自体は、手首が縫い付けられると同時に消えたが。
代わりに傷痕は赤く、くっきりはっきりと残った。
まるで、長く鋭い荊の棘のような痕跡を遺してーー。
(おいば、あん、京の隠れキリシタンばおなごば言っちょった【慚愧】に成り下がりよったとね?)
ーー姿見の鏡も、その代わりに相当するものなど、その場に何もない。
だと言うのに、脳裏にはっきり映し出されている。
勝手に伸びた犬歯をギリギリ噛み鳴らすと同時に。
ズタボロに裂けた、着流しの帯より上の、着流し。
固い三角状の、途中で盛り上がった分厚く尖った獣の爪が生えた、十指の先端。
羆並みの剛毛にびっしりと覆われた、指先から両ひじ。
それは、両ひざまでズタズタに裂けた両脚も同じだった。
そして、右掌にはお雪が身代わりになって、短刀で貫きーー。
左掌には、飆が三本の畳針で貫いたーー「聖痕」の痕跡が、棘々の赤い傷跡を残しながらも、既に皮膚に塞がれていた。
妹の縫の顔を、半分以上覆っていた、あの生まれつきの青痣を、新谷は思い出さずにはいられなかった。
そのとき。
新谷の耳に、棒読みのような言葉が聞こえた。
「ーーおっかさん……」
地に這いつくばって、銀色の鱗にびっしりと覆われた両腕を二の腕まで剥き出しにし。
新谷と同じ獣の爪を地面に突き立てた、澪がようよう絞り出した声だった。
「……金のために、私を、まだ未通女だった私に、こんな肥えた醜男の、夜伽の役目なんかさせやがって……そのくせ……」
バリバリと地を掻きむしる澪の獣の爪が、大量の血を流して剥がれて行く。
「知ってたんだからな、月のものが来るようになって、乳が膨れてからは、あんたは、あんたは……」
ーーぃぎゃぁああああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
と、凄まじい奇声を発して身を起こし。
あちこちざんばらになり、新谷に頭皮ごとむしられ、生乾きの血でところどころ固まりかけた髪を、爪のない血まみれの十指の先で掻きむしった。
「素っ裸にされて! 亀甲縛りにされて! 猿轡を噛まされて、肥後随喜の褌締めさせられて! 尻に張形突っ込まれて! こいつの部屋の押し入れン中で! 私達のまぐわいを見せられてたんだってねぇ!」
聞いているだけで吐き気を催しそうな話を、新谷は慚愧の姿のまま、険しい顔でただ澪の独白に聞き入っていた。
「随喜で、小便漏らしたみたいにまんこが濡れても、さねの皮が剥けて真っ赤におっ勃って、我慢出来なくて。緊縛されたまま土下座してまでちんぽをねだろうと、こいつは一切あんたを抱きも犯しもしなかったそうだねぇ? 理由はーー」
「『顔ばかり良くて、裸になって見ればたらちねで、乳輪がでかくて黒ずんだ乳首と、股を開けば両足の付け根まではみ出したびらびらが真っ黒の女のまんこなんぞ舐めたくもない』だぁ? 三段腹の肥えた短小包茎の醜男が、よく言えたものよ! そんな男に、金と暮らしのためだけにひっついていたあの女もあの女だがのぅ! 貴様言うたであろう『汀はそなたの若く美しい身体と肌に嫉妬しておる』となぁーー」
「もう、よかぁ!!!」
腹の底から、辺りをはばからぬ胴間声で叫んだ。
「おいが、おいが……なんでんかんでん、終わらしちゃるけん!」
その瞬間、澪の額に刃物で斬られた鋭い痛みが走った。
次に新谷の左掌のみで首をわしづかみにされ、絞め上げられながら両足が軽く宙に浮くと同時に、つ、と。
腰巻きの奥のさねに、冷たく鋭いものが当たったと感じると同時に、澪の全身はものの見事に着物ごとまっぷたつに、逆唐竹割りにされ、乳房と陰部を剥き出しにして、土に汚れた白足袋を投げ出して、地に仰向けに倒れた。
澪の額に刻まれたのは、逆十字ーーキリシタンにとって、悪魔を意味する刻印だった。
澪の返り血を体の前面に浴び、新谷は荒く息を吐いていた。
(新谷よ)
新谷はしばらく、自分の名が呼ばれたことに気づかなかった。
(新谷よ、新谷、あ・ら・や!)
「……あ……、旦……那……?……」
(そうだ私だ。新谷、一刻も早くそこを去りやれ。門の外に、黒子の籠を控えさせておる)
「……承知……致し、ました……」
上半身裸で、背中に白百合を両腕に抱えた聖母マリアの刺青に、全身煤と血まみれになり。
首から下げた血赤珊瑚のロザリオ。
焦げた臭いが染み込んだ、ざんばら髪。
まだ【慚愧】としての姿のままの新谷が、ふらつきながら花乞吹雪屋の寮の門を出ると、そこには右足で立てひざをつき。
黒い足袋を履いた左足の五指を立て、握り締めた左掌を右ひざの上に置いた、黒子ふたりが慇懃な姿で待ちかまえていた。
ほとんど気を失うようにして、新谷は籠の中にどっと倒れ込んだ。
新谷の六尺越えの身を完全に籠の内側に納めた特製の大型の籠は、黒子ふたりの足音を一切立てることなく、電光石火の勢いで走り出した。
その直後に、寮で連続して起こった爆発音を、新谷は聞くことはなかった。
一方その頃、待乳山診療所の裏庭ではーー。
滅黯がその掌中に、密かに【貰い火】をしていた、花乞吹雪屋の裏庭に掘られた土壇場で、お咲耶と太夫を燃やし尽くした火の一部が、篝火となって燃えていた。
現在、夜四ツ亥の刻。
診療所の敷地内に建てた風呂の中に浄弦と滅黯が、あらかじめ精製した聖水をたっぷりと湛えておいた風呂の中に、板と漬物石を乗せてしばらく沈められた。
ふたりの意識はすぐさま戻ったが、意識が戻っても、人が水中に沈んでから失神するまでの三分間を、無理やり過ごさせられたのだ。
その魔の三分が過ぎ、ふたたび気を失ったふたりが、ようやく引き上げられ、ややあってから。
ーーぴったり並んだ布団の中で、同時に目を覚ました飆とお雪の身なりは、完全に元通りになっていた。
新谷の、沸騰した百度の高温を有したどす黒い返り血を浴びたお雪の着物、飆の上半身から返り血は完全に消え去り。
すべてがカラリと乾き切っていた。
「……あっ……蘭丸……白蘭……やな?」
飛び起きたお雪の、いつの間にかふたつに分けて胸元に垂らされ 、ゆったりと三つ編みにされた白い髪の結び目に、二匹の相方達が乗っていた。
二本の三つ編みの結び目は、元結できつく結われ。
その上から、小さな赤目の白兎の顔のつまみ細工が飾られていた。
「アッハハハハ、寝てる間に勝手に髪型変えちまって、悪りィねェ、上方のお嬢ちゃん。キラキラしてて、あんまり綺麗だったからさァ。と、イガ栗坊主よォ? あぁでもしなきゃ、【慚愧】とかって奴になっちまったあの野郎の血の穢れは流れねェし祓えねェって、旦那と黯が言うもんだからァーー」
突然現れた、声の主は若い女らしい。
その容貌が暗闇の中で、彼女が手にしていた、銅製の手燭に照らし出されたその姿に、飆もお雪もぎょっとした。
そして、寸分の間を置かず、しばし見惚れざるを得なかった、その灯りと声の主はーー。
「おいよ、旦那ァ。本当にこんなんでいいのかァ?」
「四の五の抜かさず、私の言うとおりにしておれば問題ない」
「ーーだァから心配なんだってんだよォ、こんの生臭坊主がよォ!」
待乳山診療所の屋根の上には、極端に短くした、上はへその下、下は太ももの付け根までしかない黒の股引に、一枚布の晒しを三つ折りにし、乳房だけをきつく巻いた姿の戀夏が、屋根瓦の上で弓をつがえていた。
方向は、言うまでもなく澪が主の根岸の寮だ。
屋根の下、待乳山診療所の裏庭には篝火が燃え盛り。
屋根の上の雨樋の上に腕を組んで立つ、托鉢姿の長髪の三十前後の男。
そしてお雪と飆は、まるで花火でも観るかのように招かれた客のように、檜製の縁台の上に腰かけていた。
ふたりの間に置かれた、来客用の盆の上には、江戸ではほとんど馴染みのない冷やし飴が、お雪に向けて。
飆には、上方では【柳陰】と呼ばれる本直しが置かれていた。
生姜を利かせた清涼水と、江戸時代のカクテルたる冷酒は、原材料のすべてから中身を注いだ江戸切子まで、すべてを網袋で包み、井戸の底で冷やしていたものを、つい先ほど引き上げて、滅黯がこしらえたものだ。
「美味しおすなぁ……」
「あぁ、美味めぇ」
ふたりは同時に屋根の上に、真顔を向けた。
屋根の上で弓をつがえる女ーー戀夏の不動明王の刺青が、こちらを睨みつけている。
だがふたりとも、その程度のことにたじろぐタマではない。
ーーお雪と飆が初めて戀夏と対面した際、絶句したのは彼女の容貌のあまりの美しさに加え。
半裸に近いその姿までもが、あまりに均整の取れた造形をしていたからだ。
戀夏の髪の色が金茶色。
そして双眸が、うっすら青みがかった紺碧色であることなど、ふたりにとって驚く要素ではない。
お雪は先天性の白子。
飆の頭髪は、自ら染髪した栗蒸色だ。
……ふと、お雪の目の前を名も知らぬ大ぶりの蛾がはたはたと、金緑色のカナブンがぶぅうーんと二枚の甲を広げ、その下からあらわにした薄い羽を拡げ、横切った。
蛾もカナブンも本能のままに、篝火の火の中に惹かれ、導かれて行く。
そしてあっけなく、大ぶりの蛾もカナブンも篝火の穂先に絡め取られ、瞬く間に黒焦げの死骸と化し、篝火の足元に落ちた。
