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【其の弐「味噌汁長屋と醜女と団子」】

天誅殺師 鴉ノ記

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 ーー目的地である裏長屋前にたどり着き、新谷は木戸の横に大八車を止めた。
 この下谷山崎町は、江戸屈指の貧民窟。
 誰が言い出したか、この裏長屋は辺り一面にみっしりと生えた苔の名を取って、
 通り名は【ぜにごけ長屋】
 ぜにごけーー銭苔とは、水はけの悪いじめじめとした日陰に生える苔のことである。
 盆栽や庭園においては重宝される苔も多々あるが、この銭苔は賞賛されるに値しない雑草同然にも関わらず、無駄に繁殖力が強く、駆除しきれないという厄介な苔だ。
 そんな名を冠された、裏長屋である。
 そのうえ、裏長屋と言っても典型的な九尺二間の裏長屋ではなく、九尺店を壁で二等分にした、極狭の棟割長屋だ。
 新谷は常に大八車の引き手にぶら下げてあるなまくらの小刀を抜き、甲太と乙吉を荷台に二重に縛りつけた荒縄を力まかせに切ると、ふたりの首に括りつけた。
「んじゃ、行ってくらぁ。姐さん」
「はいな」
 新谷は大八車の引き手の枠の中に移り、大八車の前方に座り直し、相変わらず煙管をふかし続ける戀夏に声をかけると、戀夏は軽く手を振った。 左手に二重に巻いた二本の荒縄を肩にかけ、胸元で左掌をきつく握り締め、褌一丁の甲太と乙吉を引きずりながら木戸をくぐり、裏長屋へと踏み込む。
 途端に、路地の突き当たりにある長屋の住人達が共同使用する掃溜と惣後架から漂う、悪臭が鼻をついた。
 名うての貧民窟だ、恐らく惣後架の大便を肥料として買い取りに来るはずの百姓には汲み取りを後回しにされているのだろう。
 そして生活に追われるあまり、掃溜のごみを大芥溜に持って行く住人もいないのか、掃溜にうず高く積もった野菜屑の山には蝿が渦をまくようにたかり、数匹のゴキブリが蠢いていた。
(きんべ(蝿)だけやなか、アマメまでおるばい! べべかべべか、えすかぁ! 何しょーるん、こん長屋ん連中!)
 だが不思議なことに、どこの裏長屋にも必ず祀られている、低く小さい赤い鳥居の向こうの稲荷の社はきれいに掃除され、磁器製の二体の稲荷には、金の鈴のついた手縫いの赤い前かけがかけらている。
 さらには緑のあざやかな榊が生けられた一対の白磁の榊立てに、酒の入った盃が二杯。
 わずかばかりの玄米と塩が供えられ、その手前に、名もわからない野の花が置かれている。
 そこだけ、誰かが常に目を、気をかけている者がいるのだと、一目でわかった。
 ーーその光景に、新谷は数年前、自分が両親と妹弟と家族五人で暮らしていた長崎の長屋を思い起こさせた。               
あの長屋は、ここよりも貧しかっただろうか。
それとも、ここよりはまだましな方だったろうか。
 新谷は無意識に、雲竜柄に白雲と昇り竜の着流しの襟の中に右手を差し込み、決して誰にも見られてはならない、首にかけたそれを握り締めた。
 だが、感傷に浸っている場合ではない。
 長屋の中央にある井戸の側に立つと、新谷は大きく息を吸い、
「あーあーあー、頼ーーもーーう!!! 万引き坊主ふたりの親ァ、おるとかーー!? おるなら、早ぅ出て来んねーー!!!」
 腹の底から張り上げた大声に、左右の長屋の中から数人の住人達が何ごとかと顔を出した。
 それと同時に、新谷の顔つきが、豹変した。
「甲太と乙吉の親ば、おらんね!?」
「乙吉の父親なら、私だが?」
 木戸から入って三軒目の戸口から、口の周りから揉み上げまで繋がるほどの不精髭を生やし、鬢がほつれにほつれた、新谷と同じく髷は結いながら月代は伸び放題の、しょぼくれた浪人風の中年男が現れた。
「わいか、こんおーどか坊主の父上は。不肖の息子ば返しに来たけん、ついでに万引きしかけた絵双紙の代金銀二分かそれ相当の品、何でんよかから回収させて貰うばい」
「は!?」
 新谷が左手に握っていた荒縄の一本を右手に持ち替えると、背後に引きずっていた乙吉の体が、新谷のかかとの後ろから左肩を越え、軽く宙に浮き、浪人風の中年男の前に、うつ伏せにびたん!と叩きつけられた。
「ぁ……ち、ちぅ……ぇ?」
「乙吉? そなた、乙吉か!?」
 顔全体が新谷の平手打ちの繰り返しで真っ赤に腫れ上がり、褌一丁という姿、かつ蚊の鳴くようなか細い声でも、息子とわかった。
「貴殿、いったい何があったのだ。教えてくれぬか」
「へへっ、腐っても鯛とはこのことだな。一方的にキレられて、問答無用でぶった斬られるかと思ったがよ」
 新谷はニヤつきながら、首をコキコキと左右に傾けた。
「絵双紙屋を兼ねた貸本屋で、万引きしようとしたんだよ、俺が寸前でとっ捕まえたから未遂で済んだがな」
「乙吉!? それは真か!それともこの者が難癖をつけて一方的にいたぶられたか!? どちらだ!」
「そ……そぅでは、なく……俺が……ゃりました……」
 乙吉の父は愕然とし、その場に袴を履いた膝を折った。
「あ、あの……甲太が、何か……?」
 その斜向かいの戸口が、ガタガタ音を立てながら開くと、次はひどく顔色の悪い、寝間着に粗末な褞袍を羽織った、櫛巻き髪の女が現れた。
 戸の建て付けが悪いのに加え、寝床から起き出すのもやっとの病身だろうことが、すぐに見て取れた。
 新谷は女をきつく睨みつけ、甲太の首に荒縄をつけたまま、女の前にずかずか歩み寄る。
「おっ母さん、わざわざ連れて帰って来たやったぜぇ。ウチの店で万引きしかけたてめえのガキを、よ」
 甲太の首を荒縄で縛ったまま、新谷は右手を懐手にし、甲太を左手で高々と吊し上げて、女の前に晒した。
「ひっ!」
女ーー明らかに甲太の母親が両掌で口を押さえ、よろめいた。
「っ……ぉっ母ぁ……ご……めん……ぉ、俺……万引き……し……ょぅ……と……した……」
 荒縄で首を締め上げられながらようよう絞り出した声とともに、甲太はぼろぼろと大粒の涙を流した。
 新谷は荒縄を手から放すと、甲太の頭を草鞋の裏で踏みにじる。
 老若男女を問わず、他の住人達は、甲太と乙吉をかばい、この場を何とか丸く治めようという気持ちはあった。
 だが、新谷が身の丈六尺の二本差しだからというだけの理由だけではなく、彼の全身から醸し出される異様な圧と、鬼神のような佇まいに、息を飲み凍りつき、身動きひとつ取れなかったのだ。
 甲太の母は顔を両手で覆ってさめざめと泣き、甲太もまた地に伏して泣いている。
「てめえのやったこたぁ、こういうことなんだよ。わかったか、おい」
「申し訳ない!」
 背後から飛んで来た声に、新谷は振り向いた。
 見れば、乙吉の父が息子の頭を押さえつけながら、新谷に向かってふたり並んで土下座している。
「んなことされても、意味ねぇんだよ。立てや、こら」
 新谷は土下座する乙吉と甲太の頭をつかんで引きずり上げ、井戸まで連れて行く。
 まさか、井戸に叩き落とすのかと誰もが思い、全員の血の気が引いた。
 しかし、新谷は井戸につるべを落とし、汲み上げた冷水を、甲太と乙吉の頭からぶちまけた。
「万引き未遂の禊ばい。ふたりで二冊、合わせて銀四分分の働き、今からしてもらおうか」
「甲太、てめえはそこのきんべとアマメがたかってる掃溜の山、大芥溜にひとつ残さず捨てて来い」
「乙吉、てめえは下水溝のどぶさらいだ。っと、その前によ……」
 甲太と乙吉は全身ずぶ濡れのまま、ふたりまとめて頭髪をつかみ上げられた。
 裸足の爪先が、わずかに宙に浮いている。
「家ば貧しかけん、売りもんばがめてもしょーんなかと思っとっとがか? そげんことおいに言うたっちゃ、知んもんや!」
 新谷ががなると、ふたりを思い切り振り払い、井戸端に派手に尻餅をついた。
 そしてまた、井戸から汲み上げた冷水を、三度、四度と立て続けに浴びせる。
 甲太の母親が泣きながら地を這って新谷の足にすがりつき、乙吉の父が自らずぶ濡れになりながらそれを止めようと、土下座して懇願する。
「おい、やり過ぎだぞ!」
「そうだよ、相手はまだ子どもじゃないかい!」
 次々に周囲の住人達から罵声が浴びせられるが、新谷は意に介さない。
「あーあーあー、せからしか、ずんだれどもが!わいら揃いも揃って年ばっか食いよった、がめちょろばい!!!」
 意味はわからないが、自分達の不甲斐なさを責められているような気になって、長屋の住人達は一斉に口をつぐんだ。
 よろよろと立ち上がりかけた甲太と乙吉の前にしゃがみ、新谷は恐ろしくドスの利いた声で問いかけた。
「あいば、わいらが働かんね?」 
 何故か『家が貧しいのに、、どうしてお前達は働かないのか?』と言われたことだけは不思議とわかった甲太と乙吉が、きょとんとした顔になった。
「だ、だって俺ら、まだーー」
「こどんやっけん、仕事ばしぃきらんと言いよると? わいら、歳ばいくつったい」
「『十三……』」
「十三!? っかー、ぎゅうらしか!」
 新谷は額に手を当てて、大仰に天を仰いだ。
「おいば、十一ん歳に父親ば死んで、どがんしゅーてんなかなって、しゃっちで母親と妹と弟ば食わすために、朝から晩までもっこ担ぎばしとっとったけんな。仕事ばきつうてきゃーなえても、厠の汲み取りんごたる、きっさなかこつ仕事までしよったばい。わいら十三にばなって、まーだてれんぱれんしとっとか!!!」
「『……………』」
「おいコラ! いい年した大人どもがボサッと突っ立ってんじゃねぇよ! さっさと大家呼んで惣後架に山盛りの糞、百姓に買い取って貰うように頼みに行けや!大家が話にならねぇんなら、糞買いに来る百姓、直にここに連れて来い!」
 それは正に、鶴の一声だった。
 ひっ、と、住人達が身をすくめたのはほんの一瞬、住人達は大家か、惣後架に溜まった大便の買い取りをする百姓の元に駆け出して行った。
「全部てめえらが尻からひり出したもんだろうが、この山盛りの糞はよぉ」
 そこで新谷は、足元からすすり泣く女の声にやっと気づいた。
「すまねぇな、あんた胃の腑の病い身なんだろ」
 泣き濡れた甲太の母が顔を上げ、新谷を見た。
 新谷は黙って足元のおぼつかない甲太の母に肩を貸し、わざわざ寝床まで送り届けた。
 すみません、すみません……とか細い声で繰り返す甲太の母の声を後に、新谷は背を向けたまま、無言でその場を去ろうとしたーーその瞬間、くるりと振り返り、
「てめえのガキのしつけぐらいちゃんとしろや、ボケが! それも出来ねぇってんなら、さっさとくたばりやがれ!」
 辺りを憚らぬ胴間声を甲太の母に向け、建て付けの悪い戸口を力任せにピシャリと一度に閉めた。
 ぁあぁ……ぁぁぁ……と、悲鳴に似た嗚咽が聞こえたが、新谷にはどうでもいいことだった。
(あのおっさんはいねぇな。大家んとこでも行ったか)
 それでも憎々しげに、新谷は舌打ちした。
 ーー長屋を去ろうとした新谷の目の前に、一部始終を見守っていた戀夏がいた。
 たまたま視線がかち合い、かっと顔が熱くなった新谷に、頭の後ろで両手を組んだ戀夏が畳みかける。
「けっ、相変わらず甘い甘い、甘いよ、あんたは。大福食いながら汁粉飲んでんのと同じぐれぇじゃねェかよ」
 実につまらなそうに、戀夏がぼやいた。
「俺としちゃあ、甘いつもりはねぇすよ。ただ、大事(おおごと)にしたくねぇだけのことで」
「あたしなら、銀四分だけの値段がある家具か着物でも、無理やり奪い取ってくけどォ?」
「あの……すみません姐さん、俺、店を留守にしたまんまなんで。早く帰らねぇと、婆にどやされちまいますから」

