ホームセンター

高橋松園

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黒い犬

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真っ暗闇の中、目の前に何かある。

手で触れてみると、ひやりとした冷たい感触がする。

それをゆっくりと撫でてみると滑らかで固い表面をしている。

それは手で触れられる範囲より大きいようで、かなり大きな何かが目の前にあることに気が付く。

少し後ろに下がり、じっと目を凝らして前を見ていると、遥か彼方に弱弱しい月の明かりが見える。

その月明かりは、ぼんやりと当りを照らしている。

そして、目の前には、黒い壁のような、大きな板のような物体があることに気がつく。

回りに何かいる気配がする。じっと、周りを見渡すと、数匹の猿が居る。

再度、目の前にある大きな板状の壁のようなものを凝視する。

それは、大きな石版に見えてくる。

更に、じっと目を凝らして、目の前にある大きな扉状の石版を見つめていると、文字や数字や見たことの無い記号が、石版の中に柔らかな青い月の灯りのような文字で浮かび上がり吸い込まれるように消えて行くのが見える。

石版の中を覗くとブラックホールのような広がりが見え、どこまでも数字や記号や見たことが無い文字が一面連なって消えて行く。

すると、あたりで猿達が騒ぎ出した。大きな声でギャーギャーと騒いでいる。

突然、頬に冷たい何かが触れるのを感じる。雨、雨なのか、頬に触れる冷たいものは、ぴちゃぴちゃと音をたてる。

その柔らかで冷たいものは、丹念に僕の鼻の周りに触れる。

何度も何度も繰り返し僕の鼻に触れる。

舌だ。

何者かの舌で僕の顔は舐められている。ヌルヌルした冷たい舌で僕の鼻の穴はふさがれ・・・息が出来ない。

苦しい・・・僕は、うっすらと目を開ける。

僕の目の前に、大きな瞳をした生き物が居る。

何だ、これは! 

これは、

ビックアイズだ!・・・と思う。

 僕は、濡れた、柔らかな舌で鼻の穴を塞がれ息が出来なくなる。

あまりの苦しさに、思いっきり、深呼吸をして飛び起きる。

目を見開くと、そこには、大きな瞳があった。

僕の顔には、ダラダラと唾液が垂れている。何者かが、僕の顔面を大きな舌でベロベロと舐めている。

鼻と口の周りが特に気に入っているのか、ひたすらベロベロと大きな舌で舐める。

僕は慌ててベッドから飛び起きる。何が起こっているのか、よく把握できない。

目の前には、尻尾を振りながら息を切らせている、真っ黒い巨大な犬が居る。犬の首には赤い首輪が付けられ、首輪から赤いリードが長く伸びている。

そして、リードの先には1人の女性が立っていた。

女性は濃紺のジーンズを履き、オレンジ色のポロシャツを着ていた。ポロシャツの胸元には、「ペット・ワンニャン ざんまい 江口」と書かれた名札が付けられている。

彼女は肩に触れるくらいの長さの髪を、リードを持たない開いた手で、時折、かき上げながら、右足の靴先を数回タップした。

彼女は、僕が飛び起きるのを見届けると、「起きて下さい。朝の散歩の時間ですよ。」と何処と無く、イラついたおもむきで、冷ややかに微笑みながら言った。

彼女は、更に「この子、可愛いでしょ。グレートデンっていう品種よ。遊んであげてね」と無機質で乾いた声で言う。

そして、リードの手持ちのベルトを僕の首にかけると、再度、ちらっと僕を見てから、前を向きスタスタと歩いて行ってしまった。

その姿を見た、真っ黒な犬は、オレンジ色の制服を着たペット・ワンニャン ざんまいの江口さんの後を追いかけた。

真っ黒な犬は立ち上がると犬の常識を超える大きな体をしていた。

大人1人を軽々と引っ張るには、問題が無い大きさだった。

そして、僕の首に繋がれている犬のリードは江口さんを追いかけて勢いよくピンと伸びた。

伸びきったリードの先に繋がれた僕の首は一気に絞まる。

次の瞬間、僕はベッドから引きずりだされ、床に転がり落ちる。

真っ黒い犬は僕の首が絞められている事など気にもとめずにグイグイとリードを引っ張り続ける。

僕はズルズルと引きずられながら床を滑る様に転がる。

僕は首にかかったベルトに両手を添え、首がこれ以上絞まらないようにもがく。

真っ黒い犬は、そんな僕の様子にはお構い無しで、力強く前に進む。

僕は真っ黒い犬に引きずられ、通路を転がるように進む。

頭を先頭に引きずられながら必死にもがく。途中、バランスを取るために、ばたつかせていた腕が陳列棚の足場に触れる。僕は、それをしっかりと握り締め、真っ黒い犬がグイ、グイ、引っ張るスピードを落とさせると、体制を反転させた。