「まさに、飛んで火に入る夏の虫やわぁ……ふふふっ」
三枚折りにしてぎゅうぎゅうに締めつけ、背中で固結びにしたのは、豊満な乳房は弓を射るのに邪魔になるからだ。
「あん姐様の両腕の刺青、蝮の潜り込みよった夾竹桃の花と、葉っぱやんな?」
「せや。毒持ちの葉の花やのに、紅いんも白いんも、めっちゃ綺麗なんえ、夾竹桃の花は。綺麗なもんと怖いもんが混じると、綺麗なんが際立ちはるのんて、何や不思議なもんやなぁ……」
キンキンに冷え切った冷やし飴と本直しを味わいながら、お雪と飆はその光景を見守っていた。
篝火の前に立ち、滅黯はひたすら九字を組み続け、さらに不動明王真言を唱え続けていた。
一本足の下駄はいつも通りだが、身にまとっているのは浅葱色の甚平ではない。
わざと左前に着た、白だ。
「何や!?」
思わず声を出したのは、飆の方だった。
風ひとつない夜にも関わらず、篝火から伸びた細い炎が。
全身に夾竹桃の花々と鮮やかな緑の葉を彫り込んだ、屋根の上で戀夏がつがえた矢に右巻きの螺旋状に絡みつき、鏃(やじり)の篦口(のぐち)から口巻の篦の部分まで、一瞬にして炎に包まれた。
「ふぁ!? 何で熱くねェの、おいコラ、何で熱くねェんだよォ!?」
ギリギリと矢尻を曳きながら、ひどく戸惑った様子で、戀夏が喚いた。
ひゅんっ、と地上で一回転してから、滅黯が戀夏の背後で左ひざと左足の五指を立てて瓦の上に付け、右ひざは立てひざをついて。
両掌を皮の上に広げて乗せた。
「姐さん、そこよりちぃとばかし右に」
「こォかァ? それとも、こっちかよォ、黯?」
「気持ち、左でやす。一寸、ほんの一寸!」
そこであえて、戀夏は両まぶたを閉じた。
(一寸、一寸……ーー)
くんっ、と。
戀夏の爪先が何かに押し止められるような指先の微妙な感覚をかろうじて感じられたのと。
滅黯が叫んだのは、完全に同時だった。
「今ですぜ。射ちなせぇ、姐さん!」
「ーーおォよォ!」
弦鳴りの音が、闇の夜空に響き渡った。
弓など扱ったことのない戀夏が、慣れない手つきでしかし標的目がけて確実に弓を放った。
滅黯が手にした、残り八本の矢に、飆が口元を覆い隠す黒革の下から、にんまりと笑みを浮かべていた。
「知っとるか、お雪。紅い炎よりもーー……熱いんは、青の方なんえ!」
ぐびっ、と一気に本直しを飲み切り、江戸切子をお雪に手渡すと同時に。
地を蹴って待乳山診療所の屋根に飛び移った。
「わてに貸しぃや!!!」
有無を言わさず、飆は戀夏と滅黯の手から、弓と矢を奪った。
右手の指先をわずかに口元を覆い隠す黒革の上部にかけるや否や、その口元から旋風を吐くとーー。
弓と矢の両方が、轟! と青い炎に包まれた。
ーー参、肆、伍、陸、七、捌、玖、拾ーー
凄まじいまでの弦鳴りの音が、屋根の上にいる戀夏、滅黯、浄眩の鼓膜を激しく揺すった。
それはまぎれもなく、完全な熟練の者にしか不可能な速射であった。
ふぅ~、と息を吐き、弓を握り締めた飆が、屋根瓦の上にへたり込んだ。
「ーーそなたの弦鳴りの音、腹の底まで響いたぞ。見事なり」
満面の笑顔で親指を立てた浄眩に対し、飆は双眸を細めて同じ仕草を返した。
「おい、坊主!!」
白く透き通るようなかかとが頭頂に振り下ろされる寸前で、飆はその足首をつかみ、難を逃れた。
「オイシイとこだけかっさらってくんじゃねーよ、いちびりの上方者(もん)のガキがよォ!」
足首を軽く振り払われた戀夏は、ごく軽く、右拳で飆の頭頂をこつん、と叩いた。
戀夏はそれきり両腕を組み、紅い唇を尖らせ、そっぽを向いたが、
「ありがとうごぜぇやした」
と、滅黯は飆に対し、深く頭を下げた。
ーー次の瞬間、ドゴォ! という遠くに聞こえる爆発音をともなった盛大な地響きが、辺り一面を揺らした。
「間違げぇなく全的命中ーーでやすね、お師匠さん、姐さん」
「何やいな、それ」
「大(てぇ)したこたぁありゃあせん。あの性悪女の寮の屋根瓦ン下に爆竹を仕込んどいたんでさァ」
「んぁ? ほなら、わてとそこの刺青の姐様が射りよった弓は、全部ーー…………」
「火種に決まってんじゃねェかよーーオイ金柑坊主、今ァこっち見んな!」
三つ折りにして豊満な乳房を締めつけていた晒しを外し、一枚布に戻して上半身裸になった戀夏が、背中を向けていた。
(ーー!?)
ほんの一瞬、視界に入ってすぐに眼をそらしたが、そのしなやかで透き通るように白い肌にびっしりと彫り込まれた不動明王の刺青が、紅い炎で覆われているように見えたのだ。
ーーほどなくして、ぐい、と。
戀夏は人より遙かに深い胸の谷間に晒しの上端を、深くきつく差し込んだ。
上半身に晒し一枚。
下半身は極端に短い股引に素足と、なかなかに粋であった。
(はぁ、あないに肌晒すん、間違うてもあてには出来はられへんけど……めっちゃ綺麗や、綺麗やわぁ……)
「ーーん? ありゃ黒子ちゃん達でねェの?」
鳥目故、夜はいまいち視力が落ちる戀夏が、額に右掌の端をかざし、両眼を細めた。
待乳山診療所の前で止まったその籠の中から姿を現したのは、間違いなく新谷だった。
右肩に面長の大蛇の頭蓋骨が喰らいつき、首の付け根から繋がった三尺ほどの矢頭形の長い尾が生えーー。
全身に返り血を浴び、髪は逆立ち。
両腕両足には、逆立った羆のような獣毛に似た、剛毛が生えている。
背中のマリア像の刺青も丸出しで、血赤珊瑚のロザリオを裸の胸元まで垂らしている。
「……新谷……おめェ……!?」
真っ先に新谷の異変に気づいたのは、さすがというべきか、戀夏だった。
その瞬間、滅黯とお雪の背中に、突然冷水を浴びせられるような凄まじい怖気と寒さが襲いかかった。
「! ーー新谷さん、あんた様、まさか……」
「あァ、い、嫌や、嫌や!」
「どないしてん、お雪!?」
我と我が身を抱き締めて、激しく頭(かぶり)とともに三つ編みに編まれた髪を振り乱すお雪に、屋根瓦から飛び降りた飆が駆け寄った。
「おゆーー……!?」
お雪が、飆の両腕にしがみつき、瘧にかかったかのように全身をガタガタ震わせ。
その紅の双眸からは、ボロボロと涙を流していた。
「足りひんかった、足りひんかったんや、あん御浪人はんには……両掌の聖痕(スティグマ)だけや……」
「オイ黯! 新谷の奴どうしちまったんだよォ!?」
「ありゃあ【慚愧】でやす……」
「【慚愧】ィ……? あっ、逃げろォ、黒子ちゃん!」
ーー【慚愧】と化した新谷の左掌に、あるはずのない槍が握られ
それが籠の前を担いでいた黒子の首を斜め横に貫いた。
黒子は、首に穴の開いた紙で出来た人型(ひとがた)に姿を変えた。
それと同時に、槍も霧のように消え去った。
「戀夏、これはそなたの役目ぞっ! ぬかるな!」
「言われねェでもわかってらァ、旦那よォ!」
戀夏が屋根から飛び降り、やや身を屈めて新谷に向かって駆け出した。
その間にも、逃げ去ろうとするもうひとりの黒子に、新谷が刀を投げつけ、喉仏から七寸ほど先を貫いた。
刀は地に落ち、そのかたわらに、のどを横に切られた紙の人型がひらりと舞い落ちた。
「だァーーらっしゃァ!」
ゆるゆるとした足取りで、刀を拾い上げようとした新谷の背中に、赤い鼻緒の黒いぽっくりを履いた背中に飛び蹴りを、そして右ひざを盆のくぼに叩き込んだ。
新谷は激しく咳き込みながら地を転がり、戀夏は素早く刀の鞘を爪先で蹴転がし、刀は空中で弧を描き、待乳山診療所の裏庭に突き刺さった。
それよりわずかに速く、戀夏は自身より一尺以上背丈の高い、六尺越えの新谷の上半身にまたがり。
右ひざで新谷ののどに体重をかけ、右足で新谷の左の二の腕を踏み。
左足で、右ひじから右手首までを抑えつけていた。
「そのロザリオは、血赤珊瑚つっても、てめぇの血なんぞで汚したかァねェからよ、アタシが代わりに首からかけて、晒しの中に押し込んどいてやる。てんめェ、っの野郎ーー!!」
右も左もなく、ただもうめちゃくちゃに左右の拳で、新谷の顔を殴り散らかした。
六尺越えの大柄な浪人が、五尺と二寸強の細い腕に、殴(や)らるがままだ。
鼻血を垂らし、口の中を派手に切ったのだろう、唇の両端から大量の血を流し、意識が朦朧となったところで、左右の拳の連打がようやく止んだ。
「ーー来い、コラァ! どうせ立てやしねぇだろうから、アタシが連れてってやらァ!」
蓬髪をわしづかみにし、返り血を髪に、顔に、晒しに。
点々と血で染めた姿に加え、汗で濡れた金茶色の髪を振り乱して、戀夏は待乳山診療所の裏庭にある風呂場に向かった。
あの、聖水を湛えた特製の風呂場にーー。
バン! と音を立てて風呂場の戸を開けるや否や、戀夏はうつ伏せにした新谷を浴槽に沈め。
晒しと極端に短い黒の股引を履いた、着の身着のままの姿で、新谷の背中に重なり、自身も聖水風呂に浸かりながら、両腕で後ろから新谷の首を締め上げた。
「姐さん!」
(はっ、アタシは隅田の禰々子河童と呼ばれた舟饅頭さね。水ン中でしばらく息止めるぐれェ、どうってこたねェさーーそれより、これ!)