 新谷は戀夏の横を足早に通り過ぎ、荷台に何も載せていない木戸の横に置いた大八車を引いて長屋を立ち去った。
 煙管をふかしながら、遠ざかって行く新谷の背中をにまにまと見つめながら、戀夏は長屋の木戸に寄りかかり、今ふかしている煙管の火種を吸い切ったら、行きつけの茶屋に寄って団子と茶を堪能してから、仲町の家に帰るつもりだった。
 風呂敷包みを前に抱えた長屋の住人らしき、まだ十代半ばの若い女が、こちらにやって来る。
 髪は年相応に桃割に結いながらも、前櫛に平打ちの簪も玉簪も差していないどころか、鹿の子すら巻いていない。 
 安っぽい櫛だけを申し訳程度に差し、媚茶色に細い黒の縦縞が入った粗末な着物。
 そして使い古された風なすだれ柄の手拭いで、襟元を覆っていた。
 黒い帯を締め、左端と右上に青麦の柄が入った白い前かけをした、いかにもこの貧しい棟割長屋の住人らしい、清貧を絵に描いたような装いだ。
 そして、しじみのような小さく離れた両眼に、そばかすだらけの目元。
 赤い両頬にかさついた肌、薄くちんまりとした唇。
 やや下ぶくれの顔で、わずかに二重の線が入った顎。
 鼻は上向きのいわゆる豚鼻で、ずんぐりむっくりの五尺足らずの小柄な体躯は太り肉(じし)で、どこからどう見ても、
【醜女】
だった。
 だが、そのたたずまいには、何とも言えない愛嬌と愛らしさがあった。
「こんにちは」
「あ、こ、こんちは」
 穏やかな笑顔を向けて会釈された瞬間、戀夏の胸の内に、ぽっと温かいものが宿った。
 見るからにおぼこく、純真そのものの少女が何のてらいもなく、自分のような莫連女に嫌悪の視線も向けず、挨拶してくれたことが無性に嬉しかったのだ。
 媚茶色に黒の細縞が入った着物に、色褪せ擦り切れた黒い帯という、ひどく粗末な身なりの少女は立ち止まり、木戸を入ってすぐ右手にある稲荷社に向かった。
風呂敷包みを足元に置き、二拝、二拍手、一礼。
 少女が風呂敷包みを両手に抱え直し、踵を返し、自分の住まいに戻ろうとすると、隣に戀夏が立った。
 ひどくぎこちなく二拝、二拍手、一礼をすると、彼女と同様、足元に置いていた煙管を右手の人差し指と中指は間に持ち直す。
「ねぇあんた、これでいい?」
「はい、合ってますよ」
 そう問いかけた戀夏ににっこりと笑みを浮かべ、少女はうなずいた。
 そのとき、どこから持って来たのか、古びた猫車に、掃溜に打ち捨てられていた大量の野菜屑を乗せた、褌一丁の甲太が、ふらつきながら裏長屋の突き当たりからやって来た。
 それと同時に、
「ひゃあっ!!!」
 悲鳴を上げ、少女は唐突に戀夏に抱きついた。
 甲太が押す猫車が木戸から出て行ってもしばらく、少女は戀夏に抱きついたままだったが、ふと我に返り、慌てて戀夏から身を離した。
「ず、すみません、すみません!」
 少女は何度も何度も頭を下げ、平身低頭で戀夏に平謝りする。
「え、別にかまわないけど? それよかあんた、いったい何をそんなに驚いたわけ?」
「あ、あ、あの、さっき……甲坊の押してた猫車に、ゴ、ゴ、ゴ……ゴキ、ブリ……がいっぱいいた……から、つい……」
 顔を真っ赤にして、少女は風呂敷包みに顔を埋めた。
 裸足に履き古した下駄を履いた足元が、小刻みに震えている。
 その顔が、誰かの手によってぐいと持ち上げられた。
 少女の目の前には、いつになく真剣な面持ちの戀夏の顔があった。
 自分の両頬が戀夏の両手に挟まれていることにすら気づいていない。
 戀夏の両手の指先が、少女の左右の口端を挟んで、柔らかく揉む。
「……可愛い」
「え?」
「あんた、マジ可愛いっ! ぷにぷにっ!」
 今度は逆に、戀夏が笑顔で無邪気に彼女を抱き締めた。
「いえっ、そんな!!!」
 少女は半ば戀夏を突飛ばすように、自分に抱きつく戀夏の両腕を振り払った。
「……そんなわけ、ないです……わたしが……可愛いなんて……あるわけ、ないん……です……」
 少女はひどく悲しげにうつむいて、着物の端をきつく握り締めた。両手はわなわなと震え、唇を噛み締めている。
 左右の目尻には涙が溜まり、今にも頬から顎へこぼれ落ちそうだ。
「………!?」
 彼女の反応をまったく理解出来ない戀夏は、らしくなくひどく戸惑ったが、すぐさまその理由を理解することになる。
「うーわっ、いたぞいたぞ、味噌汁長屋の醜女のおせんっ!!!」
 まだ低くない男児の声が、少女ーーおせんを揶揄する大きな声が上がった。
 それと同時に、耳まで真っ赤になっていたおせんの顔が真っ青になった。
 声の主である十二、十三歳ほどの町人の男児を筆頭に、同い年の町人の男児がもうふたり駆け寄り、三人でおせんを取り囲む。
「『味噌汁長屋』のしっこっめ!」
「『味噌汁長屋』のしっこっめーー!」
 二人は調子を合わせて手を叩きながら、節をつけておせんの周りを、足を弾ませながら周回する。
 戀夏の顔がみるみる険しくなる。だが、おせんはただ顔を背けてうつむき、黙っている。
 そこへ、学問所帰りとおぼしき若侍達三人が、いやらしい笑みを浮かべながらやって来た。
「これ、丙助に勇三、言って良いことと悪いことがあるぞ」
 若侍の内のひとり、野平重太郎が、ふたりに苦言を呈した。
 だが、その口調は明らかにおせんを遠回しに貶めている。
「左様、野平殿の仰せられるように、世の中には『禁句』というものがあるのだ」
「それにのう、人の値打ちというのは顔や見た目で決まるものではない。人の真価は中身だ。ーーとはいえ、さすがにこれほどの醜女では、中身を知るまで付き合う気にもならぬが」
 若侍は揃って十六歳。
 ーー野平重太郎
 ーー村尾慎之介
 ーー元岡祐之進
 ともに譜代席の長男達であり、学問所の成績順により、野平が三人の首領格である。
「しかして『味噌汁長屋』とは何ぞや?」
 二番格の村尾が丙助と勇三に尋ねた。
