アガダ 齋藤さんのこと

高橋松園

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「万代橋、渡ろ、渡ろ、渡ろ」

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BeBeN.BeBeN.BeBeN.BeBen.BenBenBenBen.
BenBenBenBen.BenBenBenBen.BenBenBenBen・・・

三味線の音がする。


 齋藤 彗神子(さいとう えみこ)は真夜中の竜が島を後に萬代橋へ向けて歩いていた。
耳の穴には小さなLBT-TWSのワイヤレスイヤホンが納まり、初代 高橋竹山の津軽じょんがら節が鳴り響いている。じょんがら節のリズムにあわせ、彗神子の心は爽快だった。新潟でパスポートの更新手続きをした後、日本を再び離れる予定でいる。その為に、昨夜、糸魚川港からクルーザーに乗り、今朝、新潟東港に着いた。パスポートセンターが開く前に、彗神子にはやらなければならないことがあった。毎年の恒例儀式を果たす為に、万代橋へ行かねばならなかったのだ。なぜ、万代橋なのか、万代橋でなければならない理由などなく、通年は船上でしていた儀式だったが、日時的な都合もあり、今回は、万代橋がこの地では一番相応しい場所に思えたし、なんとなくではあったが、万代橋でこの儀式をする必要があるように思えた。

 彗神子は信濃川沿いを万代橋へ向け、津軽じょんがら節に合わせ大股歩きで足早に進んだ。バス停三つ分の距離があり、普通の歩幅なら、新潟東港から新潟日報ビル前まで歩いて三十分程の距離である。しかし、彗神子の大きな歩幅は、十分もすれば辿り着く速さだった。「うまい。やっぱり、持って来て、正解」っと彗神子は独り言を言った。時間がない時は、柿の種に限るわよ。お茶をかければ、お茶漬けにだってなるわぁ。ジャパニーズシリアルね。と思いながら、口の中いっぱいに柿の種ほおばった。彗神子が朝食の柿の種を食べながら、国道百十三号を風を切るように通り過ぎ、新潟日報ビルの角を回ると、万代橋は目の前にあった。日の出前に着かなくてはと、彗神子の足は、一層、早まった。万代橋には、行きかう人影もなく街路灯が静かに橋を照らしていた。外界の静けさとは対照的に彗神子の頭の中は、柿の種をかみ砕く音と津軽三味線の音が激しく鳴り響いている。特に、お気に入りの津軽じょんがら節はあらゆるアーティストの曲が組み合わされ、何度も繰り返し流れるようになっていた。

 初代、高橋竹山は渋いけど、吉田兄弟は素敵。ドキドキしちゃう、と彗神子は思う。彗神子は、じょんがら節に合わせ小刻みに、そして、軽やかに左右に揺れながら、踊るように、一歩一歩、小走りで万代橋に近づいた。そして、万代橋にたどり着くと、橋のたもとに一度、立ち止まり改めて橋を眺めた。

着いたわ・・・彗神子の心は急いた。そして、再び、橋の中央めざし、急ぎ足で進んだ。

 橋の中央まで来ると彗神子は足を止め、信濃川を覗き見た。彗神子の頭の中では、津軽じょんがら節が鳴り響いている。彗神子にとっては、赤子の頃から聴いている曲で子守歌のような音だった。彗神子の祖母は、名前を世来子(ヨキコ)と言い、三味線引きで、若いころは、彗神子の母の世末子(ヨミコ)を連れて土佐周りをしていた。晩年、上越高田に戻り、三味線の師匠として生計を立て、土佐周りの間に身に着けた産婆もしていた。当然のことながら、彗神子を取り上げたのも祖母の世来子(ヨキコ)だった。そして、生まれたばかりの彗神子を預かり、彗神子が三歳になる頃まで面倒を見ていた。その為、彗神子にとって三味線の音は子守歌であった。彗神子はそんな理由があることは知らなかったが、三味線の弦の音色を聞くとなぜか、温かい気持ちになり、勇気がわいてきて、安心し、心休まるのであった。そんな三味線の音色を聞きながら、彗神子は信濃川に向かい、大きく深呼吸をして、一息着いた。そして、まだ、昇らぬ空の果ての朝日を見つめた。時折、彗神子の背後を、バイクや車の光と音が通り過ぎて行った。彗神子は、顔を上げたまま、微動だにせず、空の一点を凝視していた。どのくらいの時が過ぎたか、海から運ばれる潮風の匂いと共に、東の空のビルとビルの合間から光が漏れ始めた。朝の始まりであった。と、その時、昇る朝日と共に彗神子は動いた。