水面から突き出された戀夏の腕には、新谷が命の次に大事にしている、あの血赤珊瑚のロザリオだった。
そこに駆けつけて来た飆とお雪が、ともに眼を見開いた。
「お預かり致しやす」
滅黯は恭しくロザリオを受け取り、懐にしまい込んだ。
「おほっ、江戸のおなごは、えろう気性が激しゅうおますわいなぁ」
腕組みし、風呂場の戸口に寄りかかりながら、飆が笑った。
「……いや、あの御方は江戸どころか、東(あずま)のおなごン中でも、別格中の別格でやすぜ」
その瞬間、聖水風呂に沈められていた両腕両足が、激しくもがき始めた。
息苦しさに悶えているのかと思いきや、とうに泣き止んでいるものの、まだ飆の右腕にしがみついて離れられないでいたお雪が叫んだ。
「ーー蛇!!」
「蛇? でやすか?」
強力な術者にして日本古来の神道に、密教を会得した滅黯には何も感じられなかったが。
生粋のキリシタンたるお雪には、見えたのだ。
あの林檎の樹木に絡み、キリシタンにとっては始まりの男女に原罪を負わせ、楽園を追放させた蛇の逸話を当たり前に知っている者として。
「蛇が、蛇が御浪人はんの体内を隠れ蓑にしてはります」
「ざけろや、まだ生き残っとったんかいな、あの性悪蛇女」
「確かに蛇は水棲でもありやすが、これは聖水風呂。傍から見りゃ息が出来ねェで危のうごぜぇやすが、聖水にやられた不浄の蛇より長く浸かってられりゃ、新谷さんが勝ちやすーー敬虔な信者でごぜぇやすからねェ」
「せ、せやけどーー」
「……どうしてもこの御浪人と姐さんを救いてェってんなら、歌をお頼み申しやす、上方のお嬢さん」
「う、歌?」
滅黯が、指先で喉仏をつついた。
「……♪……あぁ~参ろ~うや、参ろ~うや~なぁ~……ハライーソの寺にーぞ、参ろ~うや~な~ぁ~……」
滅黯ののどから、新谷の歌声が溢れ出した。
驚き、思わず襟の合わせをきゅっと握ると、あの本真珠と伽羅の原木で出来た、正方形のロザリオを胸元から取り出し、両掌で握り締めた。
「ハライソ~の寺に~ぞ参ろう~やなーぁ……ハライ~ソの寺と~は……申す~やな~ぁ~……」
「『広い~ぃ~寺と~は申す~やなぁ~……狭い~な広い~は我が胸~にあ~りぃ~……』」
その瞬間、ごげばぁっ、と奇矯な声を上げ、
背中にのしかかっていた戀夏を跳ねのける勢いで、聖水風呂から飛び起きた新谷が、風呂の縁に腹を乗せ、口の中から大量の長い黒髪を吐いた。
「うっぎゃ!」
飆が思わず、頓狂な大声を上げ、風呂場の外に尻餅をつき、左掌でかろうじて身を支えた。
だが、髪だけで終わりではなかった。
長い黒髪だけに留まらず、続けて赤ん坊ほどの小さな人間の頭が。
しゅるしゅると山中の叢の中に逃げ込むように身をくねらせて風呂場から逃げ出したその下半身は、まぎれもなく蛇の身であった。
真っ先に風呂場から飛び出したのは、ずぶ濡れの戀夏だった。
ーー待乳山診療所の裏庭まで逃げ出した人頭蛇身の異形のものは、その場でとぐろを巻くほどに大きくなり、その上半身は乳房のふくれた大人の女の姿に、一瞬にして変化したーーが、その身は頭頂からへそ下に至るまで、左が一寸ほど高く、右もまた一寸低く下がり、身体が左右非対称にずれていた。
ーー澪だ。
根岸の寮で、新谷に逆唐竹割りにされた澪の怨念が、死に際に飲み込んだ、まだおたまじゃくし状の小さな蝮とヤマカガシを裂けた股の中に押し込み、屍の胎内で孵化させたのだ。
「っの蛇女ァ! あたしがまたまっぷたつにぶった斬ってやらァ。下は白焼きと蒲焼両方にして、酒のアテにしてやんよォ!」
だがごくわずかの隙をつき、澪の下半身が戀夏の首から腰までぐるりと巻きつき、その細い身体を右足のひざまで、骨がきしむまで締めつけにかかった。
「ーー!!」
首だけではなく、片足のひざまで浸透するあまりの息苦しさに、戀夏の全身ががくがくと震えた。
耳元まで裂けた口に壮絶な笑みを浮かべ、だらだらと毒液を滴らせた上下の牙が、戀夏の右首筋に迫って来る。
だというのに、いつもの怪腕力がまったく通じない。
「……っの、ォ……て、てめぇみてェなバケモンなんか、に、よォ……」
ギリギリと首を締めつけられながら、戀夏は口腔にたっぷり溜めていた自身の唾液を、文字通り「蛇の目」になった澪の双眸に、ぺっ、と吐きつけた。
「!?」
どうやら、常日頃から喫煙している戀夏の唾液には、蛇が嫌う煙草の成分が少なからず含まれていたらしい。
視界を塞がれた澪が身悶えしたその瞬間を狙って、戀夏は澪の左首筋に思い切り歯を立てようとしたーーが、その瞬間。
突然、夜には不釣り合いなガァ! という野太い鳴き声が辺りに響き渡った。
(ヤ、ヤタどん!)
