アガダ 齋藤さんのこと

高橋松園

文字の大きさ
上 下
3 / 32

「二千十七年七月四日という日。私が知らない上田 直人」

しおりを挟む
 二千十七年七月四日の夕方。上田 直人うえだ なおとは新潟市中央区にあるマンションのエレベーターの中に居た。四角いボックスに入れられ、掃除機で天へ吸い上げられるような感覚だった。同じエレベーターに乗り合わせた人もいなかった為、他のどの階にも止まることなく高速でエレベーターは昇って行った。上田は耳の中の気圧が変わるのを感じた。僕は泥土に包まれた微生物だと上田は思った。久しぶりに新潟市の自宅に戻って来たのだ。しかし、気分は重かった。

 上田 直人は柏崎にある海洋科学研究所に所属しており、普段は佐渡沖で海洋エネルギー資源開発の仕事に携わっている為、佐渡や新潟市、柏崎市を行き来している。上田が関わっている資源開発は、二千十三年四月から、新潟県沖の石油・天然ガスの埋蔵調査を始めた。そして、新潟・佐渡市の南西およそ三十kmの沖合、水深約千百メートルの下の地層が石油と天然ガスが眠る有望な地形と判断した。具体的には「椎谷層」「寺泊層」と呼ばれる海底約二千七百メートルの砂岩層まで、およそ百三十五平方kmの範囲の試掘が行われた。埋蔵の確認が出来れば、JR山手線の内側のおよそ二倍の面積で中東の中規模程度の石油・天然ガス田に相当し、国内では最大級になる見通しで二千十三年まで掘削調査を進め二千二十三年商業化を目指した。国民や世界に向けての調査結果の報告はあらゆる観点から、事実とは違っていたが、表向きは小規模であると報告された。現在、調査は既に終わり、商業化のための準備に入っている状態だった。

 上田の仕事は、海底から吸い上げたものを調査することだった。上田は、膨大な量の泥土のサンプルを相手に多忙を極めていたが、佐渡から、離れる日も、そう遠くは無かった。上田は海洋微生物の研究の第一人者であった。主に海底の岩石等に含まれる化石の中の古生物を研究している。掘削作業が終わっても彼の仕事は続くが、今回の掘削作業で掘り出された泥や石から検出される微生物の調査は、新潟大学の研究所と共同で行われる為、新潟市に戻ってくる日も近いと思われていた。しかし、いまだに、佐渡での雑用に追われ、家族と共に過ごす時間が取れないでいた。そんな中での久しぶりの帰宅だった。家族と言っても、このマンションで待っているのは妻の洋子ようこ
だけだった。

 上田夫婦は、結婚して十年の月日が過ぎていたが、子供はまだ居なかった。結婚したての頃、初めの三年間は、妻の洋子も佐渡に住んでいた。しかし、環境が合わず、また、将来のことも考えて新潟市にマンションを二年前に購入し、洋子は新潟市に住んだ。建物は十八階建てで、上田の家は十三階にあった。洋子は、マンションから出ることなく、一日中、部屋にこもっていた。精神的に病んでいるとかそういうことではなく、ただ、部屋からでなくなったのだ。買い物は全てインターネットで済ませた。直人が帰って来た時だけ、二人で外に出かけた。洋子は家の中で一日中ネットをして過ごした。大学時代の友人とチャットをしたり、テレビ電話をしたり、それなりに楽しくしているようだった。物静かな人で、多くを持たず、着飾ることも好まなかったが、趣味と言えるのか、ヨガと瞑想をしている姿をたまに見かけた。しかし、他には、出かけるでもなく、不思議なくらい、何もしない人だった。部屋はいつも、整頓され、綺麗に保たれていた。料理は素朴な味を好み、取り寄せている野菜や食材は無農薬野菜やグルテンフリー食材や大豆で出来たミート等で醤油や味噌、砂糖は全てこだわったものだった。ヴィーガンのような完全な菜食主義者では無く、学生の頃はベジタリアンだったようだが、強いこだわりを持ってベジタリアンだったわけではないと言っていた。結婚してから、夫の直人に影響されてか、子供が出来ないことを気にしてなのか、魚を食べるようになり、たまに、肉を食べるようになった。食べない理由は動物愛護的な意味や味が嫌いなわけではなく、魚に含まれる水銀に反応しやすく、また、魚は食べると体が冷えトイレの回数が増えると言っていた。他にも、食品添加物やホルモン剤にアレルギーがあり、それらが含まれた食品や、また、それらを口にして育った動物の肉を食べると体に痛みが出るらしい。洋子はとても敏感で食品を食べると、体に出る痛みで、どんな農薬やホルモン剤を使ったかわかった。しかし、家での食事の際、直人に対しては、彼女とは別の普通の食事を基本的に用意した。

