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【其の七「石見銀山鼠取りと五人の夕餉と夜の刺青」】

天誅殺師 鴉ノ記

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 ーーまるで、昨日の出来事は夢のようだった。
 自分から戀夏に口づけをした。
 そのまま押し倒して乳房を揉むだけでなく、乳首までしゃぶり、首筋に舌を這わせた。
 抵抗されるどころか、受け入れられた。
 それに加えて、口で二回も抜いてもらった。
 盆と正月が一緒に来た、とは正にこのことだろうが、新谷の中ではあまりにも整理がつかなさ過ぎて、昨日の戀夏とのやり取りや、初めて目にした戀夏の恥じらった乙女のような、それでいて、実に元夜鷹らしい艶めかしい肢体や仕草、言葉しか頭に思い浮かんでくれない。
 新谷の様子が明らかにおかしいのは、おふくとお松も、朝餉のときから気づいていた。
 箸でつまんだ飯粒は、ぼろぼろこぼす。
 アジの干物の頭を何度も箸でつつき、口に運んでは、身を食べたような気になっている。
 味噌汁を啜ること自体忘れ、ワカメと豆腐の具ごと、ばしゃばしゃと畳の上に、全部こぼした。
 見かねたおふくがぴしゃりと頭を叩き、
「さっきから何やってんだい、アンタは!?」
「.......あーー.......ちょっと二日酔い気味かも知れんたい」
 そのかたわらで、お松が食事中にも関わらず、新谷が畳の上にこぼしたワカメと豆腐、味噌汁を数枚のちり紙でまとめ、流しに持って行き、古紙で包んだ。
 そして、外から持って来た廊下の雑巾がけ用の水入りの桶と濡れ雑巾で、せっせと畳の後始末を始めた。
「まったく、お松っちゃんがこんなにしっかりやってんのに、今日はいったいどうしちまったんだい!?」
「……おいも、ようわからんばい」
 それだけ言って、新谷は三人の食卓たるおふくの部屋から出ようとして、敷居に
派手に額を打ちつけた。
 しかし痛がりもせず、わずかに頭を下げると、隣の四畳半の自室に戻ってしまった。
「.......ばっちゃま、新谷のにぃに、どうしたの?」
「さぁねぇ。二日酔い気味って言ってたから、そうなんじゃないかい?」
 お松の後始末を手伝い、外の井戸で汚れた雑巾を洗い、そこでお松の手をよく洗ってやってから、ふたたび朝餉の席に着いたお松とおふくは、ようやくいつもどおりの朝餉を再開した。
 お松は器用にアジの干物の骨をはずし、身と飯を一緒に食べる。
 ーーお松の箸と茶碗の持ち方は実にきちんとしているし、間違っても味噌汁は音を立てて吸わない。
 朝昼夕だけでなく、八ツ刻の菓子を食べるときさえ、
「いただきます」
「ごちそうさま」
 と手を合わせ、皿も箸も匙も湯呑も、自分から流しに持って行く。
 (母親を赤ん坊のときに亡くして、父親はろくすっぽ家にいないってのに、大したもんだよ、この子は。に、しても.......)
 おふくはアジの身を乗せた飯を口にしながら、先ほどまでの新谷の様子を思い返していた。
(ありゃ、二日酔いなんかじゃないね。確かにちぃとばかし酒臭かったけど、お戀ちゃんと何かあったに違いないさ。でも、昨日は二階から床がきしむ音も聞こえて来なかったし.......まぁ、恋の病にゃ間違いないね)
 おふくは、いぶかしげに首をひねった。
 ーー結局、新谷はそれきり自室から出て来なかった。
 「にぃに、当分お部屋から出て来ないと思うから、あたしがお皿洗っとくよ」
 ーーと言って、おふくが店を開き、井戸端で洗濯をし、洗った衣類を物干し竿に干している間に、お松は皿洗いを済ませたこと、それだけでなく、
「ばっちゃま、お布巾、持って来たよ。お皿拭くのとちゃぶ台拭くのとは、別々に洗わなきゃいけないんだよね?」
 と言って、数枚の布巾を左右の手に分けて持って来たに至っては、おふくはそのけなげさに、泣きそうになった。
 ややあって、洗濯ものがすべて干し終わりーーもちろん用途別の布巾はおふくとお松が分担して洗い、離して干してーー。
 いつもながら開店休業状態の店の支払い場兼休憩所たる四畳半の間で、おふくとお松はほうじ茶を淹れ、茶菓子にざらめの煎餅を用意し、卓袱台の上に置いた。
「わっ、ざらめのおせんべだぁ! あたし、これ大好きぃ!」
 お松が座布団から立ち上がり、卓袱台の上に手をついて、無邪気に喜んだ。
「ありゃ、奇遇だねぇ。アタシも大好物なんだよ、これ」
「ねぇ、ばっちゃま」
「何だい?」
「黯兄ィも、新谷のにぃにも、戀のねぇねも、みんな、誰も家族がいないんだよね。ばっちゃまは?」
「アタシは昔亭主がいたけど、子どもが出来なくてね。先に死なれちまったから、アタシも黯兄ィとにぃにねぇね達と同じだよ」
「寂しく.......ない.......の.......?」
 「ははは、ばっちゃまにとっちゃ、黯兄ィとにぃにとねぇねが子どもで、お松っちゃんが孫みたいなもんだ、ちっとも寂しかねぇよ!」
 ひどく安心したかのように微笑んで、お松は嬉しそうに、ざらめの煎餅を半分に割ると、少しばかり大きい方をおふくに差し出した。
「半分こしよ、ばっちゃま」
「何言ってんだい、ちゃんと一人分ずつあるよ?」
「今はー、半分こして食べたいの。 同じおせんべでも、味は一枚ずつ違うんだから、あたしはばっちゃまと同じ味のおせんべが食べたい!」
 その無邪気な言葉に、おふくはお松を抱きしめたくなった。
 もう、目に入れても痛くないだの、食べてしまいたいほど可愛いだとは、ただの比喩ではないと、心の底から思った。
 ほっこりとした時間が、四畳半の狭い空間にゆっくりと流れる。