浄眩が使役する、嘴太烏のヤタだ。
嘴太の名通り、漆黒の太い嘴に何か小ぶりの包みを下げ、それを上空に向かって掲げていた主の右掌の上に落とすと、浄眩の頭上を数回飛びまわりながら、一声、
「カ・ア」
と鳴き、黒い羽を巻き散らしながら、夜空に飛び立って行った。
「『神』が『阿』と鳴いたーー」
その直後、十枚ほどの御札が、澪の蛇身に巻きつくように貼りついた。
燃え盛り続ける篝火でかろうじて見えたのは、十枚の札を通した釣り糸と、返しのついた釣り針。
声にならない声を上げて澪がのどを激しくかきむしり、人間の女の裸身が、血まみれになる。
蛇の下半身から、極細の釣り糸がギリギリと喰い込むのを止めようと、十枚の爪の中まで、血で真っ赤に染まった両手の指で引き抜こうとすれば、左右の指がボロボロと落ち、鱗の身に刺さった釣り針を引き抜こうとしようものなら、鱗身がぐちゃぐちゃに抉られ、澪は激しく狂乱した。
そして、屋根瓦からどざざざーーっと、大量の煙草臭い砂が、澪の頭から尾の先まで降り注ぎ、戀夏までそれを浴びる羽目になった。
「安珍居らずの清姫様、御執着が過ぎまするぞ」
澪、ではなく。
安珍居らずの清姫様、と呼んだ浄眩が、ひとり屋根瓦の上に座り、つぶやいた。
「薩摩は霧島の、大穴持神社の蝮避けの札と、守砂ぞ。それに、若煙草の葉を燃やしたものを混ぜ込んだのよ。さぞ苦しかろうよーー兎知平に長旅を頼んだ甲斐があったわ。後でうんと労ってやらねばな」
「てめコラ、糸目の生臭坊主ぅ! 何でアタシまで!」
「けっこう毛だらけ猫灰だらけ~文句があるなら、その安珍居らずの清姫に八つ当たりせぬかえ」
「あー、そーかいそーかい。ほんじゃ、全殺上等で斬らせて頂きますよ」
言うなり、戀夏は塩をかけられたナメクジの如く地でのたうちまわっている澪の頭に手をかけた。
草むしりをするかのように、両掌に一束ずつ髪をむしり取りながら、その頭皮を血まみれの荒地にして行く。
「どんだけの怨念があんだか知んねェけどなァ、たかが人外の蛇女如きがよォーー」
戀夏は素手で、蝮の毒液の源である上下の牙をへし折った。
あろうことか、上の毒牙は澪の上半身の両乳首に貫き。
かろうじて人間の女性器を保っていた股間に、さね(クリトリス)の包皮をむしり、真っ赤な無防備になった女性に、左右互い違いに突き刺した。
当たり前だが、女の一番敏感な部分に、鋭く尖った毒塊が突き刺さったのだ。
断末魔に似た澪の悲鳴が、澪ののどからほとばしった。
「へっ、舟饅頭時代、医者見習いの客に、注射器とかって舶来物の細っせーーぇ竹筒みてェなもんで阿片を刺されそうになったとき、聞いたんだィ。何でも、乳首と豆に針刺して、葦(よし)の髄みてェな穴開けて、そっから液を流し込むと、煙草にして吸うよか、ど頭(どたま)がイカれっちまうんだってねェ?」
ーー人中の上から、拳を一発。
続けざま、下前歯、右頬、左頬と左右の拳を口まわりに喰らわせると、澪の左右の口端から大量の血があふれ出し。
真っ赤な鉄臭い血溜まりが出来。
そこに、血とは対称的な白い塊がいくつも浮かび上がった。
「姐さん、後はあっしが始末しやす。今はとにかく、すぐにでも風呂の中の聖水を全身に浴びるなり浸かるなりして下せぇ!」
「わーった、黯、あと頼むな!」
滅黯の左手には、二枚の半紙が握られていた。
そのまま、慣れた手つきで浅葱色の左袖をまくり、素早く両袖にたすきがけをした。
そして近くに突き刺さっていた新谷の刀を、抜き取ることなく、左腕の内側と垂直に何度もこすり合わせると、当たり前ながら、大量の血が滴り落ちた。
その血を、左手の人差し指の腹でなぞり上げると。
赤い墨代わりに血で濡れた指先は、観音経の一節をさらさらと半紙に記した。
「念彼観音力 疾走無辺方 蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自迴去」
もう一枚にも、同じ経文を。
その二枚の半紙の四隅の角が一分のずれもなく重ね合わされると、盲目の上に青海波の手ぬぐいで目隠しをしているとは思えないほど器用に素早く、篝火に半紙を傾けると、それは瞬く間に火に侵食され、澪の上半身と下半身にわけて落とした。
全身に蝮除けの札を貼られ、同じく蝮祓いの守砂に、若煙草の焼き殼をまんべんなく混ぜ込んだものを全身に浴びた澪の身は、前述した塩をかけられたナメクジのように縮み、消失した。
(何ちゅうやっちゃ、あないな珍妙な術者(もん)に、拳ひとつで人ひとりの歯ぁ、全部へし折りよるおなごに素早く、斬鬼の御浪人はんーー死んでも敵にまわしたらあかん奴らやで、こら)
飆の全身が、ぞわっと粟立った。
「ーー上方の殺し屋はん、何やらウチとこのヤタどんと似た、使いの者(もん)が来たようですぜ」
「何やて?」
まるで人の心の中を見透かしているような、滅黯の言葉に。
飆は、暗闇の夜空を見上げた。
すると確かに、西陣織の豪奢な着物を身にまとい、羽衣代わりの紗(うすぎぬ)を頭からかぶり。
鼻から下を長い一枚布で覆い隠した齢十ほどの少女が、月明かりに照らされて、待乳山診療所の空中に浮かび上がった。
「御記書御渡役様、えろう……いえ、たいへんな御足労にございます」
「於苑様、嵐山よりのお出で、お疲れ様でございます」
お雪は地の上に正座して三つ指をつき。
飆も正座し、左右のひざ頭にそれぞれ掌を置いて、額が両ひざにつきそうなほど、深く頭(こうべ)を垂れた。
於苑、そして御記書御渡役様(おしるしがきおわたしやくさま)と呼ばれた、市松人形の如き艶黒の髪の少女は、爪がよく整えられた裸足を地面からわずか四寸弱ほど浮かして、飆に右腕を伸ばした。
飆が、油紙に包んだ折り目だらけの半紙を一枚、天女もどきの娘に手渡した。
「こんで、間違うあらしまへん。弐拾七代目、屍ノ御前様からの御命令に預かりはりました、《惨討狩り》弐拾陸と弐拾七ーー【河内般若(かわちばんにゃ)】の是之源と、ころがし梅弥のふたりの血ィで引きよった、死留メの証どすわ」
於苑なる娘は、折り目だらけの半紙に目を通し、ふたたび折り目に沿って半紙を畳み直すと、それを懐に差し込んだ。
だが次の瞬間、於苑は既に京に向け、闇の夜空に遙か高く、舞い戻ってしまった。
ーー屍ノ御前から、彼らの任務遂行を意図する半紙一枚を残して。
興味津々に、浄眩がその半紙を拾い上げた。
硯の上で丁寧に良く擦られた墨を含んだ細筆で記された、恐ろしく達筆な字を読み上げた。
『弐拾七代目 屍ノ御前御側仕
惨討狩り死留メ証
聢承候 御記書御渡役
兎口ノ於苑 月のを参る
弐拾七代目 屍ノ御前 拝……』
浄眩が、くすりと笑いを漏らした。
「ふふ、兎故に月のをとなーー屍ノ御前様とやらは、ずいぶんと風流な御方と見ゆる。【鬼来迎】ーーなかなか面白い殺し専門の商人衆のようだの」
「ふたつ文字
牛の角文字
すぐの文字ーー」
「何や、あの目隠しの若い按摩はんはともかく。斬鬼になってまうほどの御浪人はんに、あんだけ荒くれ者の姐さん従えとるさかいに、この手のことはさっぱりかと思うとりましたが、おわかりにならはりますかいな」
飆が、腕組みしながら素直に驚いた様子を見せつつ、浄眩に話しかけた。
「そなたらは、やはり京の洛中の者か」
「へぇ、藤原教通様の『月』と、小式部内侍様の『を』の故事に倣いましてんーー」
お雪が、判じものたる詠の続きを口にした。
「ゆがみ文字とぞ」
「君を忍びつ」
「月のを参るーー」
具合良く、お雪の可憐な声で詠が終わる。
「お雪とやらに問う、ふたつ、牛、すぐ、ゆがみの心は?」
「こ・い・し・く、に。あらしゃります」
「そなたらは、ともに京の洛中の生まれであろう?」
「へえ、せやけどーー……」
お雪と飆が、ともに黙り込んだ。
「わてらーー……生まれは京は京やけど、崇仁の生まれやさかいに……」
「崇仁……あぁ、左様であるか」
「せやさかい、あてらは何代も前から【鬼来迎】に属して、死男と殺女としてしか生きられへんかったんどす。上方は東(あずま)より、そないな場所が多おすから」
「けっ、生まれた場所があんだってのさ」
金茶色の髪を上に束ねながら、先ほどまで聖水風呂浸かっていたがためにびしょ濡れの髪をねじって水気を絞りながら。
滅黯に、通常より大きい左右の乳房の大きさを考慮して、やや幅広く裁断してもらった晒しを上半身に巻き、下は待乳山診療所の、客用の白い浴衣を縮緬帯で端折り。
細長い色白の素足を剥き出しにして、現れた。
「ーーあたしのかかさん、長崎出島のらしゃめん。黯は吉原はお歯黒どぶの捨て子さね」
えっ……と、お雪と飆が口だけを開き、驚愕した。
「だけどねェ、露草も白粉花もたんぽぽも薊も、綺麗に花ァ咲かせて、町中どこにでも生えて、あぁ綺麗だねって言われるだけだィ。どこから飛んで来た種だろうと、誰も気にしやァしねェぞォ?」