真っ黒な犬は、ハァ、ハァ、と息を弾ませながら、相変らず前に進むことだけを考えているようで、僕を無視してペット・ワンニャン ざんまいの江口さんを追いかける。

僕は両足を棚の足に引っ掛けて、体制を整え、床から何とか立ち上がる。そして、もがきながらも自分の首にかけられたリードを外し、手に持ち変える。

その時、後方から声がした。僕は、何とか振り返り、声の主を確かめる。そこには、オレンジ色のポロシャツを着たショートヘアーの女性が居た。江口さんとは別の女性だ。

彼女は僕の行動の一部始終を見ていたのか、クスリと鼻で笑い、「時間が無いわよ。その子を連れて館内を十週して来て。その後に、ペットショップに連れてきてね。そしたら、小屋の掃除よ。うんちの始末をしてちょうだい」と言う。

僕は、この女性が言っていることが理解できなかった。

寝起きで頭が朦朧としているということもあったが、何故、自分が見知らぬ犬の散歩をして、その後に、小屋の掃除をし、犬の糞を始末しなければならないのか、全く想像できなかった。

「どうして、僕が犬の散歩と小屋の掃除をしないといけないのですか。僕はここのスタッフではありません。」と犬に引きずられるのを必死に抵抗しながら答える。

ショートヘアーの女性の胸元には、ペット・ワンニャン ざんまい 本多と書かれた名札が付いていた。

そして、「一食一晩の恩義って知らないの? 夕べここで食事して、ここに泊まったでしょ」と言う。

「確かに、僕は、ここに泊まりました。夕飯もご馳走になりました。でも、それだからといってペットショップの手伝いをするなんて聞かされていません。それに、僕に夕飯をご馳走してくれたのは、ホームセンター ホーリー・ホーリーの斉藤さんです。斉藤さんをご存知ですか? 」と僕が言う。

ショートヘアーのペット・ワンニャン ざんまいの本多さんはニヤリと笑い「つべこべ言わない。宿泊したことに変わりは無いわ。さぁ 開店まで、後、三時間しかないのよ。急いで。することは、山済みなの」と言い、後ろを振り返り、さっさと行ってしまった。

ペット・ワンニャン ざんまいの本多さんが居なくなると、赤い首輪をした大きな真っ黒い犬は、グイ、グイ、とリードを引っ張り始め、お散歩の催促をした。

僕の腕は、そのリードに引っ張られて勢いよくピンと伸びる。そして、僕は、再び、犬に引きずられ通路を滑るように走り出した。

僕の気持ちは、引き受けてしまったような、後戻りできないような状態だった。とにかく、これをさっさと済ませて、家に帰ろうと思った。そして、真っ黒な犬に半ば引きずられるように館内を走り出した。

館内は窓が一つも見当たらない。外の様子を知ることは出来なかった。薄暗い照明ではあったが、通路の様子は走りながらわかった。

僕は犬に引きずられるように、文具用品や掃除用品が並べられている棚の前を通り過ぎる。

犬の動きは思ったより早く、僕が犬にあわせようとスピードを上げれば、上げるほど、犬のほうもグン、グン、とスピードを加速して、ますます、スピードは上がって行く。

僕と真っ黒い犬は、日用雑貨や絨毯が並べられている前の通路を通り過ぎ、家電製品とリフォームカウンターの間を通り抜け、照明器具や工具用品が並べられている場所を通過した。建材やペイントの道具が販売されている場所を一気に駆け抜ける。
その後、左に曲がると木材や梱包財、農業資材が置かれている場所を一気に通り過ぎた。

僕と黒い犬は、昨日、バトミントンをした場所まで来る。そして、真っ黒い犬は、白い大きなシャッターが下りている場所まで一気に駆け寄ると、迷わず、その脇にある透明なガラス扉が付いたドアに飛び込んだ。