 しかし、おふくとお松が知る由もない非日常の影は、そのとき、二階の住人たる新谷の元に、次第に近づいていたーー。
「ーーいたずら者はいないかな、いたずら者はいないかなーー」
 幟を持ち、中に殺鼠剤ーー石見銀山鼠取りの入った薬箱を肩からかけ、さらに頭陀袋を手にし。
 髷も結わず、両眼が隠れるほど前髪を伸ばして糸目の両眼を隠し、後ろは背中の中ほどまで伸びた赤毛を藁で括った、痩せぎすのすきっ歯の男が、鼠色に黒の松川菱柄の粗末な着流し一枚の姿で、街中を歩いている。
 しかし、その十枚の足の爪は今にもすべて縦に割れそうに、痛々しく幾筋のひびが入り、かかとは硬質化して、皮膚の中まで土ぼこりと泥が染み込んでどす黒く変色し、足首から下は、無数の血ぶくれに覆われて、たくさんの古い傷跡が刻み込まれている。
 そんな痛々しい足に、晒し布ではなく、軟骨を塗ってボロ切れを巻いただけの、次から次へ血が滲む両足に、新品の草履を履いた姿で、彼は商いの謳い文句を高らかに繰り返しながら、路上を歩いていた。
 何故か、背中に大きな風呂敷包みを背負って。
 真っ先にその声を耳にしたのは、根岸の寮に住む鴉と巫女だった。
 土地柄、このような行商人はまずやって来ることがないだけではない。
 その謳い文句が、彼が江戸へ戻って来た合図なのだから。
「ーーいたずら者はーー」
 根岸の寮に、鼠取り薬売りの行商人が近っくと、何処からともなく大柄な嘴太鴉が飛んで来て、その赤毛の頭に止まるや否や、
「ガァ!」
 と一声、野太くもよく通る声で、黒い翼を羽ばたかせ、盛大に鳴いた。
「兎知平、よう無事に帰った」
 鴉と巫女の住居たる、寮の物々しい門扉が、ゆっくり開いた。
 鴉から兎知平と呼ばれた、みすぼらしい身なりの行商人の男が、直々に長旅から帰った自分を労る言葉を耳にするや、兎知平は、開いた門扉の前に並んで立つ鴉と巫女に、土下座同然にひれ伏した。
「金子と駕籠の約定は、今回も頑ななまでに守っておったな。誉めて遣わす」
「暁に祈る巫女様、鴉の院様、我のような下賎の輩にはもったいのうお言葉にございます。娘のことを思えば、これしきのこと、何の苦でもございませんで」
 兎知平が、自分の娘、お松と同じ歳ほどの少女に、これほどまでに平服する理由はまったくわからないが、余程の事情があるのだろう。
 そして、兎知平は寮に招き入れられた。
「ーーいたずら者はいないかなーーいたずら者はーー」
 根岸の寮から上野市中に足を伸ばした彼のそのよく通る声を、真っ先に耳にしたのは、滅黯だった。
 いつもの性感按摩で、年増女の常連客の股座から全身を、熱い湯で湿らせた手拭いで拭き取ってやり、中の間で、客が自ら腰巻きを身にまとい直している最中だった。
「あぁどうも、鼠取り屋さん、いつもお世話になっとりやす。どうぞ、表からお入りんなって下させぇやーー」
 兎知平はニィ、と唇を笑みの形にして、
「へぇどうも、按摩さん。いつもご贔屓に、ありがとうございやすーー」
 待乳山診療所の待合室兼、囲炉裏端に座っている客達に向かって頭をかきつつ、ぺこぺこしながら、囲炉裏端の隅に、遠慮がちに腰を下ろした。
 今、兎知平の両足はひざから爪先まで濃紺の脚絆を履き、足元は新品の草鞋が括りつけられている。
 その中は、暁の巫女に癒され、血ぶくれは皮膚の染みに変じ、今にも割れかけそうだった足の十指の爪も、すべて滑らかな面を取り戻している。
 そして滅黯と兎知平しか知らない、筆硯と墨、半紙を潜めてある、囲炉裏端の下の隠し二重庫に、草鞋の紐を直す振りをして引き出し、半紙に墨を含ませてすらすらと要件をしたためた。
 兎知平は、恐ろしく速筆である。
 滅黯の馴染みの行商人の振りをして、ここで新谷と戀夏宛の文に加え、【上野喰代サの四番】の三人全員に通達をし終えた旨を知らせる、暁の巫女と鴉宛の文まで、すべて書き終えてしまうのだ。
「あぁ、いやいや、こちらこそすんませんねぇ、按摩さん。お仕事中でお忙しそうですんで、見積もりだけ書き置きしておきますんで」
「おありがとうごぜぇやす、それでしたら、紙は『いつもんとこ』に入れといて下さぇなーー」
 いつものところ、と言われても客達はそれがどこかわかるはずはないし、興味は持たない。
 ヒン、カラカラカラ……
 兎知平が診療所を出てしばらくしたところで、滅黯の使いである九十九と絽嬪が、揃って兎知平の左右の肩にそれぞれ止まった。
  賢い二羽は、しっかり人目を避けているのだろう。
「おぅおぅ、久しぶりだなぁ、おめえ達。俺っちの残りもんで悪りィが、食うか?」
 そう言って腰から下げた麻袋から取り出したのは、干した芋茎(ずいき)や、干し大根を短く刻んだものだった。
 この男、わけあって生涯の五穀断ちを余儀なくされているが、それはまた別の話だ。
 兎知平の両掌に乗ったそれを、九十九と絽嬪はつんつくつんつくし、あっという間に平らげた。
「ほいじゃ頼むぜ、おふたりーーいんや、お二羽さんよ。九十九はデケェ図体した浪人のとこ。絽嬪はあのでぇらべっぴんさんのとこ、わかったな?」
 兎知平は二通の文を、二羽の駒鳥がそれぞれ首にかけた勾玉型の夜光石付きの角打ちと平打ちの組紐に括りつけると、駒鳥達は空に飛び立って行った。
「さぁて、とォーー久方ぶりに、可愛い可愛い娘の顔を拝みに行くかいね、松よ」
 その頃、戀夏と言えば。
 昨日、おふくとお松が寝ている隙に、ひっそりと【於多福屋】から、ふたりに挨拶もせずに帰宅する道すがら、遭遇した食い物専門の行商人達から、片っ端から食い物を買ってしまった。
 茹で玉子、塩辛、稲荷鮨、鯵とこはだの鮨、焼き蛤、豆腐とこんにゃくのおでん、するめつけ焼きーー。
 ほとんど、酒の肴で占めている。
 しかし、今の戀夏は酒を一滴も口にしておらず、昨日買った鯵とこはだの鮨を黙々と食べている。