「そない言われても、崇仁に生まれはったさかいに、わてらは【鬼来迎】の屍ノ御前様に代々お仕え出来はるんや。わてにとってもお雪にとっても、崇仁生まれの死男に殺女なんは、心からの誇りや!」
「なら、それでいいじゃねェかよ、何の文句があんだよ」
「…………あ…………」
戀夏の一喝に、しばしの間を置いて。
飆が、そっくり返って盛大に笑い声を上げた。
口元をずっと覆い隠していた、上下に鋲を打った黒革の覆いを外し、素顔を晒した。
彼の左頬には、
《鏖》
そして右頬には、大きな蝿と、その羽根に髑髏の下に二本の骨を交差させた、ベルゼバブの刺青が彫られていた。
「ええやろ、こん刺青。知ってはるやろ、蝿のすばしっこさーーこいつぁ、悪い意味での『俊敏さ』ちゅう意味で彫ったんや」
「へー。あ、そ」
「はぁ?『あ、そ』て何やいな! もちっと何ぞ反応せんかい!」
戀夏は一言つぶやくと、両足をふらつかせながら、縁台の上に仰向けに寝転がり、そのままあっさりと眠りについてしまった。
「あ、姐さん!?」
慌てて駆け寄った滅黯に、浄眩は素っ気なく言い放った。
「ただの焼酎の飲み過ぎだ。あの澪なる姿形だけのうわばみ娘より、本物のうわばみだからのう、こやつは」
急ぎ足で夏がけと枕を診療所の中から持って来た滅黯が、縁台の端から濡れ髪を垂らした戀夏の頭の下に敷き、夏がけを腹の下から足首までかけてやった。
「このバカ、聖水風呂で血を流した後に井戸水で身を浄めて、風呂上がり気分で本直し用に冷やしておいた焼酎を飲んだなーーおい滅黯、そんなに世話焼いてやる必要はない、放っとけ!」
「いえ、こうでもしとかねぇと、寝てる間に大股おっ広げちまって、姐さんの観音様が御開帳になっちまいまさぁ」
まだまだ冷え切っている、一升瓶の焼酎の底から残りわずか四寸弱になっているのを、浄眩は井戸の脇に転がっていたのを拾い上げ、蓋を開けてラッパ飲みにした。
ぶはーーっと、口から胃の腑が焼けるかのような、熱い息を吐いた。
浄眩は、その空になった一升瓶を手に乗せると、硝子細工のように赤く灯し、燃え上がらせた。
お雪と飆がともに眼を見張ると、一升瓶は瞬く間に元の原形を留めないほどに変化した。
ひとつは翡翠に、極細の輪がついた指輪。
もうひとつは、筆によるめちゃくちゃな黒い落書きのよう文字のようなものが浮かび上がり。
前者は、直径一寸ほどの翡翠に雪兎が描かれた、か細いお雪の左手の小指に、小さな指輪となってはめられ。
後者はベルゼバブの悪魔記号となって、飆の左首筋に、何の痛みもなく彫り込まれた。
「「!?」」
「有髪の坊(ぼん)さん、あんたいったい何者(もん)や」
「ーー趣旨は違えど、我らはともに人から依頼を受けて恨みを晴らす者同士。我らは、そなたらと違い金は貰わぬ。しかしそなたらは金銭のやり取りを行い、商いとする死の商人(あきんど)と見ゆる。故に、互いに名は名乗らぬ方がよかろうよ。しかしーー」
「我らは知ってしもうた。【鬼来迎】なる一味の者達の名を。なれば、こちらも名乗らればならぬが礼儀。そなたらが上方一帯を支配しておるのならばーー」
「我らは江戸八百八町を、うらみとすくいのふたつのすだまの懇願により、金は一銭も受け取らず秘密裏に断罪する者也。あの若い目隠しの按摩、うわばみ娘、斬鬼と化したは、八百八町に点在する【天誅殺師】が『上野喰代サの四番』らの『壱・盲針』『弐・雪血華』『参・錆刀』ぞ」
「ーーと、あんた様方の元締め【屍ノ御前様】に該当なさるんは、【暁に祈る巫女様】と申しやす」
「おおきに」
飆は黒革の顔隠しを外し、両ひざに両掌をついて頭を下げている滅黯に、同じ格好で頭を下げた。
「ほなら、せめてわてらの組み名だけでも名乗らせてや。わてらは【洛中崇仁蓮角(らくちゅうすうじんれんかく)】ーー」でおます。それと……」
「あの御浪人様に、よろしゅうお伝え下さりはるよう……あての洗礼名はモルガンお雪、どす」
「こちらこそ、御丁寧にありがとうごぜぇやす」
「帰ろな、お雪」
「せやな」
飆の言葉に、お雪がうなずいた。
それと同時に、飆が懐から何枚もの黒い折り紙で折られた凧を取り出すと。
素早く九字を組むや否や、その紙の凧は、百枚近い三角凧を連ねた連凧に変じ、飆が口から吐いた息で、ぶわっと夜空に舞い上がった。
飆がいちばん手前の三角凧につけた二本の手綱のようなものの右側を操り、指抜き手袋を両掌にはめ、手綱のようなものを幾重にも巻きつけ、もやい結びにした。
そして、お雪が帯から下げていた、西陣織の香り袋の中から、何かを取り出し、すぼめた両掌を差し出すと、ふたたび九字を切るとーー。
蝙蝠の形に折られた折り紙だったそれは、身の丈六尺の大きさに化けた。
広げられた翼は、横五尺、縦三寸ほど。
お雪は連凧の左側につけられた綱を腰に巻きつけ、固結びにしてから蝙蝠の背に、斜め座りに乗り、その身を預けた。
「飆、偲(しの)はいつでも立てるえ」
偲とは、この蝙蝠の名だろう。
それを耳にした途端、飆は、腹をへこませるほど深く息を吸いながら瞬足で駆け出すと、その先にあった民家の垣根を足場にし、口元から吐いた大量の息を旋風に変えーー。
ふたりは、闇夜に消えて行った。
「あぁ、そういやお師匠(おっしょ)さん! 新谷さんは風呂場であのまんまですぜ!?」
「え? あぁっ!!」
慌てて浄眩と滅黯が風呂場に駆けつけると、そこには思いもよらない光景があったーー。
――――――――――――――――――――
数日前。
一晩を待乳山診療所で過ごし、
昼の四ツ半頃に『於多福屋』に帰り着くるなり。
新谷は見事に風邪をひいた。
完全な湯冷めだ。
二階の自室の障子を全開にし、本来なら夏用の簾を垂らし、とにかく風に当たった。
元より体温の高い六尺越えの大男に、発熱は並の者より堪える。
寝巻きの浴衣をはだけ褌を晒し、ひたすらにうちわで自分で自分を仰ぐしかない。
熱があるようだすぐさまおふくとお松に訴え、万年床に入った途端、歯の根が合わずにガチガチと音が鳴るほどの凄まじい悪寒に襲われ、あっという間に高熱を発した。
ーー三十九度。
夕餉種抜きの梅干しを匙で潰しつつ、
「アタシャ、この齢になって初めて知ったよ。『バカは風邪ひかない』ってのは嘘か『バカでも風邪はひく』のどっちだろうねぇ?」
ケタケタ笑うおふくの戯言を真に受け、
「ひっちゃかましか、こんふーけもんのババアが!」
あまりにツボに入ったらしく、おふくがそっくり返って笑った途端、そのはずみで、彼女はぎっくり腰になった。
そのため、当面は待乳山診療所での療養が必要になったからだ。
ーー同居中のお松はわずか十歳ながら、待乳山診療所のおふくには着替えと、空き地や野原で摘んだ花を届け。
その代わりに、洗い物になって戻って来るおふくの浴衣や腰巻き。
滅黯が処方する熱冷ましの麻黄湯、咳止めの五虎湯を持ち帰り、届けてくれる。
さらには、新谷には朝夕に焼き鮭や干物の鯵のほぐし身、ちりめんに刻み大葉、三つ葉、昆布の佃煮と、毎日安い具材を変えて自作の粥に乗せ。
食前に服用するための漢方薬二種類を服用するための水と、飲用の氷水をわざわざ別にして運んで来てくれるのだ。
それも、間違いがないようにわざわざ一階の戸棚から探した、水差しと大ぶりの湯呑みな分けて、だ。
「お松坊」
「何? 新谷の兄ィ」
「わいば、まうごつよか嫁ごになれるっちゃん。男のおいが保証しちゃるけんな」
「へ?」
「お松坊ば、あと五、六年したら、やっちゃべっぴんになりよるて、ババアがよう言うとるけん、そいはおいもそんげん思っとるばい。十五、十六ばなったお松坊ば、男ば放っとかんとやろな」
「え、ぁ……?」
「上野は甘味処【紅はこべ】の小町娘て、どこぞの絵師が美人画にしとるかも知れんったいなぁ」
言われた途端、お松は両頬を真っ赤に染め、ひどく困ったように、左右の掌で顔を押さえ、うつむいて無意味に視線をあちこちにさまよわせた。
空になった、底に菜種油色で銀杏(いちょう)の絵が描かれた、内側は藍白、外側は無地ながら海松色に染まった丼と、黒鳶色の木匙を慌てて盆の上に乗せると。
無言で新谷の住む四畳半の部屋を飛び出し、足早に階段を駆け降りて行った。
ちなみに今日の粥に乗っていたのは、お松がおふくに習って作り方を教えてもらった、野沢菜の浅漬けを刻んだものだった。
やはり、美味かった。
(あんげん照れてあせがって、こいばちょおっとちんちょかもばい。ばってん、こいでお松坊ばケガでもさせよったら、ババアと姐さんに半殺しにされるかも知れんばい。もう止めにすっとがよかけんな)
「か~~っ、不覚ばい。おいがきゃーげんちーたるたぁ~~」
この時代、言うまでもなく体温計などないが、現在、新谷の体温はやや下がったとはいえ、まだ三十八度七分だ。
なかばやけになってふて寝を決め込み、毎日お松が干して取り替えてくれる煎餅布団の上に大の字になると。