「へいっ、日本堤から田町に下る土手沿いにある長屋の端に、そりゃあ別嬪なおなごか住んでるってぇ、もっぱらの噂なんでさぁ。んで、孔雀の羽根に見立てて『孔雀長屋』って呼ばれてるんですがね」
「だってぇのにこのおせんは、これこの通りのひっでぇ醜女!」
「ふむ、それは相わかった。だが、それが如何にして味噌汁と繋がるのだ?」
 調子に乗ってまくし立てる丙助と勇三の言葉に、元岡が首を傾げた。
「味噌汁は、箸で掬えねぇでしょう? 椀に口をつけて啜るもんだ」
「『掬いようのない』つまり、『救いようのない』醜女が住んでるってんで『味噌汁長屋』で……」 
 野平、村尾、元岡の笑いを一斉に誘えることを期待していた勇三が、突然がくんとひざを折り、その場にへたり込んだ。
「勇ぞ……!?」
 相方の名を呼びかけた丙助もまた、同じく。
 ふたりとも白目を剥き、口からごぼごぼと泡を吹いていた。
 ーー丙助と勇三の背後に周った戀夏が、着物と褌越しに彼らの睾丸を片手で握り潰したことなど、戀夏にしかわからない。
 それだけではない。
 丙助と勇三の両手首を片手で後ろにつかんでまわし、ふたりの片手の十指の爪、併せて二十枚の生爪を、戀夏がほんの数秒で、指先の力だけで引き剥がしたのだ。
 口からは泡を、それぞれ片手の指先からは大量の血を垂れ流して失神している、歳も身分も下の子分格の異変に、野平も村尾も元岡も、もちろんおせんも困惑するしかない。
 彼らの身に何が起こっているのか、何が起こったのか、まったく見当がつかないのだから。
(っのクソが。てめえら、人様の顔をからかえるほどイイ男だと思ってんのかよ。バーカ!)
「丙助!? 勇三!?」
 いち早く異変に気づいた野平の襟が後ろに引かれ、それと同時に背中に灼熱が襲った。
「ひっ!!! 熱づっ、熱づぅっ!!!」
 このタネは、簡単だ。
 戀夏が煙管の先端で燃えている火種を、そのまま野平の背中に放り込んだだけのことだ。
 野平が暴れるほどに背中を転がり、肌と着物を内側から焦がす火種に気づかず、困惑するしかない村尾と元岡を狙うのは、戀夏にとっては児戯に等しい。
 いや、それ以下だ。
「い、如何なされた!? 重太郎ど……のぉぁあぁぁあぁぁあいぎゃあははははあぁぁぁっ!!!」
 戀夏は野平の異変に気を取られている村尾と元岡の隙を突き、その左右の指先を人差し指と親指ですっと撫でさすると、村尾は右手、元岡は左手と、五指の爪は右端から真横に、いともたやすく剥がれ落ちた。
 おせんの目には、その電光石火のごとき恐ろしく残忍な早業は、まったく見えていない。
 何が起こったのかもわからず、目を覆って立ち尽くしているだけだ。
「あっれェー? どしたどしたィ? お武家様方に、そのバカタレのクソガキ子分どもよォ?」
 戀夏は腰に手を当てて身を乗り出し、その場にへたり込んだ五人を上から覗き込む。
「あ……つ、爪……」
 野平が情けなくへたり込み、思わず戀夏に助けを求めた。
「爪なら、お家の下女に蟹鋏ででも切って貰えば宜しゅうございましょう」
 慣れた手つきで、懐から取り出した袋物の煙草入れの中に煙管の雁首を突っ込み、火皿に刻み煙草をつめた。
 煙草盆はないから、手持ちの小さな火打石を数回打ち合わせ、火を点けた。
二、三度吸ってから、紫煙を吐き出すと、同時に、戀夏の左手が野平の袴の前を薙いだ。
 その瞬間、野平の袴だけでなく下に履いた着物と褌が同時に裂けて、野平はあられもなく股間が剥き出しになった。
 戀夏が爪切りとして帯の裏に携帯している、蟹鋏の仕業である。
 口から煙管を離し、蟹鋏の先端を野平の鼻先に突きつけると、へたり込んだまま恐怖で腰を抜かし、身動きが取れなくなった。 
 戀夏は野平の前にしゃがみ込み、
「♪チョッキン、チョッキン、チョッキンな~」
「ひっ…あひっ、いぎっ……」 
 自身の陰茎を蟹鋏の左右の刃で、寸止めで挟みかけては、刃を上げては閉じ、
 また左右の刃をひろげては下ろし、寸止めで挟みかける。
 それを繰り返す戀夏の行為に凄まじい恐怖を覚えながら、野平は動けない。
 下手に動けば局部が傷つけられると、本能が悟っていた。
「チョッキーーン!」
「おぎゃあ!!!」
 戀夏がひときわ高い声を上げた瞬間、野平は情けない声を上げて失禁した。
「あ……あ……あぁ……」
「あらあら、一丁前に御珍宝のお皮が剥けて、お股に陰毛を生やしておいでのくせに、みっともなくお漏らしでございますか、お武家様ァ? こんなお姿でお帰りになられたら、御父上からどんなお叱りを受けて、御母上がどんなに嘆かれることでございましょうねェ。だから、あたしがお灸を据えて差し上げますよ」
 全身が脱力し、戀夏にされるがままになるしかない野平は、蟹鋏を収めた戀夏の左手に左右の口端をきつく押さえつけられた。
 自ずと口が開き、舌先が出る。
 細身の女の片腕の、それもか細い指先だけとは思えぬ力で後頭部を地面に押しつけられると、戀夏は大股開きになって、野平の首の脇に両肩の脇に腰を下ろした。
 その舌の上に、戀夏は逆さまにした火皿を容赦なく押しつけた。
「がご、おげっ、あがぐくっ」
 先ほどの背中の熱さとはくらべものにならない、灼熱を伴った激痛に野平は手足をばたつかせるが、その苦痛から逃れることを、戀夏の細い指が許さない。
 ひとしきり野平の舌を焼き、火皿を上に向けて、口蓋垂ーー俗にいうのどちんこを目がけて火種を飛ばすと、戀夏は野平を片足の爪先で突き飛ばした。
仰向けになった野平は奇怪な踊りのように、大量の涙と鼻水とよだれを垂らしてひとしきり地面の上でのたうちまわると、そのまま気を失った。
「あ、イっちゃった、こいつ。んー、どうしよっかなー、こいつら。さすがにここにほったらかしにしとくわけにはいかないし、でも大八車は新谷が持って帰っちゃったしィ」

