天誅殺師 天誅殺参ノ件(くだん) 【短篇・中篇集】

比嘉環(ひが・たまき)

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惨劇ノ参事⑴・第伍章《後日談・娘からの文と血族の罪》(完)

伍之罰「滅黯夢幻死事」ー髪結いの亭主ー

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 失禁しようと、無意識に大量の涙を流しながらも、お登代がかろうじて正気を保っていたのはーー。
 母親として、あまりに理不尽な我が子達の目に見えてわかる仇を。
 末っ子にして待望の娘だったお科を、生きながら火にかけ、死に至らしめた、目の前にいる夫、実吉だけでも、この手で討つためであった。
 声にならない声を上げ、柳刃包丁をめちゃくちゃに振るって実吉に突進する。
 両腕で防御すらせず、ただひたすらに妻の刃に切られーー斬られるがままだった。
 顔も、胸も、腹も、相対する実吉の肉体は瞬く間に大きな×形の裂傷にまみれたが、その間、実吉は一切抵抗も反撃もしなかった。
 だというのに。お登代が振るった弾みで褌の紐が両方とも切れ、幾本もの太い青筋を膨張させて勃起した陰茎が、あらわになった。
「この期に及んでそんな粗末なちんぽおっ勃たせて、キチガイかぁ、てめぇはァァァァァァァ!!!!」
 何度となく、お登代の秘部たる器官に挿入され。
 それで快楽を得、互い違い夫婦の愛を感じ合い。
 ーー結果、三人もの愛し子を胎内に宿らせたそれは、今はただこの世でもっとも醜悪かつ、憎悪と殺意の対象でしかない、肉塊にしか過ぎなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
 ーー人の噂も七十五日。
 あの言葉は真っ赤な嘘だと、滅黯はまだ十と七年の人生で、習得した。
 ーー結果的にーー。
 実吉一家が住む御厨長屋の一家惨殺事件は、ところどころーーいや、余りにも不可解な点を数多残しながらも、月番制で担当になった南町奉行所の捜査の結果、ただひとり生き残った一家の主人、実吉の突然の発狂による仕業ということで、一応の解決を見た。
 御厨長屋の実吉一家の住まいの中には、鉄と剛を天井の梁から鮟鱇の吊し切りの如く吊るし上げた錨もどきも、二本の荒縄も残ってはいなかった。
 竈で焼かれた乳飲み子の末娘、お科の焼死体。
 そろって、上顎から眉間までを太く先端の鋭利な物体で貫かれたあげく、内側から胃の腑を破裂させ、大小便まで垂れ流した状態で、四畳半に敷きつめた四枚の布団の上で死に爆ぜていた、鉄と剛の幼い兄弟の不可解な惨殺体。
 そして腰紐だけを腰に巻きつけ、かろうじてその身にまとわりついているだけの、左右の乳房には母乳を垂れ流した痕跡をくっきり残した、お登代のお屍(おろく)はといえば。  ーー刃が中ほどで折れた、死後硬直した右掌の中に固く握り締め、現場検証に当たった若い同心達が数人がかりで五指を外そうとしても外せないほど固く握り締められた、柳刃包丁の柄。
 その致命傷は、夫の実吉の右腕に埋め込まれた、出刃包丁による喉への一閃。
 さらにその屍は、顔面がズタズタに切り裂かれ。
 胴体と繋がった首の部分は、夫の実吉が振るった出刃包丁の尋常でない力で首の骨を叩き割られて、左側にわずか一寸しか繋がりを残していなかった、文字通り、かろうじて首の皮一枚で繋がっており。
 その首に腰より長く伸びた、下ろしたお登代の髪が、左右から何重にも巻きつけられ、その髪によって、何とか首の位置を固定されていた。
 そして、お登代のお屍の全貌はーー。
 まず、裸足の両足は、右足は脛の部分で斜に、左足は足首から先だけが『立ったまま』残っており。
 口の中には、出来るだけ苦痛を与えて死に至らしめようとしたのだろう。
 次に、お登代の上の歯茎から抜けた糸切り歯が上に二本、根元に刺さり。それでも噛み切ることは叶わなかった実吉の、柳刃包丁で斬り落とした陰茎の亀頭が気道を完全に塞ぎ、断面を天井に向ける形でーー死んでいた。
 さらに上半身は、授乳中の豊満過ぎる左右の乳房を実吉の出刃包丁で斬り取られ。
 その両乳房は、裁縫箱の中から取り出された針を通した木綿のしつけ糸で、めちゃくちゃなかがり縫いで実吉の左右の乳首を隠すように縫いつけられ、左側の乳房から、長く糸を通した針を、だらりと垂らしていた。
【……内儀、登代女の屍体の状況、無残ここに極まれり。登代女を殺害し下手人たる夫、髪結いの実吉が出刃包丁て抉り取られし、左右とも母乳と血まみれの乳房は、実吉の胸に……】
 ーーと、南町奉行所の役人が現場と複数の死体の状況を記す際、わざわざそのように書き記した辺り、
  陰茎を斬り落とされ、顔から爪先まで全身を柳刃包丁で滅多斬りにされながらも、実吉は生きていた。
 しかし、頭の方は完全に正気を喪っていた。
 両掌を血まみれにさせ、へし折れた柳刃包丁の先端部分の刃を左右の十指に喰い込ませて、骨に守られ、指が落ちるのを免れながら、何度も何度も、自身の首の後ろに柳刃包丁を押し当てたがために、首の後ろの皮膚全体がズタズタに裂け、そこから背中から腰、尻から土間へと大量の血が滴り落ち、浅い血溜まりを作っていた。
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 瓦版屋や浮世絵師や読本作家達は、この凄惨な事件を面白おかしく絵に描き、文字に記した。
 事件現場と惨殺体の無惨さを書き立て。
 黄表紙作家は、何の根拠もない作者の勝手な解釈と考察、妄想を大量に盛り込んで好き放題に書き立て。
 さぁさぁ今こそ稼ぎどきとばかりに、大江戸八百八町を揺るがす不可解な猟奇的一家惨殺事件に、各々が筆で塗り替え、書き変えて行く。
 自分に達にとって、話題のネタになれば、真実などどうでもいい。
 自分達にとって陰口を好き放題に叩けることほど、真実を伝えることよりくらべものにならないほど面白く、可笑しく、楽しい。
 そしてそれこそが世間においての「真実」なのだ。
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「……え? そいぎんた、あの件ば『うらみすだま』の天誅殺やなかったと……ですか?」
「だとよォ。あたしもすっかり騙された」
『ーー此度の一件は、長年に渡り、とある男からの執拗な醜き顔の嘲りに苦しめられし女性(にょしょう)の魂の救済だーー』
 浄眩から滅黯のひとり仕事の補佐を依頼された際にそういわれ、戀夏も新谷も、幼い頃から顔の美醜を実吉に罵られ続け、それを苦にして自死した女の『うらみすだま』よりの天誅殺だとばかり思い込んでいたが、そうではなかった。
 自死であれ他殺であれ、死者の恨みを晴らす『うらみすだま』ではなく。
 かつて他者に理不尽に虐げられ、その心の傷が癒えないまま生き続けている生者の恨みを晴らす『すくいすだま』だった。
  