新谷は知らぬ間に両掌に出来ていた【聖痕】の傷跡を見た。
(おいんごときが、こげんたいそうなもんーー)
しかし、新谷は思い出していた。
亡父から教えられた、聖痕を我が身に現した外国(とっくに)のキリシタンの逸話を。
ーー現代では旧東ドイツ、ベルリン西南はドイツ共和国内のプランデンブルク郡独立市ポツダム付近のウィルスナック寺院にて、聖餅が血を噴出させた逸話。
アッシジのフランチェスコ。
ドミニコ修道会の、シエナの尼僧、カタリナ。
ーー加えて、一八一二年十二月より、アンナなるシスターが、両掌と両足の甲から、十一年もの間、毎週金曜日に血液を噴出させたという話もある。
(おいんば、聖痕やなしにただの不名誉の傷跡ばい……)
そのとき、ふとーー。
心地よい涼風に吹かれ、夏用の簾が室内に向かってめくれると、簾の裾から、一羽の鳩が飛び込んで来た。
「何ね!?」
鳩はおとなしく、飛び起きた新谷のかたわらに止まり。
首から下げた小さな巾着をデーデー、ポッポー、と鳴きながら、見せつけた。
「こいに、何ぞ入っとるとか?」
鳩の首から巾着を外し、中を取り出した。
逆三角に結ばれた、小さな文。
それから、金銀の千代紙が皺ひとつなく貼られた、大ぶりの蛤の貝殻。
そして大雑把に見て、縦二寸、横四寸ほどの、かのシエナのカタリナの、楕円形の木枠に納められた、油絵の肖像画だった。
新谷は慌てて逆三角に結ばれた文をほどくと、差出人はお雪だった。
ただ、モルガンお雪より、としか書かれていない。
「ゆき……お雪て、誰(だい)ね?」
「上方の、白子の雪兎ちゃんですたい。それも、キリシタンのねェ」
「あ、あぁ、姐さん!?」
めくれ上がった簾の下。
あられもなく大股を広げて、ぽっくりを履いた両足を障子の桟の上に乗せ、左掌で簾を持ち上げていた。
上半身ーーというより、豊満な乳房に晒しを巻き、下はいつもの股下一寸ほどの黒い股引。
その上に、寸づまりのような、腰まであるかないかの黒襟に、白地に緋牡丹柄の法被に袖を通して。
「艶文かァ?」
「ち、違うとです!」
「それよか姐さん、そぎゃん格好ばして、どこん何しに行くとですか?」
「花仕舞いだァよォ」
「……花……仕舞い……?」
「あの蛇女の住み処に咲いてた、燃えちまった花の供養と、まだ残ってる花ァ集めに行くんだよ。糸目の生臭坊主と、黯と一緒にねェ。ところで、よォ」
何を聞かれるのか。
高熱でぼんやりした頭で、新谷は思わず身がまえた。
「おめェ、松っこの奴、何かからかいやがっただろ」
図星を突かれ、新谷は二の句が継げなかった。
「《於多福屋》は休業中だってのに、わざわざ店の前掃き掃除してっから、ご褒美に、近所の婆っちゃからもらった五家宝やったんだよ。んで、二階に通してくれって頼んだら、顔真っ赤にして入り口閉めたと思ったら、鍵ィ、がちゃん! で、それっきりだィ」
「…………」
「あんなァ、松っこに何言ったんだよ? 事と次第によっちゃ、ただじゃすませねェ性質(たち)なのは、おめェがいちばんよく知ってんだろがィ。教えろや、ほれほれ」
ニヤニヤしながら、戀夏は浴衣をはだけていた新谷の褌の中に右掌を差し入れ、手コキを始めた。
素早く上下に、ときにじらすように、わざとゆっくりり、ゆっくりと。
風邪をひき熱を全身に帯びていても、いや、だからこそ、この淫靡な尋問は普段より実によく効いた。
「あ、お、おいば、お松坊ばーー」
「それからァ?」
すぐさま、戀夏の尋問は口淫に変わった。
男根を根元まで口に含んでは、柔らかく、かつ丁重に陰嚢を両掌で揉むかと思えば。
舌先で鈴口だけを舐める。
「こ、小町娘、ばなる、て……」
「あんだ、そんなことかよ」 ペりペりと音を立てて、豊満な乳房をあらわにすると。
戀夏は谷間に新谷の男根をはさみ、こすり上げながら、すでに先走り汁がにじみ出している亀頭を口に咥え、執拗なまでに舐め尽くし、舌先で鈴口を突き続けるとーー。
「んふ。あんたの汁は、いつも甘くて美味いねェ」
精飲し終えた戀夏は、左の口端から垂れた精液を左手の人差し指で拭い、じゅるりと舐めた。
「ただ、甘くて美味いのはいいけど、のどが乾くんだよねェーーあァちょうどいいや、これ、貰うよォ」
とうにぬるくなってしまったが、戀夏は新谷の枕元に置かれた氷水だったものを、ほぼ一気に。
それも、さも美味そうに飲み干した。
謙虚にも、それまで外に控えていた鳩が簾をくぐって、晒しを乳房に巻き直した戀夏の左肩に止まった。
「お、鳩ぽっぽ何だよ。しかしやることやって、あたしが乳に晒し巻き直すまで外で待ってるたァ、賢い子だねェ、あんた」
「…………」
何故か自分が異常に情けなくなり、ちり紙でひとり後始末をしていると、戀夏がいちばん触れられたくない話題を口にした。
「そういや黯かず、ら聞いたんだけどよォ、おめェ背中に刺青(スミ)彫れたんだってェ? 水臭せェなァ、何であたしにいのいちばんに見せてくんね……」
「姐さん、いけんばい!」
しかし、帯を緩めていた浴衣はすぐさま腰まで引きずり下ろされた。
「ーー!? あ、新谷、てめ、これ……」
白百合を抱く聖母マリアの刺青如きに驚く戀夏ではない。
さしもの戀夏さえ絶句したのは、刺青のマリア像の双眸。
背中から腰、臀部、太ももの裏からひざの裏、果ては左右のかかとまで果てしなく滴り落ちる、血の涙だった。
「……っだよ……これ……!?」
思わず右手の人差し指で触れたが、その血は指の腹には付着しなかった。
そのとき鳩がつんつくつんつく、金銀の千代紙を貼った蛤を嘴でつついた。
「あんだよ、お香立てかァ?」
戀夏が蓋を開けると、かぐわしい芳香が、ふわりと立った。
「!!」
新谷は突然戀夏と向かい合い、彼女の右掌からそれを奪い取るや否や、鼻を近づけて香りを嗅いだ。
「こ……香油ばい!」
「へェ、それかよ。おめェらの間で香油ってェと……」
キリシタン達の間に於いて、香油はただ香りのよい軟膏程度のものではない。
牛乳とバターに香りをつけ、病気の者の身に注ぎ、慰めの効果を持つとされる、ある種の秘薬であり。
油そそぎなるキリシタンの儀式に使われる。
つんつくつんつく、鳩は新谷の背中をつついた。
「おっしゃ、わかったぞ鳩ぽっぽ!」
戀夏が新谷から金銀の千代紙を貼った蛤を奪い取り、人差し指でぐりっと軟膏状の香油をえぐり取り、唇に挟んだ。
「あ、姐さ、何しょー……っ!」
戀夏の唇の熱さにほどよく溶けた香油が、マリア像の刺青の右眼に触れた。
次いで、左眼にも。
「っ……」
仰向けかつ全裸にされ。
背中の両側に、痛みもなければ浴衣にも布団に染み込むこともない血の滴りが、溶けた香油を含んだ戀夏の唇になぞられる。
戀夏の唇の線に沿って、マリア像の刺青から滴り落ちる血が、嘘のように消えて行く。
だが香油を含んだ戀夏の唇の感触には、性的かつ官能的なものは一切感じられなかった。
ただただ、安らぎばかり。
心の底からの温かさに、いつしか新谷は眠りに就いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「悪りィ、遅れちまったィ!」
かの、全焼した澪らの春画描かき専用の裏庭に、三人の人物が集まって既に作業を始めていた。
一人目、滅黯は花鋏を持ち、いつも両眼を隠している青海波柄の手ぬぐいを広げ、目隠ししながら残りの手ぬぐいで、立髪の頭を覆っている。
足元はいつもの一本歯の下駄ではなく、古びた軍足と、粗末な草鞋だ。
「禰々ちゃぁ~~んっ!!」
かろうじて焼け残った、裏庭の目隠したる、竹を敷きつめる形式の建仁寺垣をひょいと飛び越えると、いきなり薄柿地に小豆色の立湧柄の野良着を着、頭に色の抜けた、紅掛花色の井桁模様の人物が飛びつき、抱きついて来た。
「へ? あんた、古琳さぁ? どこのおばはんかと思ったよォ」
「やぁねぇ、同い年じゃないのよぉ、アタシ達それにーー」
「あたしはもう禰々子じゃねェよ」
「アタシも、もう古琳さぁじゃなく、極楽寺の男庵主、菊門尼青髭よン?」
いつも通りのやり取りを交わしてから、戀夏と青髭は右掌を重ね合わせ、ぱん! と小気味よい音を打ち鳴らした。
「可哀想に、燃えちまった花はアタシがもうあらかた刈っちまったよ。だからアタシの仕事は、これからアンタ達に出すお茶とおにぎりの支度さね」
「で、あたしの仕事ァ?」
「黯ちゃんと同じよン。まだ燃えないで残ってる花を摘んで頂戴な」
言いながら、青髭は花鋏を戀夏に手渡した。
ふと見ると、極楽寺の寺男にして青髭の男役の愛人ーー作造が、両掌を煤だらけにしながら、燃えてしまった花を束にして、細い縄で括り、猫車の上に乗せていた。
ゾっとするほど鋭い目つきに、細く長い眉、坊主頭。
利休色の作務衣に、地下足袋。
拷問と緊縛の名手たる、痩せてはいるが身の丈は新谷と同等で。
