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死ノ肆事⑴・第参章《女体借魂術・烈女黒髪荒縄責め》

参之罰「滅黯夢幻仕事 」ー髪結いの亭主ー

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 世間では紅毛と呼ばれる長い髪が、夜風で前方にまとめて流れている女が、ひとり。
 右手に釣り竿を、左手に魚篭を下げている六尺越えの長身かつ大柄な浪人の元に、薄暗い柳の下から、両腕を組んで、ゆっくり近づいて来た。
「姐さんーー」
「にひひ」
 女は、まるで場にそぐわない、朗らかな笑顔を、恋人たる浪人に向けて見せた。
「しっかし黯の野郎、幻術だが妖術だか何だかわかんねェけど、スッゲぇ真似出来るよなァ、マジで」
「あれで終わりやなかと、聞いとっとです」
 その瞬間、戀夏がひょいと爪先と片足を上げて、新谷の懐に抱きついた。
「ーー!!」
 予想だにしない展開に新谷は、一瞬にして赤面したが、かろうじて両手に持った釣竿と魚篭は、離さなかったあたり、彼にもそれなりに、色恋沙汰に関するあれやこれやの免疫が出来てきたのだろう。
「この天誅殺はさァ、黯のひとり仕事だってのは、黒羽の旦那から聞いてんだろ? あんたの手伝いはこれでお終いだけどォ、あたしはもうひとつばかし、手伝いがあんのョ。なァ、それ終わったらさァーー」
 戀夏が、上下の唇に左手の人差し指の内側を軽く当てた。
 そのか細い白い指に着いた紅は、戀夏が右手でかき開いた新谷の雲竜柄の着流しの左胸に、紅で‪✕‬を記した。
「はい、これ。おめェ今両手ふさがってて指切り出来ねェから、指切りの代わりの約束だよ、っとォ」
 戀夏は両眼を閉じて、しかし新谷はその程度の余裕すらなく、戀夏が両眼を見開いたまま硬直した新谷に、唇を重ねた。
 顔に赤みが増すだけでなく、全身に熱を帯び始めた新谷に、戀夏が畳みかける。
「心の臓の上に着けた‪✕‬の紅ァ、あたしとの約定の判子代わりさね。あんたも商売人なら、捺印の重要さぐれェ、わかんねェわけねェよなァ?」
 新谷は無言のまま、両腕を戀夏の背中にまわし、ぎりぎりまで触れかけているが。
 震える両腕は、どうしても愛しい女の身を抱き締めることが出来ない。
 戀夏は、いつしか新谷の胸元に顔を押しつけて、雲竜柄の着流しの中に差し入れた左掌で、何度も何度も彼の右肩から胸元を掌全体で撫でまわし、人差し指の先をあちこちにはわせている。
「な、新谷……あたしが黯の手伝い終わったら、お互いご褒美交換しに『栂のや』の二階に来なよ?  そしたらーー……ァ!?」
 その瞬間、戀夏は身も心も、愛しさも恋しさも肉欲も淫心もすべて委ね切っていた新谷に、両手首を握られ、引き剥がされた。
「すっ、すまんとです姐さん! いけん、いけんばい! おいばそれ以上されたら、役目ば済んで姐さんとこば行くまでの間、毎晩毎晩夜っぴいて、布団ば中でばたぐるうったい!」
 ひどく紅潮した顔に汗をかきながら、新谷は両手に釣り竿と魚篭を抱え、脱兎の如く逃げ出した。
「ーー……はァ? んーだってんだよォ、あの野暮天!」
  