 しかし、浄眩は嘘はついてはいない。
 強いて言うなら言葉が足りなかっただけであり、それは決して嘘とも騙しとも言わない。
 ーーここは戀夏の住み処、上野中町の元小料理屋、栂のやの二階。
 そのすぐ側で、愛用の品にして、亡き両親の形見であるぐい呑みを手に、かつてここが小料理屋であった頃に使われていた、灰釉八角の二合徳利に移し替えた、秘蔵の【壱岐の麦焼酎】を、新谷はちびちびと呑んでいる。
【壱岐の麦焼酎】を呑んでいるのは戀夏も同じだが、その呑器は、小さいが厚みがあり、どっしりとして、無骨な印象を与える。
 戀夏が、新谷の徳利を自分のぐい呑みに傾け、どぶどぶと注いだ。
「あんのォ、糸目の生臭坊主! まァた好き勝手にあたしの身体ァ使いやがってよォ!」
 そう怒鳴るなり、戀夏は半ばヤケで、ごっ、ごっ、ごっ、と。
 のどを鳴らして、ぐい呑みから生(き)の麦焼酎を、三分の二ほど、一度に呑み干した。
  ぶはー、と息を吐き、左右の親指と人差し指を広げて首の両脇に当てがい、首をこきこきさせる。
「しっかしさぁ、あたしの首を生首にしやがった後、何でだか、必ず肩と首のこりが完全に消えてんだよねェ。鬱血が取れてんのかァ?」
「姐さん、一気に焼酎ばあおるば、あぶなかばい! そがんこつしたらいけんったい!」
「うーるせー、バッキャロー! 何ァーにが『敵を欺くにはまず味方から』でェ、生臭の浄眩坊主のバカタレがァ! そんなに生臭いもんが好きなら、蝿か御器齧(ごきかぶり)にでも化けて、どこぞの大芥溜ン中ァ入って、生ゴミでも漁ってやがれってんだァ!」
 これでも、戀夏はれっきとしたしらふである。
 長崎ーー九州という、関東にくらべて陶器より磁器の方が一般的な、新谷の磁器製のそれとはまったく異なる造形の、ぐい呑みだ。
  ここが小料理屋で、まだ『隅田の禰々子』と名乗り、舟饅頭兼、この店で酌婦をしていた頃、戀夏だけでなく、常連客達はみな栂のの爺っちゃと婆っちゃと呼んでいた店主夫婦が、
『冥土の旅に出る前に』
 といって、常陸国は笠間まで赴き、爺っちゃが、自分達夫婦と戀夏と専用のものとして、徳利一本にぐい呑み三つをこしらえて帰って来たあの時の光景を、戀夏は昨日のことのように思い出せるーー。
 徳利もぐい呑みも、ただ鉄黒の釉薬をかけただけのもので、明らかに工房の職人に代筆してもらった、
 爺っちゃ用の『爺』。
 婆っちゃ用の『婆』。
 戀夏こと、禰々子用の『禰』。
 その一文字だけが、焼きつけられていた。
 この世界で本名を尋ね、知るのは忖度が徹底された無言の約定だった。 
  ーーひとしきり口汚く暴言を吐き終えた戀夏は、ふと自分の顔がうっすら映っている水鏡代わりのぐい呑みの中の麦焼酎の表面を見つめると、何故か、途端に。ひどく切ない気持ちになった。
  戀夏は半ば無意識に新谷の右掌の下に自分の左掌を滑り込ませ、新谷の十指の先を、軽く握っていた。
 新谷は動じることなく、戀夏から握って来た十指を、無言で受け入れた。
 尻端折りに太ももをあらわにし、薄紅梅にアゲハ蝶が舞う派手な着物と、左に高く結い上げた金茶色の髪に、花柄の縮緬の端切れを結びつけた、いつもの姿ではない。
 古着屋で買った掘り出し物、黒地に赤の乱菊柄の浴衣をわざとずるりと着崩して、先端のほつれた白い腰紐を、左側で蝶結びにしている。
 下ろすと背中まである髪は櫛巻き髪にし、右肩から、豊満な胸元まで垂らしていた。
 ーーまさかこの櫛が、新谷とふたりで過ごす晩酌の為に、わざわざ小間物売りから買った特別な品だなどと、口が裂けてもいえない。
  髪に巻く櫛が欲しいが、どんなものを買えば良いのかわからない、と、頬を染め、照れ隠しに唇を尖らせて、そっぽを向いて打ち明けた、ほっそりとした中年の小間物売りは、にこりと余裕ある大人の女の笑顔を戀夏に向け、
「これならばぜひ、貴女に似合います」
 といって、とにかくすぐにでもこの場を逃れたくて買ったその櫛は、柘植ではなく桃の木製。
 半月形のそれは、飾りとなる彫りのひとつすらない完全な無地で、簡素極まりないものだった。
 去り際に、小間物売りの女は、無学な戀夏にはまったくもって意味不明な言葉を残し、去って行った。
「山葡萄も筍も、髪飾りには出来ませぬ。故に、貴女は愛しき殿方から、決して裏切られぬようーー」
 ーー現在、亥の刻四ツ。
 新谷の住み込みの勤め先である、貸本屋の【於多福屋】。
 そこは今、おふくなる店主の老女と、前述した天誅殺師の裏の裏方たる兎知平の娘、お松が同居している。
 本当なら、お松は目黄不動近くに一軒家の自宅があるのだが、子を授かれなかったおふくは、まだ幼い十の女児がひとりで暮らすには心配だと、実父の兎知平にそれらしく物申して以来、兎知平から確固たる信頼を得て、お松を引き取るに至ったのだ。
 実際のところは、子を授かれなかったおふくが母親を早くに亡くしたお松を不憫に思いつつ溺愛しており、何としても手元に置いて、我が手で可愛がって育てたいというのが、本当のところだった。
 老女と子どもはともに暮れ六ツに二階の六畳間で新谷と夕餉をともにし。
 六ツ半から戌五ツまでには、そろって「日の出湯」こと、通称「しろい湯」 に向かい。
 おふくとお松ふたりが交互に、または、二つ鳴りもかまわない女三助として働く戀夏に背中を洗ってもらい、帰路の夜気に晒されて、熱い湯の火照りがほどよく冷めたふたりは、戌五ツには一緒に床に就く。
 そしてどんなに遅くとも、乾五ツ半にはふたりは示し合わせたように、寝てしまう。
 そして翌朝の明け六ツまで、完全なまでに、深い眠りに落ちてしまう。
 その隣り部屋から、新谷は二階の屋根瓦を裸足で歩き、一階の屋根瓦まで降り、そこから道に飛び降りる。
 そしてようやく帯に挟んだ草鞋を取り出して足を通し、戀夏の元へ向かうのだ。