ドアは素早く開く。黒い犬も素早く通り抜け、僕は黒い犬に引きずられながら、扉が閉まる直前にすべり込み通り過ぎる。昨日の昼に見た資材置き場に出る。

空には太陽が昇り日差しが照っている。黒い犬はいつものコースと勝手を知っているのか、迷うことなく突き進む。一旦、倉庫の外に出て、農業用の肥料などが販売されている場所のコーナーをぐるりと回ると、再度、倉庫に戻り、会計用の小屋がある場所の前を通る。木の杭が並べられているコーナーを曲がり、木製の塀が並べられている前を走りすぎる。倉庫下に出て来る時に通過した、ガラスの自動扉の前まで来ると、黒い犬は、一瞬の迷いも見せず、ガラスの自動ドアに飛び込んだ。

自動ドアは素早く開き、黒い犬と僕は素早くそこを通る。目の前に小型のトラクターが並べられているのを見ると、黒い犬は迷うことなく右に曲がり、プロカウンターが見えると、左に曲がった。僕は、真っ黒で巨大な犬に引きずられながら、プロカウンターの前を一直線に駆け抜ける。

左手にペイントカウンターが見え、右側に洗浄機が並べられている場所に来ると、黒い犬は勢いよく右に曲がった。僕は上手くカーブしきれずに、足を滑らせ勢いよく倒れる。黒い犬は僕にかまうことなく、そのまま突き進む。僕は引きずられながらも、体制を整え、何とか黒い犬についていく。

どう見ても、僕が犬に散歩してもらっている様だった。その後、工具カウンターと書かれたカウンターの前を通りぬける。左手にカー用品コーナー、右手には工具と作業服のコーナーがあった。その前を一気に通り抜け、家電製品と飲料品が並べられているコーナーを過ぎると、正面入り口と時計を預けたカウンターが見えて来た。そのカウンターの前も勢い良く、黒い犬は僕を引きずりながら通り過ぎた。

日用雑貨とスポーツ用品が売られている場所が見える先には、ペットのショップがあった。僕は、とてもこのコースを十周まわることは出来ないと思った。だいたい、僕がこの犬の散歩をしなければならない理由なんて何処にもない。

僕は引きずられながら、ペットショップの前まで来ると、この真っ黒な巨大な犬は、突如、立ち止まった。

ハァ、ハァ、と舌を出しながら、尻尾を振っている。僕は、噴出してくる汗をぬぐいながら、この犬と一緒にハァ、ハァと呼吸を繰り返す。

そして、我を取り戻すかのように、徐々に息を整えた。

黒い犬は、息を弾ませながら、尻尾をふり、物足りなそうに僕を見つめ先に進もうと催促する。でも、僕は頑として動かなかった。

このまま、走り続けるわけにはいかない。犬の散歩を一周で放棄することにした。犬をどこかに結わいつけられないか、と当りを見渡すと、ペットショップの前に、展示用なのか、犬小屋のフェンスで区切られた大きな空間があった。

助かった。

きっと、この犬の為のフェンスだ。ここに入れておけば安全だ。

僕は、そこに、この真っ黒な犬を入れて、リードを脇に引っ掛け、フェンスの扉を閉める。 

「あぁ 何て最悪な朝だ。こんな犬の散歩までするはめになった。この後に、糞の始末までするのか、冗談じゃない」と僕は呟く。

その言葉を聞いたのか、背後から、「あら、最悪? 私たちが、毎朝している仕事を最悪って言ったのかしら・・・」と女性の声がする。

振り返ると、僕に十周回って来い、と言ったオレンジ色のポロシャツを着たショートヘアーの本多さんがいる。

彼女は「貴方の糞なんて何の役にもたたないでしょ。犬や猫の糞だって、貴方に仕事という生きる糧を与えているわ。この仕事が嫌ならさっさと出て行けばいいのに。出ても行けない、貴方に、一体、何が出来るっていうのかしら。犬や猫の糞以下の人間が、つべこべ言わずに、黙って働いてもらわないとね。」と冷やかな目で僕を見下すように言った。

そして、更に、「次は、シャンプールームの掃除よ」と言い、本多さんは手に持っていた箒を僕に手渡すと、半ば強引に、ガラス張りの部屋にある、動物用のシャンプー台の前に僕を引っ張って行った。