《……おぅ、熱っちい熱っちい。そんだけお熱ぅござんすと、不忍池の水が煮えたぎって、ここら一帯の
魚ぁ、‪あらかた煮魚んなっておっ死んでございやすぜ、姐さん》
「!?」
 どこからともなく聞こえて来た聞き覚えのある声に、戀夏は我が身を抱き締めながら、理性を取り戻した。
 それでもまだ、戀夏は乳首が尖って疼いてしまっているのが着物の生地越しにわかるし、股間は間違いなく潤っているだろう。
「……黯だなァ、てめェ? どこに居やがるッ!」
 恥じらいのあまり、戀夏は普段以上に鋭い声と目つきとで背後の不忍池に向って叫んだ。
《へぇ、姿形は違げぇやすが、ここにおりやす》
「「……?」」
 戀夏は周囲を見渡したが、誰もいない。
《ありゃ、わざわざ声は変えてやせんに、おわかりになりやせんか。ここでやす、ここでやんすよ、あ、ね、さ、ん?》
 「ひゃっ!?」
 ぴしゃ、と戀夏の左くるぶしにわずかに水がかかり、戀夏はとっさに左足を上げ、足元に視線を向けた。
 その瞬間、ひょい、と。
 池の中から、ぬかるんだ淵に前脚ならぬ、波打った長い左右の前ひれを両腕のようにして、人間であれば胸元まで身を乗り出し、一匹の紅く愛らしい金魚が現れた。
 だが、その声と口調は、紛れもない滅黯のものだった。
 全身白一色の、美しいーー実在の金魚に例えれば、土佐錦によく似た金魚に化けた滅黯は、いつもの調子で、池端に咲く小花の感想を述べた。
《尾上柳(おのえやなぎ)に囲まれて、黄華鬘(きけまん)梅花藻(ばいかも)立金花(りゅうきんか)、芹(せり)は摘んだらお浸し天ぷら、野原ぁ漆はかぶれに御注意》
 しかしその瞬間、土佐錦によく似た金魚に化けた滅黯を、戀夏がごく軽く右手に握り、池の中から引き上げた。
《あ、姐さん!?》
 紅色に塗り潰された右掌の中で、土佐錦姿の滅黯は、ひどく焦った口調で、池の水を撒き散らしながら、ぴちぴちと跳ねた。
「てンめェ、人の情事覗き見しゃあがって。まァ心配すんな、いくらあたしでも、仲間ァ握り潰して、池の中で腹ァ見せたりしねェよ、ましてーー」
 戀夏がわずかに口角を上げ、微笑した。
「そこらに放り出して、息が出来ね
ェようにして死なせたりィ?  通りすがりの野良猫の前に、放り捨てたりするようなこたァ、間違ってもしねェからよォ?」
《ーーするつもり満々でございやせんか、姐さん……す、すいやせん、ぁ、あぐ、あっしぁ、い、いぃ、息が、そ、そろそ……ろ……》
 洒落にならない必死の訴えに、戀夏はあろうことか、土佐錦に化身した滅黯を、不忍池の淵から池の中央に向かって、無表情に放り投げた。
 すぐさま、池の奥からぴしゃん、と。水面に何かが叩きつけられたような音が、少し遠くに聞こえた。
 ーーややあって。
 ようやく水中でのえら呼吸を取り戻し、人心地ならぬ、魚心地(?)がついた土佐錦姿の滅黯が、紗(うすぎぬ)で出来た、可憐で儚げな、白いひだ飾りの着いた羽織を水面に漂わせるように、背鰭と尾鰭を揺らめかしながら、戀夏の足元にすいすいと泳ぎ寄って来た。
「本当に、ひらひら白くて綺麗で可愛いおべべ着た金魚だァねェ、黯。白無垢みてェだ。あたしをからかったりしなけりゃ、そのまま可愛がってやったってェのにさァ?」
《姐さん、そんこたぁもう、御勘弁願いまさぁ……》
「なァよ、さっきあの野郎が言ってた『毎晩毎晩夜っぴいて』……と、布団ば中でばたばたてな、ありゃ何言ってやがったんだよォ?」