 しばらく思案していると、戀夏に声がかかった。
「まったく。素人相手にやり過ぎだぞ、戀夏」
「え、あれっ、嘘!? 旦那かよ!よかったー、いいとこ来てくれたァ!」
 戀夏が旦那と呼んだ相手に、耳をふさぎ、まぶたを固く閉じて音声だけの傍観に徹するしかなかったおせんは、恐る恐る両目を開け、そして目を見開いた。
 戀夏が旦那、と呼んだ人物は、おせんがこれまで見たこともないような姿をしていたからだ。
 ーー五尺七寸ほどの細身の体に漆黒の着物をまとい。
 足は草鞋でも下駄でもない、おせんが知らない黒い『革』という生地で出来た、足全体だけでなく、すねの真下まで包んだ、地下足袋のような履き物。
 その謎の履き物の前には、こちらも黒の紐が✕の字に縦に四つ並び、紐の先は足首で三重に、わざとなのか正しく結べないのか、縦結びに結ばれている。
 それが南蛮渡来の「『ブーツ』という『靴』」であることなど、おせんは知る由もない。
 腰まで伸びた髪は髷を結うでもなく、後ろでところどころほつれた、ゆったりと編まれた三つ編みでまとめられている。
 そして、何故か頭の左側にひょっとこの面をかぶっていた。
 長い前髪は頭の上できつく結われ、鬢付け油で固めているのか、左右に分かれて叢のように逆立って、固定されている。
 そのうち結び切れなかった何本もの前髪の束が、顔の前から胸元まで垂れていた。
 しかし特筆すべきは、その男の存在そのものだった。
 顔立ちは端正で細面だが、決して女顔ではなく、エラが張り、がっしりとした顎を持った男の輪郭。
 そこに、得もいわれぬ退廃的な男の色香が全身から漂っている。
 だからといってスケコマシや女たらし、女衒のような下卑たいやらしさはまったくなく、何か、得体の知れない凄みのようなものを感じさせた。
 それに加え、男の唇の左端には謎の細い金輪が貫通し、両目の下には、左右対称に三連の銀色の鋲が穿たれている。
 そして両耳にも、短い棒状の金具と、唇のそれよりやや太めの金輪が、いくつも貫通している。
 おせんには見えないが、実はこの男の舌の上にも、縦に二列の金属の粒が貫通しているのだ。
 だが、何のために、この男は顔中にこんな痛々しい装飾をしているのか。
 すべてが、おせんの常識の範疇を越えていた。
 さらに、帯は体の前で締めた花魁のそれである鮟鱇帯で、黒地に錦糸で縫い込んだ奇怪な妖怪ーー頭は猿、体は虎、尾は蛇ーー鵺の刺繍が施されている。
 その鵺の周囲もまた、雷光の刺繍が錦糸で緻密に縫い込まれていた。
「……巫女様が『春の微かな花の香(か)に混じって、ひどい血腥さが鼻にまとわりつく』と仰られたのでな。すぐにわかった、お前のことだってな」
「春の花ァ、蓮華ーー戀夏、つまりあたしが『流血沙汰起こしてる』ってことだろォ? 相変わらず、暁の巫女様はもったいぶった言いまわしをされる御方だよ。言っとくけどねェ、あたしはた・だ!」
 戀夏は立ち上がり、みたび煙管を口に咥えながら、平然と、
「人様を平気で醜女呼ばわりしてからかったクソガキ二匹と、その尻馬に乗ったバカ侍ふたり。それと、その首領気取りの野郎の舌とちんこに、火ィつけたばっかの煙管の火種で、お灸を据えてやっただけだよ」
「戀夏、『のど』を略するな『のど』を!」
「あ、そうだねェ。じゃないと上のか下のだかわかんないし」
「違う。そういうことを言ってるんじゃない……」
 誰だ、こんな手のつけようのない暴れ馬のような女を仲間に引き入れたのは。
 と思いかけ、それが他ならぬ自分であったことを思い出し、男ーー鴉は口をつぐんだ。
【曼陀羅院 鴉(まんだらいん・からす)】
 本名かどうか極めて疑わしいが、それが、この謎めいた奇妙極まりない男の名である。
(まぁいい、これだけやることなすこと先の読めない面白い女はいないからな) 
 心の内で、鴉はくくっと笑った。
「暁の巫女様の御命令で来たってことは、旦那、どうにかしてくれんの? こいつら」
「あぁ、駕籠を用意した。口止め料も弾んである。それにーー」
 鴉が、戀夏に向けて右掌を上向きに差し出した。
 鴉は五指を折り、伸ばしたり指先をくっつけては離すを繰り返す、奇妙な仕草を戀夏に見せた。
(記憶は消しておく。ただし、怪我の手当てはせずに捨て置く)
(ありがとよ、旦那)
 戀夏もまた、鴉に向かって真正面に左掌を向け、五指を手早く様々な形に折って伸ばしてつけて離して、を繰り返す。
 ふたりの間ーー正確には仲間内にのみ通じる、【指仕草の話術】だ。
(捨てる場所は?)
(大川の、橋の上。お菰(こも)に見せかけて、打ち捨てて置く)
(さっすが、旦那! いい仕事すんねェ!!)
(戀夏。これは、忠告だ。これ以上、巫女様の御手を煩わすな。わかったか!?)
(へいへい、わっかりましたよー、っと)
(ちっともわかってなさそうだがな、オイ)
(あ。バレた? まぁ、またそのときは、旦那に頼むわ)
(この、バカが!!!)
 いたずらっ子のような笑みを鴉に向け、戀夏はぽっくりを履いた左足の甲を右足のひざの裏に絡ませて、頭の後ろで手を組んだ。
 実に無邪気な笑顔である。
丙助、勇三、野平、村尾、元岡は、二台の駕籠に分けて押し込められ、駕籠の中で全裸にされて菰に巻かれ、雲助らの手によって大川へと連れ去られて行く。
「あ、あの……?」
 目の前で繰り広げられる異様な展開に、ひどくとまどうおせんが、戀夏に恐る恐る声をかけて来た。
「あぁ、そうだねェ。あんたの分はあたしがやっとかないとだわなァ」
 戀夏はおせんの両頬をつかみ、額と額を合わせた。
 途端に、おせんの顔が両耳まで真っ赤になった。
「いいかィ、あたしの眼を見ろ」
「で、出来ません、そんな……あなたみたいな綺麗な人と、め、め、眼を合わせるなんてっ!」
 必死に顔を背けながらのその一言に、戀夏は、らしからぬ乙女心をわしづかみにされた。
「んひゃ、もーう!! だったら余計に、見ろィっ!」
 戀夏は自分も頬を染めながら、無理やり開かせたおせんの小さな双眸に、戀夏の美貌が鏡のように映し出された。
「あ……」
 そのとき初めて、おせんは戀夏の瞳が紺青の深い瑠璃色であることに気がついた。
 茶色に金の筋がいくつも入った頭髪と奇抜な服装にばかり気を取られ、まったく気づかずにいたのだ。
 その瑠璃色が、一瞬にして幼い頃に見た万華鏡の中身のように変化した。
 くるり、くるりと。
 万華鏡の名の通り、おせんの視界はゆっくりと、しかし色鮮やかに彩られて行く。
(……綺麗……綺麗……あぁ、きれい…き……れ……)

