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水編/水に沈む過去
55.告白、そして
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視矢くんたちが事務所に戻って来たのは、私より二時間程後。無傷ながらナイはぐったりした顔で、「疲れた」と言って早々に来さんと入れ替わった。視矢くんの方は傷を負い、シャツの腹部が血で赤黒く汚れていた。
「あの野郎、何がかすり傷だ! テキトーに言いやがって」
「確かに、この前と比べればそうかもしれない」
来さんの手を借りてソファまで連れて行かれた視矢くんは、腹立たし気にクッションにダイブした。
ソウさんいわく、かすり傷とのことだったけど、とても軽傷ではなさそうだ。
「待ってて。すぐ手当てを……」
「いや、私がやる。小夜は休んでいてくれ」
棚の上に手を伸ばす私の頭を越えて、来さんが先に救急箱を取り上げた。
「来にやってもらうよ。そこそこ、キワどい場所だしさ」
視矢くんはそんな風に茶化し、遠回しに私を拒む。これまで傷を診せてくれた事は一度もなく、ビヤを呼ぶ目的以外で私を血に触れさせたがらない。
仕方なく私はソファから離れ、服を脱ぐ彼から視線を外した。
「小夜の方こそ、疲れたろ。ありがとな」
「ソウさんに任せっきりで、私は何もしてないよ」
手当を受けつつ視矢くんが労ってくれる。その言葉が心苦しい。
破魔の力で鬼門を閉ざしたと言っても、ソウさんの助けがあったからこそ。私一人ではどうにもならなかった。
今も私は蚊帳の外。邪神に立ち向かうことはおろか、視矢くんの傷の手当をすることさえできない。
「小夜……?」
救急箱を片付けようとして来さんが立ち上がり、気遣わしげに名を呼ぶ。普段はあまり悲観的に考える方ではないのに、私はすっかり気持ちが落ち込んでいた。
何でもない、と笑おうとして声が詰まり、代わりにぽたりと涙がこぼれ落ちる。慌てて隠そうとしたものの、間に合わなかった。
「……そういや、牛乳切らしてんだ。来、悪いけど買ってきてくれっか。コンビニでいい」
「分かった」
唐突な視矢くんの注文にも文句を言わず、来さんはコートを手にして外へ出て行った。事務所のドアが閉まったのを確認し、視矢くんはソファに座り直し手招きする。
「こっち来て、小夜」
私は目元を拭いおずおずと隣に腰を下ろした。
上着だけ肩に羽織った視矢くんの上半身は、胸から下腹部にかけて広範囲に包帯が巻かれている。
「……言っておこうと思う。隠さないで話すって、約束したからさ」
悲し気な、そして優し気な表情で、そう前置きした。良い内容でないことは明らかで、嫌な予感に心臓が大きく脈打つ。
「薄々勘づいてると思うけど、俺は、普通の体じゃない。怪我の治りが極端に早いし……」
視矢くんはわずかに躊躇い、そこで言葉を切った。
「歳を取らないんだ。三十年前からずっと」
「三十、年」
覚悟していたはずなのに、頭から冷水を浴びせられたような気がした。私は冷たくなった指先をぎゅっと握って俯いた。
「不老不死なの……?」
「不死じゃねえな。不死身とは違う」
静かな告白に、また視界が滲みそうになる。彼はなぜ今その秘密を打ち明けたのだろう。
聞き返す勇気はなく、私は膝の上の自分の両手だけを見つめ続けた。
「俺の血を飲んだ人間がビヤを呼べるのは知ってるだろ。俺と関係が深くなれば、人ではいられなくなる。この意味、分かるか」
「……分からない」
私が首を横に振ると、視矢くんの小さな吐息が聞こえた。
「つまり、情を交わしたら、バケモノになるってこと」
