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ロジーナの苦しみと新しい道
お母様の手紙を読みました
しおりを挟む数日後、マルガレーテに連れられたロジーナはニアトキュラスの外れにある離宮に到着した。小高い岡の上に立つこの宮殿からはニアトキュラスが一望出来る。ロジーナは三階の客間のバルコニーから生まれ育った筈の王都を物珍しそうに眺めていた。
「ローズ、ちょっと良いかしら?」
マルガレーテに声を掛けられて部屋に入ると、ソファに祖父母と同じ年頃の夫婦が座っていた。
「貴女がロジーナね、本当にシャルロットに良く似ていること!」
「どうやらシャルロットよりも美人さんじゃないか!驚いたな!」
マルガレーテに『わたくしの叔父様ご夫妻なの』と耳打ちされ、ロジーナは丁寧にカーテシーをした。
「ロジーナと申します」
マルガレーテの叔父であるガルバ公爵と夫人は満足げに目を細めて微笑んでいる。そしてしばらく当たり障りのない話をした後、名残惜しそうにしながらマルガレーテと共に部屋を出ていった。
「突然ごめんなさいね」
公爵夫妻を見送り戻ってきたマルガレーテはロジーナの隣に腰を下ろした。
「叔父様と貴女のお祖父様は古くからの友人で、シャルロットをとても可愛がっていらしたの。是非貴女の顔が見たいと仰ってね。とても喜んでいらしたわ」
「そうでしたか……」
ロジーナはそう言って手にしていたカップをテーブルに置き、ぼんやりと窓の外に視線をさ迷わせた。
「ねぇローズ、やっぱり気持ちは変わらないのかしら?」
「はい、お世話になってばかりで申し訳ありませんが……ローズ様のお陰で私にも目指すものが出来ましたわ。本当にありがとうございます」
寂しげな笑顔を浮かべたロジーナをマルガレーテは堪らず抱きしめた。
「強情な野薔薇ね。本当にシャルロットにそっくりだわ。貴女はシャルロットに愛されていた、それがわかったのならシャファルアリーンベルドの気持ちを受け入れてくれたら良いのに」
「ローズ様……全てを話して下さって、本当にありがとうございます。本当に……」
ロジーナは小さな子どものようにマルガレーテの肩に頭を預け、嗚咽を堪えている。マルガレーテは銀色の髪に頬を押し当てて震える背中を優しく撫でた。
「貴女に伝えるかどうか、本当に悩んだの。真実を知った貴女がどう思うかと……やはりわたくしはローズを余計に苦しめたのではないかしら?」
マルガレーテの呟きにロジーナは無言のまま小さく首を横に振る。そして身体を離し涙を拭うとマルガレーテに微笑み掛けた。
「私は母の想いを誤解していましたもの。あれでは母が可哀想です。ローズ様は母を救って下さったわ」
--だってお母様は私を守るために死んだのだから
ロジーナは初めて見る母の筆跡を思い浮かべていた。それは母から親友へ宛てた手紙に書き連ねられた文字だった。
∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗
親愛なるローズ
これは届くことがない手紙です。何のために書くのかなんて自分でもわからない、でも書かずにはいられないの。
私、貴女に酷いことをしたわ。貴女は私が男の子を死産したという知らせを受け取っているのでしょうね。でも、私の赤ちゃんは生きている。ロジーナという名よ。貴女と同じローズと呼ぶ為に選んだの。とっても可愛らしい……女の子だったわ。だから私は決して貴女に事実を知らせる事はできないの。ごめんなさいね。そしてこの子の出生は届けない。いつかその日が訪れた時に少しでも混乱を招くために。
私の赤ちゃんはどうして女の子だったのかしら?男の子なら良かった、伯爵家の嫡男なら夫の受け取り方も少しは違っていたかも知れない。それでも夫がこの子を愛してくれないのは解っているの。けれど男の子なら少なくとも侯爵家の手が及ぶ心配は無かったわ。
私は侯爵家の娘ではなく王太子妃を輩出するための駒でしかなくて、貴女と引き合わされたことすら少しでも有利にという両親の思惑だった。でもそれだけは感謝しているの。だってたった一人の親友に巡り合えたんだもの。
私は孤独だった。勉強とお稽古に明け暮れた子どもの頃も辛いと思っていたけれど、社交界に出るようになって王太子妃の筆頭候補と言われるようになると誰もが私を遠巻きに見るようになったわ。無理もないわね、私に声を掛けるのは王家に楯突くことになるのだもの。それなのにニアトキュラシアンブルーを持たない私は一向に婚約者にはなれず両親に詰られる日々だったわ。
