アガダ 齋藤さんのこと

高橋松園

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「新潟大学 地質学者 藤原 太郎の手記」

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  精神科医の前田昭雄は午後三時半の診察予約の患者を医務室で待ちながら先の患者の症状などを記録していた。時計の針は十五時五十五分にもうじきなろうとしている。今日は、十七時以降は齋藤 彗神子との面会がある為、事務処理を急いで終わらせないといけなかった。その時、看護師の霧島裕子が顔を覗かせた。前田はそれに気が付き「どうかしましたか。」と声を掛けた。看護師の霧島裕子は「前田先生、少し宜しいですか。今日の午後三時半からご予約頂いています、山際順二さんですが、体調が悪いらしく、診察はまた、後日にして欲しいとのことです。改めて、予約をいれるということでした。ですので、三時半からの診察は無くなりました。」と言った。

「はい。わかりました。では、山際やまぎわさんは、また、改めて診察します。今日は、患者さんの診察はこれで終わりですね。」と前田。

「はい。後は、今朝、お話を伺った齋藤 彗神子えみこさんの受け入れ後の診察があります。まだ、いらしてませんが・・・」と霧島きりしまが返事した。

「では、いらしたら声を掛けて下さい。それまでの間に、少し読まないといけない資料がありますので、集中させてもらって良いですか」と前田。

「わかりました。では、急ぎの用件でない限り、お電話などは会議中ということで、後で掛けなおすと申し伝えます。宜しいでしょうか。」

「そうして下さい。ありがとうございます。」と前田。

看護師の霧島裕子は前田との会話が終わると、さっさと医務室から出て行った。

 前田は伊藤警部補から手渡された二冊のノートの内、新潟大学の地質学者の藤原太郎のノートに手を伸ばした。パラパラとノートをめくると簡単なメモや走り書きなどが所々に綴られていたり、その時の心境や何を書いているのか皆目見当もつかないような図のような絵が描かれていたりした。その中で、はっきりと日付が入っているページが数か所あった。前田昭雄は日付の入ったページを読み始めた。


「藤原太郎のノート」

千九百六十六年六月三日。

大学側からの依頼で、県内の地質調査をすることになった。新潟地震が起きてまだ二年しかたたないというのに、新潟に原子炉を持ってくる話が浮上してるらしい。表には一切公表できないが、その為の地質調査をすることになった。私は地質学者としてこの日本の地を知る義務があるが、日本に原子炉を作る為の地質調査をすることに憤りを感じる。しかし、私がこの役目を果たさなければならないと思う。調査結果が原発賛成派に都合の良いものにならないためも、新潟地質学学会に置いてものを言えるのは、私しかいないと自負する。私に与えられた調査期間は約三か月。遅くても九月の半ばには大学側に報告をしなければならない。目視で調査をしたくらいでは、土地の安全性について断言できることはない。そもそも、この地震大国日本の地に完全なる安全な場所などないのだ。闇雲に新潟の地を歩いても時間を無駄にするだけなので、今、わかっている過去に起こった新潟県と繋がりのある地震情報を元に、活断層が現在の所、不明な場所を絞り込んでから調査する。

日本で過去に起こった地震で記録がある最も古い地震は奈良県明日香村で起こった、西暦四百十六年八月二十三日の允恭地震(いんぎょうじしん)だが、新潟県内に関わりのある地震では、糸魚川、静岡構造線の活断層と同じ可能性がある美濃、飛騨、信濃、現在の岐阜、長野で起きた地震で、西暦七百六十二年六月五日(六月九日)の震度七以上の地震が最も古い。この場所は、糸魚川、静岡構造線の活断層では北部にあたり平均的な活動間隔は一千年から二千四百年程度。場所によって活動間隔は違いがあるが、前回の地震からは千二百四年は経過している。そろそろ、次の地震があってもおかしくない場所だ。飛騨、美濃に繋がる地域で近江が加われば、西暦千五百八十六年一月十八日に起こった震度七.八から八.一の東海東山道地震もある。この糸魚川、静岡構造線の活断層付近は絶対に外さないといけない。そして、ここに繋がるまだ見えない断層を探し出す必要がある。

