アガダ 齋藤さんのこと

高橋松園

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「白金総合病院 精神科の独房。あたし、そんなに危険じゃないわ」

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  「こちらのお部屋です。」井上若菜婦長は齋藤彗神子を四階の畳敷きの独房に案内した。二人の後ろには新潟港警察から来た警官二人も同行していた。井上は部屋のドアを開け「警察の方も部屋にお入りになりますか」と警官達に訊いた。警官の一人が「中を一通り調べさせてもらいます。」と言い部屋のドアを開けると、真向いに天井ギリギリの高さに付けれたカーテンが無い小さな窓が見えた。外はまだ明るく日が差していたが、窓の外に付けられた鉄格子とそれを覆う金網が多くの光をさえぎり部屋の中は薄暗い印象だった。部屋の床には入り口脇の一角を除き畳が敷き詰められていた。その一角に蓋が閉まった便器とその傍にトイレットペーパーと小さな洗面台とタオルが置かれている。そして、部屋の奥の隅に布団が畳まれて置いてあった。それ以外は何もない殺風景な部屋だった。

 警官は中に入ると窓の傍に行き、窓の状態を調べた。窓は手を伸ばせば届く高さにあった。当然のことながらカギがかけられ、更に窓の四方が特殊な形状の鍵で抑えられていた。次に布団を一枚一枚、丁寧に調べた。布団の上には着替えが置いてあった。それらを一通り調べ終わると、「私たちは外で待機していますので、何かあったら声を掛けて下さい」と言い部屋から出た。警察官が部屋から出ると、井上若菜婦長は「何か必要なものがあったら言ってください。あと少ししたら夕食になります。夕食は、今日はここで食べて頂くことになります。その後は、先生の診察になります。それから、管内で着て頂く室内着を用意しました。サイズが合うかわからないですが、合わないようでしたら、言って下さい。改めて用意します。それまでは、今の服装のままで居て下さい。それから、食事ですがアレルギーで食べられないものはありますか」と井上は自分の彗神子に対する驚きと恐怖心を悟られないよう彗神子を見ないように目線を反らして言った。彗神子はそんな井上の様子を察し、多くを話すことは止め「いいえ。特に何もないわ」と答えた。井上は、印象とは違い、物腰が柔らかく優しそうな彗神子の声と言葉に驚きと少し安堵する気持ちを抱いた。そして「それでは、また、夕食の時に来ます。」と言い部屋を出ると、扉に鍵を掛けた。

 井上が居なくなると彗神子は畳の上にゴロンと横になった。部屋は六畳間の広さだったが伸ばした手は壁に当たり彗神子にとって広い部屋とは言い難かった。

さて、どうしましょ。今日は七日でしょ・・・。明日には大和堆に向かわないと九日の儀式には間に合わないわ・・・と彗神子は思った。とにかく、何の検査をするかわからないけど、私を拘留できるのも明日の朝までのはず。今はおとなしく従うしか無いわね。無理なら弁護士を呼ばないと・・・。久しぶりに日本に帰って来たっていうのに、帰るなり散々な事ばかりだわ。やっぱり、日本は私には合わないのよ。
船の上が一番ね。でも~畳の匂いって落ち着く~。と言い、大きな鼻の鼻腔を広げ畳の香りを吸い込んだ。船に畳の部屋を作っちゃおうかしら、と考えているうちに睡魔が襲って来た。六日の朝から殆ど寝ないで過ごして居たため、眠りに落ちるのも早かった。瞬く間に、彗神子の大きな瞳は閉じられ、部屋には地響きのようないびきが響き渡った。その音は、外で待機している警察官にも届いた。ドアに付けられた窓から警官が中を覗いてみた。目の前には横たわった大きな巨体の彗神子の姿が見えた。

「寝たみたいです。それしてもすごい、いびきの音ですね。」と警官は言った。もうー人の警官もドアに着いた窓から覗き込むと「最後まで、暴れないで欲しいです。」と言った。その時、後ろから台車を転がす音がした。二人の警官が振り返ると井上若菜婦長が彗神子の食事を持って来る様子が見えた。井上はドアの窓から中を覗いている二人の警官の様子を見て「何かあったのですか」と声を掛けた。警官の一人が「いいえ、何もないです。中の様子が気になって見ました。寝ているようです」と返事をした。

「あら、眠っちゃったんですか、昨夜から寝ていない様子でしたから無理もないですね。でも、診察の前にご飯を食べてもらわないと困ります。」と言い、さして気にする様子もなく、「齋藤彗神子さ~ん。夕食をお持ちしましたよ。ドアを開けますよ~」と少し大きな声で言い、鍵を開け部屋に入った。そこには無防備に寝ている彗神子が居た。井上は「起きて下さい。齋藤さん、起きて下さいね。ごはんを食べて下さい。」と一般の患者さんとなんら変わり無いように、手際よく食事の準備を始めた。