 おふくとともに起床し、寝巻きを着替え、朝早く、竈に火を入れるところから朝餉の支度を手伝っているお松は、時折り朝帰りしては、その身から様々な匂いを漂わせる新谷が不可解でならず、一度おふくに尋ねたことがある。
 ーー刻は、ふたりの毎日の楽しみの八ツ時。
 場所は【於多福屋】一階の、貸本代の支払い場のすぐ後ろの四畳半。
 仏壇と神棚を置いた、店と四畳半を隔てるのは、毎月新谷が薄曇りの曇天模様の日を選んで、彼が勝手に障子紙を張り替える、二枚の障子である。
  睦月は、その年の干支。
  如月は、稲荷。
  弥生は、梅。
  卯月は、桜
  皐月は、ホトトギス。
  水無月は、青と薄桃の紫陽花。
  文月は、二十夜待の阿弥陀仏に観音菩薩、勢至菩薩。
  葉月は、三宝に盛りつけられた柿・栗・葡萄。
 文月は、神田明神祭礼の三十六本の山車。
  神無月は、御玄亥祭に合わせて、猪。
  長月は、酉の市にあやかって熊手。
 師走は、王子稲荷に関八州の狐達が官位を定めるために集まるため、狐火が並ぶという言い伝えから、狐の面を。
 それを薄墨と書道用の筆で描くのだが、これが玄人裸足の上手さだ。
  ーーかつて長崎の貧乏長屋時代、寝つくことの多かった母と、まだ幼かった妹の縫と弟の定を喜ばせようと、少しばかり絵心のあった、少年時代の新谷が始めたものだ。
 年を重ねるに連れ、その筆はさらに達筆になって行ったが、ある日突然、見せて喜ぶ母も妹も弟も、いなくなった。
 二度と描かないと決めたはずの薄墨絵を再び描き始めたのはーー。
  この【於多福屋】に来て、留守番の暇に任せて描いた半紙に薄墨の昇り竜を、姉と手を繋いで店を訪れた弟の方に、その絵をねだられた。
 そっけなく絵をやったにも関わらず、弟の方はたいへんな喜びようで、姉の方は何度も感謝の言葉を述べながら【於多福屋】を後にした。
 見たところ、お松と同じ歳ほどの姉に、まだ五つかそこらの幼い弟。
  ーーそのふたりに、今は亡き妹弟の幼い頃の姿を重ねずにはいられなかったからだった。
 今日のおやつの菓子は栗饅頭、茶は玄米茶。
「ねぇばっちゃ、新谷のにぃに、夜、ときどきどこに行って何してるの?  よく、昼四ツになって帰ってくると、いっつもお酒臭いのはいちばん強い匂いだからすぐわかるけど、それと一緒にねーー」
 もうふたつ、匂いがするよ。
 と、口にした。
 実はこのお松なる娘にはーー本人にその記憶はまったくないもののーー赤ん坊時代の特殊な経験から、死期が近い者の影が見えなくなるという、異能力を持っている。
 おふくはその事実を知らないが、ひとつ屋根の下でともに暮らしていれば、さすがにこのお松の霊的な勘の鋭さ、隙のなさ、賢さがわかる。 
 だからといって変にこまっしゃくれたところなど微塵もない、子どもらしい、実に素直な性分だ。
 だが、もうふたつと聞いて。
 まさか、新谷の体に染みついた、男と女のーー新谷と戀夏の一晩かけた事後の匂いを嗅ぎ取って怪しんでいるのか、この子はーー? と思い、おふくは動揺したが、お松から返って来た答えに、おふくはほっと胸を撫で下ろした。
「ーーふたつ目はねぇ、いつも匂いは違うけど、お香の匂い。梅だったり桜だったり山百合だったりするけど、あたしは、甘夏の匂いがいちばん好きだな。それでみっつ目はぁ、煙草の匂い。でもあたし、にぃにが煙管吸ってるの見たことないよ?」
「お松っちゃん、酒飲みが集まる店はね、煙草を吸う大人がいっぱいいるんだよ。そうさね、お松っちゃんは十だからまーだまだ先だけど、大人になったらお酒は覚えていいさ。でもね、煙草はダメだよ? 特に女の子はね」
「何で?  戀のねぇねはーー煙管をーー」
「……なぁお松っちゃん。あんたは大人になったら赤ん坊産んで、おっ母さんになりたいかい?」
 お松はうん! といって、うなずいた。
「いいかいお松っちゃん、だったら尚のこと、煙草は覚えたらダメだよ。煙草を吸ってたら、子どもが出来なくなっちまうこともあるんだから、ね……ほらほら、早く飲まないと、玄米茶が冷めちまうよ! 栗饅頭の栗餡好きだろ、 お松っちゃん?」
 おふくが身を乗り出して、向かいに座るお松の頭をぽんぽんと叩くと、お松は手前の皿に置かれた栗饅頭を一口食べると、白地に呉須の青で松の枝が描かれた陶器の湯呑みから、まだ充分に熱い玄米茶を、ふーふーしながらちびちびすすった。
 おふくも笑顔を取り戻し、同じように手前の皿の上に置いた栗饅頭を一口ーー。
 その直後、仏壇にある、とうの昔に死んだ亭主の黒塗りの位牌の斜め後ろにある、悪筆の細筆で【雄水子】と斜めに記された、白木位牌と、そのすぐ隣りに置かれた、瓶覗色の陶器の、楕円形のふた付き小瓶に向けて、おふくが視線を向けたことに、お松が気づくことはなかった。
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「これ。少し前に黯から預かって来たんだ、あたしと黯に宛てた、アサちゃんってェ、あの髪床い床で下働きしてた娘(こ)からの文なんだけどォ。知っての通り、あたしゃ文字はほとんど読めねェんだよォ。んだから代読しろィ、ほれ、新谷ァ」
 あまりにも傲慢極まりない頼み方であるが、右半身を片肌脱ぎにした姿であぐらをかいた左ひざの上にしなだれかかった、愛しい女の頼みを断れる男ではなかった。
「こんくらいの文、代読すっとは朝飯前やけんが。ばってん、姐さん、わいばこん文読んどっとる途中で、寝落ちせんたいね?」
「わーかってるって、こんくらいの生焼酎、あたしにゃほんののど湿し。ガチで大丈夫だーかーらーぁ、あっはははははは、とってんぱらりのにゃんぱらりーん」
 さすがに、ザルでうわばみの戀夏にも、壱岐の麦焼酎を生(き)でがぶ飲みし続けたツケならぬ、酔いが既にまわって来たようだ。
「姐さん、言うとる側からやっちゃ酔っとっといね……ばってん、しょうんなか」
ーーーーーーーーーーーーーーーー 滅黯さんとお戀さん え
  