告げられて、視矢くんが距離を置く理由がやっと理解できた。普通の人間同士のように、共に生きることは叶わない。気持ちを寄せれば、相手は傷付く。そうならないための配慮なのだと。
「ここにいる限り、今回みたいな危険もある。事務所を辞めるのが、最善だ」
ひどく穏やかな口調で残酷な提案をする。
視矢くんが自分の話をしたのは、私が二人のもとを去るきっかけにしようとしたに違いなく、だからこそ返す言葉が見つからなかった。
私自身、危険は覚悟の上で事務所で働くと決めたのだし、仕事を辞めたいなんて考えていない。
もちろん、突き付けられた事実はショックだった。ちゃんと受け止められず、混乱してる。でもそれより、視矢くんが私を遠ざけようとしていることが辛い。
「ただ、もし俺が――」
何かを言い掛け、視矢くんが私の方へ手を伸ばす。ちょうどそのタイミングで玄関のドアが開く音がして、彼の手は行き場を失い宙を彷徨った。
「……えらく早ぇな、来」
「ナイが遠隔移動をした」
「買い物ぐらいで、力使ってんなよ」
これみよがしに、視矢くんは大きく深い溜息をついた。買い物袋を下げた来さんは、抗議の声に耳を貸さずキッチンへ向かう。
先程何を言おうとしたのか、聞きたかったけど、もうそういう雰囲気じゃない。キッチンへ向かって視矢くんが「はちみつ入り」と叫ぶと、「分かっている」と抑揚のない声が返された。
ほどなく甘い香りが漂い、三人分のはちみつ入りのホットミルクがテーブルの上に置かれた。すぐさま手を伸ばす視矢くんに冷めた目を向け、来さんがマグカップを渡してくれる。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
私はマグカップを両手で持ち、ぎこちなく笑みを作る。どう振舞えばいいか、切り替えがうまくいかなかった。
「大丈夫か、小夜?」
「近い。離れろ」
至近距離で顔を覗き込む来さんに、すかさず横にいる視矢くんが木刀を突き入れた。もう片方の手に、ホットミルクのマグカップを持ったまま。
眼前を遮る木刀を手で上に押し退け、来さんは淡々と同居人をたしなめる。
「室内で得物を振り回すのは、感心しない」
「仕方ねえだろ。体動かすと、痛ぇんだよ」
「明日はノルウェーなんだが」
「明日には治ってる」
二人の会話を聞いて、私は目を瞬かせた。ノルウェーとは、どういうことなのか。
唖然とする私に、来さんが、明日から数日間TFC本部へ出張に行くと説明してくれた。TFCからの命令らしい。あまりに急すぎて、ただ驚く。やっと今日、漆戸良公園の鬼門の件が一段落したばかりなのに。
「週末には帰国するけど。金曜日の小夜の誕生パーティー、ダメになっちまった。悪ぃ」
視矢くんが両掌をぱんと合わせ、謝罪の言葉を口にする。
もっと他に言いたいことも聞きたいこともあるのに、私は、気にしないで、と笑って見せるしかできなかった。
すべてが目まぐるしく移り変わっていき、感情だけ置いてきぼりにされる。無意識に俯きがちになっていると、膝の上にぽんと新書版サイズの四角い包みが載せられた。包みはリボンが掛けられ、綺麗にラッピングされている。
「誕生日おめでとう、小夜」
「二十歳、おめでとさん」
びっくりして顔を上げれば、来さんと視矢くんが明るい笑顔で祝ってくれた。
「プレゼントだ、私と視矢からの。前倒しで申し訳ない」
開けてみるよう促され、丁寧に包装紙をはがす。中身はアンティーク調の写真立てで、私と視矢くんと来さんの三人が写った写真が飾られていた。
写真は私が事務所に入社したての頃、記念にと皆で撮ったものだ。
「ありがとう……、大切にする」
なんとかそれだけ声に出して、私は二人からの贈り物をぎゅっと抱き締めた。
再びこみ上げてくる涙を必死に堪える。嬉しいとの同じくらい寂しかった。祝われているというのに、別れを告げられているのではないかと錯覚してしまう。