 傷みやすい順から、食べているのだ。
(はぁ。あたしってば昨日、いったいあいつに何てこと……)
 ーー言っちまったんだろう。
 ーーしちまったんだろう。
 新谷に唇を奪われて不覚にも押し倒されて、袖を脱がされ、乳房を好き放題揉まれた挙句、乳首を舐めまわされて、本気で感じただけでなく、糸を曳くまで濡らしてしまい、新谷に『別の場所なら、本気であんたに抱かれても構わない』旨の発言をしてしまった。
 さらに、口だけでなく、自慢の豊かな乳房を駆使して、抜いてしまった。
 それだけでなく、我慢出来ずに新谷との閨を妄想しながら、自分でして、イってしまった。
 だが自分でも、あれがすべて酒の勢いだけだったとは思っていない。
 むしろ酒が入ったことで、自覚のない本音をすべてさらけ出してしまった。それが十割事実だという自覚がある。
 それがまた、戀夏をらしくない羞恥で苛むのだ。
 ーーだのに、昨日は昼前から呑み慣れない麦焼酎に酔い、家の二階の万年床の布団に倒れる込むようにして横になるや否や、目覚めれば既に六ツ半になっていた。
 その間ずっと空腹だったために、朝から鯵とこはだの鮨の美味さが口に、胃に染み渡る。それがまた、とてつもなく情けなかった。
 それでもまだ空腹は満たされず、元調理場であった一階に向かい、塩を入れた壺を取り出し、茹で玉子を塩まみれにしてすべて食べつくすと、戀夏はようやく人心地がついた。
 ーー水瓶の中が少なくなっているのなの気づき、水汲みに裏庭の井戸へ出ようとした、そのときだった。
「ーーいたずら者はいないかなーーいたずら者はーー」
「ふぁっ? 兎知平のおっちゃん!?」
 既に遠ざかっていた声に気づき、慌てて元小料理の入り口から外に飛び出すと、他人にはあまり聞き慣れない、しかし戀夏にはよく聞き慣れた鳥の声が、空から本体と一緒に、戀夏の右肩に舞い降りて来た。
 ヒン、カラカラカラ……
「絽嬪! って、あんたが来たってこたぁ」
 絽嬪に笑顔を向けたのは一瞬、その平打ちの組紐に括りつけられた文を、戀夏は素早くほどいた。
 戀夏は、ひらがなを読むのがやっとの文盲である。
 それに合わせて、文は極めて簡潔に、ひらがなのみで記されていた。
 刻を同じくして、一人の性感按摩の施術をを終わらせた滅黯は、囲炉裏端兼待合室にいる客に向かって、
「申し訳ありゃあせん、ちょいと、御不浄にめぇりやす」
  そう一声かけ、杖をつきながら、そのまま厠ではなく、裏庭にある薪小屋に向かう。
 杖と勘を頼りに小屋の戸を開くと、小屋に入って前に二歩、右に三歩、そこからまた二歩進んだところに置いてある、見た目はサルノコシカケをいくつも重ねたような紋様に、胴回り二尺、縦一尺強はありそうな、中身をくり抜いた、大きな空のスズメバチの巣の口から垂れ下った、二分ほどの小さな鈴を五つも着けた、釣り糸を探し当てた。
 釣り糸の先端には、毎回一枚の扇型の手製の歌留多ーーそれも必ず伽羅の香が染み込んだーーがぶら下げられていて、嗅覚の鋭い滅黯には、すぐわかるようにしてある。
 そこからするすると、釣り針に括られた文を手繰り寄せて手で触れると、滅黯はまたそれを元に戻した。
 点字もないこの時代、盲の滅黯がどのようにしてこの文を読むのか、それは本人にしかわからない。だというのにーー。
「『思ひいづや みのゝを山のひとつ松                     ちぎりしことはいつも忘れず 』……今回は、古今和歌集の伊勢の句ですかい。相変わらず、お師匠さんは粋人で」
 ーーさらに同時刻、【於多福屋】は、思わぬ客を迎えていた。
 正確には、一人と一羽だ。
「失礼致しやす、こちら、於多福屋さんでようございますか?」
 片手に幟を持ち、肩から薬箱をかけた鼠取りの行商人が頭をかきながら入り口に立つなり、暇を持て余し、いびきをかいて昼前から惰眠を貪るおふくのかたわらで、絵双紙を読みふけっていたお松が、裸足のまま四畳半の間から飛び降り駆けつけ、飛びついた。
「お父っちゃん!」
 ーー一方、その二階。
  店の用心棒として雇われた際に、おふくは新谷の身のまわりの世話ーー部屋の掃除に布団干し、洗濯は一切しない約定になっている。
 してもらわなくても、全部ひとりで出来るからだ。
 そのため、半ば男一人暮らしのような状態で、昨日の戀夏とのことでひどくぼんやりとしながらも、無意識に二階の屋根瓦に敷き布団とかけ布団を干していた、そのときだった。
 ひゅん、と飛んで来た何かが、新谷の額を鋭く直撃した。
「がっ!」
 それがつんつんつんつん数回に渡って新谷の額だけでなく頭をつつきまわすと、新谷はようやく我に返った。
「な、な、何ね、何ね!?」
 頭を抱えてうずくまった新谷の右ひざ頭に、棘の生えた橘の枝を咥えた、九十九が止まっていた。
「つ、九十九! わい、何しょーるか!」
 九十九は橘の枝を口から離し、屋根瓦から、開け放たれたままの障子から四畳半の部屋を軽々と飛び、新谷の追手を難なく逃れる。
 しかし、六尺もある新谷の長い両腕の先にある、大きな掌で両翼ごと胴体を掴まれると同時に、新谷は今日二回目となる、敷居に頭をぶつけることとなった。
 朝と違って明確な激痛が額に走り、新谷はふたたびその場にうずくまった。
 しかし、新谷はかろうじて右掌に九十九を捉えたまま、左掌で額を押さえ、なかなか引かない痛みに耐えていると、九十九はするりと新谷の掌を抜け出し、髷の上に止まり、髷を嘴でつつき、顔をか細い脚の爪先で蹴り始めた。
 そのときになってやっと、新谷は九十九が首から下げた、勾玉型の夜光石つきの角打ちの組紐の首輪に、文が括りつけられていることに気づき、慌てて文をほどいて目を通した。