彗神子は、頭の中で鳴り響く、三味線の音に合わせながら躍動し踊るように、すっと右手の人差し指を前に伸ばすと、日の出の太陽を指さした。そして、しばらく、日の出を指さしていたが、次に、その手で水をすくいあげるようなしぐさをしながら、その手を額に近づけ、そのまま、その場に左足の膝を跪いた。その姿は、遥か昔から繰り返し行われている儀式のようでもあり、舞踊を舞っているようでもあった。
彗神子は、懐かし~い、竹の子って感じ、うふっ、と心を躍らせながら舞った。

 東の空が白み、朝焼けの少し赤みをおびた空になり始めたころ、曲は津軽あいや節に変わった。
彗神子は耳の奥で「あいぃいぃぃあああああぁぁ~」と鳴り響く節に合わせ、自身も「あいぃやぁ~」と掛け声とともに、橋の欄干に飛び乗った。欄干に二本足でしっかりと立ち、新潟コンベンションセンターの高く聳え立つビルと紅白に彩られた北越コーポレーション新潟工場の煙突の間から昇り始めた太陽を見つめた。耳の奥では三味線バトルが始まっていた。彗神子は、踊るように軽く体を左右に振ると三味線の節に合わせ呟き始めた。

「千九百六十六年六月六日午前六時六分に、この世に生まれ、本日、二千十九年六月六日、五十三歳まで、私、齋藤 彗神子を生かして下さり、有難うございま~す。新しい年を心地よく迎えるために、この場を借り、昨年との決別の為の、怒りの儀式 悪態祭りを致しま~す。」と呟くと、続けて、「天命を定める者が、災いと苦しみを定めるように。彼らには、充実した生涯を送る恩恵を与えられることもなく、全ての努力は空しく何も実ることがないように・・・」と呪いの言葉を唱えた。そして、空に向かい大声で怒鳴り始めた。

「おっこー、まちぃー、ふざけんじゃねーぞ、馬鹿野郎ー。このぉ、糞女どもがぁー。てめーら、自分ちの葬式で商売してんじゃねーぞぉー、人を利用しやがって、ただじゃおかねーぇーぞぉーこぉらぁー。いい年して、てめえの穴くらい、てめーでふきやがれ。いいかぁー、覚えておけ、糞女ども、二人まとめて、地獄に落とすぞぉ。こらぁ~」

彗神子は、それはもう、世にも恐ろしい声で、吼えるように暴言をまくしたてた。
そして、その後も、聴くにも耐えられないような悍ましい、意味不明な言葉を吐き続けた。

背後では、車が往来し、反対側の橋の歩道を駆け抜けていく人影も見えたが、橋の欄干に立ち、朝靄の中に浮かぶ黒い影の固まりのような彗神子は、何も気にすることなく、大声を張り上げた。信濃川に響き渡る、彗神子の怒鳴り声で起こされたのか、橋の土手沿いにあるマンションの窓から、外の様子を伺う人影も居た。しかし、彗神子はヒートアップする津軽三味線バトルの音色に酔いしれながら、欄干の上で、感情の赴くまま、思いのたけを東の空に捲し立てた。彗神子は夢中になりながら、振り上げた両手の手首を左右にひねり、手を動かした。その動きは、情念を発しながら踊る盆踊りのようだった。
 
 その時、彗神子の背後には二人の警官が立っていた。二人の警官は、彗神子の姿を目で追っていた。大竹義成巡査と梶原祐司巡査だった。大竹巡査は、彗神子の背後から何度も声を掛けた。しかし、三味線バトルに没頭しながら、罵詈雑言を捲し立て、夢中で踊る彗神子は、二人の存在に全く気がつかなかった。

