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堅物王太子の奮闘
王太子は胸に誓う
しおりを挟むそれから数日たったある日。
朝から顔色の優れなかったアドルフが鳩尾に手を当てているのに気が付いたロジーナが痛むのかと尋ねたところ、アドルフが
「胃炎だなんて、言えんのです」
と答えた。ロジーナを心配させまいと口にした渾身の執事長ギャグである。
ロジーナは子狐のように小首を傾げ口を真一文字に結んで固まっていた。勿論そこに居合わせた全員が固まったのは言うまでもなかったが、なんとロジーナだけがパチンと瞬きをしたかと思うと目を細めコロコロと声を上げて笑い出したのだ。
何がそんなに可笑しいのやら理解不能ではあるが、ロジーナは何度も止めようと頑張るがどうにも制御出来ないらしく涙を浮かべながら笑い続けている。
シャファルアリーンベルドは悔しさに白くなるほど強く拳を握りしめた。初めて微笑み掛けた相手がアドルフなら初めて声を上げて笑わせたのもアドルフ……しかもこんなにくだらぬギャグで。何が胃炎だなんて言えんのですだ。バカバカしい!でもそのバカバカしい話でロジーナは正に鈴を転がすような愛らしい笑い声を上げている。羨ましい、羨まし過ぎるではないか!
ロジーナは漸く笑いを収めアドルフに咎めるような眼差しを向けた。
「おなかが痛いのならお薬を飲んでお休みにならないとダメ。良いですね!」
アドルフはでろんと目尻を下げ抵抗する事なくおとなしく引き下がったのだが
ーーくそっ、またそうやってお姉さんぶって……
一部始終を余さず見ていたシャファルアリーンベルドは悔しいやらキュンとするやら大忙しだが、何よりも初めての笑い声を奪われてしまったというショックは相当なものでがっくりも良いところである。
あれ以来努力はしている。だが二人の仲は一向に進展を見せず完全に頓挫していた。何しろロジーナは鈍い。やはりどうにも恋愛に関しての発達がすこーんと抜け落ちている。しかしただの初心ならまだしもかなりの耳年増なのがこの問題をより厄介な物にしていた。下手に突き進もうとすればあらぬ誤解を招きかねないではないか!
大いに期待した恋愛小説の効果だが、結局のところこれも惨敗だった。兎に角あっさりしている。あっさりし過ぎているのだ。男女が想いを確かめ合ったり交わしたりする甘く切ない場面は実に淡々と読み進め、喰い付くのはちょっとズレたところばかり。
反目する貴族同士の青年と娘の悲恋物語では、娘に一目会おうと屋敷に忍び込みバルコニーで再会を果たした場面に眉をしかめ
「これは警備に問題があり過ぎませんか?しかも年頃の娘の部屋のバルコニーによじ登って行けるなんて不用心にも程がありますわ」
とプンスカ怒っていたし、悪魔に白鳥に姿を変えられた姫と王子が悪魔を倒し結ばれるという話では、悪魔の策略で王子が姫に化けた自分の娘を妃に選んだことに
「この王子はよっぽどな人物ですね。清純な姫と妖艶な悪魔の娘を同一人物だと勘違いしちゃうっておっちょこちょいも良いところだわ。こんな間抜けがいずれ王になったらこの国の将来が危ぶまれますわね」
と二人の恋を飛び越えて国の行く末を案じる始末である。
事情を知るエルクラストの一同はシャファルアリーンベルドとロジーナが敢えて二人きりになるように心を配ったが、手を握ろうとじっと見つめようとロジーナは相変わらず嬉しそうに微笑むばかりだ。
「ねぇシャーリー様。ジェニーがね、また睫毛が伸びてるって言うんです。それに濃くなってるって。本当かしら?」
そう言って顔を寄せて無防備に目を伏せるロジーナにシャファルアリーンベルドは苦悩しまくった。二人きりのこの場所でこの至近距離で目を伏せられて、どれどれと睫毛を観察しなければならないと判っていてもどうしてこのぷりんとしたツルイチゴのような唇から目を離せるというのか?思わず吸い寄せられながら必死に抗うことの辛さといったらこれぞ生き地獄。無自覚の誘惑とは何という残酷さだ。
ーーどうしてわたしは成人して2年も経つのにこんなもどかしい想いをしなければならないのだ!