次に新潟県近郊で古い地震があった場所は、現在の山形と秋田が出羽の国と言われていた頃の西暦八百五十年十一月二十三日(十一月二十七日)に起こった出羽地震、震度は七。この周辺では西暦千八百三十三年十二月七日に起きた庄内沖地震があり、震度七。西暦八百六十三年七月六日(七月十日)越中、越後地震は震度七で直江津付近の小島が壊滅したという話もある。西暦千五百二年一月十八日(一月二十八日)震度七の越後南西部地震は東経百三十八.二度、北緯三十七.二度の場所で起きている。正確な場所の記録が残されている。この緯度と経度に近い場所での地震は、他にも記録がある。西暦千八百二年十二月九日の佐渡小木地震で震度は六.五から七。正確な東経は百三十八.三十五と北緯三十七.八。西暦千八百二十八年十二月十八日に起きた三条地震。震度六.九。東経百三十八.九と北緯三十七.六。この東経百三十八から百四十の線の間は日本海盆を横切り北にあるチェルスキー山脈を経由して北極海へ繋がっている。これは、日本海からユーラシア大陸を北上している狭まっている古い時代の海溝だった境界線上にあり、沈み込んでいる場所ということだ。

七億から六億年前に超大陸の下部に蓄えられたコールド・プリュームの落下が起こり、その反動で上昇したホット・プリュームにより大陸は分裂した。この裂け目が太平洋を形成した。そして、そこに出来た中央海嶺を中心に大陸は外に移動しいる。今はパンゲア大陸が分裂した後の、次の超大陸を形成している時代だとすれば、この新潟のフォッサマグナを境に、くの字に折れ曲がった日本の北側の大地はユーラシアプレートの下に沈み込むか、日本海溝に沈み込む太平洋プレートと北アメリカプレートに押し上げられ浮上するか、になる。二つのプレートの板挟みで潰れる可能性もある。安全とも言えないが、九州や西日本はユーラシア大陸の上にのっている土地で消えてなくなるということは無いのかもしれない。しかし、フィリピン海プレートが上昇すれば、やはり西日本もだめだ。とにかく、まずは、県内のことに集中して調べよう。

 もっとも、県内で地震の回数が多いのは上越高田の記録だ。西暦千六百十四年十一月二十六日に起きた広範囲で地震が起きた際にも高田はゆれた。西暦千六百六十六年二月一日の越後高田地震、震度は六。西暦千七百五十一年五月二十一日高田地震、震度七。他にも西暦千八百四十七年五月十三日の越後頚城群、上越高田の高田平野東縁断層を震源とする震度六の地震。次に多いのは佐渡沖周辺。記録に出てくるのは西暦千七百二十九年八月一日の能登、佐渡地震で震度六.六から七の地震。佐渡沖では他にも、西暦千七百二十六年十月三十一日と西暦千八百二年十二月九日とある。他には二年前の千九百六十四年六月十六日にあった新潟地震。震度七.五を記録。その少し前の千九百六十一年二月二日には長岡地震。これは震度四。いまだに噴火をしている火打山と米山の一直線上に鷲ヶ巣山があるのか。そうか、この一直線上の上に長岡平野の西縁断層帯が横切っている。米山を中心に明星山を通る直線状には白山と大日岳がある・・・。温泉大国なだけあって地下に眠るマグマの量は膨大ということだな。やはり、危険だ。危険すぎる。新潟は大地のパズルの接点であり、四十五億四千万年前、地球が岩石惑星と衝突した時にマントル奥深くに沈み込み凝縮されたときの縁かもしれない。饅頭でいえばねじられた先端ということだ。やはり新潟県内に安全な場所などないのだ。新潟には謎の地溝、フォッサマグナが横断していることを政府は知っているはずだ。その謎も解き明かさず、爆弾をその上に置こうというのか。新潟の土地の大半はフォッサマグナが出来た時の土砂や堆積岩で出来上がっている土地。こんな地盤の悪い場所で、更に古くから地震がある場所に何故、危険なものをわざわざ置くのか。これでは、まるで自爆する為の物を用意するようなものではないか。いや、自爆だけでは済まない。この日本のフォッサマグナの地で原子炉が爆発すれば、日本に集中しいる海溝を境に地球はバラバラになり地球崩壊を起こす可能性もある。


千九百六十六年六月六日

政府からの要請で、巻、寺泊、出雲崎、刈羽、柿崎、能生、青海の沿岸沿いを中心に調査して欲しいと大学側に連絡があった。以前、石油や天然ガスの為の地盤調査をした際に得た情報で岩盤が比較的強度だと思われる中、古生代期の基盤岩上にある青海の地域と新第三期の地層上の巻、寺泊、出雲崎、刈羽、柿崎、能生を指定したのだ。考え方が安易すぎる。取り返しがつかないことにならないようにしなければならない。今日は、午後から上越に行く。明日、妙高山に登り、山々の連なりから、よめるものが無いか見てこようと思う。数日、泊りがけで調査することになる。