 おひさしぶりです、アサです。
 あのときは、わたしを助けてくれて、ありがとうございました。
 わたし、は、あんまり字や文しょうがかけません。
 だから、へんなところあると思います、ごめんなさい。
 わたしが、かわうそのかみ結いどこではたらくことにしたのは、わたしの親せきの、みつよねえさんがすすめてくれたからです。
 みつよねえさんは、じつは、わたしのおっかさんの、いとこです。
 だけど、みつよという名は二ばんめの名まえです、ほんとうの名まえは「ふさ」さんです。
 みつよねえさんは、子どものころ、わたしがうまれてそだった、しもうさの三ツぼりという村に、すんでいました。
 でも、みつよねえさんは、ちいさいころ、ほうそうとかいう病いにかかってしまい、命はだいじょうぶだったけど、顔に、あとが、あばたとかいうのが、いっぱいのこってしまいました。
 そのせいでみつよねえさんは、ぶさいくの、おぶさなんて、男のこたちに、ひどいあだ名をつけられて、いじめられるようになって、そのなかでいちばんいじわるだったのが、あのかみゆいの、ねえさんとわたしのししょうだった、あの、さね吉というひとだったそうです。
 ーーそこまで読み終えて、新谷は酒の勢いも手伝って、つい口にしてしまった。
「っかぁ~、せからしか! あん男、おなごばせびらかしとったこんじょくされやったとか!? とごゆんなばい!」
「はン。男が醜女をからかうのは世の常よォ。そんなン、この世が終わるまでなくなんねェっての。だけど、さァーー」
 ちゅく、と。
気だるげに身を起こした戀夏が、酔って半開きのままの両眼で、新谷と眼を合わせ、唇を重ねた。
「あんたがそういうことに怒れる男でよかった」
 新谷の両頬が見る間に染まって行くが、声を震わせて、新谷はアサからの文の続きを読む。
 「……そ、そそ、それ、それで、み、みみ、みつよねえさんは……」
 ーーもう、三ツぼりにいるのはいやだ、どこかとおくへゆきたいと、おっとさんとおっかさんに泣いてうったえました。
 そしたら、わたしのじっちゃ、みつよねえさんのおっかさんのあにさんにあたる人が、
「ぼうそう(房総)にある、おらがいもうとの嫁ぎ先さゆくがよかんべ、あれんとこにゃ子がいね。あれのていしゅがかみゆいやってんだ、あんだったらにしゃ(お前の意)、女かみゆいになるために、しこまれてこい」
 そういわれて、しもうさ(下総)の三ツぼりから、ぼうそうのきさらづ(木更津)まで、ひとんで(一人で)行かされたそうです。
 そこで、みつよねえさんは、かみゆいのしごとだけでなく、おかみさんのおさわさんという人に、うまれてはじめてけしょうをしてもらったとき、あばただらけのかおにうすくおしろいをはたいてもらって、ほおべにもはたいてもらってから、しあげに筆で紅をひいてもらったら、まわりの男のお客さんたちが、きれいだといってくれて、泣きそうになったぐらいうれしかったって、よくいってました。
  それから、いやなおもいがある名まは捨てなさい、今日からあんたは、
「美津代」だって、新しく名まえをつけてもらいました。
 美、はうつくしいで、津、はあふれ出る、といういみだそうです。
 うつくしさがあふれ出るで、美津代。きれいですね。
 それと、わたしがかみゆいになりたいとおもったのは、なにか手にしょくをつけたいとおもったからです。
 それに、おっとさんのひげをきれいにそれるようになって、おっかさんのかみをきれいにしてあげたいのも、あります。
 それでわたしは、上のにきました。
上のにいたとき、わたしとみつよねえさんは、同じ長屋にすんでました。
 わたしのおっかさんが、わたしがかみゆいになりたいといったら、悪いがしばらくそこに住ませてくれないかと、文をよこしたら、みつよねえさんは、ぜひきてほしいといってくれました、うれしかったです。
 だけど、ねえさんが今はたらいてるかみゆいどこのごていしゅが、昔、ねえさんをいじめてたワルガキたちの、首りょうだったと聞かされたときは、おどろきました。
 だから、何でそんなやつのところではたらいてるの、と、わたしは少しおこりました。でもねえさんは、