【上野喰代サの四番の組子らへ】
 
 壱 血吸い針の盲  
 弐 雪血華の女白浪
 参 錆刀の六尺者

おのれらに告ぐ

 今宵 亥の刻 四ツ  根岸の寮に集合せよ
 暁に祈る巫女様の御尊顔に
 剃刀落としし鮮血溢れる水鏡から現れし
 黒アゲハ 染みつく 
 是 間違うことなき うらみすだま 也

 以上の事 組子以外に口外せし場合は
 その場で心の臓止め
 即死と通告す

 曼陀羅院 鴉  記

「まうごつ容赦なかたい、鴉の兄ィば。おいばそげんふーけたこつば死んでもせんけん、何の心配もなかばいよ」
   そこでようやく、階下が少しばかり騒がしいことに、新谷はようやく気づいた。
両眼を隠す長い前髪に、後ろで無造作に藁で束ねた赤い蓬髪、鼠色の生地に、松川菱柄の着流しを身にまとった痩せぎすの中年男の腰まわりに、お松が満面の笑顔でまとわりついていた。
「何ね、おっさまやなか」
「おぅ、久しぶりだなぁ、新谷」
「あれっ、新谷の兄な、ふつかよいとかって、大丈夫なの? あのねあのね、お父っちゃん帰って来たの! お土産いっぱい! あれ、ねぇねぇどうしたのその頭の小鳥! 可愛いねぇ!」
 久しぶりの父の帰還に興奮しきっているお松は、はしゃいで新谷に駆け寄り、新谷の髷をつついている九十九の姿に、くりくりとした愛らしい両眼を、輝かせた。
 九十九は自らお松の右肩に乗り、ヒン、カラカラカラ……と鳴きながら、駒鳥の雄特有の、橙色がかった、赤褐色の頭を、お松の頬にすり寄せた。
「ふかふかだねぇ! ねぇ、お父っちゃんこれ何て鳥? 」
「駒鳥ってんだ。黯さんがつがいで飼ってる二羽の片割れでよ、九十九ってんだ」
「うふふふ、九十九、九十九、つーくーもっ!」
 九十九を頭に乗せたお松は、両腕を横に伸ばして、於多福屋の店内を走りまわる。
「何だい、うるさいねぇ……ん、アンタ、お松っちゃんの親父さんじゃないかい」
「あぁ、於多福屋の店主の、おふくさんでございますね。いやいやどうもどうも、この度は、うちの娘がたいへんお世話になりましたようでーー」
 後頭部に左掌を当てて何度も頭を下げ、恐縮しきりと言った感じで、兎知平はおふくに礼を述べる。
「旅から帰ったら雨戸は閉めっきり、おまけに打った覚えのねぇ『旅中』の紙が貼っでありましたんで、こりゃ何事かと近くの者に聞いてまわったら、こちらのおかみさんがしばらく預かるって聞いたもんでね、いやはや、こりゃ一刻も早くお礼をしに行かねばと、こうして飛んで来た次第で、へぇ」
「へぇ、じゃないよ、まったく!」
 おふくは口を尖らせ、四畳半の間から不自由な足腰を、ゆっくりと降ろした。
「あんな、十にもならない子、それも女の子を一人暮らしさせて、年中ほったらかしなんてのは、親として、怠慢以外の何物でもないさね。あの子が、お松っちゃんが歳以上にしっかりしてるからいいものを、アンタはそれをいいことにーー」
 くどくどと説教をするおふくの言葉を、兎知平は何度もひどく申し訳なさそうにうなずきながら聞いていたが、それをぴしゃりと遮ったのは、新谷だった。
「ーーせからしか! その辺にしとかんね、婆ぁ!」
 おふくの両肩が、びくっと跳ね上がった。
 振り返ると、階段の一番下の段に座り、新谷が着物の裾からふんどしを除かせて胡座をかき、左手の小指で耳をほじっていた。
「だってよ、アンターー」
「人ん家には人ん家の分だけ、事情があるったい。婆ぁ、わいは若い頃、『あれは嬶が石女か、それとも亭主が胤なしか』てちょくらかされたって、おいば何度も聞かされとるけんが? おっさまは毎月、お松坊が暮らしに困らんよう、仕送りしとるったい。娘んこつ、いっちょくっとるんとも、うしたいもんしとるわけやなか。仕送りと一緒に文ば書いて、新しか土地ばついたら、必ず寺社参りしとるけん。いわせん父っつぁまばい!」
 新谷に睨まれ、おふくと兎知平の間に、しばし気まずい空気が流れた。
「……そうだったのかい、何も知らないで一方的に責めてすまなかったねぇ、兎知平さん」
「いやいや、とんでもねぇ、おかみさんが謝ることじゃございません、むしろ、こっちがおかみさんに謝らなきゃいけねぇんですから」
 兎知平は腰を低くして、まぁまぁとばかりに、左右の掌の内側をおふくに向け、何度も倒す仕草を向けた。
「あぁ、その。お松がお世話になった礼と言っちゃあ何でやすけどーー」
 言いながら、兎知平は頭陀袋の中身を露にした。
 それは兎知平が今回の行商の帰りに買って来た、菓子だった。
「かす……どお……す?」
「へぇ、長崎の出の新谷さんならおわかりでしょうがーーおかみさん、『かすていら』って南蛮菓子は御存知で?」
「聞いたことだけは、あるさ」
「へへぇ、その『かすていら』って南蛮菓子でも最高級の品なんですがね、この『かすどおす』なる品は、さらに美味な風味を加えたもんでーー」
「カスドース」とは、安土桃山時代から長崎県平戸に伝わる、カステイラーーカステラをさらに贅沢味を加えた菓子である。