「ねェあんた! 大丈夫!?」
 おせんは、はっと我に返った。
 左右のまぶたを固く閉じ、両耳をふさいで立ち尽くしている自分に気づく。
 風呂敷包みを両ひざの上に置き、地べたにあぐらをかいて座り込み、煙管をふかしている見知らぬ女が、自分を見上げていた。
(あ、あれ……?)
「あのクソガキども、追っ払ってやったよ。洟垂れガキが、火種がついた煙管で頭小突いて、ちょっと股ぐらにひざ蹴り入れたら『おがーぢゃーん』って泣いて鼻水垂らして逃げて行きやがんの」
 言いながら、女が風呂敷包みを手渡した。
「あ、ありがとう……ございます……」
 おせんは、正に狐につままれたような心持ちだった。
 新しい糸を買いに問屋に出かけ、いつものように稲荷社にお参りし。
 それから、確かこの女に参拝の仕方を聞かれ、そこへいつも自分を、
「『味噌汁長屋の醜女』」とからかう子ども達に囲まれて、囃し立てられーー。
 他にも何かあった気がするのだが、どうしても思い出せない。
 それとも、あまりに耐え難い屈辱から逃避するため、白昼夢に近い幻影でも見ていたのだろうか?
「……ぉ……お……せ……ん……、おせん、でいいんだよね、あんたの名前?」
「えっ? あ、はい、そうです、おせんです」
「これ」
 女は、おせんの住む棟割長屋の軒先に吊るされた、天日干しに雨ざらしを繰り返した板を指差した。