《『ばたぐるう』でやすね、へへっ、あンだけ図体がデケェ上に、顔立ちも体躯も、九州男児なだきゃある、男臭せぇ御方なだけありまさぁ》
 可憐な姿と対称的に、滅黯の語り口は、らしくなく猥雑である。
《新谷さんはねぇ、本当は姐さんの背中と細腰が折れっちまうくれぇきっつく抱き締めて、刺し身を腹いっぺぇ喰いたかったんでさぁ。ですがねぇ、それで腹が膨れっちまうと、夜中に眠れねぇぐれぇ、腹が減っちまう》
「はァ? おめェ何言ってやがんだ、黯?」
 刺し身とは、遊郭における口づけの隠語である。
 物心つかぬうちにお歯黒どぶに投げ捨てられたとは言え、吉原(なか)のお茶挽き遊女と、父は誰かもわからない客との間に生まれた滅黯と。
 かつて、わずか齢十四で夜鷹になるも、縄張り意識の強く激しい年増の夜鷹連中に、集団で殴る蹴るのみならず、剃刀の刃で両の乳首を初め、大小の隠唇のみならず、隠核まで切り取られる私刑を与えられそうになった、想像するだけに恐ろしい過去がある。
 そのため、すぐさま首尾の松を根城にした舟饅頭に鞍替えし、岸に繋がれた小舟で寝起きするという、半ば乞食のような生活を送っていた時期がある。
 故にこのような会話が当たり前に成立し、すんなり通用するのだ。
《心行くまで姐さんのこと抱きすくめて唇重ねて、唾液の糸が曳くまで、舌まで絡めてぇが、するってぇと、素っ裸ンなって姐さんとしっぽり、ふたりっきりで一晩過ごせるようんなったその日まで、ひとり夜寝床に入るたんび、姐さんのことで頭がいっぺぇ、煩悩まみれで、それこそ毎晩毎晩、腎虚になるまでせんずりが止めらンなくなっちまう。それを心配(しんぺぇ)したんでやしょうぜ》
「ケッ、あんのバカ! 何でそんなこたァ気にすんだよ、ワケわかんねェ。そんだったら、あたしが手でも口でも、乳で挟んででも、抜いてやったのによォ」
《『武士は喰わねど高楊枝』ーー『据え膳食わぬは男の恥』ーー身分は下級で御浪人でごぜぇやすが、あン人は……腐っても鯛でいてぇんでござんしょう》
「腐った鯛なんざ、新鮮な鰯とくらべもんにもなんねェよ。そもそも、食えねェンだからーーあァ、それとあれだろォ? あいつァ、隠れキリシタンだしねェ」
 その一言に、滅黯は内心で感嘆した。
 その事実は、彼の師の浄眩と暁に祈る巫女、そして自分を含めた三人だけの秘密だとばかり思っていた。
 《姐さん、そのこと……寝物語にでも、お聞きなさいやしたか?》
「あァ? そんなんじゃねェよ」
 戀夏は池の中に右手の人差し指を入れ、池の水をいらう。
 「よくわかんねェけどよォ、キリシタンってェのは、禁欲に重きを置く連中なんだろォ?  バカくせェ教えだよなァ。何であんな教え律儀に護りやがんのが、あたしにゃちィともわかんねェや」
 つんつんつく、あくまでも優しく、土佐錦姿の滅黯の背中を右手の人差し指でつつきながら、戀夏は滅黯に語りかけた。
《姐さん、何だってそれを、御存知で……いつの間に……》
「あいつがさァ、何度目かにあたしン家、栂のやの二階に泊まった晩……」
 ーー新谷は、おおよそ禁欲とはほど遠い激しさで、戀夏を責めに責め、貫いた。
 一階の、かつては飲み屋兼小料理屋だった入り口の鍵ーー戀夏が金物屋に頼んで作って渡した、新谷しか持っていない合鍵ーー。
 その合鍵には、彼ら天誅殺師【上野喰代サの四番】の、裏方の裏方たる男、兎知平のまだ十歳の娘、お松の保護者代理ーーというより、ほとんど祖母代わりであり。