私は泣き顔を誤魔化そうと、マグカップに口を付けまだ温かいホットミルクを流し込む。甘く優しい香りも、いつも程に気持ちを和ませてはくれなかった。
「あの野郎、何がかすり傷だ! テキトーに言いやがって」
「確かに、この前と比べればそうかもしれない」
来さんの手を借りてソファまで連れて行かれた視矢くんは、腹立たし気にクッションにダイブした。
ソウさんいわく、かすり傷とのことだったけど、とても軽傷ではなさそうだ。
「待ってて。すぐ手当てを……」
「いや、私がやる。小夜は休んでいてくれ」
棚の上に手を伸ばす私の頭を越えて、来さんが先に救急箱を取り上げた。
「来にやってもらうよ。そこそこ、キワどい場所だしさ」
視矢くんはそんな風に茶化し、遠回しに私を拒む。これまで傷を診せてくれた事は一度もなく、ビヤを呼ぶ目的以外で私を血に触れさせたがらない。
仕方なく私はソファから離れ、服を脱ぐ彼から視線を外した。
「小夜の方こそ、疲れたろ。ありがとな」
「ソウさんに任せっきりで、私は何もしてないよ」
手当を受けつつ視矢くんが労ってくれる。その言葉が心苦しい。
破魔の力で鬼門を閉ざしたと言っても、ソウさんの助けがあったからこそ。私一人ではどうにもならなかった。
今も私は蚊帳の外。邪神に立ち向かうことはおろか、視矢くんの傷の手当をすることさえできない。
「小夜……?」
救急箱を片付けようとして来さんが立ち上がり、気遣わしげに名を呼ぶ。普段はあまり悲観的に考える方ではないのに、私はすっかり気持ちが落ち込んでいた。
何でもない、と笑おうとして声が詰まり、代わりにぽたりと涙がこぼれ落ちる。慌てて隠そうとしたものの、間に合わなかった。
「……そういや、牛乳切らしてんだ。来、悪いけど買ってきてくれっか。コンビニでいい」
「分かった」
唐突な視矢くんの注文にも文句を言わず、来さんはコートを手にして外へ出て行った。事務所のドアが閉まったのを確認し、視矢くんはソファに座り直し手招きする。
「こっち来て、小夜」
私は目元を拭いおずおずと隣に腰を下ろした。
上着だけ肩に羽織った視矢くんの上半身は、胸から下腹部にかけて広範囲に包帯が巻かれている。
「……言っておこうと思う。隠さないで話すって、約束したからさ」
悲し気な、そして優し気な表情で、そう前置きした。良い内容でないことは明らかで、嫌な予感に心臓が大きく脈打つ。
「薄々勘づいてると思うけど、俺は、普通の体じゃない。怪我の治りが極端に早いし……」
視矢くんはわずかに躊躇い、そこで言葉を切った。
「歳を取らないんだ。三十年前からずっと」
「三十、年」
覚悟していたはずなのに、頭から冷水を浴びせられたような気がした。私は冷たくなった指先をぎゅっと握って俯いた。
「不老不死なの……?」
「不死じゃねえな。不死身とは違う」
静かな告白に、また視界が滲みそうになる。彼はなぜ今その秘密を打ち明けたのだろう。
聞き返す勇気はなく、私は膝の上の自分の両手だけを見つめ続けた。
「俺の血を飲んだ人間がビヤを呼べるのは知ってるだろ。俺と関係が深くなれば、人ではいられなくなる。この意味、分かるか」
「……分からない」
私が首を横に振ると、視矢くんの小さな吐息が聞こえた。
「つまり、情を交わしたら、バケモノになるってこと」
告げられて、視矢くんが距離を置く理由がやっと理解できた。普通の人間同士のように、共に生きることは叶わない。気持ちを寄せれば、相手は傷付く。そうならないための配慮なのだと。
「ここにいる限り、今回みたいな危険もある。事務所を辞めるのが、最善だ」
ひどく穏やかな口調で残酷な提案をする。
視矢くんが自分の話をしたのは、私が二人のもとを去るきっかけにしようとしたに違いなく、だからこそ返す言葉が見つからなかった。