【ぬいものつくろいもの 承ります おせん】

「実はあたし、字ィほとんど読めなくてさ。ひらがな読むのがやっとなんだよねェ」
「あぁーーそうなんですか」
 何故だかおせんは、この髪の色から服装と、頭のてっぺんから爪先に至るまで奇抜極まりない莫連女に、奇妙な親近感を抱いていた。
 ただ接しているだけで心の奥底から安堵するような、柔らかくほっこりするような気持ちを。
「もう用は済んだから帰るよ。じゃあね」
「あ……」
 その瞬間、長屋から去って行く戀夏に、強い名残惜しさを感じた。
 このままお別れするのは嫌だ。
 名前さえ聞いていない。
 どこに住んでいて、何の仕事をしている人なのかも知らない。
 しばらく自分の住む長屋の戸口の前に立ちすくんでいたが、おせんはいてもたってもいられなくなり、思わず駆け出し、木戸を飛び出した。
「ま、待って下さいっ!」
 歩み足が速いらしい戀夏は、すでに表店の前にいた。
 煙管をふかしながら、戀夏が振り返る。
「あ、あの、あ……あの……」
 心臓が、早鐘のように激しく脈打っている。
「お、お願いしま、す……あの、わ、わたし、と、とと、友達に……なっ、なってくれません、かっ!?」
 勢いよく頭を下げて、おせんは戀夏に訴えた。
 戀夏はやや驚いた表情を浮かべたが、それはすぐさまあの無邪気な笑顔に変わり、満面の笑みを浮かべた。