「シャンプー台を磨いて、床の掃除をしてね。昨日のゴミがまだ残っているから、念入りにね。」と彼女は言い、僕を残してその部屋を出て行ってしまった。

僕はまたしても、何も言い返すことが出来なかった。僕の心には、オレンジ色のポロシャツを着たショートヘアーの本多さんが言った言葉が繰り返し、反復された。

「貴方の糞なんて何の役にもたたないでしょ。犬や猫の糞だって、貴方に仕事という生きる糧を与えているわ。この仕事が嫌ならさっさと出て行けばいいのに。出ても行けない、貴方に一体、何が出来るっていうのかしら。犬や猫の糞以下の人間が、つべこべ言わずに、黙って働いてもらわないとね。」

犬や猫の糞を片付ける仕事が僕の生きる糧だっていうのか、動物の糞以下の人間だなんて、何ということを言う人なのだ。僕の生きる糧なんて勝手に決めて欲しくない。

彼女が言うように、僕は、ただ、ここを出て行けば良いのだ。なのに、なんで出て行けないのか・・・彼女に逆らうことすら出来ない。

どうしてだ。こんなの、止めてしまえば良い。僕は箒を投げ捨てて、その場から立ち去ろうと思った。

でも、何処へ行けば良いのかとも思った。まだ、外に通じる出入り口の扉は開いていない・・・いや・・・さっき、資材館の外に出た時に、駐車場に通じる門があった。

あの門を越えれば外に出られるじゃないか、しかし、あそこの門をこの時間に越えると、警報が鳴って、警備員が来る可能性がある・・・そうなると、泥棒扱いされる場合もある、それは困る。

これ以上、厄介なことに巻き込まれて、ここで足止めを食らうのは更に時間の無駄だ。

やはり、今はまだ出るタイミングじゃない。9時を過ぎれば、ここを出られる。後、数時間で開店時間の9時になるじゃないか・・・それまで、どこかで時間を潰して過ごせば良いじゃないか・・・昨夜、夕飯を食べた休憩室で待つことにするか・・・いや、あそこには、出勤するスタッフが集まってくる。

そんな場所で従業員でもない自分が椅子に座っているなんて、それはおかしな光景だ。

だとしたら、このまま、ここで時間が来るまで待って、時間になったら、ここに来た時と同じ入り口から出て行けば良いのだ、と思いをめぐらせながら僕は何となく床を掃き始めた。

どうせ、今の僕に出来ることはこれしかない・・・

時間つぶしの為の一種のあきらめのような気持ちだった。

床には色とりどりの毛が落ちている。あちらこちらに散らばったカラフルな毛をかき集め、ひとまとめにして塵取で取る。

意外と量が多いため、一度では終わらず、何回かに分けて履く。その後は、用意されていたモップで床をふき取り、シャンプー台や洗髪台の上を雑巾でくまなく拭いた。

こんな時に、僕の完ぺき主義で潔癖症なやっかいな癖が出る。

やるからには徹底的に綺麗にしないと気がすまない。他にもまだやれそうなことはあったが、これ以上、手を出して良いものか・・・どうしたものかと考えていると、またしても、ショートヘアーでオレンジ色のポロシャツを着た本多さんが現れる。

「あら、随分と綺麗じゃない。思ったより仕えるわね。掃除は、もう、いいわ。次に行くから、ちょっと来て・・」と本多さんは言い、僕の腕を引いてガラス張りの動物用サロンを出た。

なんだろうこの感覚は。

「本多」また「本多」か、と僕は思う。僕は小学校の頃のことを思い出す。やたら、僕にちょっかいを出してくる女の子がいた。

彼女の苗字も「本多」だった。それから、社会人になって、直属の上司の苗字も「本多」だ。何か「本多」って苗字の人とは因縁でもあるのかな。僕は変だなと思いながら、彼女に言われるがままついていく。

彼女は僕を、隣の部屋にある、犬猫が展示されているブースの裏側の部屋に連れて行った。

「次は、動物達が入っているショーケースの各小部屋の掃除をして。動物は私が出すから、ケースの中にひかれている下敷きマットと餌を出してから、この洗剤を撒いて、それから、水をかけて、中を、ゴシゴシとこすって洗ってくれないかな。その後に、中をドライタオルで拭いて、後は、元に戻してくれればいいから」と本多さんは言い、手前の端から順番に、ケースを開けて動物たちを取り出しては、別の篭の中に入れていった。