 さらに新谷の雇い主兼大家である、貸本屋『於多福屋』の老女店主、おふくとともに亀戸天神社詣の際に参拝したお松が。
 おふく、滅黯、戀夏、新谷。
 そして父親の兎知平の分まで、自分が店主を勤める甘味処【紅はこべ】の稼ぎで買って来た、小さな鷽鳥(うそどり)の、何とも愛嬌のある根付けがつけられている。
「あの野郎ァ、いつも通り、あたしが栂のやの二階に敷いた布団の上で、赤襦袢着て香焚いてさーー」
 枕元には煙草盆と、瓶覗色の香炉。
 香炉から芳煙が燻るは、戀夏が好む紅薔薇(ベにそうび)の香り。
 いつものように階段を上がって来る足音。
 いつものように、すぐさま脱ぎ捨てられる雲竜柄の着流し。
 いつものように、褌を破って、亀頭が下腹につきそうなほど、勃起した下半身。
 既に荒い新谷の呼吸が戀夏の両耳に伝わるや否や、戀夏の新谷への愛欲が燃え上がった。
「いつもならよォ、あたしが上になって、あいつのこと責めまくって、あたしが下から乳揉まれまくったり、ハメたとこにあいつが指入れて、おさねを弄り倒すってェのに」
 戀夏は池の端に生えていた酢漿草(かたばみ)の黄色い小花をぽちぽち摘み、土佐錦姿の滅黯に与えた。
「けどよォ、その晩は全然違ったーー新谷の野郎、クッソ生意気にも
あたしのこと押し倒して、あいつが上ンなって大股おっ広げさせただけじゃななしに、あたしンこと四つん這いにさせて、後ろからずーーっと乳揉みまくりながら、ヤり通しやがってさァーーけど……」
 戀夏が左右の頬を薄桃色に染め、唇を尖らせて語り続けたところによるとーー。
「下にされてのしかかられて、後ろから犬か猫みたいな恰好でヤられんの、意外と悪くねェなァっ、て。あたしは『隅田の禰々子』時代、客にそんな体位、絶対させなかったからさァ」
《ふはっ、惚気ですかィ》
「っのバカ、んっなんじゃァねェよォッ!」
 ーー一瞬にして戀夏の顔が、両耳まで真っ赤になったあたり、完全な図星であろう。
「んで、これさ」
 戀夏が、水面に左耳を寄せた。
 土佐錦に姿を変えた滅黯の眼にも、それは眼を見張るような美しい紅色だった。
 右耳に貫通した側も、同様に。
 「血赤」の名前どおり、四分割された赤珊瑚の一部が、整った銀杏の葉形になって、戀夏の耳の生え際の、耳たぶ上部ぎりぎりの部分に、貫通していた。
 それは、新谷の亡妹、縫の形見の血赤珊瑚のロザリオの中から抜き取らた、いちばん小さな珠だった。
「飾り職人にきっちり四分割させて、作って貰ったらしいやィ」
 ーーそれは、現代でいうピアスであった。
 飾り職人の手で、極めて丁重に銀杏形に四分割された血赤珊瑚の裏側に同じ形の金具を付け、留め具を造らせた代物だ。
 「これを耳たぶに通せる穴ァ開けるために、あたしァ新谷が持って来た四ツ目錐で、あいつに穴ァ開けて貰ったんだけどよォーー」
《いやはや聞いてるだけで、いンや聞く前から、もう痛とぅござんす》
「はン、耳たぶに四ツ目錐で穴ァ開けるぐれェ、背中と両腕に刺青(スミ)彫るときにくらべりゃ大したことねェよ。だってのに、あの野郎ァーー」
 いったんほどかれた戀夏の髪は、ひとまずふたつ折りにされて、頭頂とうなじの中間で緩く束ねられていた。
「っ、痛(ち)ィ……」
 あまり酒を呑み過ぎていなかったのが幸いした。
 斜め座りの戀夏を、新谷はあぐらをかいた自分の両足の上に乗せ、後ろから左右の耳たぶの出血を、焼酎を含んだ綿でしばらく押さえていたが、止血が終わってから見た綿に付着した血痕は、ごくわずかだった。