結婚生活が地獄だと解っていても私はあの家から逃れたかったの。そして殿下もご成婚されて私はやっと自由になれたと思ったわ。けれどお妃様が亡くなられ両親は新たな目的を見いだしてしまった。多分白い結婚であることを吹聴して回ったのは夫自身だと思うの。恥を晒してまで心はダーマに捧げていると伝えたかったのでしょうね。
ロジーナを……私の愛しい野薔薇を身籠った時、私は小さな命がお腹に宿った事がただただ嬉しかった。そこには何の打算もなく、自分でも信じられないくらいこの子が愛しくて堪らなかったの。
でもロジーナは女の子だった。王家には二つ年上の双子の王子様がいらっしゃる。このままではロジーナは私のように侯爵家の駒にされてしまう。私は何としてでもこの子を守らなければならない、それなのに……
ローズ、私は壊れているの。
どんどん心が壊れて自分を失くし、身体がいうことを聞かずふらついておぞましい叫び声を上げてしまうの。だからロジーナに触れるのが怖いのよ。こんなにも抱きしめたいのに、腕に抱いたあの子に何をしてしまうかわからない。乳母に抱かれるロジーナを見ると余計に辛くなるから連れてこないでと頼んだわ。でもあの子の泣き声が聞こえると会いたくて会いたくて胸が苦しいの。
それでも私はたった一人でどうにかしてロジーナを守らなければならないわ。だってロジーナは私の愛しい野薔薇なんですもの。
∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗
親愛なるローズ
ロジーナは昨日五歳になったわ。小さいのにとても賢く……だからこそ物分かりが良くて、可哀想にそれがあの子の辛さを増しているのね。
夫は日々小さなロジーナに恨みをぶつけている。敏いあの子は自分一人で受け止めようと泣いてばかりいるから、元の顔がわからないほど泣き腫らして浮腫んで醜くなっているわ。でもね、私気がついたの。両親はロジーナのこの顔に失望しているって。この醜く変わってしまった顔はきっとロジーナを守ってくれる。
だから私は夫を止めない。酷い母親ね。それでも壊れた私にできることは他にないの。もう私は一日のほんの僅かな時間しか自分でいられなくて、その時間も砂が崩れるようにどんどん少なくなっている。
私ね、いっそ貴女に助けを求めようと思った。両親を失望させることはできたけれど、夫に虐げられ、それを小さなあの子は当然のことのように受け入れている。貴女なら信頼できる誰かにロジーナを託してくれるんじゃないかと。ロジーナを救い出してくれると。
でもね、私気がついたの。ロジーナはニアトキュラシアンブルーを持っていた。私にとっての、呪われた瞳をね。
もう貴女を、ニアト王家の王女である貴女を頼ることはできない。
天罰というものは本当にあるのかも知れないわ。それならば神様は、あえて私にではなく愛しい野薔薇にそれをお与えになったのでしょうね。
だって、それが一番私の心を深く鋭く抉るのだから。
∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗
親愛なるローズ
ローズ、これは最後の手紙です。
ロジーナの瞳の色があの家庭教師に気づかれてしまったの。これでライモンド夫人と侯爵家は決定的な切り札を手に入れてしまった。私の小さな抵抗では太刀打ちできない切り札を。
でも私はぜったいロジーナを守ってみせる。侯爵家からもライモンド夫人からも、そして夫からも。その為なら命なんて惜しくないわ。
だってロジーナは私の愛しい野薔薇なのだから。
∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗
「シャルロットの目的は貴女の父親……フリッツに妻殺しの罪を着せる事だったのよ。いくらニアトキュラシアンブルーの持ち主だったとしても、犯罪者の娘を王太子妃にはできないもの。でも貴女に全てを目撃され貴女を守る術を失った事を悟り絶望した。貴女が最後に見たシャーリーの顔はもう貴女を守ってやれない不甲斐無さと切なさだったのよ。だって、シャルロットはガルバ公爵夫妻に宛てて、自分が死に貴女のお父様が逮捕されたら貴女を助けて欲しいと全てを打ち明ける手紙を残していたんだもの。ガルバ公爵も可愛がっていたシャルロットが命と引き換えにした頼みを聞かないわけにいかないでしょう?でもその手紙も直ぐにお父様が釈放されたから何年も部屋に封じ込められていたのだけれど」
「それでご夫妻は私に会いにいらしたのですね」
ロジーナがそう言うとマルガレーテは手を伸ばしてロジーナの頭を撫でた。まるで小さな私にできなかった事を今やり直しているようだと、そして母の想いも込められているのだとロジーナは思った。
ロジーナの証言で直ぐに釈放された父は、母の部屋に鍵を掛けた。きっと父も命を投げ出す程の覚悟をした母が恐ろしかったのだろう。だから部屋に自分を貶める何かを残しているのではないかと疑い、それを確かめる事すら怯えるあまりできなかったのだ。