 焼き上がったカステラの茶色い部分を切り落とし、卵黄にくぐらせた後、鍋で熱した糖蜜の長崎で揚げるようにして、表面の卵黄を固める。
 揚がった後は、おふくとお松が食べていた煎餅についたザラメを細かくした、きらきら光る砂糖ーー現代のグラニュー糖であるーーをまぶして仕上げるという、実に贅沢な菓子である。
 兎知平の講釈を聞くなり、おふくは曲がった腰と不自由な両足に鞭打つように、急ぎ足で、店先で九十九と戯れていたお松を連れ戻した。
 そして慌ただしく、急須の中の茶葉を秘蔵の玉露に入れ替えると、玉露の淹れ方に則って、ぬるめの湯でじっくり茶葉を開かせた。
「ボサっと突っ立てないで、早くお上がりな!アンタも、さっさと二階から座布団持って来な!」
 へいへい、とだるそうに返事をして、新谷は二階にあるおふくの部屋の押し入れから、比較的綺麗めな古座布団を一枚持って来た。
もちろん、兎知平用である。
 ほどなくして、一階の卓袱台には、四杯の玉露入りの湯呑みが並んだ。
 兎知平とお松父娘が並んで座り、同時に手を合わせて、
「「いただきます」」
 と言いかけたとき、おふくは慌ててカスドースの小袋を入れた、外は朱塗り、内側は黒塗りの安い菓子鉢を取り上げた。
「ちょい待ち、ちょい待ち! こんな贅沢な菓子、神棚に上げてからでないと、兎知平さんとお松っちゃんはともかく、アタシと新谷に罰が当たっちまうわ!」
(何して、おいまでばちかぶらんとか……)
 心の中でぼやき、新谷が気だるげに頬杖を突くと、おふくはカスドースの入った菓子鉢を四畳半の間にある神棚に供え、二礼二拍手一礼を行った。
 兎知平とお松も、神妙にそれに続いた。
「ほれ、アンタも!」
 おふくは新谷にも神棚への二礼二拍手一礼を促したが、
「おいば、こん国の八百万の神も仏も信じてなかとです。それに、甘いもんは苦手ですけん」
「アンタねぇ~……しょうがない、茶は飲んでおきな。もったいないから!」
 「……」
 カスドースの美味さに盛り上がるおふくとお松のやり取りの輪の中に加わりながら、兎知平は密かに心を痛めていたが、決して新谷にそれを口にすることは出来なかった。
(新谷さん……申し訳ありやせん、申し訳ありやせんが、ここは何卒耐えて下さいましよ、お頼み申します、お頼み申します)
 階段の一番下の段で、片手で湯呑みを持って玉露をすする新谷の姿が横目に観ながら
兎知平は心の内で新谷に謝罪を繰り返していた。
 そこに、思わぬ訪問者が現れた。
「こんちわ~」
「お戀ちゃん!?」
「ねぇね!」
「お戀さん?」
 おふく、お松、兎知平が順に声を上げる中、新谷だけは思わずせっかくの玉露を噴き出しそうになったのを懸命にこらえ、何とか茶を飲み下した。
 「さっき水汲みに出ようとしたら、おっちゃんの声が聞こえてさァ。でも後を追っかけようとしたら、もういなくなってて。そしたらこいつが道案内してくれてェ」
 戀夏の胸元からひょこっと顔を出したのは、絽嬪だった。
「あっ、もう一羽、九十九と同じ鳥!」
「お松の肩に乗ってる、九十九の姉ちゃん鳥だよ。ほれーー」
 兎知平が人差し指と中指を口に咥え、ひゅーっと音を鳴らした。
  戀夏の胸元から、絽嬪が羽ばたき、姉弟鳥はお松のか細い左右の肩に止まった。
「うわ、うふふ、可愛いのが増えた、増えた、増・え・たーー!」
「あ、それとさ。あたし昨日、昼前から酔って挨拶もしないで帰っちまった後、酔いにまかせて何だか色々買っちまってさァ。あたしひとりじゃ食い切れねェから、夕餉の足しにしてよ。その代わり、あたしも呼ばれるけど、いいよねェ?」
 そう言って、戀夏はそれぞれ竹の皮に包んで風呂敷に来た、塩辛、稲荷鮨、焼き蛤、豆腐とこんにゃくのおでん、するめつけ焼きを、四畳半の間に広げた。
「おほっ、こりゃ大漁大漁! ちょいとお戀ちゃん、今うちにゃ、すっごいお宝の南蛮菓子があるんだよ! アンタも食ってお行きなよ。かすどおす、って言ってねぇ……」
 おふくからカスドースなる南蛮菓子の概要を聞き終えると、お戀は一も二もなく、誘いに飛びついた。
 おふくは四畳半に上がるよう促したが、戀夏はいいからいいからと、上がり框に腰かけて、そこでカスドースと玉露を堪能した。
「んふ~、何だよこれ、マジ美味ぇわ! 美味過ぎるってェの!」
 感嘆の声を上げて、外国(とっくに)の甘味を日本でさらに加味した菓子に加え、さらに玉露を味わう戀夏は、恐ろしく容姿端麗ながら、子どものように無邪気な一面を覗かせる、何とも不思議な女に見えた。
 その様を、階段の一番下の段に座り続けている新谷に、ふてくされた表情で見つめられていることなど、気づきもせず。
「お戀ちゃんがこんなに色々持って来てくれたんだい、夕餉はみんなで食おうじゃないよかい」
 おふくの鶴の一声で、夕餉はいつもより少々遅くなるが、戀夏の勤め先である「日の出湯」が閉まる暮れ六ツが過ぎてから、と決まった。
「アタシが味噌汁作っとくから、アンタら、何か好きなもん、一品買って来なぁね」