この部屋の壁にはテーブルが付けられているようで、井上は壁の一部に鍵を差し込み、鍵を開けると壁を押した。すると壁が倒れて台になった。倒れた壁の奥は折り畳みの椅子が入れられていた。椅子を取り出し倒した壁の前に置き、奥からテーブル用の足を二本取り出し、台になった壁の裏に足を取り付けた。テーブルの完成である。そのテーブルの上に手際よく食事を並べた。彗神子はテーブルが出された壁とは反対側の壁ぎわにゴロゴロと寝返り転がった。中々、起きて来ない彗神子の様子を見た井上は、彗神子の傍に行き、大きな肩に手を添えて揺り起した。彗神子はその手で押される感覚が気持ち良いのか、一緒に揺れた。その時、彗神子は夢の中で船に揺られていた居た。


彗神子は日本海に居た。大和堆の上である。何年かに一度、親戚に頼まれてする奉納の儀式の前夜だった。日は沈み、大きな満月が東の空から登ったばかりだった。船の上からその満月を眺めていると、満月を横切る影が見えた。影は右から左へゆっくりと移動して行く。彗神子はその影を見つめた。それは、横に長い潜水艦に見える。その潜水艦を見つめていると、潜水艦の上を動く人影が見えた。その人影は、彗神子の存在に気付いたからか動かなくなった。次の瞬間、彗神子はその影と目が合った。彗神子は驚き瞬きをして、大きく息をして同時に目を開けた。「うぁあ~」と彗神子は声を上げた、目の前には、井上若菜看護婦長が居た。井上は「齋藤 彗神子さん、気持ちよく寝ているところ、起こしてすみません。夕食の時間です。テーブルに出ていますので、食事が終わったら外の刑事さんに知らせて下さい。夕食後に先生の診察がありますから、あまり遅くならないようにお願いします。」と言った。

彗神子は、寝ぼけ眼ではあったが、テーブル?っと思い辺りを見渡した。部屋に入った時にテーブルは無かったはず・・・。しかし、いつの間にか、部屋の壁からテーブルが出ていた。そして、夕飯らしき食べ物がその上に並べられている。「あらやだ、いつの間にか寝ていたのね。全然、気が付かなかったわ」と井上を見て言った。井上は、彗神子と目が合うと、慌てて目線を反らし「で、では、失礼致します。」とそそくさと部屋から出て行ってしまった。彗神子は目で井上を見送りながら、さっき見ていた夢を思い出していた。あの夢は、前に実際に見た光景だわ・・・なんで、今頃、思い出すのかしら。なんだか、嫌な予感がする。ナカタのおやじ、ちゃんとカモシカに餌を上げているかしら・・・奉納前に死なれたら駄目じゃない。せっかく、矢筈岳(ヤハズダケ)で蛭に襲われながら、死ぬ思いで捕まえて来たんだから・・・もぉ~心配だわ~。ごはん食べたら、電話できるか警察官に聞いてみなくちゃ。でも、まずは、飯よ。お腹が空いたわ。飯よ飯。ちゃんと食べないとね。どんなご飯かしら~足りなかったら、出前、頼めるのかなぁ・・・と机の前に用意された食事を見た。病院食って感じ。まぁ。文句は言えないわ。世の中にはご飯を食べられない子供だっているんだから。ありがたく頂かなくっちゃと、椅子に腰を下ろした。ちっちぁ。お尻、はみだちんこじゃない。だいたい、あたしに合う椅子なんてどこにもないんだけど、本当に小さいわね。この椅子は・・・箸もちっちい、爪楊枝みたい。日本って、ほんと、小人の国だわと呟き、テーブルに用意された食事を食べ始めた。もちろん、ペロリとあっと言う間に食べ終わった。そして、彗神子は部屋のドアをたたき、警察を呼んだ。「ねぇ、ちょっと、ちょっと、話があるのよ。さっきの看護婦さん呼んでちょうだい」と彗神子は言った。それを聞いた外で待機している警察官の一人が「今、呼ぶから、そのままおとなしくしているように。」と言い、廊下に付けられているスタッフステーションに繋がる内線電話で井上若菜婦長を呼び出した。井上は、すぐに現れ「どうかしましたか。」と入り口に立っている警官に声を掛けた。