「今のわたしの名前はふさじゃなく、美津代だから大丈夫よ、アサちゃん。それにあの人、化粧したわたしのこと全然気づいてないの。それにね、おさわ叔母さんから、わたしはあのご夫婦の娘ということにしてもらって、木更津の髪結い床で働いてたってことを書いた文をご亭主(註:実吉)は受け取ってるから、わたしがあの三ツ堀のおぶさだなんて、これっぽっちも気づいてもないのよ」

 何だかむずかしいことをいってましたが、そのころのわたしはなんにもわからないまま、あのかみゆいどこではたらくことになりました。
 でもーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「黯、何ゆえにお前はここへ墓参りに訪れる」
 四基の墓全てに向かい、一本足の下駄を履いて、中腰で合掌していた滅黯に、浄眩が、優しげに声をかけた。
 ーー入谷田んぼの隅に、四基並んで建立された、笠付きですらない木製の墓標に向かって、見えぬ両眼の代わりに、触覚と嗅覚で摘んだ野の花を供え、右手の人差し指の先で、線香に火を点した。
「申し訳ありゃあせん、お師匠(おっしょ)さん……やはり、あっしはまだまだ非情になり切れやせんで……」
 四基の墓標には、
【俗名 とよの墓】
【俗名 てつの墓】
【俗名 ごうの墓】
【俗名 しなの墓】
 と、筆で記されている。裏側に記された没日は全員同じで、違うのは享年だけ。
「そのようだな、直弟子ながら、貴様の妙な優しさというか情(じょう)を断ち切れぬは、師としてまこと情けなきことよ」
 そのあまりに率直な言い様は、鋭く滅黯の胸を突き刺した。
 だが、
「そなたには戀夏が、残忍かつ非道に見えようよ。だが生まれ育ちに加え、永きに渡って春を売り体をひさぎ、その身を名も知らぬ男達に肉体のすべてを委ね、晒し続けた恥辱に耐えて来たが故であろう」
「それはわかっとりやす。わかっておりやすが! あっしはやはり、何の罪もねぇってのに、天誅殺の標的にさられた、あの三人の頑是無きお子方が気の毒で仕方ありゃあせんで……」
「罪? 罪なら既に犯しておるではないか、あの三人の子らは」
「お師匠さん? 何を申されて……」
「だからそこがお前と、戀夏に新谷との決定的な違いがあると申しておるのだ。天誅殺師【上野喰代サの肆番が『壱』】の身でありながら」
 浄眩の口調は、あくまでも穏やかである。
「それが、あっしにゃぁわかりやせん! お教えくだせぇまし、お師匠さん!」
 滅黯は、その場に何のためらいもなく土下座した。
「ーー戀夏は『弐』なれど、天誅殺とあらば赤子も殺す。それが天誅殺の対象となった母御の腹の中にある、孕んでまだわずかの勾玉のごとき肉塊を掌中で握り潰し、標的が臨月の孕み女なれば、その母御の膨れた腹にあのか細く白い腕で腹を破り、腹から引きずり出して臍の緒を引きちぎり、悪事を働いたその母御の目の前で、赤子の首をへし折るであろうよ?」
「……!」
「新谷も同じく。切支丹故に長崎の切支丹改メの役人どもに母御と弟を殺され、妹は浜辺にて、潮が満ちるまでの間に逆さ磔、そして海水でじわじわと溺死させられたのよ。なぁ、此度、そなたにひとり仕事として任せた天誅殺の一件、何故に実吉なる者の細君と子らをも殺させたか、まったくわかっておらぬのだな、黯」
「へぇ、仰られるとおり。不肖滅黯、まったくもってわかりやせん! 何卒真実をお教えくだせぇ、お師匠さん!」
「ーーあの細君は天誅殺の標的になるような男と夫婦(めおと)となり、子まで成したからよ。それも、忌まわしくも三人も」
「そ……それだけでございやすか?」
「それ以上に何の理由がある」
「巫女様の御尊顔に、あのように人の姿形を貶めて笑うことを生き甲斐にしておる下劣な男に虐げられ続けた、哀しみに満ちた女の『すくいすだま』の紋白蝶が宿った。それだけのことよ。なれば我ら天誅殺師は動くのみ。それ以上のことはなく、それ以下のこともない」
「そしてあの登代なる妻女は、夫の過去を何も知らず、知ろうともせず夫婦となり、子らを産んだ。品性下劣な男の血を後世に残し、育てた。母として女として、これ以上の罪があるかや」
「…………」
 滅黯がうなだれ、いつもより遥かに小さな声で、へぇ、と返答すると。
 大恩ある師の、あまりに無残で苛烈な教えと、天誅殺師【上野喰代サの肆番が『壱』】としての心構えを、胸に刻んだ。
 その頭を、温かい掌がぽんぽんと叩き、滅黯は浄眩から何かの包みを渡された。
 実に香ばしい匂いがする。
 あぁ、これは焼き饅頭だと、滅黯は嗅覚で理解した。