ロジーナを追い出した後、叔父は執事長にシャルロットの部屋を片付けるよう命じた。そこで手紙を見つけた執事長は叔父に見せることなくマルガレーテとガルバ公爵に送り届け、これらの手紙は何年もの歳月を経てようやく封印を解かれる事になったのだった。
「わたくし達ね、シャルロットが婚約した時に喧嘩をしてしまったの」
寂しそうに言うとマルガレーテはロジーナの髪から手を離した。
「フリッツがダーマに熱を上げているのはみんな知っている事だったもの。あのダーマによ?蛇のように図々しい娘で嫌な噂が山程あったわ。そんな娘に入れ込む男となぜ婚約なんてするのかと、わたくしはシャルロットを責めてしまって……わたくしは大好きなお兄様がシャルロットに惹かれているのをわかっていたし、シャルロットがお義姉様になってくれると信じていたの」
マルガレーテは思い出したようにフフッと笑い『お兄様の名誉の為に言うならばお兄様は決してシャルロットに嫌われてはいなかったと思うのよ?』と言った。
「本当は駒になるのは嫌だと頑なだったシャルロットばかりを責めてはいけなかった。ニアトキュラシアンブルーに囚われて態度をはっきりさせなかった王家も悪かったわ。それがシャルロットを追い詰め、孤独を深めてしまったのですもの。シャルロットは何も言わなかったけれど、からかわれたり酷い嫌がらせをされたりしていてね……」
王太子妃の筆頭候補と言われ続けながら一向に話が進まなかったのだ、面白おかしく噂をする者は沢山いたのだろうとロジーナは頷いた。
「ある夜の夜会で別の王太子妃候補と言われていた令嬢の取り巻きに囲まれ、ドレスにわざとワインを掛けられその上突き飛ばされて。怪我はしなかったけれど靴のヒールが折れてしまったんですって。何時もの事だと一人で立ち上がって辿々しく歩き出そうとした時に手を差し出したのがフリッツだったのよ」
ロジーナは訝しげに眉間を寄せた。父が、あの父がどうして母に手を差し出したりしたのだろうかと。
「フリッツは傾いた事業を立て直すのに必死でずっと夜会どころじゃなかったし、ほんの僅かな自由になる時間にはダーマを追いかけていたんだもの。シャルロットがお妃候補だなんて知らなかったのよ。それにね、わたくし達が知っていたダーマに夢中になるまでの彼は、知的で優しく穏やかで素敵な人だったわ」
「それで母は父に恋をしたのでしょうか?他の娘に夢中になっている父に圧力を掛け、強引にでも結婚したいと思うほどの」
マルガレーテは首を傾け視線を斜め下に送りながら何かを考えているようだったが、ロジーナの方に向き直ると優しい笑顔を浮かべた。
「あの瞬間が全てだったの。シャルロットはあの時手を差し出してくれたフリッツを愛したのよ。彼がどんな人間でも構わなかった、だってあの時のフリッツは間違いなく彼の中にいるんだもの。だからシャルロットはね……」
俯いたマルガレーテの頬を涙の雫が伝い落ちる。
「ダーマからフリッツを守ろうとしたのよ」
ロジーナは雷に打たれたかのように目を見開き、身じろぎもできずただマルガレーテを見つめていた。
母は子どもがおもちゃを欲しがるように父を欲しがり、両親にせがみ一目惚れした父と結婚したのだと思っていた。だから父から疎んじられるのも自業自得ではないかという噂話を耳にしても何を考えることもなかった。でもそもそもそれが母の一目惚れですらなく一瞬でも愛した人を悪女から守りたい一心だったとしたら……?
--お母様は……なんて寂しい人だったのかしら……
両手で顔を覆ったロジーナをマルガレーテは優しく抱き寄せた。
「わたくしはそのままサルーシュに輿入れし、仲直りすることも……彼女の気持ちを汲むこともできなかった。シャルロットが懐妊したと聞いてぬいぐるみを送ったのだけれど短い礼状が届いただけだったわ。生まれてくる子が女の子だったらと不安で堪らなかったのでしょうね。きっとシャルロットはあの短い手紙に沢山の想いを込めてくれていたのに、わたくしはその言葉の隙間から滲みだす気持ちになんか気がつかなかった……」
「兎さん、でしょう?」
ロジーナの言葉にマルガレーテは息を呑んだ。
「兎さんという名前なんだと母が言っていました。兎のぬいぐるみに兎さんて名前を付けるなんて、相変わらず本当に単純なんだからって」
『シャーリー……』と名を呼びながら泣き崩れるマルガレーテを抱きしめ、ロジーナは背中を優しく撫でた。母はこれでようやく大好きな親友との仲直りが叶ったのだ。
--でも私は……
ロジーナの心には、今までとは違う何かが広がっていた。
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