突如、彗神子の足に巻き付くような、強い衝撃が走った。

彗神子は我に返った。
不意のことで、抵抗するすべもなく、彗神子は、バランスを崩し、前のめりに、川側に大きく倒れそうになった。そして、川に落ちそうになった時、自分の手を握りしめる小さな手を感じた。

その手は小さいながらにも力強く、彗神子の手を引っ張った。引っ張られる瞬間、彗神子の目は、自分の手を引く小柄な男の目を捉えた。そこには、警察官の制服を着た、懐かしく思える瞳があった。「うしわか・・・」彗神子の口から思わず声が漏れた。いやぁ~ん、どうしよう!・・・こんなところで、うしわかと再会?、どうしてまた・・・あっ。そうか、橋の上、それも欄干ーー。やられた。同じ状況を自ら作り出しちゃだめじゃーーん。もぉー学習能力、ないんだから、私のバカバカバカ・・・と彗神子は思った。ってことは、私がまた、悪者って誤解されちゃうじゃないの。あの時だって、世の中の平和のための世直しで、馬鹿どもから刀を取り上げていただけなのに、刀コレクターだって、誤解されちゃったし・・・わかってくれたのは牛若だけ・・・もぉー、やぁだぁー・・・今回も、そうなるかしら・・・とにかく、逃げたらだめよ。逃げたら・・・と彗神子は自分が弁慶だった頃を思い出し、今の状況を考えた。彗神子はその小さな手を振り払おうと思えば、振り払えたが、引かれるままにした。橋の欄干から転がり落ちながら、目の前にいる小さな警官を自分の巨体で押しつぶさないようかばうように抱きかかえた。彗神子の両足は一人の警官に拘束され、自分の腕に抱いた警官の小さな手を握りしめ、その警官を抱きかかえるように、三人で橋の上に転がった。こうして、二人の警官によって彗神子は取り押さえられた。

 彗神子は、地面に転がり落ちた後、這いつくばりながらも、周りの状況を冷静に見まわした。
パトカー一台。警官二人か・・・。焦るぅーどうしよう・・・逃げようと思えば、逃げられる・・・でも~・・・彗神子はやばいことになった、と思った。どうしよう~・・・逃げようか、どうしようか・・・でも、でも、でも、逃げたら、やっぱり大変なことになるわ。別に、何もしていないんだし、おとなしくしていれば、すぐに釈放されるわよね。そうよ。おとなしく、だまっていれば大丈夫よ。何もしてないんだから・・・と自分に言い聞かせ、蹴り一発で、二人の警官を倒せる自信はあったが、逃げずに捕まることを選んだ。

 彗神子は、両腕と両足を二人の警官に抑えつけられ、歩道に横たわり、されるがままにまかせた。その様は、見物人たちからは、赤子と戯れる巨人のようにも見えた。いつでも簡単に警察官を振り払い、逃げ出せるように見えたが、彗神子は見た目とは違い暴れるでもなく、おとなしくしていた。歩道に転がったままの彗神子の両腕を警官二人係で後ろに回した。そして、その手に、大竹巡査が手錠をかけようとしたが、手首が太すぎて手錠が回らなかった。「だめです。手首が太すぎてはまりません。」と大竹巡査が言った。「こ、このロープで縛ろう」と梶原巡査が絶句しながら、腰につけていたロープを渡した。二人は彗神子の手首に手錠をするのをあきらめ、梶原巡査が持っていたロープで、二人係で後ろに回した彗神子の両手首を縛った。大竹巡査は自分の腕時計をちらりと見ると「令和元年六月六日午前四時四十四分、万代橋にて不審者確保」と声を張り上げて言った。その後、大竹巡査に、起き上がるように促されると、彗神子は素直に、立ち上がり従った。