 それでもまだずくずくと、脈が打つと同時に、軽い痛みがうずく。
(ーーおい、次ァてめぇの番だぞ)
(い、いや姐さん……おいば、自分で出来ますけん。男ば耳に穴開けっと場所は、おなごと違うて耳たぶやなか、軟骨ば通すですたい。やけん、力ば要りーー)
(あァ? 力なら、あたしの方が上だろォ?  へったくそな嘘つきやがって。おめェ、あたしが話振ったらいきなりビッた顔になりやがったし、顔色も真っ青じゃねェか、この野郎)                                                 《するってぇと、新谷さんの耳たぶは……?》
「ったく、あのヘタレ。でけェ図体しやがって、ビって逃げ出そうとしやがったから、階段降りて逃げて行こうとしたところを、あたしが後ろからしがみついて引き戻して。あたしの身体の上に仰向けにさせて、この下っ腹の上にあいつの後頭部乗せて、あたしの両足を‪交差させて、締め落としたったわ」
 土佐錦姿の滅黯は、池の中から戀夏の両足をまじと見た。
 この白くしなやかなか細い足で、あの身の丈六尺越えの、がっしりとした大柄な男を締め落とすとはーー。
 今、全身を浸している不忍池の中の水温が、一度に二、三度下がったような気がした。
「錐の先で、ちょいっと突いて血ィ滲ませて目印付けて。んで、次はしっかり、右と左の上の耳たぶと軟骨に、両方穴ァ開けてーー」
 血赤珊瑚の耳飾りの下に付いた、細くて短い金具をそこに通し。 
 後ろから留め具で強めに押さえたら、それでお終い。
 実に呆気なかったと、戀夏はさらりと語った。
「あとは血止めに軟膏塗って、油紙で耳の縦半分覆ってやったよ。それと寝てる間に枕や布団に血が着くの嫌だからさァ、その上に、縦に短く切った晒しを二、三枚巻いてーーしたらそのまま、あたしと枕並べて同じ布団で寝たくせして、明け六ツにはもう、書き置き残して帰っちまってやんの、あんの野郎」
 今度は、はこべの白い小花を土佐錦姿の滅黯の口周りにぷちぷちと放りながら、話を締めた。
 ーーその瞬間。
「ひぎゃあっ!?」
 戀夏は驚きのあまり、甲高い悲鳴を上げた。
 不忍池の池の中から、長くもつれ、絡み合った、長さ二尺は優にある、頭皮から無理やり引き剥がされたような黒髪の束が、いつの間にか自分の履いている真紅の鼻緒の黒いぽっくりに、ねっとりと絡みついていたからだ。
「ちくしょ、あンだよ急にィ!」
 戀夏は、不測の事態に混乱しながらも、天誅殺師らしく己が特異能力ーー彼女の場合は、片手で殻つきの胡桃を粉状に粉砕出来るほどの、凄まじい破壊力をともなった握力だがーー何故か、その絡み合った黒髪の束は、決して引きちぎることは出来なかった。
 両掌ともども、力まかせに握り締めて引きちぎろうと左右に引こうとするや否や、縦に長い剃刀の刃を思い切り握り締めたかのような激痛が、戀夏の両掌の掌中に走ったからだ。
「ーーっ痛(て)ェな、ンっの野郎ァ!!」
 凄まじいまでの痛みに反し、出血は一切なかった。
 しかし、その痛みに激昂すると同時に、さしもの戀夏も、苦痛に心身ともに支配された瞬間だった。
「や、やめっーーちょ、オイ! おいコラ、黯、黯ーー! ! どこ行きやがった、黯ぁーーんーーっ!?」
 助けを求める声もむなしく。
 戀夏は、まるで怪談話の一場面そのままに、不忍池の中に、引きずり込まれて行ったーー。
 