よく見れば相当に端正な顔立ちなのに、常に無感情かつ無表情で無口と、三拍子揃った冷酷な印象しかない寺男の顔に、燃えてしまった花々に対する悲哀のようなものがにじみ出ているのを、戀夏は確かに見た。
「見えやしたか」
「うん……」
花鋏を手に、戀夏は物悲しい気持ちになった。
「そんな顔、姐さんにゃ似合いやせんぜ」
「バーカ、あたしだって悲しくなるときぐらいあらァ」
ふたりの間には、井戸水を溢れんばかりに湛えた木桶が、逆正三角形の形に三つ並んで置かれていた。
その中に、まだ咲き残っている六種類の花々が、縦に差し込まれている。
しかし、戀夏は後方の木桶が妙に気になった。
「黯よォ、おめェ盲のくせしやがって、何で燃えてねェ花ァわかんだよ?」
「へへ、盲ってのは眼が使えねぇぶん、鼻と耳が見える連中よりよく鼻が利いて、耳がよく聞こえるんでさぁ。姐さん、風邪ぇひいたときに、鼻がつまって飯の味がわからなくなっちまったこと、ありゃあせんかぃ?」
「あたしゃバカじゃねェから、風邪ひいたことなんざいくらでもあらァな。それが、どしたィ?」
「あの逆と思ってくれりゃ、よござんすか」
「んーー…………」
戀夏は滅黯の言葉に、わかるようなわからないような、微妙な反応しか返せなかった。
「あぁ、言い忘れてやした、姐さん。切った花の茎は、斜めに切ってから桶に入れてくだせぇ」
「あんで?」
「そうしやすとね、切り花は水を吸い上げて花がよく開くんでごぜぇやすよーー」
「へーえ、おめェ本当何でも知ってんなァーー」
――――――――·――――――――――――
「アタシと作造は『いちおう』庵主と寺男だから、お魚はダメなの。だから禰々ちゃんのおにぎりは筋子よン」
「なー古琳さぁ、おめェらの分の握り飯の中身ァ?」
「梅握りと、昆布と豆の佃煮が半分ずつねン。あぁ、黯ちゃんは塩にぎりだけでいいのよね? 玄米の」
「へい、お手数おかけしやして、申し訳ござんせん」
飆が天井を吹き飛ばした、裏庭に面したあの部屋、その縁側。
戀夏、滅黯、青髭、作造は何も知らず、そこで青髭の握り飯を食べることになった。
戀夏の分。
滅黯の分。
青髭と作造の分。
それぞれが青々とした竹の皮に、ひとり三つずつ包まれていた。
作造がわざわざ麦から煮出し、冷やした麦茶が、戀夏、滅黯、青髭の素焼きの茶碗に出された。
「……素焼きの茶碗は……割って捨ててしまえば、土に還ります……ので……」
それだけ言って握り飯をひとつ手にすると、作造は部屋の中に引き込もり。
そこで正座をしてちびちび黙々と、昆布と豆の佃煮入り握り飯を口にし始めた。
「もぉ、禰々ちゃんも黯ちゃんもごめんなさいねぇ、あいつ、ああいう奴だからーーところでさぁ禰々ちゃん、その桶に花を分けて入れた理由、わかる?」
「全然」
焼き海苔と筋子の握り飯の味の方が優先な戀夏は、素っ気なく答えた。
実際、戀夏はその意味をまったく知らない。
「花言葉。でやしょう?」
「まっ、さっすが黯ちゃんね!」
ふたつの木桶に、ひとつめは三種類、ふたつめには二種類ずつ。
そして何故か、黒い花が他の花々と離されるように、一種類だけ別にされている。
花の根元近くが細い棕櫚縄でゆったりと縛られ、まとめられている。
合わせて、六つの花。
それは何を意味するのかーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「おい」
ーーとある貧乏長屋。ひとりの痩せ衰えた老人が、かけ布団も敷き布団も汚ならしい、ズタボロの布団の中で仰向けになっている。
ただ虚ろな両眼で、天井の木目を意味もなく見つめていた。
戸を開けた音も気配もなかったのに、一枚の障子を開けてすぐの場に置いた、老人から見て水龜の左隣に、天台宗の雲水が立っていた。
「まずこれね、花海棠(はなかいどう)よ、花言葉は【艷麗】」
花桃よりの桜のような、艶やかな花であった。
「それからこれが風蝶草【貴方の容姿に酔う】よン」
何故か黒い編笠をかぶり、錫杖をたずさえて。
顔はわからないが、声は若い。
二十代後半程度だろうか。
「…………」
「お前は私を知らぬだろうが、私はお前を知っておるわーー『袖吉』にして、淫水舐安」
その名に、老人は青ざめた。
実はこの男は、まだ老人ではない。まだ三十六歳の壮年だ。
あの一件以来がったりと老け込んで、江戸きっての貧民窟、乞胸仁太夫がお膝元、下谷山崎町の長屋である。
表向き、自ら焼死した娘のお咲耶こと本名・お振は、唐突な心の臓の病で死んだことになっている。
まだお振が数えで五つの歳に逝った亡妻、おらくも心の臓に病いを抱えていたため、誰も何の疑問も持たなかった。
他の長屋の住人達に線香さえ上げさず、通夜さえ行わなかったのは、あまりに突然のことで、それどころではなかったと伝え。
こちらも、誰ひとり不信に思う者はいなかった。
お振の死を知らされた翌日から、袖吉がまさしく玉手箱を開けてしまった浦島太郎並みに、瞬く間に老け込んだのも手伝って。
人並みに髷が結えるほどの黒髪はあっという間に抜け落ち、まばらな白髪になり。
決して太めではなかったが、中肉中背の身は骨と皮ばかりに痩せ衰え。
元よりあちこち欠けていた歯は、あらかた抜け落ち、今や上は、向かって右側の前歯が一本。
下は、こちらも向かって右の口端の歯と。
前歯二本の、すぐ左隣りの歯、一本を残すのみで。
歯茎は紫と黒の入り混じった歯槽膿漏の体(てい)をあらわにしている。
長屋の奥にある共用の厠にも行けず、四畳半一間の部屋の隅に置いた木桶で大小を済ませ、それが満杯になれば厠に捨てに行く有り様だ。
全身に褥瘡が出来、それがひどく痛む。
「残念ながら、そなたの娘はまだ
仏には成らずーーともに死んだ、あの啞で聾の男とも、離れ離れのままなり」
袖吉は、心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けた。
「それはな、貴様が己が手で生きながら火にかけたも同然の娘を、いまだ娘の身を喰いものにして大金を得たいと願うておるからよ」
「…………ぁ、ぅ…………」
袖吉が涙とよだれを両眼と左右の口端からだらだら垂らしながら、内側に掌をすぼめて、爪で虚空をかきむしるしぐさを繰り返し、両腕を上下させた。
「そんで、この実が千両でやしょう? 【富、財産、恵まれた才能】」
「で、この紅と白の色違いの花が立葵でーー【大望、野心】」
「父御と母御に恵まれなかった者同士、せめて天の蓮の花の上で手を繋がせ、幸せにしてやろうとは思わぬのか。この期に及んでもなお、娘が犯し尽くされる姿を描き、それで大金を稼げればと、執着しておる。故にそなたの娘は上には行けぬ」
歯が皆無に近いが故に、まともに嗚咽も漏らせず。
袖吉は布団から這い出して、畳の上に突っ伏した。
右腕の上に顔を乗せ、左掌を握り締め、ケバ立って日焼けしきった古畳を、何度も何度も叩いた。
「お前の絵師としての人生最後の仕事を与えようぞ。しかし業の深さ故、何を描かこうが貴様は地獄行きと決まっておるがな」
言いながら、浄眩は一本のまっさらな小筆を差し出した。
「紫馬簾菊は【あなたの痛みを癒します】」
「馬酔木は【犠牲、献身、貴方とふたりで旅を】ーー」
気がつくと、便壺代わりの木桶以外には何もないはずの四畳半一間の部屋には、大量の和紙が散乱していた。
震える手で、つ……と、袖吉は一枚の和紙を取り、絵を描き始めた。
その白い小筆の先からは、白いみまま、何色も穂先に含まれ。
決して色が混ざり、濁ることもない。
さらさらさらさらと、畳の上に正座し身を乗り出して、袖吉は一心不乱に描き続けた。
その筆がようやく止まったと同時に、袖吉の上半身がびくん! と反り返った。
澪だ。
蝮とヤマカガシの四本の毒牙が袖吉の首筋に刺さり、毒を流し込みながら、背中から左胸を貫いた左掌の先端に尖った五枚の爪が、心臓を握り潰した。
「……ご…………ぉ…………ぉ…………」
袖吉の息の根が、止まった。
半身半蛇の澪は浄眩を見てニヤリと微笑むと、その姿を消した。「邪念と蛇念と因業と、淫業とが絡み合うての地獄行き」
浄眩が土足のまま畳の上に上がると、完成した絵が描かれた紙を一枚、手にした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
シャン、シャンと錫杖を鳴らしながら、浄眩は長屋を後にしようとしかけたとき。
長屋の入り口から、ツギハギだらけのボロい着物をまとい、風車を手にした幼子ふたりーーともに男児であるーーと、ぶつかりそうになったが、するりとよけた。
「おっちゃんに見せるーー!」
「おっちゃんに見せるーー!」
その後から、頭に鮫小紋がところどころに散らばった手ぬぐいを、姐さんかぶりにした腹の大きい若い内儀が、背中に赤子をおぶって、小走りにとことこ駆けて来た。