私自身、危険は覚悟の上で事務所で働くと決めたのだし、仕事を辞めたいなんて考えていない。
もちろん、突き付けられた事実はショックだった。ちゃんと受け止められず、混乱してる。でもそれより、視矢くんが私を遠ざけようとしていることが辛い。
「ただ、もし俺が――」
何かを言い掛け、視矢くんが私の方へ手を伸ばす。ちょうどそのタイミングで玄関のドアが開く音がして、彼の手は行き場を失い宙を彷徨った。
「……えらく早ぇな、来」
「ナイが遠隔移動をした」
「買い物ぐらいで、力使ってんなよ」
これみよがしに、視矢くんは大きく深い溜息をついた。買い物袋を下げた来さんは、抗議の声に耳を貸さずキッチンへ向かう。
先程何を言おうとしたのか、聞きたかったけど、もうそういう雰囲気じゃない。キッチンへ向かって視矢くんが「はちみつ入り」と叫ぶと、「分かっている」と抑揚のない声が返された。
ほどなく甘い香りが漂い、三人分のはちみつ入りのホットミルクがテーブルの上に置かれた。すぐさま手を伸ばす視矢くんに冷めた目を向け、来さんがマグカップを渡してくれる。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
私はマグカップを両手で持ち、ぎこちなく笑みを作る。どう振舞えばいいか、切り替えがうまくいかなかった。
「大丈夫か、小夜?」
「近い。離れろ」
至近距離で顔を覗き込む来さんに、すかさず横にいる視矢くんが木刀を突き入れた。もう片方の手に、ホットミルクのマグカップを持ったまま。
眼前を遮る木刀を手で上に押し退け、来さんは淡々と同居人をたしなめる。
「室内で得物を振り回すのは、感心しない」
「仕方ねえだろ。体動かすと、痛ぇんだよ」
「明日はノルウェーなんだが」
「明日には治ってる」
二人の会話を聞いて、私は目を瞬かせた。ノルウェーとは、どういうことなのか。
唖然とする私に、来さんが、明日から数日間TFC本部へ出張に行くと説明してくれた。TFCからの命令らしい。あまりに急すぎて、ただ驚く。やっと今日、漆戸良公園の鬼門の件が一段落したばかりなのに。
「週末には帰国するけど。金曜日の小夜の誕生パーティー、ダメになっちまった。悪ぃ」
視矢くんが両掌をぱんと合わせ、謝罪の言葉を口にする。
もっと他に言いたいことも聞きたいこともあるのに、私は、気にしないで、と笑って見せるしかできなかった。
すべてが目まぐるしく移り変わっていき、感情だけ置いてきぼりにされる。無意識に俯きがちになっていると、膝の上にぽんと新書版サイズの四角い包みが載せられた。包みはリボンが掛けられ、綺麗にラッピングされている。
「誕生日おめでとう、小夜」
「二十歳、おめでとさん」
びっくりして顔を上げれば、来さんと視矢くんが明るい笑顔で祝ってくれた。
「プレゼントだ、私と視矢からの。前倒しで申し訳ない」
開けてみるよう促され、丁寧に包装紙をはがす。中身はアンティーク調の写真立てで、私と視矢くんと来さんの三人が写った写真が飾られていた。
写真は私が事務所に入社したての頃、記念にと皆で撮ったものだ。
「ありがとう……、大切にする」
なんとかそれだけ声に出して、私は二人からの贈り物をぎゅっと抱き締めた。
再びこみ上げてくる涙を必死に堪える。嬉しいとの同じくらい寂しかった。祝われているというのに、別れを告げられているのではないかと錯覚してしまう。
私は泣き顔を誤魔化そうと、マグカップに口を付けまだ温かいホットミルクを流し込む。甘く優しい香りも、いつも程に気持ちを和ませてはくれなかった。
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