 不忍池の中。
 戀夏はその中に、直立不動で立っていた。
 金縛りに合ったように、全身の自由はまったく利かない。
 しかしその一方で、水中だと言うのに、息苦しさは皆無なのだ。
 ゆらゆら揺れる水の緩やかな流れに合わせ、花柄の両袖と、肩まである金や茶色の筋や束が何本も入った、異人の血を強く濃く引いたがための髪が、水中に高く長く広がっている。
 そして目の前ーー正確にはほぼ一間先に、長い黒髪を水中に揺らめかせ、四つん這いになった、左前の白装束一枚の、女がいた。
 その頭から生えた髪には前後の区別も境もなく、両ひざの裏まで伸びた、蓬髪だった。
 伸ばし過ぎたその黒髪は長さだけが褒め称えるほど見事なだけで、先端に行けば行くほど艶は失われ、絡みもつれ合った、決して美しくない髪であった。
《……金ではいけぬ、黒であらねば。薄紅梅に、黄アゲハはもならぬ、左前の、死装束でなければならぬ……》
(ーー!?)
 この期に及んでも、悲鳴ひとつ上げず、水の中の怪異に堂々と対峙している戀夏の肝の座りようは、見事だった。
 水死体の浮かばれぬ魂が、この女幽霊をまだこの不忍池の中に留めているのかーーと、ありえない考えが頭をよぎったその瞬間。
 女の黒髪が、まるで蛇のようにくねって、戀夏の左右の頬をすっと撫で上げた。
 その瞬間、帯締めと帯がほどけ、それと同時に左巻きの渦が戀夏の周囲に巻き起こる。
 紅梅色に黄アゲハが舞う着物も渦に巻き上げられ、肌襦袢が裏返り、脱げるーーいや、脱がされる。
 普段身につけている、体の前と左右の乳房を隠すいつもの一枚布ではなく、湯屋での女三助の仕事のない日に巻く晒しは、あっという間にただの長い白布に変わり、水に引き剥がされた。
 上半身が裸になり、左右の肩から胸元、両の二の腕に彫った、紅色の夾竹桃と、その周りに生い茂った青葉から三角の頭を覗かせる、身体の前の刺青と豊満な乳房があらわになる寸前でーー。
 戀夏の上半身は女の黒髪に、肩口からへその上まで、隙間なく絡みつくと、戀夏の抜けるように白い肌は、鞣されていない荒縄に緊縛されたかのような、刺々しい痛みに襲われた。
 それだけではない。
 戀夏の両手首は背中にまわされ、表面の緊縛の下で、髪が千住自在紐そのままに形を変えており、後ろに引けば締まる仕様になっていた。
 そして上半身もまた、豊満な左右の乳房を絞り上げるように、亀甲縛りの形状にゆるゆると変化して行った。
(ぐがッ、痛でェ、痛でェよッ! こんちくしょうがぁッ!)
 戀夏は唇を噛み締め、刺々しいとしか言い様のないその激痛に耐えた。
 ーー夜鷹時代にも舟饅頭時代にも、縛りを要求してくる客などごまんといた。
 気がつくと、普段左側に高く結い上げた髪を結び飾っている縮緬の切れ端が、勝手に猿轡のようになって、苦悶する戀夏の口をふさいでいた。
 まだ十四だった身に耐えられたのだ、大人になった自分に耐えられないはずがない。
 今自分が置かれている状況の苦痛に耐える黒髪が、今度は左右の太もものつけ根と、左右の足首にきつく絡みつき、勢いよく頭を下に、両の爪先を上にされ、体勢を変えられた。
(はァ!?  このアマ、あたしの下まで脱がす気かよ、冗談じゃねェ、ぶっ殺すぞ、コラァ!!)
 だが戀夏の抵抗もむなしく、太もものつけ根からわずか三寸の丈しかない黒の股引は足首まであっさり引き下ろされ、素足で足の親指と人差し指に挟んでいるだけの繋がりしかないぽっくりは、両方とも、いともたやすく脱げた。
(おォコラ! あンだってんだよ、何がどうしてどうなってやがんだィ、誰か説明しろってのォ! ざァけろこの野郎、あたしはこれからどうなるんだよォーー!!)
 裸体の下半身。
 それに加え、両足を無理やり左右に押し広げられた戀夏は、いわゆる、
【観音様】を余すところなく晒した、
【御開帳】状態になっていた。
 勤め先の湯屋に月一で来る下苅り屋が、混血児の戀夏の完全な金色(こんじき)の陰毛を珍しがって、丁重に手入れを施してくれるだけあって、水の中で陰毛がそよぐような間抜けな様にはなっていない。
 この程度のことで恥など感じる性質ではないが、ややあって聞こえて来た声に、戀夏は驚愕した。
(すまぬが、今回の天誅殺は滅黯ひとりで片づく仕事なれど。その為にはお前の身体がどうにも入り用なのだよ、戀夏)
(ーーッ、だ、旦那ァ!?)
 あまりにも唐突に、水死体の女が、頭皮を鬘のように外した。
 そして、頭皮は水に溶ける紙の如く、水中に消え失せた。
 そのまま水死体女の体は、火が蝋燭を溶かすかのように皮膚がどろどろと下に沈み落ち、そこで蝋燭とともに燃え尽きるはずの灯芯は、次第に戀夏のよく見知った男の姿をあらやわにして行った。
