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にどめの春
シルセウス②
しおりを挟む翌朝、この時間に湖畔を散策するのが習慣になっていたわたし達は湖に向かった。一段と寒い朝で湖には薄氷が張っているのが遠目からでも見て取れる。漸く姿を見せるようになっていた白鳥の群れは氷の張っていない湖の奥側で羽を休めていた。
どちらからともなく桟橋を進み出したわたし達は飛んで来た一羽の白鳥に目をやった。その白鳥は群れの仲間のところではなく桟橋の先に降りてきて嘴で湖面を突いている。その辺りは氷が余り張りきっていないのか、白鳥はゆっくり湖面を進みながらやはり湖面を突いていた。白鳥を脅かさぬように静かにゆっくりと近付いて行くと白鳥の傍に浮いている黒い物が目に入った。その瞬間、わたしは何かに突き動かされるように桟橋の先に向かって走り出した。なぜならその色に見覚えがあったから。
白鳥は驚いて飛び立つ。釣られて奥に居た群れが一斉に飛び立つ羽音が響く中で、湖面を見たわたしは崩れるように両膝をついて座り込んだ。そこに残されていたのは黒いワンピースを所々凍り付かせながら浮いているマルグリットであったのだ。
わたしを追って走り寄った殿下は一瞬で何が起きているのか悟ったのだろう。彼女の名前を叫びながら手を伸ばし必死に彼女を引き上げようとしていたが、わたしは身じろぎ一つ出来ないまま呆然としてそれを見ていた。殿下に肩を揺すられながら何度も名前を呼ばれ、漸く我に返り二人で手を伸ばし彼女の腕を引く。刺すような水の冷たさにあっという間に手がかじかみ、掴みかけた腕は何度もするりと離れてしまった。
どれ程時間が過ぎた頃か、やっとの思いで引き上げたマルグリットの顔は透き通るように青白く、唇は色を失つている。それは彼女の魂が既に身体を離れてしまっている事を表していたが、殿下は彼女を抱き上げ必死に頬をさすりながら呼びかけた。
「マルグリット、目を覚まして。聞こえないの?……お願いだから……もう一度目を開けて、マルグリット……」
殿下が呼びかける声はやがて啜り泣きに変わり、頬をさする事を止めた手で動かぬ身体をしっかりと抱きしめているのを、わたしは信じられない思いでぼんやりと見ていた。これは夢ではないか?目が覚めたら桟橋に行こう、そこではきっと何時ものようにマルグリットが歌っているはずだ。これが現実だなんて誰が信じるものか。
だがその願いは、異変に気がついて集まってきた教師達によって叶わぬものとなった。マルグリットの様子を一目見た教師は一応形だけというかのように首筋に手を当ててから振り返って他の教師達に向かって首を振った。そして殿下の腕からマルグリットを引きはがし運んで行く。
その姿がぼんやりと滲んで、わたしは自分が涙を流していることに気がついた。白鳥はまだ戻って来ない。わたしの耳に聞こえて来るのは殿下の苦しげな嗚咽だけだった。
あの日、マルグリットに何があったのか?彼女が自ら命を絶つだけの重大な何かがあったのは間違いないが、わたし達には何もわからなかった。季節は巡り、氷と雪に覆われていたシルセウスでも少しずつ春の気配がし始めた頃、イリーナの祖国ハイドレンドラの国軍が水面下で動きはじめているという噂が聞こえはじめた。
始めこそそんな噂を笑い飛ばしていたイリーナ皇女だったが、日を追うごとに不安が募ったらしく何度も国に帰りたいと訴えていたようだ。しかし、皇女とはいえ側妃の娘の彼女は、我々と同じように見捨てられた人質に過ぎなかったのだろう。耐え忍ぶようにという返事以外のものが届くことはなく、得体の知れない恐怖に追い詰められるような日々に、彼女の心は次第に壊れ、身体もまた蝕まれていったらしい。
そんなある日、セルゲイ皇子から入院しているイリーナの様子を見てきて欲しいという便りが届き、わたし達は病院で彼女に面会した。マルグリットに念入りに手入れをされていた銀色の髪は乱れて艶を無くし、頬はやつれ大きな琥珀色の瞳は何も映していないかのように輝きを無くしているその姿に、わたし達は思わず言葉を失った。
「ファビアン様、私を迎えに来て下さったのね」
綻ぶように笑うイリーナに殿下はそうではないと静かに伝えた。途端にイリーナは目を釣り上がらせて殿下ににじり寄った。
「何故なの?もう邪魔者はいないのよ。あの娘がいなければファビアン様は私を見つめてくれるはずだわ。あのあざとい女なんかに貴方を取られてたまるものですか。だから黙らせてやったのよ」
「誰の事だ?君は何をした?」
殿下は激情して叫びながら自分の胸を叩く拳を掴んで凍りついたような冷たい目でイリーナを見つめた。
「勿論マルグリットよ。私がファビアン様をお慕いしているのを知っていながら近付くなんて。あの女、ファビアン様に思われているのに気がついて、上手く利用するつもりだったのよ。許せるものですか!だからあの男達に誘わせたの。歌劇団に口利きをしてやると言ったら簡単について来るはずだってね。思った通りのこのこついて行って、ずたぼろになって戻って来たわよ。わざとらしくメソメソ泣いているあの女に言ってやったわ、またファビアン様に近付いたら全部喋ってやるって」
「君はなんという事をしたんだ!」
殿下の声は鋭く怒りに満ちていた。しかしそう言われたイリーナは目を細めてにこにこと笑っている。すっかりやせ細り立っているのがやっとという状態なのに、わたしは笑う彼女が恐ろしくてならなかった。
「あら、ファビアン様がたぶらかされないようにお灸を据えただけよ。あの女、それくらいしないとわからないもの。大体湖に身投げしたのはそのせいだけじゃない、万策尽きたと思ったからよ。ハイドナー様、そうよね。あなたにも見放されてしまったんですもの」
「……」
「あの女がコソコソ出て行ったから後をつけたのよ。私、全部見ていたわ。あなたに告白すれば受け入れて貰える、そう企んだのにフラれてしまって残念だったわね。あの女、私を置いて一人で逃げるつもりであなた達を利用しようとしたの。それなのに国に見放されて殺される恐怖に堪えられなくて湖に飛び込むなんて、本末転倒だわ」
フフッと笑ったイリーナは、次第にその笑い声を大きくしていく。上を見上げて笑い続ける彼女は完全に正気を失っており、駆けつけた看護婦達に押さえ付けられた。あの窶れた身体のどこにそんな力があったのかと思うほど、彼女は看護婦から逃れようと暴れていたがやがてピタリと動きを止めてベッドに横たえられた。鎮静剤を打たれたようだった。
マルグリットが湖に身投げし、イリーナが心を病むほど恐れていたのに、結局ハイドレンドラがシルセウスに侵攻することは無かった。
何故ならその十日後、突然攻め込んだセティルストリアによってシルセウスが制圧されたからであった。
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