と悶々とするけれど、相変わらずロジーナを前にすると純情な少年のようになってしまう。対するロジーナだって子持ちでもおかしくない18歳なのだ。ただその辺がすこーんと抜け落ちているだけ……。でもそのせいで罪悪感に囚われどうにも先に進めない歯痒さがますます胸を苦しめる。
更にシャファルアリーンベルドを悩ませたのはこうやってモヤモヤとしている間にいつしかエルクラストの周りがザワザワとしていた事だった。
社交シーズン真っ只中だというのにエルクラストの周囲に領地を持つ者達が何故か次々と王都シュラパから戻り、せっせとロジーナを茶会に招き出したのだ。しかも内輪の茶会ですから気を張らずにと言われて出席すれば、必ず子息やら弟やら甥やら何やら、とにかくジャスト適齢期という青年が現れ庭を案内したいと申し出られるという。要するにマルガレーテはロジーナの事をレベンス伯爵夫人だけでなくあちらこちらの夫人達の小耳に挟んだのだ。
『わたくしが特別に目を掛けているニアト王家の親戚筋の令嬢がエルクラストに身を寄せているから仲良くしてやってね』と。
にも関わらず『いずれは王太子妃として迎え入れる心づもりでいる』とはおくびにも出さないのだから当然彼女達は考える。
『これは王家と懇意になるチャンスだわ』と。
ジワリジワリと美しいロジーナの噂は広まって行く。そのあまりにも世間慣れしていないところまでもが王家と懇意になれる期待による効果でノープロブレム、逆に『初々しい』と称賛される。
ーーあんのおとぼけ王妃め!
シャファルアリーンベルドは苛立ちのあまり思わず涙ぐんだ。もちろんうっすらと、ではあったが。
これといった決め手もないままシャファルアリーンベルドは今朝もアヒルを追うロジーナに付き添って池に行った。そして小屋に戻る途中、初めてここに来た時にロジーナが足を止めた空き地で一層数を増やしている青い花に目をやった。
「ローズはこの花が好きなのか?」
唯一の進展である『ローズ』という特別な呼び名にロジーナも足を止めて一面の青い花に視線を巡らせた。
「私の母のお墓は領地の森の中のこんな感じの空き地にあるのですが、そこにも同じ花が咲くのです」
そう言いながら茂みに分け入ってしゃがみ込み一輪の花を摘み取るとシャファルアリーンベルドに差し出す。それはよく見れば青い小さな小花が集まって半球を作っている繊細な姿の花だった。
「夏になると墓石がこの花に埋もれてしまうので、せめて母がこの花を好きだったら良いなと。幸せな人生だったとは言い難い人ですので……これはね、アオマルヤネという名前なんですって。庭師のハミル親方に教わりました」
「アオマルヤネ?」
「えぇ、丸天井がある教会の屋根みたい」
シャファルアリーンベルドも茂みの中にしゃがみ込んだ。そして黙々とアオマルヤネの花を摘み取っていくとそれは直ぐにふんわりとした青い花束になった。
「ローズの部屋に飾ると良い」
自分の為に摘んでくれた花だと気が付き、ロジーナは嬉しそうに顔を綻ばせた。そして花束に手を伸ばそうとしたその時、頭上の木から鳥が飛び立ち何かがポトリとスカートの上に落ちて来た。
何かしらと目を向けたロジーナはそのまま瞬間冷凍されたように動きを止め、呼吸も鼓動さえも止まってしまったかのようであったがゆっくり、夢の中にいるかのようにゆっくりと顔を上げてシャファルアリーンベルドを表情もなく無言のままじっと見つめた。それから今度はギコギコと少しだけ俯きまたギコギコと顔を上げ再度無言のままシャファルアリーンベルドを見つめ、パチパチと瞬きをすると視線だけをスカートの上の落下物に戻した。
「?」
つられて見下ろして見るとスカートの上にいたのはむくむくと動く緑色の芋虫だった。
ロジーナは青緑に光るトカゲを綺麗だと目を輝かせて眺めるし雨蛙を見かければ掌にのせて笑いかける。土から出てきたミミズを木の枝で引っ掛けてアヒルに『おあがり』とやったりもする。そんなロジーナなら『これはアゲハチョウの幼虫ですね。終齢幼虫のようですから間もなく蛹になるのでしょう』等と言うのではないか、そう思って待ち構えているがもう一度瞬間冷凍されてしまったかのようにピクリとも動かない。