 だがいまだに、女の頭皮から生えていた膨大な量の髪が戀夏を緊縛し続けているーー。
(やっぱり旦那じゃねェかよ! あたしに何させる気だよ、ちゃんと説明しろやィ、この糸目野郎がよォ!)
 ーー左前の死装束の水死体から、一転にして一変したその姿にして、正体ーー。
 そこには、大江戸八百八町に有象無象に存在するとされている、天誅殺師が総元締ーー【 天狗浄眩黒羽(あめくじょうげんくろう)】が、天台宗の雲水姿を、編笠と錫杖以外、勝手に黒ずくめに変えた姿で、元からの糸目をさらに細くして、穏やかな笑みを浮かべていた。
 一見すると、滅黯と同じ髷を結わない立髪だが、後ろから見ると対称的な違いがある。
 浄昡の髪は襟足だけが細く長く伸び、
(何、などとーー見ての通り、私は久しくお前の身体を借りに来ただけぞ)
(借り、にって……おいコラ、またアレかよォ? あ、あたしは、も、もォ、ほ、他の男とはしないって、き、決め、てーーそれァ旦那も、そう了承したはずだったろうがァ!)
(ーーお前の身体を借りるためのあの行いは、男女のまぐわいには該当せぬわ。あくまでも、術を成すための過程に過ぎぬ)
 ーーざァけんな! と。
 今にも喰ってかかろうとした戀夏の口を塞ぐかのように、素早く唇を重ねるや否や、浄昡の舌が、瞬く間ににねっとりと、戀夏の舌に絡みついた。
(……ん、んん……あぁ、んぁ……)
 戀夏と浄昡の唇は離れたが、ふたりの舌先はまだちろちろと舌先を舐め合っている。
 戀夏の顔は紅潮して完全に蕩け切り、 すでに理性を失いかけていた。
(ーー百八之術が内、参拾弍ーー【蝦蟇舌婬(がまじたのおぼれ)】)
(……あァ、はぁァ、はぁ……ん……)
 戀夏の全身が、脱力した。
 これ幸いとばかりに、浄昡は顔と舌先を戀夏の押し広げられた股間に顔を押つけた。
 今、浄昡の舌は蝦蟇蛙の舌が如く、毒液の変わりに媚薬に似た唾液にまみれているようなものだ。
 舌先が、真っ赤に充血して完全に包皮が剥け、勃起した戀夏のさね(クリトリス)の先端を、舌先で軽く舐めてから、唇で吸い上げた。
(あ、あぁ、んッ!!)
 全身を、白い柔肌をきつく緊縛され た戀夏の身は、その「イッた」刺激に、全身をがくがくとわななかせた。
《あァ、あたし……イッちゃった……でも、やっぱりこれ……気持ち……い……ィ……》
 戀夏は、新谷へのわずかな罪悪感と、抗いようのない悦楽の中で、心身ともに、不忍池の中の水流とともに、たゆたっていた。
 ーー主たる浄昡から義務的に与えられる、凄まじいまでの快楽。
 ーー心から好いた男、新谷から無条件に与えられる、安らぎと愛情に満ちた、悦楽。
(だがしかし、この程度の絶頂や快楽ではまだまだ足りぬ)
 ーそう言いながら外した袈裟が、渦に巻き込まれた。
 そして、気がつけばすべての緊縛を解かれ。
 墨染めの衣(ころも)一枚になった浄昡の右腕に背中を抱き締められ、左腕にその細腰を抱き寄せられていた。
 墨染の衣が戀夏の頭頂から両足の爪先までをすっぽりと覆い隠すと、裾を開いた浄昡のいきり勃ったものが、戀夏の少しも太くない太腿の間に差し込まれた。
 ーー猛った剥き出しの、勃起して血が通い、そそり勃った肉棒が、股間がうずいて股間をむずむずさせる戀夏の柔らかな内腿の肌に、こすられる。
 ーー『隅田の禰々子』時代には、不能の者や、とうに衰えた老人さえ、素股でだらりと垂れたままの無数の男客に、精を放たせたことは数知れず、それも太腿だけでなく、二の腕と横乳に挟み、腋で射精させたことすら、こちらも数え切れないほど、ある。
  それほどまでに卓抜した性技を我が物にした女が、今まさに、
【立川真言流】を基礎に作り上げた我流にして外法なれど、百八の術を駆使する、有髪の法師姿の男とが、交わり合おうとしているのだ。
 ーーとうに戀夏の左右の乳首は痛いくらいに勃起して、尖り切っている。
 触れなくとも、股間は両腿の内側まで愛液が滴り落ちているのがわかる。
 今の自分は、好いた男に情を込めて抱いて貰いたいのではない。
 ただひたすらに男に辱められ、犯され、よがり狂いたい。
 イってイってイって、耐えられないほどの悦楽によがり狂い、イキ尽くしたい!!
(あぁ、いよいよ悦き顔になって来たーー)
(……?)
(挿れるぞ、良いな)
 それまで、執拗なまでに雁太で戀夏の愛液まみれの陰部をこすり続けていた浄昡の左腕が、戀夏の右足のひざ裏を持ち上げ、開脚させた。
(あ、あぁーーあぁんっ!)
 浄昡は、一気に根元まで戀夏を貫いた。