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すれ違いざま、内儀は申し訳なさそうに会釈し、浄眩もそれに倣った。
「あ、あの、お待ちくだせぇまし、雲水様!」
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「……うちには銭(ぜぜ)こさねぇで、こんなものしかありゃあせんで、申し訳ねぇですが……」
内儀が手渡したのは、包丁でふたつに切った薄紫色の皮の果実、木通だった。
「ほう、木通か。これは善きかな」
浄眩は内儀に向かって、そして内儀もまた、合掌一礼で返した。
「善き子を産まれよ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「袖吉さんよーぅ」
ボロボロの草鞋を放って脱ぎ捨て、名前からして年の差がわかる幼い兄弟は、袖吉が眠る布団の周りを、カラカラまわる風車を持ちながら、どたどた駆けまわっている。
「あのねぇ、袖吉さん。木桶なんかで用足さなくてもいいようにしたんだよ。ほれ、こいつらがまだ赤ん坊の頃、おむつ作ったときの布がまだたくさん残っててーー………ん、花……?」
水龜のすぐ前に置かれた浅い金盥の上に、白と薄紅の蓮の花が、澄んだ水の上に浮いていた。
「何だいねぇ、蓮なんて、季節でもないのに。でね、うちにゃまだお巳代もいるし、あと少しで腹の子も産まれるしで、縫うのも使うのも洗うのも、ふたりも三人も変わらねぇからさぁーー」
ーー半透明で、乳白色のとろりとした果実の、野趣溢れる山の天然の甘味を味わいながら、浄眩は残った皮をごくん、と飲み下した。
「けど、明らかにおかしかありゃあせんかぃ? 庵主様」
「あら、やっぱり黯ちゃんにはお見通しだったのねンーーアタシもそうよ」
「はァ? 何がおかしいんだよォ?」
「ーーこの五種類の花ねぇ、全部じゃないけど、狂い咲きなのよ」
「……庵主様、滅黯どの……それは……黒百合が呪詛花だからでございましょうぞ……」
「さすがにおわかりになりやすねぇ、作造さん」
「おォこらァーー! 話ィわかる連中だけで、話してんじゃねェよ、 あたしにも教えろよォ!」
「禰々ちゃん、元凶はあれよ」
青髭が、一束だけ離されている黒百合の束を指差した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
同時刻、上方は甲賀。
現・復讐代行商人【鬼来迎】総元締めたる、弐拾七代目「屍ノ御前」甲賀瑞ノ江屋の姆々代の元に《惨討狩り》を命じられた二組の配下の者達が、彼女の元に集められていた。
表向きは「瑞ノ江屋」なる、次女の女郎花が店主を勤める、小さな茶屋だ。
曾々祖父母の代から甲賀名産の茶、土山茶と朝宮茶、そして祝いの席用の桜茶のみを扱う小さな店であり、今は姆々代の妹達である次女の女郎花が店主を勤め、三女の撫子のふたり姉妹で細々と営まれている。
五代に渡って続く、昔ながらの客に加え。
客商売の血筋を受け継いだ、しっとりと落ち着いた次女の女郎花。
愛嬌たっぷりで、客あしらいの上手い三女の撫子と、各々がお気に入りの、美女揃いの姉妹達目当ての若い男客達も、少なくはない。
しかし、今日は軒先に張り紙が貼られている。
【誠に勝手ながら、本日は臨時休業とさせていただきます 店主】
そこは、地下。
忍びの里らしく、店舗の一階部分の《ある箇所》に、各々に与えられた、すべて形状の異なる鍵を差し込み、ひとりひとり違う回転数で左右上下に動かさねば、入ることは出来ない仕掛けになっている。
ーー壱組目、北摂堺櫓見衆改め『鬼蒜月』が五人兄弟妹、長男の然、次男の鬼眼、長女の蜷、双子の兄の百助、弟の錠。
ーー弐組目、『洛中崇仁蓮角』の飆とお雪。
鬼来迎は摂津、河内、和泉、山城、紀伊、但馬、播磨、近江、淡路、伊勢、伊賀、志摩、丹後、丹波、京の洛中洛外を支配下に置く広域組織だが、元締めの屍ノ御前が代替わりするごとに、本部は当代屍ノ御前の地元となるが習いだ。
「ーー御苦労であった」
弐拾七代目屍ノ御前姆々代は、左顔の上部ーー額から左眼、鼻、唇の上までを覆い隠す、上部から白磁の狐面が着いていた左顔だけをちらりと後ろに向けた。
葡萄色の垂髪袋に長い髪を隠し納め。
素鼠色の地に、黒紅の八重咲きの木槿が施された泥大島紬に、鬱金色の無地の帯を締めた、一見質素ながら、実はもっとも高貴な装いをした、唇に紅すら差さない顔で、姆々代が無感情かつ無表情につぶやくと。
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向かって左隣には、女郎花。
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黒地に緻密に浮き上がらせた紋織は、全体に白と金彩。
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同じく向かって右隣りには、撫子がそれぞれ正座で背筋をぴんと伸ばして座し、まるで長姉を護るかのように座している。
特に撫子は、三姉妹の末っ娘の若さゆえ、いちばん艶(あで)やかな装いである。
《辻が花染め 辻が花模様》
と呼ばれる、室町から安土桃山時代の末期までの間の、わずかな時期の、幻の絞り染めだ。
手描きの線と刺繍、摺り箔と、豪奢を尽くした振袖だ。
髪を高く結い上げて団子状にまとめ、周囲を長さ一尺、幅一寸の西陣織の切れ端で飾っている。
左右の耳の両端からは、あえて結ばずに垂らした髪が細いひと束ずつ帯まで垂れ下がり。
先端は緩く巻かれている。
普段、姆々代は決して店に出ることなく、ここで赤墨色の文机の上で、筆耕の仕事をしている。
「もったいのうございます」
その場にいた計七人が、異口同音に心の底から口にした。
「飆、お雪ーー」
「あい」
「河内般若のスケコマシふたりの首ぃ取って、三条大橋の欄干に髪で括りつけて晒し首にしたんは文句あれへんけどな、むしろ溜飲が下がりよったし」
なお、ころがし梅弥と是之源の首級は、飆の手によって、額に五寸釘の先端で繰り返し削られては墨を擦り込まれ。
【糞】という刺青にされた。
ふたりの男根は、わざわざ亀頭を外に向けて口腔に押し込まれた。
そして、左右の欄干に吊り下げられたふたりの首の隣りには、江戸におけるふたりの凶状を書き連ねた、飆作、ひらがなだけの筆記による捨て札が建てられていた。
捨て札とは江戸時代、処刑される罪人の氏名、年齢、出生地、罪状をあらかた記して公示し、処刑後も一ヶ月は刑場に建て置かれる、高札である。
「せやけど、あんまり調子こきなや、飆ぇ。いちびりが過ぎて、下手こいてそっから足つきよったら、かなわんしな」
「へーい」
まったく反省する様子もなく、口先だけで返答した。
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記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
大江戸怪物合戦 ~禽獣人譜~
七倉イルカ
歴史・時代
文化14年(1817年)の江戸の町を恐怖に陥れた、犬神憑き、ヌエ、麒麟、死人歩き……。
事件に巻き込まれた、若い町医の戸田研水は、師である杉田玄白の助言を得て、事件解決へと協力することになるが……。
以前、途中で断念した物語です。
話はできているので、今度こそ最終話までできれば…
もしかして、ジャンルはSFが正しいのかも?
Millennium226 【軍神マルスの娘と呼ばれた女 6】 ― 皇帝のいない如月 ―
kei
歴史・時代
周囲の外敵をことごとく鎮定し、向かうところ敵なし! 盤石に見えた帝国の政(まつりごと)。
しかし、その政体を覆す計画が密かに進行していた。
帝国の生きた守り神「軍神マルスの娘」に厳命が下る。
帝都を襲うクーデター計画を粉砕せよ!
【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【完結】雇われ見届け人 婿入り騒動
盤坂万
歴史・時代
チャンバラで解決しないお侍さんのお話。
武士がサラリーマン化した時代の武士の生き方のひとつを綴ります。
正解も間違いもない、今の世の中と似た雰囲気の漂う江戸中期。新三郎の特性は「興味本位」、武器は「情報収集能力」だけ。
平穏系武士の新境地を、新三郎が持ち前の特性と武器を活かして切り開きます。
※表紙絵は、cocoanco様のフリー素材を使用して作成しました
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