僕も、言われるがまま、動物が居なくなったケースの中から下敷きのマットと餌を取り出し、液体洗剤をケースの中にまいた。

そして、ショーケースの裏側に備え付けられている流し台の水道の蛇口に繋がっているホースを取り出しケースの中に水をまく。それから、やはり、掃除用に備え付けられていた大きなスポンジで、ケースの中をゴシゴシとこする。それが終わると、また、水をまき、今度はドライタオルで中の水滴を綺麗に拭く。

拭き終わると、下敷きマットと洗い直した餌用の皿を中にセットし直して、一つ目のショーケースの掃除が終わった。

オレンジ色のポロシャツを着たショートヘアーの本多さんは、次から次へと、動物を取り出しては、他の籠に移して行く。僕も、彼女の後を追うように、次から次へと同じ手順でショーケースの中を綺麗に掃除する。

僕の掃除は、まだまだ続いていたが、本多さんは、ショーケースの最後まで空にすると、掃除が終わったケースに動物達を戻し始めた。

僕は、動物をケースに戻す彼女の作業に終われるように、ケースの掃除をする。

本多さんの行動が、僕の掃除中の状態で前に進めなくなると、彼女は始めのショーケースに戻り、今度は餌を入れ始める。

餌はグラムで計ってから入れ、何を食べさせたのか記録するようになっている。その為、少し時間がかかる作業だった。

僕は、その様子を見て、少し安堵した気持ちで、再度、掃除に取り掛かった。そうこうしているうちに掃除は終り、最後の一部屋に餌用の皿を戻して、扉を閉めた。

僕は、これで、終わった、という達成感で、その場にしゃがみこんでしまった。それを見ていた、オレンジ色のポロシャツを着たショートヘアーの本多さんは「まだ、終わっていない。ハイこれ」と言い、餌と餌用の皿を突き出した。

「私が、数字を読み上げるから、その分量だけ、その計りで量って餌をお皿に入れて。その後に、ケースにお皿を戻して。」と言う。

僕は、お皿を受け取り、計りに皿を乗せると、本多さんが手にしているリストから読み上げる数字の分量だけ餌が乗るように、餌袋から餌を取り出し、言われた通りにお皿にのせる。そして、それを動物のショーケースに入れる。次から次へと彼女は数字を読み上げ、僕は彼女の言葉に遅れまいと、言われた数字通りに餌を皿に移しショーケースに入れた。

オレンジ色のポロシャツを着たショートヘアーの本多さんは、突然、「はい 以上です。」と言い、リストが挟まれたファイルブックを閉じた。本多さんは「動物を戻すから手伝って。」と言い、手前の籠に入れた子猫を取り出し、その籠の前にあったショーケースに子猫を入れるとケースの扉を閉めた。

そして、僕を見ると「あなたも向こうの端から同じように、動物をショーケースに戻して。まだ、予防接種をしていない子達ばかりだから、爪で引っかかれないように気をつけてね。それから、ケースに入れたら素早く扉を閉じて、逃げ出されないようにしてよ。じゃ 初めて」と言う。

本多さんの話が終わると、僕は一番奥のショーケースの前にある籠を開けて覗いてみた。そこには子犬が入っていた。ウトウトとした表情で今にも眠ってしまいそうだ。

僕はそっと片手を籠に突っ込み、子犬のお腹の下に自分の手を入れるとショベルカーの要領で子犬を拾い上げた。そして、両手で子犬をつかみ、そっとショーケースに移すと素早く扉を閉めた。

反対側の端で、本多さんも同じことをしている。僕たち二人は、競い合うように端から順番にゲージの中の動物をショーケースの中へ移動させた。

そして、中央のケースに同時に手が伸びる。最後は、僕が子猫を抱き上げ、本多さんがショーケースを開ける。

僕が抱き上げた子猫をケースに入れて、彼女が扉を閉め、この作業は終わった。

そこには一種の達成感のような満足感のようなものが感じられた。

僕の検査員としての仕事は、一つの作業で、間違いが起こらないために、最初から最後まで1人で執り行うことがルールだった。

間違いが無いか確認の意味もあり自分と同じ作業を別の人間が同じようにするが、共同で何かをするということはなかったし、その後に、再度、チェックする機関があるため、作業の完結に至るには、新たな他人の手も通るが、基本的には、同時に何かを成し遂げるという意味での共同作業と呼べるものがない。