「お師匠さん、あっしの好物をわざわざ……ありがとうごぜぇやす」
「ここの末娘、名を科(しな)と申したか……」
 何故かその瞬間、赤い帽子を被った地蔵の光景が、滅黯の脳裏に浮かび、滅黯は全身が総毛立ち、あまりの寒さに全身が震えた。
「『親の因果が子に報い。【科(とが)】ありて【科(しな)】ざる』とは、何とも皮肉な名付けをしたものよ」
 「ーーあっははははははっ!! 悪が滅びる、真にもって愉快痛快! まして、その血が根絶やしになることほど、気持ちのよいものはないのぅ、滅黯!」
 と、浄眩は天を仰いで、実に爽快とばかりに、よく通る声で高笑いした。
 錫杖の音が、ひときわ高く鳴った。
 それはひとしきり続いた後、徐々に薄れて行き、滅黯の両耳には夜露が草木に溜まり始める、常人には聞こえない音が聞こえ始め、滅黯は帰路を急ぐことにした。
 完全な盲目ながら、人の気配とその匂いが我が身からどれだけ近くにいるか、どれだけ遠ざかったは、嫌というほどわかる。
 もう、師の浄眩はとうに遥か彼方に消え去った。
「お師匠さん、あっしゃ、ようわかりました。天誅殺師ーーこの生業に就いて就かざるを得なかった者(もん)にゃぁーー」
「『徹底する非道さ』こそが、もっとも必要なんでござんすね」
 何故、滅黯は今更このようなことを師たる浄眩に尋ねたのかといえば。 
 『それ』は今から数週間前から続いており、何も言わなかったが、浄眩にもしっかり視えていたのである。
 淫姦の罪を犯した者が落ちる、衆合地獄行きが夫婦揃って決まったお登代の上半身が、必死の形相で滅黯の首にしがみつき。
 既に斬首刑に処された夫の実吉の舌が、軽く六、七尺はありそうな蛇の如き触手に何本も分裂させて妻の両足に両腕に絡みつき、衆合地獄へと引きずり込もうとしている。
 そして、鉄、剛、科は、手が、指、爪が痛い、痛いと繰り返し訴えて、泣きながら滅黯の両足にしがみつき、助けを求めているーー。
「『臨、兵、闘、者、開、陣、烈、在、前ーー』」
 滅黯は、周囲に誰もいないことを確かめてから、九字の印を組んだ。
「いい加減、おあきらめなせぇ。お前さん方夫婦は、揃って淫獄の代名詞たる衆合地獄に落ちるんでやすよ。いや、落ちにゃあなりゃんせん。それからお前さん方兄妹は、特にお科さん。その桜貝みてぇに可愛いらしい小さな爪が、十枚すべて剥がれて、指の腹の皮膚が裂けて、どれだけ血が出ても。傷の手当てをして、泣き止むまで、ひざに乗せて抱いて慰めてくれるおっ母さんは、もうお側におりゃあせん」
「何度鬼に積み上げた石を崩されようと、地蔵菩薩様が降臨なされるその日まで、石を積み続けるしかねぇんでさぁ。積んでは崩され、崩されては積んで、積んでは崩され、崩されては積んで……」
 滅黯にしか聞こえない、四人分の断末魔の悲鳴が、滅黯の頭にまで延々と響き渡った。  
 そして親子は。 
 それぞれが落ちるべき、地獄へと落ちて行ったーー。
「♪ひとつ積んでは父のため ふたつつ積んでは母のため……」
 滅黯が、上野広小路の【於多福屋】に向かいながら、杖を突きつつ、小声で歌い出した。
「♪ここは冥土の河原なり 罪を犯せし童ども 河を渡るを得るまじきーー積善せざるその生に 遅れしことは目をつぶる たった今から石積めやーー」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
 「さぁて、烏もカァカァ鳴いとりやすし、あっしもさっさと帰(けえ)りやしょう。何しろ今晩の夕餉は、おふくさんとお松っちゃんに呼ばれとりやすからねぇ。アサリの剥き身と細切り生姜の炊き込み飯に、お松ちゃんが作るってぇ油揚げと小松菜の味噌汁。おふくさんが揚げなさる、大葉にふきのとう、たらの芽の天ぷらに、小鯵に目光の素揚げと来ちゃあ、行かねぇわけにゃ参(めぇ)りやせんでーー」
 白杖を突きながら、滅黯は、上野広小路町の【於多福屋】に向かって、歩き出した。
「♪虚空の塔をここに建て 積善供養をさせてやろ 娑婆においての布施とやら 土壇場でする河原なり……」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「……ねえさんは、とてもつらかったそうです。あれだけかみゆいとしての腕はすばらしいのに、お客さんにはなすのは、みためのよくないお客さんをばかにしたりからかったり、わらいのねたにしてばかり」