 あたりは明るくなり、歩道には、見物人の人だかりが出来ていた。立ち上がり、朝日を受けた彗神子は、ひときわ大きく巨体の縁を浮かび上がらせ、輝きを放った。日の光に照らされた、彗神子の巨体の全貌に見物人たちと大竹巡査、梶原巡査の両警官たちは愕然とした。彗神子は赤地に黒で蠍や他の図柄がプリントされた、海外限定のナイキのエアージョーダン二千十九年モデルのセットアップウェアーの上下を来て、足には、この春、日本に帰る前に立ち寄った香港で買った、ナイキのエアズーム ペガサス三十六の赤いランニングシューズを履いていた。日本人離れした、その風貌から海外のスポーツ選手にも見えたが、人間離れしている大きさの為、イベント用に作製された巨大AIロボットのようにも見えた。しかし、目の前にいるその者は、まぎれもなく人間であった。身の丈は、そこにいる警官たちの倍以上はあり、体の幅は人の三倍はあるようだった。一本の腕が人一人分はあるようにも見える。彗神子は、厳つい顔をその場にいた人たちに向け、睨みつけた。それは、まるで、仁王像のようだった。梶原巡査は、その仁王像のような彗神子の縛られた腕をつかみ、小さな警察車両の後部座席に彗神子を頭から押し込んだ。

 彗神子は、いやだぁ~リアルぅ~。これって、まじ、に、しても、この車、ちっちゃ。うんちゃって感じ。あら、やだぁ。こんな時に、願望、達成って、意味ないじゃん。とその昔、大好きだった、「ドクタースランプあられちゃん」のワンシーンを思い出しながら、おとなしく車の中に押し込められた。が、思いのほか車の中は小さかった。ミラージュの後部座席は、彗神子、一人がやっと座れる広さしかなく、車高も思いのほか低かった為に、彗神子は首をうなだれ頭を下げた状態でないと、座席に座ることができなかった。押し込められた時のタイミングで、彗神子の頭は前のめりになり、転がり込むように後部座席に座った。そして、前の座席の背もたれと後部座席のシートの間に、頭が挟まった。その瞬間、彗神子の耳にしていた、小さなLBT-TWSのワイヤレスイヤホンの片方が耳から飛び出し、シートの下へ転がり落ちた。
 
 彗神子は、「いやぁー。なに。ちょっとー、どこに転がって行くのよー。買ったばっかなんだから!」と慌てふためきワイヤレスイヤホンを拾おうと、シートの下に手を伸ばした。しかし、どんなに手探りしても、シートの下に入ってしまったイヤホンは見つからなかった。イヤホンを探せば探すほど、彗神子の体は前のめりになり、そして、彗神子は大きく前屈した状態で頭ごと小さなミラージュの前シートと後部シートの間に挟まった。
 
 えっ。まじ、なにこれ、体が外れない!と、彗神子はもがき、暴れた。

もがき、暴れた拍子に、彗神子の大きな手は、車のドアロックに触れてしまい、車の鍵が閉まった。彗神子はそんなことには気が付かず、とにかく、前シートと後部座席に、はまった頭と体を外そうと、更にもがいた。しかし、もがけばもがくほど、体はシートの間に挟まり、身動きが取れなくなり、呼吸もできなくなっていった。「ぐっぐるじぃー・・・、息ができない・・・誰かぁー助けてー」と、呟きながら、前のめりで圧迫された肺を胸筋と腹筋で跳ね返し、その勢いで起き上がろうとした。しかし、それは逆効果で彗神子の体は、増々、動きが取れなくなった。車の外から、警官たちの怒鳴り声と車の窓を叩く音が微かに聞こえてきたが、彗神子は、そんなことに返事が出来る状態ではなかった。彗神子は車の中でもがき暴れ、車は大きく、ひときわ大きく左右に揺れた。どうしよー。これって、まじ、やばい状況。でも、どうしたらいいのぉー。ぬけなぁーい、と彗神子はどうすることもできず、更に、必死にもがいた。彗神子の大きな頭と顔はシートの間に入り込み、大きなひらがなの「つ」の姿のまま、前シートと後部座席の足元の隙間にしっかりと挟まり、抜ける様子もなかった。白み始めた外から、車の中に日の光が差し込み始めた。全身、ほぼ赤い色に身を包んだ、彗神子の暴れる様は、トングに挟まれた、威勢の良い巨大な伊勢海老のようでもあった。彗神子は、増々、わけがわからなくなり、パニックに陥っていた。車は大きく揺れた。まるで地震でも起きているように大きく前後、左右に揺れ続けた・・・。

















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