 上田 直人は仕事柄、サーレーの中の微生物や微生物の化石を毎日のように見続けているからか、妻の洋子の事も微生物に思えることがある。居ないようで、そこに存在する。だからなのか、彼女といると、とても安心するし、気が休まった。でも、直人の心が重い理由も妻の洋子にあった。離れて暮らすことに慣れてしまったからなのか、最近、何だか、洋子と距離を感じていた。そして、直人が家に戻ることすら、洋子から疎まれているように思い始めていた。きっかけは、前回、家に戻った時、直人が家に居たり居なかったりする状態が不安定で嫌だと洋子が言ったことにある。そして、今日、またしても、その不安定な状態を自分が作り出してしまている。仕事だし、仕方がなかったが、とても後ろめたい気持ちになった。そんなことを考えているうちに、エレベーターは十三階に着いた。「着いたか・・・。」直人は呟いた。時計の針は十七時五十五分を示している。上田 直人は開いたエレベーターのドアを通り抜け自分の部屋のドアに向かって歩いた。この十三階に住んでいる住人は上田の家を入れて十世帯だった。各人の家のドアの前には小さなフロアーが設けられ、家のドアが廊下からは見えないようになっていた。その為、部屋のドアを開けていても部屋の中は、廊下からは見えなかった。上田 直人はこのフロアーで誰かを見かけたことは一度もなかった。他の部屋の水道管を水が流れる音も、電気モーターの音も聞こえて来なかった。本当に一つのフロアーに十世帯も人が住んでいるのか疑問に思えるくらい静かなマンションだった。妻の洋子は、このマンションで、一人で過ごして寂しくは無いのだろうか・・・そんなことを考えながら、部屋の前まで来た。電話で帰ることを連絡してあるけど、家のベルを鳴らすべきかな・・・それとも、鍵を開けて部屋に入って良いものだろうか・・・直人は戸惑った。ただいま、と言うべきか、今、帰ったよ、と言うべきか・・・。そう思いながら玄関の前のフロアーでたじろんでいると、部屋のドアの鍵が開く音がして次の瞬間、ドアの前にあるフロアーの柱から人影が飛び出すと同時に「お帰り~」っと言う声がした。それは、妻の洋子だった。突然の出迎えに直人は唖然とした。今まで、一度もこんな風に迎えに出たことが無い妻が出迎えたのだ。何かあるのではないかと直人は思った。それとも、前回、僕に言ったことを悪く思った謝罪の意味の出迎えか・・・一体、彼女に何があったのか・・・。上田 直人の脳裏に色々なことが駆け巡った。

 「そんな所で何しているの、早く中に入って。ここがあなたの家よ」と洋子は言った。

直人は慌てて「あぁ。うん。部屋の入り口がわからなくなってね。このマンション、セキュリティーの為だろうけど、入り口が分かり難いよね」と入り口で家に入るのを躊躇していたことを隠すように答えた。

 上田 直人は洋子にせかされるまま、急ぎ足で玄関前に立つ洋子の前をすり抜け部屋に入った。奥の居間からはテレビの雑音が聞こえ、部屋の中はカレーの匂いが漂っていた。直人は鞄を玄関わきの書斎の机の上に乗せた。そして、書斎の隣にあるクローゼットに入ろうとした時、「夕飯はカレーライスにしたの。良かったかしら・・・」洋子は訊いた。「ああ。もちろん、ありがとう。」直人が返事すると、「夕飯の前に、お風呂に入って。」と洋子は言い、直人のジャケットを脱がせた。直人は正直、どうしたのかと思った。妻の洋子が僕の上着をわざわざ脱がせるなんてことは、今まで無かった。何かあるのではないかと改めて思った。そんな、直人の不安を気にするでもなく、洋子はクローゼット前にあるバスルームに入って行き、バスタオルとハンドタオルを棚から出すと、直人の下着とパジャマを用意して、お風呂場の入り口にあるタオル掛けにタオルをかけ、風呂場前の棚に新しい下着とパジャマを置き、浴室を出て行ってしまった。直人は、洋子に言われるがままに浴室に入り、服を脱ぎ、風呂に入った。そして、湯船に浸かって一息ついた。