「松(ま)っこー、今日はいつものを四束二文で頼むわーー」
 はーい、と、この茶屋の看板娘、まだ九つのお松が返答すると同時に、客である戀夏とおせんに向かって軽く頭を下げた。
 年齢的にまだ髪は結える長さではないが、おかっぱ頭の上部をわずかに束ねて元結でくくり、そこに名前と同じ、大小ふたつの松ぼっくりを並べた、素朴な髪飾りを差している。
 お松の着物は橙格子に無地の朱の帯、可愛らしい赤とんぼ柄の、質素な生成りの麻の前かけ。
 くりくりとして大きな瞳に、長く濃い睫毛。
 年頃になれば、間違いなくこの娘(こ)はこの界隈で評判の小町娘になるだろうと、おせんは思った。
 ーーここ、上野広小路は茶屋の店先。
 屋号は【紅(べに)はこべ】という。
 この土地は明暦の大火以降、火除地として南北に広小路という道路が開通した。
 だがその後も重なる火災に見舞われ、そのたびごとに広小路が拡張され、その結果、皮肉にも江戸随一の繁華街となった町である。
 戀夏から誘われ、彼女の行きつけである茶屋まで連れて来られたのだ。
 茶屋と言っても実に簡素な屋台で、路傍に床几を置き、屋台の上に芦簀子を差しかけているだけの簡素な造りだ。
 床几の隣の木製の台の上には、何口もの急須と鉄瓶が並んだ棚と、古びた一口の鉄瓶が置かれ、屋台の軒先には二本の柄杓をかぶせた水甕と手桶が、水に濡れたまま置かれている。
「はい、お待ちどうさま」
 五尺にも満たない小柄で細身な分、小まわりの利くお松は、四本差しのみたらし団子が二本ずつ乗った蛸唐草文様の平皿と、十草文様の湯飲みを、一枚と一杯ずつ、戀夏とおせんの脇に置いた。
「あ、こいつね、お松。こんなチビだけどこの屋台、全部これの親父(おや)っさんから任されてんの」
「え? あの、わたし、頼んでませんけど……」
「おごりでしょ? 戀ねぇの」
「さすが松っこ、商売慣れしてるねェ」
 すでにみたらし団子の串を手に、一玉を食んでいる戀夏が、さも当たり前のように言った。
「あたし、酒飲みのくせして甘いもんに目がなくてさァ。特にここの団子は安くて美味くて絶品なんだよ。茶も葉っぱをケチらないで濃く淹れくれて、ちょい渋めなとこも、さ」
「でも、こんなことして頂くわけには行かーー」
「わけには、行くよ」
 お松が、間髪入れず口にした。
「お姉さん、戀ねぇの、ねぇねのお友達になったんでしょ?」
「そ、そう、だけど……」
「だったら受け取ってあげないと。ねぇねはね、お友達に遠慮されるのが、いちばん嫌なんだよ」
 子どもらしい素直さというより、妙にこませくれた口調で、お松はおせんに向かってきっぱりと言い切った。
 お松は【江戸五色不動】のひとつ、『目黄不動』ーー別名『ねずみ不動』を本尊とする、三輪永久寺近くの粗末な一軒家に、母親を早くに亡くし、以来、父の兎知平(とちへい)とふたり暮らしである。
 しかしこの父親、兎知平は少々変わった行商を生業として全国を渡り歩いているため、まだ幼い娘がしっかり者なのをいいことに、仕事にかまけてほとんど家にいた試しがない。
 それでも、最低一月に一回は江戸に帰って来て、娘のお松には全国各地の珍しい御当地菓子を。
 滅黯や新谷、戀夏、鴉らには地酒や珍味を手土産に。
 しばらくは家に腰を落ち着けるのだが、お松を始め、皆が気がついたときにはすでにまた旅に出て、煙のように姿を消している。
 床几の上で、ぽっくりを履いた土足のまま、右足で立てひざをつき、左足を寝かせてみたらし団子を味わう戀夏がうんうん、とうなずいた。
「そう、それなら遠慮なく頂くわ。お嬢ちゃ……うぅん、お松ちゃん」
 おせんがみたらし団子の串を手に取り、口元を隠しながら、一玉目を口に入れた。
「あたし、仲町の小料理屋だった【栂(つが)のや】ってとこの二階に住んでんだ、空き家になっちまったから」
 ーー仲町とは上野池の端仲町。
 不忍池は南端辺の町で、料理屋と茶屋で賑わいのある町である。
 そんな町中の、元小料理屋の空き家の二階で若い女のひとり暮らしとは、風変わりな話である。
「だいぶ前におっ死んじまったけど、あたしがよくそこの主人とおかみさんだった爺っちゃと婆っちゃに世話になって、たまに酌婦やらせてもらって小銭稼がせて貰っててさ。あ、今は数寄屋町の日の出湯って銭湯で、二つ鳴りもやる三助やってんだけど」
「えぇっ、女の人が三助やってるんですか? しかも二つ鳴りまで!?」
 二つ鳴り、というのは男湯で男の背中を流すことだ。
 根っからおぼこく、うぶいおせんにとっては信じがたい話でしかなく、ひどく顔を赤らめた。
「だってあたし、何の取り柄もないからねェ。物心ついた頃にはふた親いなくて、あるのはこの身ひとつだけ。だから、元は夜鷹だったんだ。けど、ひとり商売してると、徒党組んでる年増の夜鷹連中との火場所(縄張り)争いが面倒臭せぇったらなくてさァ。だから隅田川に移って、舟饅頭に鞍替えしたわけ」
 そこで、はたと戀夏が口を止めた。
「あ、い、嫌……だよな? こんな話。あんたみたいなおぼこい娘(こ)には、体をひさいでた女なんて、その……汚ねェ、よ、な。おまけにあたし、背中一面と、両方の肩から、胸元と両方の二の腕まで……その、ス、刺青(スミ)ィ、入れてんだ」
 珍しく、いつも陽気な戀夏の顔が翳りを帯びた。
 おせんは刺青、という単語に驚愕したが、ぎゅっと前かけを握り締め、唾を飲み込んだ。
「だからあたしは飯もまともに作れない、掃除も出来ない、ましてやあんたみたいに縫い物ひとつ出来やしない。それを生計(たつき)にしてるあんたは、あたしからすりゃ信じられないぐらい真っ当で立派な奴だよ」
「で、でも……」
 食べかけの団子の串を、いったん蛸唐草の平皿の上に置き、おせんはうつむきながらつぶやいた。
「い……生きて行くためには、どうしたってお金が必要になります。ましてや、女ひとりの身の上なら、尚更です。刺青だって……ひとりで生き抜く覚悟の証として彫ったんじゃないんですか? わたしにはそうとしか思えないんです。伊達や酔狂で彫ったんじゃない、って」
「おせん……あんた」
 吃りがちで、ただひたすらに内気なばかりの少女だとばかり思っていたおせんが紡ぎ出す言葉と、そこからひしひしと伝わる彼女の芯の強さに、戀夏は思わず目を見開いた。
「そ、それに、お、お戀さんは、たくさんの、お、男のお客さん達が、お、お金を払ってでも……体を……買いたいと思うぐらいの美人だから、そういう仕事で、稼げたんです。『職に貴賎はねぇんだ』っていうのが、紙屑買いをしてた、お父っつぁんの口癖でした。だからお戀さんは、少しも汚くなんか、ありません。わたしは、針仕事しか取り柄がないんです。こんな顔だから、小さい頃から遊びの仲間にも入れてもらえなくて、だから、おっかさんの仕立ての内職を手伝うしかなくて……」
 まるで堰を切ったように話すおせんは、さらに語り続けた。
 両親は四年前、彼女がまだ十二の年の冬。
 薬どころか医者に診せることも出来ず、必死の看病の甲斐もなく、揃って風邪をこじらせて立て続けに亡くなったこと。
 それからは、母親の後を継いで針仕事に専念したいこと。
 長屋の中での内職なら、この顔を他人にめったに見せずに済むから、安心して働けること。
「それに……」
 ほんのり赤らんだ顔を、ふたたび団子を食べ始めた戀夏に向け、精一杯の勇気を振り絞って、本音をすべて伝えた。
「お、お戀さんは……今まで会った人の中で、い、いぃ、いちばん、き、きき、綺麗で、カッコいい人だと思います……だから、その……こんなひどいブスと友達になってくれて、わたし……嬉しくて……すごく」
「あー、もうコラ! てめえでてめえのことブスとか言うんじゃねぇよ、バカ!」
 桃割れに結ったおせんの髪を、戀夏がわしづかみにし、ぐいっと頭を下げた。
「そっか、あんたもあたしと同じ親なしか。でもよォ、だからって『同病相憐れむ』みたいなのはなしだかんなァ!」
 ふたりは、意味もなく笑い合った。
 何も可笑しいことなどないのに、ふたりはただただ心の底から笑った。