「齋藤 彗神子が中で呼んでいます。すみませんが話を聞いてもらえますか」と一人の警官が言った。
井上は「はい」と返事をしてから「齋藤さん、どうしましたか」とドアの外から声を掛けた。
「これじゃ、ご飯が足らないわ。出前とってもいいかしら。ピザが良いわね~。三枚くらい頼めば足りると思うの。好き嫌いないから、適当に頼んで。お金は私がここを出てから払うから、それまではおまわりさんに立て替えてもらって欲しいわ。」と部屋の中から彗神子が言った。井上は警察官を見た。警官達は、あの巨体ならば無理もないと思った。二人の会話を聞くと、警察官の一人が携帯でどこかに電話を掛け始めた。新潟港警察署に連絡をしているようだった。話が終わると「許可が出ましたので、ピザを頼んでください。それから、頼む店は署が指定しているピザ店でお願いします。」と言い、井上にピザ屋の名前を告げた。その店は、警察でも良く利用している店のようで、安全確認が出来ている店のようだった。井上は店の名前を聞くと「はい。わかりました。後で、ここまで持ってきます。代金は病院が仮払いして置きます。後日、新潟港警察に請求書を送ります。それで、宜しいでしょうか」と言った。「はい、お願いします。」と警官が答え、井上はスタッフステーションに向けて歩いて行ってしまった。

廊下の会話を一部始終聞いた彗神子は井上がその場を離れると再び部屋でゴロンと横になった。
横になり天井を見つめた。そして、大きなあくびをすると、再び眠りに落ちた。

 彗神子は深い、深い霧の中に居た。潮風と一緒に魚の腐ったような生臭い体臭が漂って来た。それは何日も風呂に入っていない男の匂いだった。とてつもなく、くさかったが何だか懐かしい匂いでもあった。彗神子は船に乗り大和堆の上に居る。あれ、さっきの夢の続きみたい・・・。風上に月明かりに照らされた一隻の潜水艦が見える。その潜水艦の上に人影が見えた。あいつの匂いね。このくさい匂いは・・・。彗神子は夢の中で潜水艦の上に居る人物の顔を見ようと目を凝らした。じっと目を凝らし、月明かりに照らされたその者の顔を見た。次の瞬間、彗神子の瞳に自分の顔が飛び込んで来た。

はぁ! あたし? とその顔を見た瞬間、彗神子は飛び起きた。ふぅ~。夢かぁ~。やぁだぁ~。くさかったわぁ。死ぬかと思ったぁ~。でも~やぁだぁ~もぉ~。くさいの、あたし~。と言い、自分の体をクンクンと嗅いだ。糸魚川を出る時に風呂に入っているから、まだ、二日入ってないだけなのに、もぉ~臭いなんて。夕飯食べたら、シャワー浴びたいわ。じゃなきゃ、お医者さんとお話なんて出来ないわ。と彗神子は思った。その時、丁度良いタイミングで井上がピザを三箱持って現れた。「齋藤さん、ピザが届きましたよ。」と言いドアが開くと同時に井上が部屋に入って来た。「どうも。ありがと。」と彗神子は言いピザを受け取った。そして「あのさ、あたし、お風呂に入りたいんだけど、ご飯食べたらシャワー借りて良いかしら」と訊いた。「お風呂ですか。食後は先生の診察があるんですよ。診察前にシャワーを使える時間あるかな。ちょっと、警察の方と先生に訊いてみます。」と井上は答えた。「お願い。私、臭くって自分の匂いに耐えられそうにないの。先生にもこのままお会いしたら失礼だって思うのよ。気分をすっきりさせてお話したいわ」と彗神子は言った。井上は、その言葉を聞き「それでは、また、後で来ます。」と部屋を後にした。そして、ドアの前で待機していた警察官に「齋藤さんが食事の後にシャワーを浴びたいというのですがかまいませんか」と訊いた。警官二人は互いの顔を見合わすと軽くうなずき合い「どうぞ、シャワーを浴びている間、我々が傍にいますが、本人は女性との申し出の為、井上さんも立ち会って頂くことは出来ますか」と言った。井上は「はい。それは、かまわないですけど。後は、先生に訊いてみます」と言い病院用の携帯電話で前田先生の部屋に内線を掛けた。

「前田先生ですか。井上です。今、お電話大丈夫でしょうか」井上が携帯口で話を始めた。

「齋藤さんが先生にお会いする前にシャワーを浴びたいと申しています。で、警察の方が私にその時に立ち会うようにとおっしゃっているのですが、面接前の入浴は大丈夫ですか・・・。はい、ええ、はい。えっー。それは・・・。わかりました。では、入浴後、また連絡します。」と井上は前田と会話を交わし電話を切った。「どうかされましたか」と警察官の一人が訊いた。

「いいえ~。特に・・・。入浴後の診察で了承されました。」と警官に向かい言うと、部屋の中でピザを食べ始めていた彗神子に向かい、ドア越しに「齋藤さん、もう少ししたら入浴のご案内に来ます。」と言い、その場を後にした。スタッフステーションに向かいながら井上若菜は前田に言われた言葉を思い出していた。嫌だわ、前田先生ったら、性器がどうなっているか入浴時に確認して欲しいなんて、そんなのあの彗神子さん相手に出来ないわよ。普通の体格の人ならまだしも。どうしましょう。ジロジロみたら絶対に変だと思われるし・・・。と、どうしたら良いか考えながら急ぎ足でスタッフステーションに向かった。
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