その為か、この共同作業による達成感というものは僕にとって、とっても新鮮なものであり不思議な感覚だった。

二人の間には少しの間、沈黙の時間が流れた。その間、僕の脳裏には次に自分がどうあるべきか、何をする必要があるのか、どうしたら良いのか、という思いがよぎった。

その様子を見通してか、本多さんは「はい、犬猫ブースは終了です。では、次は、小動物の部屋の掃除とゲージに食料を入れる手伝いをして」と言い、ショーケースの裏の部屋から出て行った。

僕は何も言わず、彼女の後ろについて行った。付いていった先にあったのは、ここに着たばかりの時に、一度、入ったことのあるハムスターや兎のゲージがある部屋だった。そして、本多さんは「次はここね。また、私が籠から動物を他のゲージに移すから、その間に、空になった籠の掃除をして欲しいの。じゃあ、ここからお願いね」と言い、手前にあった兎が入った籠を開けると、素早く、籠の中に手を入れて、小さくうずくまっている兎を取り出し、別の籠に移し変えた。そして、次から次へと動物を移し変えていった。僕も彼女に後れを取るまいと、空いた籠から汚れた餌皿を取り出し、足元に引かれていた藁を取り出し、床に付いている糞尿の処理をした。そして、ケースに洗浄剤をまき、次から、次へとケースの中を綺麗に拭いた。

あっという間に兎のケースは終り、次はハムスターのケースの掃除に取り掛かった。ハムスターは一つの籠に何匹も入れられているようで、取り出すのに手間取っている様子だった。中が空になると、本多さんは籠を持ち上げて、近くにあった洗面台に籠ごと置いて、「ここで水洗いした方が早いから」と言う。

僕は、籠の中にあった観覧車や水飲みや、食事をする為の容器を取り出した。そして、流し台の中に籠を入れると水をかけ丸洗いした。同じ要領で、ハムスターの籠を次から次へと洗うと、次は鳥小屋の番だった。

僕は、同じ要領で鳥籠を洗う。本多さんは掃除が終わった籠に、次から次へと動物を戻し、小動物用の小屋の掃除が一通り終わると、休むこともせず、大きなオウムが入れられている籠の前に行き、籠から底に引かれている網と底、そのものを下から外して取り出した。そして、それを流し台の上に乗せ「これを洗って置いて」と言い、小動物用の部屋から出て行ってしまった。

僕は彼女に言われるがまま、一メーター真四角の金網と、床底をたわしでゴシゴシと磨き、網と底に付着している糞尿を綺麗に取り除いた。僕は、自分が何をしているのか、よく分からなくなっていた。

何故、ここで、動物達のゲージの掃除をしているのか。何のために、ここにいるのか、何故、こうなってしまったのか、とゴシゴシとたわしを動かしながら自問自答していると、何者かに見られている気配がする。

僕は当りを見回す。僕の様子を遠くから見ている人間が居た。

ガラス窓の向こうに巨大な人影があった。それは、斉藤さんだった。

斉藤さんは、微笑みながら、僕の様子を伺っていた。僕は、斉藤さんの視線に気づいて、金網を磨くのを止めた。

僕の手が止まっているのを確認したからか、斉藤さんは僕の居る小動物用の部屋に近づき、窓ガラスをそっと叩いた。コン、コン、っと、窓を叩く音で、僕は、改めて、ガラス窓の外に立つ、斉藤さんを見る。

僕は斉藤さんを見て、何故だが救世手が現れたように思えほっとした。

そして、斉藤さんが立っているガラス窓の側に近寄り、部屋の扉をそっと開けた。斉藤さんはニッコリと笑うと、「あら、頑張っているじゃない。ご飯は食べたの?」と訊いて来た。


僕は「まだです。」と言い、黙り込んで、そのまま立ち尽くしてしまった。

斉藤さんは全て分かっているというような様子で、僕の手をそっと取ると、そのまま、僕を小部屋から引っ張り出した。

そして、何も言わずに、僕の手を取り、歩き出した。向かっている方向は休憩室がある方向だった。僕は何も言うことが出来ず、そのまま、斉藤さんについて行った。





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