「おい松っこ、ごっそさん。お代ィ!」
「はい、お待たせしました」
 てこてこと屋台の裏から現れたお松に、戀夏はみたらし団子四本と茶の二杯分、合わせて十六文を払おうとして懐に右手を差し入れた。
 その瞬間、一本の腕が戀夏の胸の前をさえぎった。
「わたしの分は、わたしが払いますから」
「あんだよ、松っこに言われただろ、あたしは遠慮が嫌いって」
「遠慮じゃありません、すごく楽しかったし、それにすごく美味しかったから、だからしっかり分け合いたいんです。お金も」
「これは遠慮なんかじゃ、ありませんからね?『分かち合い』です」 
「へっ、『分かち合い』かぁ……何だか面映ェなァ」
「お戀さん、ありがとう。あの……人様のお店でこんなこと言うのは失礼だとは重々承知の上なんですが……」
 青麦の柄が入った前かけを両手の指先でもじもじたぐりながら、おせんは戀夏に耳打ちした。
(あんみつの美味しいお店、知ってるんです。あんみつ、お嫌いですか?)
(はぁ!? あんみつなんて好きも好き、大好きだよ、大好物! 誘って誘って! なるたけ早いうちに!)
「それならよかったです。で、でもわたしの稼ぎじゃ奢りは無理だから、すみません、お代はお戀さんの支払いになっちゃいますけどーー」
「バーカ、そんなケチくさい女じゃねェよ、あたしは。んなこと気にすんなっての!」
「は、はい。ありがとうございます。じゃあ、また、近いうちにお逢いしましょうね、必ず」
「うん、あたしも楽しみにしてっから!」
 おせんは穏やかな笑みを浮かべた横顔を戀夏に向け、会釈して去って行こうとした。
 そのとき。
「あ、ちょい待ち。掌ァ上に向けて出して。両方とも」
「?」
 言われるまま、おせんが体の前で両掌をくっつけてかまえると、戀夏が帯から下げていた、まだ新品の根付けを外した。
 戀夏の細い指先が、ぴん、と、それを弾いた。
 柔らかなおせんの両掌の上に、それはリィ……ーーン……と、涼やかな音色を響かせて、飛び乗った。 
 南天の紅い眼に、同じく南天の緑の葉の耳の二羽の雪兎の絵が入った、うっすら桃色がかった水琴鈴に、赤い小花が散らばった、透明な蜻蛉玉がついた、真新しい根付け。
 根付けの紐は、白と紫と赤で編まれていた。
「それ、あげるよ。そういう可愛いのはあたしみたいなあばずれが持つよか、あんたみたいなおぼこの方が似合うって」
「は、はい。あ、あぁ、ありがとう、ご、ございます!」 
「ほんじゃァねェー、あたしも待ってっから、あんたとあんみつに会える日!」 
 満面の笑顔で両手をぶんぶん振りながら、戀夏はおせんを見送った。
(あいつ、まだ十六かァ。若いねェ)
 んふんふ、と上機嫌で、お松が自分とおせんに出された茶を入れた急須へ、お松への断りもなしに、薪を絶やさずに湯を焚き続けている釜から柄杓で熱湯を継ぎ足した。
 勝手に二杯目の茶を湯飲みに注ぎ、熱々の茶がわずかに戀夏の口に飲み込まれた、そのときだった。
 お松が、ひどく怯えた顔をして、戀夏の片袖を引いた。
「………ねぇね………」
「ん? どしたよ、松っこ」
「怖い、怖いよ。ねぇね、あたい、怖いよ」
「怖いって、何がだよ。親父っさん全然帰って来ねェから、夜ひとりで家にいんのが怖えェのかァ? そんなら新谷んとこでも行きな。おふくさんなら大歓迎で美味いもん食べさせてくれるし、夜は一緒の布団で寝てくれるよォ?」
「違う。さっきの、お姉ちゃん」
「え、おせんのこと?」
 こくん、とお松がうなずいた。
「ちょ、何バカなこと言ってんだよ松っこ。あんな気立てがよくて、優しい奴つかまえてさァ」
「違う、違うの、そういうのじゃ、ないの」
「……?」
 涙ぐんでふるふると頭を左右に振り、お松は両腕で、戀夏の左腕にしがみついた。
「あのお姉ちゃん、本当に優しい。あたい、今までここで働いて色んなお客さん見て来たけど、あんな菩薩様みたいな人、初めて見た。でもね、でも、見えなかったのーー影が」
「あァ!?」
 実はこの少女、お松には奇妙な力があった。
 それは、お松本人が物心ついたときには既に自覚していたもので、
【死期の近い人間の影が見えなくなる】
 ーー人の死相が顔ではなく、その者の影が見えなくなる、という形でわかるものだった。
 しかも、その死期は一年や半年などではなく、わずか数ヶ月以内であることも。
 それは戀夏のみならず、滅黯も新谷も鴉も暁の巫女も、全員、周知の事実であった。
 夕暮れにはまだ早い未の刻八つ半。
 空は朝から雲ひとつない晴天。
 戀夏が反射的に見おろした自分の足元の影も、
戀夏の左袖に顔を押しつけてすすり泣くお松の足元から伸びる影も、光を受けて、黒く、くっきりと地面に映し出されていた。

 

 
 
 
 

 
 
 
 
 







 



  



 


 


 
 



 



 










 

 







 
 


 

 

 




 


 



 

 
 



 




 
 

 





 






 
 
 
 






 



 


 
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