 六ツ半をだいぶ過ぎてーー。
 仕事を終えた戀夏が【於多福屋】に戻って来ると、売り物ばかりの夕餉が始まった。
 戀夏は仕舞い湯に浸かって来たらしく、濡れた髪をお団子に結い上げ、いつも通りの恰好をしていながら、白粉の香をわずかに含んだ湯上りの姿が、新谷の目には妙に艶めかしく映った。
「あはは、アタシみたいな貧乏暮らしには贅沢だけど、たまにはこういうのもいいもんだ」
 兎知平とお松父娘が買って来たのは、お松の好物の菜飯だった。
 戀夏は栄螺の壷焼き。
 新谷は、蒸かし芋売りから衣被を五人分。通りすがりに、道端でむしって来た山椒の葉、数枚とともに。
 しかし酒は、おふくが近所の酒屋で買って来た安酒だった。
「安酒の方が、手早く酔えるってもんさ」
 そう言って、おふくは数本の徳利に冷やしもせず、熱燗にもしない、常温のままの酒をどくどく注ぎ、お松を除く四つのお猪口を、卓袱台の上に置いた。
 お松だけが、数々の惣菜に箸を伸ばしては好物の菜飯を食べている、普段と少し違うだけの夕餉を取っているが、他の四人の大人達はと言えばーー。
 真っ先に酔いがまわったのは、おふくだった。
「しっかし何だぁね、お松っちゃんはくりくりしたぱっちりお目々で、本っ当に可愛くて、歯なんか銀シャリ並べたみたいに真っ白で綺麗なのに、アンタは糸目ですきっ歯で、ちっとも似てないねぇ。よかったよかった、よく、女の子は父親に似るっていうじゃないかい」
 刻み山椒と醤油が振りかけられた、新谷が買った衣被を咀嚼しながら、おふくはあけすけに言った。
「えぇ?  へへ、えぇっへっへっ、実は死んだあれの母親ってぇのが、えらいべっぴんでしてね。顔も歯並びも髪の色も、わっちとは何ひとつ似てくれねぇで、助かりましたよ」
 おふくに負けず劣らず出来上がっている兎知平は、出汁が染み込んだ、おでんの中の木綿豆腐とこんにゃくを乗せた取り皿を持って、へらへら笑って返した。
「婆ァ! わいば、おっさまに何言うとっとか! お松坊んば側におるとに!」
 酒が入ってはいるが、まだしらふに近い新谷が、おふくの言葉を本気でたしなめた。
「大丈夫だよ、松っこなら、ほら」
 持参した塩辛と、焼き蛤を肴にちびちびやっていた戀夏が、あごをしゃくった。
 お松は食べるだけ食べて、既に畳の上に仰向けになって眠ってしまっていた。
 父親との久しぶりの再会に加え、九十九と絽嬪との遊び疲れと満腹感で、あっさり寝こけてしまったのだ。
 だから、今の会話はお松の耳には入っていない。
「ありゃありゃ、しょうがねぇなこいつは。すんません、宴もたけなわですが、わっちらはここで、お暇しまさぁ。お宅に預けてる着替えや何やらは、明日、取りに来ますんで
ーー」
 そう言いながらも、立ち上がるなり、兎知平は盛大によろけた。
「おっさま、そげん千鳥足でお松坊ばおぶって目黄不動まで帰るとか!?  ぞーたんのごつ! なろば、おいが背負って帰らすけん!」
「ーーダメ、もう聞こえてねェよ、新谷」
 戀夏が、箸で器用に、黒いところまで一度にほじくり出した栄螺の壷焼きを噛みながら言った。
 おふくも兎知平も、既に眠り込んでいる。
「何ね、婆ァもおっさまも、たかだか徳利ば、三、四本で……」
 新谷はそういうが、実のところは新谷と戀夏が、尋常でないほどザルなだけなのだ。
「じゃ、あたしらで松っこ送ってく?」
「そげんこつしよったら、朝、お松坊が起きたとき、どぎゃんしゅーとですか!」
「んふふ、だよねェ。せめて枕敷いて、掛け布団はかけてあげないとォ」
 それから、戀夏は枕を二個、新谷は掛け布団を二枚、二階から運んで来た。
 戀夏が、一個目の枕はおふくの頭の下に。
 ふたつ目の枕は兎知平の頭の下に敷くと、その隣りにお松を寝かせ、兎知平の左腕を伸ばし、その二の腕をお松の枕の代わりにした。
 そして九十九と絽嬪は、戀夏が丁重に両掌の上に乗せて、座布団の上に。
 仕上げに、新谷が掛け布団をひとりとふたりにかけ、四畳半の隅に置かれた行燈の火を息で吹き消そうとした瞬間、
「ちょい待ち、これ置いとくわ」
 戀夏が、袂から五角形の小さな包みをふたつ取り出し、おふくと兎知平の枕元に置いた。
 あらかじめ自宅から持って来たと思しい、竹筒に水を入れたものをそれぞれ一本ずつ、包みの隣りに並べて。
「そいば、何ですと?」
「『五苓散』ってェ、二日酔いの漢方だよ。前によく、黯に処方してもらったやつの残り」
「……姐さんにも、そげんときがあったとですか」
 呆れたような物言いをする新谷に構わず、戀夏は一階の四畳半の灯りを吹き消した。
 辺り一面が真っ暗闇になった途端、戀夏はは新谷の首に両腕をまわし、唇を重ねた。
「……あたしが湯に入って来た理由、教えてやるよ」
 戀夏は、新谷の耳元でささやいた。
(は? まさか、こげなときにするとか!?)
 新谷は、真っ暗闇の中で焦った。
「とにかくさ、こんなとこじゃ何だから、あんたの部屋連れてってよ」
「は、はい」
ーー二階の階段を上がってすぐのところに、灯り取り用の小さな障子がある。
 そこから漏れる極細の月明かりが、ふたりの足元をぎりぎり照らす。
「ん!」
 新谷が、二階に続く階段の二段目に片足をかけたとき、戀夏が新谷に向かって、左腕を伸ばした。
 意味がわからず戸惑う新谷に、戀夏が舌打ちした。
「おたし、瞳の色のせいかわかんないけど、鳥目なんだよ。だから手ェ繋いでくんないと、階段昇れないの! わかる?」
「え……」