どれ程経った頃だろう。ロジーナが固まったまま手だけを伸ばしシャファルアリーンベルドの袖口をギュッと握った。もしかして?とそんな訳があるか?の二つの考えの中で揺れながらもシャファルアリーンベルドがぴん!と指で芋虫を弾き飛ばすと
「…………!!」
声すら上げられないロジーナが飛び付くようにシャファルアリーンベルドの首に抱きつき、受け止めたシャファルアリーンベルドは青い花を放り投げてロジーナを抱き締めた。
ロジーナはブルブルと震えている。トカゲも蛙もミミズさえも平気なのに、まぁナメクジは気持ち悪いと言っていた気がするが、そんなロジーナが芋虫一匹にこんなに怯えるなんて。
と不思議には思うがそんなことはどうでも良いのだ。腕の中にロジーナのふわふわの身体がすっぽりと収まっているという事実の方が重要だ。シャファルアリーンベルドはロジーナを落ち着けようとしている体でよしよしと髪を撫で、浮かれた気持ちを悟られないように注意しながら口を開いた。
「どうした?ローズは脚のない生き物が苦手なのか?」
シャファルアリーンベルドの腕の中でロジーナはブンブンと首を振る。
「へ、蛇は好きですっ!」
「……蛇は好きなのか……」
言葉を失ったシャファルアリーンベルドにロジーナはギュッとしがみついた。
「そ、それ……それにっ、あれらは脚のない生き物では無くて、腹の横にピコピコした脚が並んでいるのです!」
何かを思い浮かべたのか今度はブルンと大きく震えロジーナはギュギュッとしがみついた。脚がある無しではなく、ロジーナは芋虫毛虫が苦手なのだろう。それもここまで怯える程に。
シャファルアリーンベルドはだらしなくにやけてくる顔を修整するのに苦労しつつロジーナの髪をよしよしと撫で続けた。いつ何時ロジーナが我に返り身体を離すかも知れない。その時に備えて整えておかなければと。
そんな瞬間が永遠に来なければ良いのにとシャファルアリーンベルドが思った時、残念ながらその瞬間は訪れた。ロジーナが我に返り、熱いものに触れたかのように飛び退いたのだ。
「ご、ごめんなさいっ!」
涙目のロジーナはくるりと背中を向けた。
こんな可愛い反応をしながら『あの鳥ったら大事なご飯を私のスカートのに落とすなんて。本当にびっくりしました』なんて言うんだろう。そしてこちらを振り向いてにっこり笑い『シャーリー様が居なかったら、私、ワンピースを脱ぎ捨てて走って逃げたかも知れませんわ』等とドッキリするような事を平然と言ってのけたりする訳だ……とシャファルアリーンベルドはこの先の展開を哀しく思い描いた、のだが……。
ロジーナは振り向かずに両手で顔を覆っていた。どうしたのかと覗き込むと銀色の髪が掛けられた耳が桜貝のように淡く染まっている。そしてロジーナはシャファルアリーンベルドに顔を見せることなくスタスタと歩き出した。
何が起こったというのか……大混乱のシャファルアリーンベルドだったがついに堪えられずだらしなく顔をにやけてくる。
やった!ついにやった。ついにあのロジーナが恥じらいを見せてくれた。
きっかけなんて何でも良い。ロジーナがときめいて恥じらえば芋虫だろうが毛虫だろうがナメクジでもカタツムリでも構わない。抱きついてしまった事に驚いて恥ずかしそうに顔を赤らめたという結果が生まれたのだから芋虫様々ではないか。
ーーこれは小さな一歩だが私達二人にとっては偉大なる一歩だ!
シャファルアリーンベルドはズンズン進んでいくロジーナの後ろ姿を執着心に満ち溢れた微笑みを浮かべながら見つめた。気持ち悪い?だから何だ。気持ち悪くて結構、ロジーナを誰よりも愛しているのだから人からどう思われようと構わない。
「よしっ!」
気合を入れ直しシャファルアリーンベルドはロジーナを追った。これからが勝負だ。必ずロジーナの心を掴んでみせると胸に誓いながら。
ロジーナにやっと芽生えたときめきを明後日の方向に飛ばしてしまう、招かざる迷惑な来客がやって来たとも知らずに。
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