千九百六十六年六月七日

妙高山の山頂に登り、山々の繋がりを見て来た。本当にこの地は不思議な場所である。
南の太平洋側では南海トラフと伊豆小笠原海溝と日本海溝がせめぎ合いながらプレートの沈み込みを起こしている場所があり、本来なら、日本がその溝に沈み込んでも不思議ではないが、均衡を保っている。反対の北側から張り出したユーラシア大陸側からは何かしらの圧力が出続けている。そういえば、蟹の生態について調べている生物学者の岩谷が以前、面白いことを言っていた。『日本海からは大地と共にカニが生まれて来ている』と・・・。彼の自説では日本海盆の溝からホット・プリュームから噴き出した土地とその溝から上質なカニが生まれるのだそうだ。だとすると、このフォッサマグナが存在し続けている理由も納得がいく。つまり、ユーラシアに向けて観音開きのように八の字に開かれた北の日本海盆で土地が生まれ、拡大しフォッサマグナに入り込み、南の太平洋に沈み込んでいるのではないかということだ。もしも、本当にそうだとすれば、まさに、地球の生と死がこの日本をまたがってフォッサマグナの北と南で起こっていると言っても過言ではない。しかし、やはり、このフォッサマグナの上やこの糸静線を境に日本の北側に広がる大地に原子炉を作ることは言語道断だと思う。原発反対側に異議を唱えれば、地質学者として後世に悪名を残すことになるだろう。明日は、政府の調査団一行と朝から白馬山麓に行き、小滝川周辺を散策する。後日、明星山に登り、その後は、糸魚川経由で直江津に行く予定で居る。」

千九百六十六年六月八日

今日は、県道二百二十五号線沿いの根知川近郊にある枕状溶岩と断層露頭を調べて来た。断層露頭の西側は約四億年前の地層で東側は約千六百万年前の地層で巨大な断層になっている。この地は動いているということを証明している。この日本の地のあらましについては諸説ある。ユーラシアプレートに乗ったアジア大陸の一部で、その後、アジア大陸から日本列島が切り離され、折れ曲がり、そこに体積が流れ込み、太平洋プレートとフィリピン海プレートが押し合いながら保っている均衡の上に北アメリカプレートがユーラシアプレートの間に入り込んでいるという説が主流だが、私は違う考えを持っている。元々、糸魚川から静岡を境に西日本はユーラシアプレート上に出来た島国で、その島の始まりは古事記にも書かれている淡路島だったのではないかと思う。そして、柏崎と谷川岳を通り千葉へ抜けている線を境に東日本は北アメリカプレート上に出来た島国で北アメリカプレートがユーラシアプレートに沈み込むと同時に南下してして来た所に、南から北上して来たフィリピン海プレートが上に出来た島ごと入り込み、その上に堆積が積もり、プレート同士の圧力により捷起した山が明星山で、サンゴ礁や南の島の生物の化石や貝塚などが見つかる地層がこの周辺にはあるのではないかと思う。だとすれば、このフォッサマグナの下で三つのプレートがひしめき合い、その上に堆積が覆いかぶさっている土地ということになる。もしくは、これはあまりにも大胆な説だが、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートを各々一辺にもった別の独立したプレートがフォッサマグナの下には存在するのかもしれない。しかし、それを立証するには、フォッサマグナに少なくても四か所、六千メーターの穴をあけ、掘り起こし調べることが必要だ。ここは、やはりパンドラの箱ということか・・・。明日、登る予定の明星山は三億年前のプレート運動で運ばれてきた珊瑚礁からなる大岩石の可能性が高い。何か見つかるだろうか。明星山山頂からは小滝川ヒスイ峡が一望できる。どのような地脈が確認できるか・・・。」

ノートに書かれている文字はこの千九百六十六年六月八日で終わっている。白馬山麓に行き、翌日、明星山へ登ると書かれていることら、六月八日に白馬山麓に行き、六月九日に、明星山に登った時に滑脱して死亡したということなのだろう。つまり、最後に書かれたものだということだ。そして、山に登る前に泊まっていた宿に、このノートを忘れて山に登ったということか・・・。明星山には誰と登ったのだろうか。政府の調査団も一緒に山に登ったのか・・・。伊藤警部補が来たら訊いてみようと前田は思った。その時、ドアをノックする音が聞こえ、扉が開き看護師の霧島裕子が顔を覗かせた。そして「前田先生、齋藤 彗神子さんと付き添いの新潟港警察の方、3名がいらしゃいました。齋藤 彗神子さんには、先に検査をしてもらっています。伊藤警部補様が前田先生とお話されたいそうなんですがお通ししても良いですか」と言った。

無心でノートを読んでいた前田は、霧島の声で我に返った。ゆっくりとノートから目を離し顔を上げ霧島を見た。少しの間、霧島裕子を見ると、ようやく状況を飲み込めたのか「どうぞ。お通ししてください。」と言った。


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