 横顔を左下後方に向け、おずおずと差し出された新谷の左掌を、きゅっと握り締めた。
 それだけで、新谷は胸の鼓動が高まったが、
「あ、違う、こうして、こうした方が……」
 戀夏はいったん握った左掌同士を離し、右掌に変えて、五指を新谷の指のつけ根まで差し込むと、新谷の左掌の五指を握り込んだ。
 それと同時に、新谷は顔が熱を帯びたのを感じつつ、ここが暗闇であることを感謝した。
「よし、こっちの方が離れない、っと。はい、一段目昇ったよ! 続けてェ~~」
 二段目、三段目、四段目、五段目ーーと、戀夏は一段ごとに数を数え、新谷とともに、一歩ずつ階段を昇って行く。
 ようやく二階にたどり着くと、新谷は障子の向こうから透けるわずかな月明かりを頼りに、行燈の前にしゃがみ込んだ。
「いっちょん、待っとっといて下さい」
 風避けの覆いを上げ、鳴らした火打ち石から散った火花が、行燈内部の中央に置かれた、油脂を注(そそ)いだ火皿の中の藺草の灯心に、ぽっと火を点けた。
  敷きっばなしにしていた、けれどきちんと整えられた布団の上、裾より少し手間に、戀夏が胡座をかいて座した。
 戀夏に手招きされ、その前に新谷が正座で座す。
 灯りが点いていると言っても、行燈の明かるさは現代の豆電球ほどのものだ。
 戀夏はいつになくーーというより、初めて目にする真摯な顔で、新谷の顔をまっすぐに見つめていた。
「昨日、あんたはここで、あたしにいきなり口づけしたよな」
「はい」
 あまりに神妙になり過ぎて、故郷(くに)の言葉が出て来ず、無意識に敬語になっているのに、自分でも気づいていない。
「でェ、あんたはあたしに押し倒されて……まァ、あれよ、乳首しゃぶられたり乳揉まれたり、首筋舐められたり、あれこれされてェ……」
「はいーー」
「あんたは褌越しに、おっ勃たせたちんぽをあたしの股に押しつけて、あたしを好きだから抱きたいっつって迫って、あたしはそれを受け入れた。あんたが勃ったのと同じように、あたしも後であそこ触ったら、指に蜘蛛の糸貼ったぐれぇ、ぐっちょんぐっちょんに濡れちまってた」
「そう、ですか」
「それから、あたしが乳で挟んでこすって口で抜いてーーあぁもう面倒臭ェ、早い話が、あんたはあたしに惚れてて、あたしを抱きたい。で、あたしはあんたに抱かれたい。こういうこった」
 あたしは。
 あんたに。
 抱かれたい。
 その三行しか、新谷の頭には入って来なかった。
「だけど、さ……」
  男の性(さが)で、戀夏が頭の上で結った、まだ生乾きのお団子頭をほどき、髪を下ろすと同時に、新谷は戀夏を押し倒していた。
 左右の襟をかき開き、股引をひざ下まで下ろしにかかる。
 途端に、戀夏は匂い立つようなーー男の、新谷の首筋から立ち昇る匂いに包まれ、身も心も蕩けそうになった。
 だが、今の戀夏の目的はそれではない。
「ちょっ、ちょォ待て、待てってばよ、おいてめぇ、まだあたしの話終わってねェぞ、こら、新谷ァ!」
 どん! と新谷の胸元を片足で蹴り飛ばし、股引を引き上げ、襟を合わせた。
「っの、バカ!」
「あ……すみません、すみません!」
  布団の上に仰向けになった新谷は、そこで
いったん理性を取り戻した。
「あんたに、見てもらいたいものがあるんだよ」
「見てもらいたいもの?」
 下ろした髪は意外に長くなく、戀夏の背中の肩甲骨が隠れる程度だった。
「こんなもの見ても、あたしを抱く気になるのかって、それを聞きてェんだよ」
「な、何があろうと、おいばーー!」
「新谷ァ、あたし今から行燈の側に座ってあんたに背中を向けるから、あんたはそれをしっかり見るんだ。いいな?」
 新谷は、無言でうなずいた。
 戀夏は布団の枕元に近い行燈のかたわらに座り直し、また胡座をかいた。
 そして両腕を着物の内側にすぼめると、またすぐ両腕を広げ、帯から上、裸の上半身をーー背中を露わにして見せた。
「ーー!?」
 ……戀夏が、ふたつ鳴りもかまわない女三助として働く湯屋の常連客であるおふくから、戀夏の背と両腕に彫り物があることは何度も聞いていたが、その柄や形状、範囲までは詳しく知らされていなかった新谷は、驚愕した。
 薄灯りに照らされた戀夏の狭い背中一面には、降魔の三鈷剣に羂索を手にした不動明王像が素肌を一分も残さず、彫り込まれていた。
 雪のように白い女の柔肌の背に負うには、あまりに苛烈な彫り物である。
 新谷は無言で両眼を見開き、戀夏の背から目を離せずにいる。
 だがそれは恐れやおののきからではない。その得も言われぬ圧と迫力に、動きを封じられているのだ。
「へっ、びびって股ぐら縮み上がったかよ、新谷ァ」
 不敵な笑みを浮かべ、戀夏は剥き出しの豊かな乳房を隠しもせず、畳の上に正座を崩した形でべたりと座り込み、自分の両足のひざと、正座し続ける新谷とひざを突き合わせた。
 そして戀夏は左手で行燈を引き寄せると、前に向かって伸ばしたその両腕で、新谷の首の後ろで両手を軽く組んだ。
 新谷は、驚愕を通り越して絶句した。
 戀夏の両肩から左右の胸元、そして両腕のひじまで、こちらも隙間なくびっしりと、彫り物が施されていたからだ。
 その柄は、紅色の夾竹桃とその周りに生い茂る鮮やかな緑の葉の中に潜り込み、そこからあちこち鎌首をもたげ、猛毒を含んだ牙を露わにした、両腕合わせて四匹の蝮という、壮絶な絵図であった。
「あたしはこうしてお不動さんに守って頂けなきゃ、生きて行けない身の上だった。それから、夾竹桃ってのはねェ……」