 今日の妻は機嫌がいい。何か期待しているのか?今日は、結婚記念日じゃないよな。いや、違う。誕生日とか・・・。それも無い。ボーナス・・・まだだよな。何だろう~。直人は思考を巡らした。そして、正直、直人は少し怖くなった。妻の期待を外したら、きっと、不穏な空気が流れることになる。それは嫌だ。直人はそんなことを考えながら湯船に潜った。この入浴剤・・・。直人は湯船から顔を出して入浴剤が含まれた湯船のお湯を救い上げ、手のひらに救われたお湯を見た。サンタ・マリア・ノヴェッラのザクロの入浴剤だった。妻は入浴剤が好きで多くの物を使用しているが、このサンタ・マリア・ノヴェッラの入浴剤は特別な何かが彼女にある時に、好んで使用しているようだった。それは、記念日とかそういうことではなく、彼女にとっての何か特別なことがあった時ということなのだが、直人にはそれが何なのかはよくわからなかった。

 まぁ、いいや。きっと、今日は機嫌がいいんだ。それは、でも、僕とは関係が無い何かなんだろう。ふと、祖母の言葉を思い出した。祖母が生前、直人の幼少期に言ったことだ。女の機嫌に口を挟むもんじゃないと言っていた。女には男には理解できないことがたくさんあるらしい。祖父は、だから、謎で面白いんだよ、って祖母の言葉に付け足して言っていた。直人は今日も余計なことは言わず、聞かず、過ごすことにしようと思い風呂を出た。

 用意されていた下着とパジャマに着替えるとリビングダイニングに向かった。ダイニングテーブルの上には中央に、らっきょや福神漬けが置かれ、引かれたマットの上にサラダ、スプーンとホーク、それからウォーターグラスが用意されていた。直人は部屋に入ると、彼の席に着いた。テレビの真正面の席である。直人がテーブルに着くと「盛り付けてもいいかな。それとも、ビールか何かお酒でも飲む?」と洋子が訊いた。上田夫婦は家でお酒を飲むことはほとんどない。それでも、突然の来客に備えて、ビールにワインに焼酎に日本酒、ウィスキー、一通りのお酒は揃えていた。しかし、妻がお酒を飲むか訊くことは珍しかった。直人は「う~ん。では、ビールでも飲もうかな・・・」と返事した。洋子は冷蔵庫から350mlの恵比寿ビール缶を取り出し、蓋を開けると直人の前にあったグラスにビールを注いだ。部屋の中は、テレビの音とビールを注ぐ音だけがしていた。「ありがとう。」直人はビールを注いでくれた洋子にお礼を言った。洋子は台所へ行き、炊飯器の蓋を開けるとご飯を盛り付け始めた。直人が「ご飯は少なめでいいよ。最近、夕飯はあまり食べれないんだ」と言うと、「そうね。もう~四十半ばだものね。軽く盛っておくね」と洋子は答え軽く盛ったご飯の上にカレーをかけ、自分の分も盛り二人分のお皿を持ってテーブル迄戻って来た。テーブルにカレーライスを盛ったお皿を乗せると席に着いた。そして、直人を見た。「さぁ。食べましょ、頂きます。」と洋子は言った。直人も「頂きます。」と言った。二人の静かな食事が始まった。

 時計は十八時三十分になっていた。流れていたテレビのバラエティー番組の音はニュースに切り替わった。ニュースが始まる時間だ。

「BBJニュースの時間です。」モニターに映っている、テレビの中のアナウンサーの男が言った。

「二千十七年七月四日、本日の出来事からお知らせ致します。 本日、北朝鮮が大陸間弾道ミサイル、ICBM発射実験に成功と発表しました。北朝鮮は本日、四日に国営の朝鮮中央テレビで、四日の午前九時四十分ごろ、弾道ミサイルを日本の方向に発射。大陸間弾道ミサイル、ICBMの発射実験に成功と発表。米国本土に到達できる飛行距離を持つ可能性があるICBMの発射実験に成功したと北朝鮮が主張するのは、今回が初めてです。北朝鮮は、最近、ミサイル発射実験を頻繁に実施し、国際社会の懸念が高まっています。この問題については改めて解説致します。続きまして・・・」とアナウンサーは今日の出来事を次から次へと読み上げている。

僕と妻の静かな食事の合間にニュースは流れ続けた。








しおりを挟む

処理中です...