「あのひとが変わったのは、声とかおだけ。だからもし、じぶんがみつよではなく三ツぼりのおぶさだとわかってしまったら、また、子どものころのようにいじめられて、わらいものにされるのではないかと、夜、ふとんで泣くようになりました。だからわたしはねえさんのふとんにはいって、まいばんねえさんといっしょに、ねるようになりました。手をつないだり、わたしにせなかをむけて泣いてるときは、うしろからぎゅっとしてあげました……」
 そこまですらすら読み上げて、新谷は戀夏の異変に気づいた。
「お? あ、はあぁ、姐さん!?」
「あんででいいごなんだよごのごば(何ていい娘なんだよこの子は)」
 紺青に近い、瑠璃色の両眼から大量に流れ落ちる涙からくるひどい鼻声で、戀夏は新谷の左ひざの上に両腕を交差させ、その上に顔を伏せて、静かに号泣していた。
「あぁ、姐さん、わいんあぐらの上で涙流すっとばいっちゃんもかまわんけんが、おなごが鼻水ば垂らしとるば、やっちゃみったんなかったい」
 新谷はひどく焦りながら、ふたりの情事のための後始末用に、左袂に潜ませておいた懐紙を取り出し、まるで鼻風邪を引いた幼な子を相手にするかのように、二、三回鼻を噛ませると。
 両まぶたを閉じて、わずかに尖らせた唇で、戀夏のあごまで滴り落ちて大量の涙を、向かって右側から吸い上げ、左側も同様に。
「ほれほれ、姐さん、鼻水ば啜ったけん、ほうぶうたぁされんと、泣き止まんね。あぁ~、まちっとどけんかならんもんじゃろか。べっぴんが、だいなしったい」
「ん、あ……あら、や……ぁ……」
「……ねえさんは、いってました。さね吉がかわったのは声だけ。かみゆいどこのていしゅになっても、おっとに、ててごになっても、なかみはなにひとつかわってなかったって。
 そんなとき、ねえさんのかみゆいのお師匠さんにあたる、わたしのじっちゃのいもうとのだんなさんが亡くなりました。
 それからすぐ、あとをおうように、おさわさんが亡くなったので、みつよねえさんは、かわうそやをやめて、きさらづの【たつざわや】という、かみゆいどこの、女あるじになりました。
たつざわのゆらいは、前のごていしゅが「辰ぞう」さんで、おかみさんが「おさわ」さんだったので、この屋号になりました。
 わたしは、いま、みつよねえさんをごていしゅに、おししょうさんとして、また、だんなさんと大おばさんが、いまはのれんわけして、くにに帰った、元はお弟子さんたちと暮らしてた、かみゆいどこのうらの、にけん(二軒)長屋で、おとなりさんどうしになってくらしてます。
わたし、ねえさんにいちにんまえになれたとおすみつきをもらったら、えどに、上のにもどって、女かみゆいになります。そのときは、どうかよろしくおねがいします」
 ーーアサより、と。
 文は、そう締めくくられていた。
「ーーそっか、そっか。よかったねェ、アサちゃんーー」
 ーー戀夏が軽く鼻をすすったその瞬間、新谷は自身の左ひざの上でごろ寝しては、気だるげに身を起こしてを繰り返していた戀夏の両腕をつかみ、その身を起こさせた。
 挿入こそしないものの、座位の体位で戀夏の身をあぐらをかいた自分の股ぐらの上に乗せ。
 戀夏の細くしなやかな白い両足を、自分の腰に、まるで帯のように交差させるや否や、唇を重ねると同時に、あっという間に戀夏の舌を絡め取った。
 ーーさらに、新谷が戀夏を布団の上に押し倒し、紅色の夾竹桃の花と、生い茂る葉の中に蝮が潜む、戀夏のか細い両腕が新谷の背中を抱きすくめたのは、ほぼ同時だった。
「あ、姐さんーーおいば、もうーー」
「わかってるさァ、文を読んでる途中から、我慢汁の匂いがぷんぷんしてやがったものよォ。ただ、さァ」
 乱菊柄の浴衣を脱ぎ捨てて全裸になると、まるで蛇の如く、するりと新谷の下から這い出ると、枕元で金色の陰毛ふちどられた陰部を、いわゆる【観音開き】にし【御開帳】の状態になった。
 古ぼけて、それも外側の和紙を一度も貼り替えておらず、さらに光源は魚の油脂浸した皿に浮かべた蝋燭という、実に貧乏ったらしいものであったが、新谷には、彼にしか見せること戀夏の秘部が、ありありと見えた。
 ーーわずか十三の歳から夜鷹として、舟饅頭として、否応なしにその豊満肉感的な乳房を持ちながら、雪のように白く細い裸体を、無数の男客達に委ねていたがために。
 向かって左右の大小の陰唇が肥大して陰部からはみ出している有様で。
 その上、陰部から内股全体がどす黒く染まっていた。
 だが、戀夏の内股の、同じく向かって右側に、白の夾竹桃と紅の夾竹桃の花が二輪、新しく刺青が彫られていた。
 その紅白の毒花の並びの刺青の下にはーー。