 ぞっとするような妖艶な笑みを新谷に向け、戀夏は言葉を続ける。
「綺麗な花なんだよォ、薄紅色の、とっても綺麗な花。白い花が咲く樹もある。でも、根も葉も茎も葉も花も、存在そのものが猛毒なんだァ……」
 ーーそれにあたしが蝮を絡ませた理由、わかるかよ?
 新谷は既に、戀夏という女の妖艶な毒気に当てられていた。
 生きるために、心身に猛毒を持たねばならなかった、この孤独な女のーー。
 新谷は戀夏の背後にまわり、左掌でそっと背中の刺青に触れた。
 まず、肩甲骨の下。
 次いで、右掌で背中一面を撫でまわす。
 大きく骨ばった左右の掌はごわごわしていたが、その熱さが戀夏の背中から全身へと、じわじわと染み渡って行った。
「!」
 突然背中に触れた、掌ではないけど柔らかい感触に、戀夏はびくっと両肩を跳ね上げた。
 首を後ろに向けると、新谷が自分の背中上部に、唇を這わせていた。
 戀夏はそれに抗わず、新谷は背後から左手で戀夏の左手首を持ち上げ、右腕はその細腰にがっちりと巻きついていた。
 新谷の両腕はそのまま、顔だけを下げて、酒匂を漂わせる唇は、背中の上から中、尾てい骨から左右の腰骨の表面を這うと、今度は下から上へと、舌先でくまなく舐め上げて行く。
「あ、新谷ァ……」
 戀夏は一言、切なく喘いで背中をのけぞらせ、眉根を寄せた。
 そのときにはもう、新谷の唇から出ているのは、ほのかな酒匂と舌先ではなくなっていた。
 好いた女の裸体に欲情する、口を大きく開けただけ強くなった酒匂に満ちた、一匹の雄も同然の荒い息遣いと、突き出された舌だった。
 戀夏の背中から離れた新谷の唇と舌が、首を後ろに向けていた戀夏の唇と重なると同時に、戀夏の舌まで絡め取った。
 ふたりはそのままの体勢で、唇を吸い合いながら、互いの舌を絡め合ったま、自分で自分の帯を解き、左右の袖を脱ぎ、戀夏は黒の股引を両足首から脱ぎ下ろし、新谷は褌を取り払った。
 そしてーー新谷は首からかけた秘密の首飾りを、決して戀夏の眼に触れぬように慎重に外すと、畳の片隅を縦二寸、横二寸の正方形に鑿を入れ、同寸の木板を五枚嵌め込んで造ったごく小さな隠し蔵に、それを丁重に忍ばせた。
 花柄の薄桃色の着物に、灰地に白の雲竜柄、そこに白雲を突き抜ける二匹の昇り竜の柄の着物、さらに内側に愛液が滲んだ黒い股引に、履き古した木綿の質素な褌という、男女の対局のように対照的な衣類と下履きとが、無造作に布団の端に重なり合った。
 かけ布団を剥ぎ、布団の上で相手を下にしたのは、意外にも新谷の方だった。
 行燈の灯りは、消えていない。
「はぁ……あぁ……」
 戀夏は既に、新谷に身を委ねきっていた。
 左手首を握られ、左腕を褥の上に押しつけられながら、刺青を彫った箇所を、余すところなく唇で吸われている。
「『毒を喰らわば皿まで』ーーってやつですばい、姐さん」
「あ、あんたが……あんたごときが、あたしの刺青(スミ)の毒に耐えらるってェの?  その前に、あたしの花の刺青の毒が、あんたを殺しっちまう……か、も……よォ?」
 戀夏は必死に強がっているが、劣勢なのは目に見えて明らかだ。
 だが、これまで培って来た恐ろしく激しいその気性が、どうしても素直に現状を受け入れることが出来ない。
 実際、夜鷹時代も舟饅頭時代も、常に騎乗位で、数え切れないほどの客の男達をイかせ続けて来たという自負があるが、その自負は戀夏の中では、既に消え失せている。
「そいばおいの台詞ですたい、姐さん。姐さんの両腕の夾竹桃の刺青の毒ば、おいが吸い尽くしますけんね」
 ーーそうして、左肩に彫られた刺青まで唇で吸い尽くすと、新谷は舌先で、すっと戀夏の左の首筋を舐め上げた。
「はぁ、んっ」
 耐えられず、戀夏は声を上げて、右掌で新谷の顔を引き離そうとした。
ーーその刺激でぴくぴくと立ち上がった左右の乳首に、気づかれたくなかった。
 そのとき、左の耳のふちを舌先でなぞりながら、新谷が耳元でつぶやいた。
 耳のふちをなぞられたことで全身を震わせて、戀夏は顔だけでなく両耳まで真っ赤にし、深い紺青の瑠璃色の両眼を、悦楽の極みから滲んだ涙で潤ませていた。
「姐さん、おい達は今、布団ば上で、まっぽし、裸になっとっとですよ。隠さんとしとっても、おーばんぎゃーですたい」
 ーーいつものように威勢よく反論することすら出来ず、ふぅ、ふぅ、と荒い息を必死で整え、目尻からこぼれ落ちそうになる涙を、新谷の唇がすすった。
「……こいで、姐さんの弱かとこ、さらっかわかったとけん。根岸の寮に行くまで、刻のあるしこ、おーちゃっか責めますばい」
 初めて見る、まるでいたずら坊主のような表情と、無邪気な笑みがいっしょくたになった新谷が、戀夏の唇に軽く自分の唇を重ねると、新谷の舌が、あっという間に戀夏の口腔に潜り込んだ。
 新谷は両右腕で戀夏の頭の左側を押さえ、左掌で戀夏の右頬を、布団の上に固定した。
 そのときにはもう、戀夏の両腕は新谷の胸の中に収まり、彼の両肩に、両掌をかけていた。


 


 

 

 
 



 





 



 





 

 
 



 
 


 





 
 





 


 
 





 
 


 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
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