 ずぶずぶ、ずぶずぶと浄昡のものが戀夏の膣内を埋め尽くして行く中、耐え難いまでの悦楽が股間に一点集中し続ける戀夏は、左右の眦から歓喜の涙を飛ばしながら、背中をのけ反らせた。
(はあっ、あぁ、あぁっ、あぁーー……ん……)
 戀夏は、挿入されながら既に絶頂に達していた。
 しかし、これで終わりではない。
 これからが始まりなのだ。
(……ァ……あ、ら、やァ…………)
 これから間違いなく、他の男に抱かれ貫かれてよがり狂うだろう己を確実に想像し、戀夏は蕩け切った双眸に涙を湛え、右手の人差し指の第二関節を、甘噛みした。 
百八之術が内の参拾陸、【女体借魂術・日月蝕(にょたいしゃっこんじゅつ・じつげっしょく)】は、かくして成った。
 この世の全ては陰と陽。
 陰は女、陽は男。
 太陽を侵食する日蝕、月を侵食する月蝕を、交わる男と女の身に同時に起こさせる術である。
 その術が成し遂げるものとはーー?
(ぁん、あぁ、ん……あぁ、ん……いィ、いィよォ、良過……ぎるよォ旦那、旦那ってばァ……あぁ、んっ)
(駄目だ、まだ我らの交合は、繋がり合っただけだ。重なり合うてはおらぬ)
 ず……と、浄昡が抽挿を始めた。
  それと同時に、背中を反らせたことで高く突き上げられる形になったふたつの豊満な乳房の並びは、とてつもなく卑猥な光景だった。
 まず、固く尖った左乳首を口に含み、唾液を乗せた舌先で、乳首を舐めまわしながら、ときおりきつく吸い上げる。
(うぅむ、どうにも、大きい乳は好かぬーー手に余る。やはり私は、我が掌にすっぽり収まる小ぶりな乳が好みだな。見た目も可愛らしいし、何より感度がいい)
 そして浄昡の左掌の人差し指と親指が、勃起した右乳首を柔らかく揉むみ転がすーー。
 それが左右交互に繰り返されながら、抽挿はひと突きごとに激しく、速くなる。
(だ、旦那、あた、あたし、も、も……ォ……)
 (おぉ、いいぞ戀夏。そのまま達してしまえ)
 ーーいつの間にか、緊縛から解放されていた戀夏の両腕が、浄昡の首にがっちりしがみついていた。
 それは両足も同じく、
 今、戀夏は完全な全裸になり、髪は漆黒に染まり切っているが、戀夏自身にそれを自覚する余裕など、あるわけもない。
(はぁ、あぁ、あぁ、ふぁ、あっ、はぁ、んっーー……)
 どくっ、と。
 浄昡の陰茎の鈴口が戀夏の子宮口に当てがわれ、数回に渡って特濃の精液が放たれるたび、戀夏は必ず絶頂に達した。
 全身を、特に顔をひどく紅潮させ、口端から細く唾液を垂らし。
 号泣した後のように、半開きの両眼から涙を流していた。
 ーーその瞬間。
 浄昡の肉体が戀夏の肉体と重なり合い、戀夏の全身にずぶずぶとめり込んだーー不忍池の底に袈裟や墨染の衣を漂わせて。
 ややあって、池の端から勢いよくザバッと大きな音と水しぶきを上げて姿を現したのは、前後の区別なく腰まで伸びた長い黒髪から大量の水を滴らせた、全裸の十六、十七ほどのうら若き乙女であった。
 その秘毛は戀夏の金色とはまったく異なる、完全な黒だった。
 ーーその乙女の側に素早く駆け寄り、白装束を背後から羽織らせ、一緒に帯を手渡したのは、誰あろう滅黯であった。
 乙女は素早く白装束ーー死装束を左前にし、腹の中ほどで縦結びにすると、戀夏に似たような、浄昡の声を女声に変化させたようにも聞こえる微妙な声で、
「うむ、実にぴったりだ。まるで戀夏の生皮を剥いで、そのまま私の肉体に合うようにあつらえられたかのようではないか」
「お師匠(おっしょ)さん、それはいくら幼少の砌(みぎり)からお世話になっとりやす直弟子と申しやしても、あっしにゃあ笑えねぇ冗談でござんすよ」
「ははは、冗談だとわかっているからこそ、そなたもかような口が利けるのであろうがーーあの男は、まだあの坂を迷うておろうな?」
「へぃ。それもーーあっしにゃ信じられやせんが、まぁだ何の違和感も感じずにおりやすぜ? ま、こちらとしちゃあこんなに都合のいい話、なかなかあるこっちゃありゃあせんがね」
「良きかな、良きかな。さぁさぁさぁ我が直弟子にして愛弟子。今より私はそなたの類まれなき道具ぞよ。如何にして使う?」
「あっしゃ……お師匠(おっしょ)さんみてぇな奇抜な真似ぁ出来やせんので……正攻法で行かせて頂きやす……」
 長い艶黒の蓬髪を垂らし、左前に身に着けた縦結びの帯の姿で、浄昡は足元にひざまずく直弟子の滅黯に、艶(なま)めかしい視線を送った。
 


 
 


 


 
 


 
 







 






 






 


 
 

 
 
 



 



 

 


 
 
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