 れん  さのすけ  命

「……あ、姐……さ……ん!?……」
 新谷は、愕然とした。
 どうして、戀夏が自分の下の名前を知っているのか。
 それはいつ、誰が教えたのか。
「あんの糸目の生臭坊主、あたしの体をだいぶ一方的に使っちまったからってさァ。詫びに教えてくれたんだよォ、あんたの名前。あたしァ、そいつの為なら死んでもいいって思えるぐれェ惚れた男の名を、紅と白の夾竹桃の花二輪の刺青に添えて、一緒に彫る。それがあたしの長年の夢だった。そ・れ・を……」
 戀夏が、語りながらおびただしい愛液をしたたらせた陰部に、新谷の顔を押しつけた。
「叶えてくれた男がーー……」
 戀夏がそういった時点で、新谷は密やかな包皮の中から赤く充血して勃起した戀夏の肉粒をにむしゃぶりついていた。
 決して歯が当たらぬよう触れぬよう、女の身を労りながら。
「あんたなんだってばァーー新谷左之助(しんたにさのすけ)様よォ!」
 あらや、ではなく。
 本名の読み方と呼び方で、戀夏は左右の頬をほの赤く染め、紺青に近い瑠璃色の双眸を潤ませると、新谷の首に両手首を交差させた。
 人差し指と薬指を戀夏の子宮口まで抽挿させながら、中指の腹で肉粒をこすりつつ、舌で舐め、吸う。
 新谷の三本指の愛撫に耐え切れず、戀夏は半泣きで絶頂に達した。 
 そのまま、流れるような自然さでふたりのまぐわいの体位が、相舐めに変わった。
「んふ、ん...…」
「姐さんーーおいば、左之助やけんが、もう左之助やなかばい。その名で呼ぶんは、もうこいでやめったい。おいば、名無しの喰いつめ浪人の『新谷(あらや)』やけんーー」
 ーー先ほどの絶頂の余韻たる痙攣が止まらない戀夏が二、三度うなずくと、新谷の亀頭が戀夏ののどの奥に触れ、新谷は呻いたが、戀夏は決してえずくことはなかった。
 新谷は浴衣の諸肌を脱ぎ、帯だけで浴衣をその身に繋ぎ止めている。
 戀夏もまた同じ姿ながら、その細腰を新谷の筋ばったごつい両腕に絡め取られている。
 剥き出しになった戀夏の股間は、新谷の舌先に肉粒を吸われつつ、膣に新谷の舌先をねじ込まれて浅くかきまわされてーーを、交互に繰り返され、淫楽の限りを尽くされていた。
 そしてその上半身はというと、豊満なふたつの乳房の間に、新谷の硬くそそり勃った陰茎を挟み。
 前後に懸命にこすりながら舌を絡みつかせつつ、口に含んで頭を上下させ、必死で新谷に奉仕している。 
 ーーこんな形でしか、戀夏は新谷に愛情を表現出来ないのだ。
 ーーーーーーーーーーーーーーーー
「♪積む石の角 手を切るか 寒き河原に震えるか そは汝らの不徳ゆえ  ひと石ひと石積み上げよ 布施にならざる戯れは ひと石からのやり直せーー」
  上野広小路にある【於多福屋】から、滅黯はほんのりと油と魚の匂いを嗅ぎ取った。
「あっ、ちょっとどこ行くの!? 勝手に飛んでっちゃダメ、ダメだってばーーあっ!?」
 絽嬪と九十九が駒鳥特有の鳴き声を上げながら、滅黯の左右の肩に乗り、ふわふわした被毛の生えた頭を、頬ずりして来た。
「黯兄ぃ、いらっしゃーーい!」
 滅黯は、笑顔というものを知らない。  
 だが足元に駆け寄って来た、その小さく柔らかな感触が、それが何たるかを教えてくれたような気がした。
 「へぇ、おふくさんに呼ばれて来やしたよ、お松ちゃん」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
 ーーかけ布団も剥がし、戀夏は一年を通して常に雪のように白い裸身を、ほの紅く染め。
 逆に、新谷は幼い頃から、南国で嫌というほど浴び続けた灼熱の太陽に焼かれた、うっすらと浅黒い肌に、筋骨隆々とし、がっしりとした肉体に、熱を帯び。
 互いに、その対照的な肌から浴衣を脱ぎ。
 文字通り、一糸まとわぬ全裸になったふたりは、しばし肩を並べて布団の上で仰向けになり、互いに汗だくの裸体から汗が乾くのを待ち、熱を冷ましていたが。
 いつしか両腕で互いの背中を抱き締め合い、両足を絡めながら、くまなく肌を重ね合った。
「ふぁ、んァ……」
 枕から布団の上に、金茶色の長い髪が広がると、戀夏は自ずとまぶたを閉じ、両ひざを立て、両足を広げていた。
 大柄で体温が高く、ずっしりとのしかかって来るその男の肌の熱さと体の重みを、女は何より愛していた。
「新……」
 いつものように女が男の名前を呼びかけたところで、男は女の唇を塞いだ。
 そして男は、立てた人差し指を女の唇に当てた。
「ーーいっちょんでよかばい。姐さん、おいんこつ、さのすけ、て呼んでくんしゃい」
「ェ……」
「やけん、おいば……」
 新谷は首筋に戀夏の耳元に唇を寄せ、耳たぶを甘噛みすると、その至近距離でも聞き取るのもやっとの小声で、囁いた。
「あっ……」
 顔から火が出そうな勢いのあまりの羞恥に、女は歯を喰い縛り、耐えたがーー。
「挿れるばい」
 ぐ、と。
 猛りきった陰茎の亀頭が、愛液に潤み過ぎている膣口にあてがわれた。
 ずっ! と音が立ちそうな勢いで、男の陰茎は、ずぶずぶと挿入された。
 挿入と同時に、強い絶頂が女の肉体にどっと押し寄せた。
「あっ、あァ、あんっ、はぁ、あぁんっ、あぁっ!」
  新谷が耳元で囁いたのは、
《好いとっといね、れんげ》
 という。
 たった一言だった。
 それが、戀夏の性感を極限まで昂らせたのだ。
 自分は、心からこの男を愛している。
 そしてこの男も、心から自分を愛してくれているという事実を確信してーー。
 やがて、戀夏が理性を失い。口端から口紅の混ざったよだれを垂らし、左右の目尻から細く涙を流し、立て続けに絶頂に達した。
 ーー新谷はその後、半ば気絶しかけている戀夏の腹の上に、どっぷりと射精した。
 しかしそのままでは、翌朝に戀夏が
目覚めるや否や、自分の顔が原型を留めることなく、変形するまで殴られ蹴られることはわかっているので。
 そこは極めて念入りに、一階の流しで沸かした湯に浸して絞った手ぬぐいで念入りに顔の汚れを拭き取り、さらに裏庭の井戸水で丹念に洗ってから、物干し竿に干した。
 そして新谷は浴衣に袖を通し、あえて帯を締めず、裸体のままの戀夏を浴衣の中に抱き入れ、そのまま左右の両腕で軽く抱き締めると。
 ふたり揃ってとろとろと実に心地よく、眠りに就いたーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
  さすがに全盲の者と十の子どもに、高熱の油を使った天ぷらを揚げさせる手伝いをさせるワケにはに行かない。
 そんなわけで。
 おふくは天ぷらが揚がるまで、おふくとお松の部屋にして、朝食のときのみ新谷が加わる、二階の四畳半で、六つものお手玉を使った、手遊びに興じている。
「ねぇ黯兄ィ、そのお唄、どういう意味なの?」
 「へへっ、何てこたぁねぇ、ただのわらべ唄でやすよーー」
 そこへ、
「お松っちゃーーん、天ぷらをねー、お皿に盛って、天つゆと、お塩と、抹茶塩と、醤油。四つ作るから、手伝っておくんな」
「はーい、じゃあここで待っててね、黯兄ィ」
「へい、わかりやした」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
 ややあってから、滅黯は再び唄い、
誰もいない四畳半の部屋で、右肩に九十九を。
 左肩に絽嬪を止まらせ、お松の遊び道具である、ふたつずつ同じ柄の六つのお手玉を、両掌で、六つまとめて、ぽしゃぽしゃ音を立ててあやつり出した。
「♪ここは娑婆とは違うこと 賽の河原と心得よ 春も夏もないところ 皸(あかぎれ)の手に刺す痛み  それでも積めや 親の為ーー」

(完)




 
 

 





 


 
 
 
 

 


 


 

  

















  





  
  




  
  
  
     
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