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第10章 後日談 終わりの始まり
(82)最愛のいない世界
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今回はナイジェル視点です
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遥か遠くに、碧く揺らぐ光が見える。その他は何も見えない。そして心臓から届く微かな旋律を除いては、何も聞こえない。上も下も、右も左もない、まるで深い水底のような世界。死とはこんなに穏やかなものなのか。
俺の心は、凪いでいる。温かく柔らかいものに包まれ、揺蕩い———深い安堵の中で、覚醒しているような、眠っているような。俺とは、自我とは、いつまで存在するのだろう。
自分に母親がいないことを不思議に思ったのは、いつだったか。周りの大人のように、虎人族の爪や耳、尻尾がないことを、疑問に思ったのは。俺が父上にそれを問うた時、彼は俺に答える代わりに、どこか遠くを見遣った。そして俺が答えを知るのは、何年も後になる。
俺は自分が母なし子と呼ばれること、そして虎人族の特徴を持たない出来損ないと揶揄される理不尽に抗うため、研鑽を積んだ。爪がなければ剣で、心無い中傷には教養で。獣人は、力に従順だ。力さえ示せば、誰にも文句は言わせない。幸い、父も義母も侯爵家の使用人も、俺を温かく育ててくれた。俺が腐らず力を磨けたのも、彼らのお陰だ。
そんな俺の心をかき乱すのが、メイナード・マガリッジだった。父上には、彼に留意しろと言われて学園に送り出された。俺でも知っている。呪われた一族の、はぐれ者の淫魔。
しかし彼は、悪い意味で俺の期待を裏切った。ひょろひょろと頼りない容貌、いつもオドオドと俯いて、武術を磨くわけでも教養を磨くわけでもなし、社交に励むでもなし。ただ平民や下級貴族とへらへらと群れて、時間を無為に浪費する。
父上に言われなければ、存在ごと無視していたことだろう。いや、いずれにせよそうしていただろうか。俺は親切にも、彼を呼び出して苦言を呈してやった。すると彼は、俺とコネを持てたことを喜ぶでもなく、俺の忠言に耳を傾けるでもなく、ただ忌々しげに俯き、無言で俺を拒絶した。
裏で俺が何と呼ばれているかは知っている。だが、目の前で俺を拒む者は初めてだった。俺はその後、度々苦言を呈することになる。いや、正直に言えば侮蔑と嘲笑だ。しかし彼は、表面上は無難な礼を取りながら、それらのどれも受け取らなかった。
やがて学園を卒業し、半年ほど経ったあの日。目の覚めるような美貌の彼を目撃した俺は、思わずその花を手に取り、躊躇わずに手折った。そうすることがひどく当然で、俺にはその権利があると思った。清廉でありながら妖艶な魅力を湛えた彼は、まるで誂えたかのように俺を飲み込み、俺の下で淫らに開花した。
しかし二度目は再び拒絶され、仕返しとばかりに組み敷かれ、皮肉にもそれが俺の本性を呼び醒まし、俺の本能は彼を生涯の唯一と定めた。
思えば、最初から全てが間違っていた。
俺には彼から何かを奪うような権利などなく、彼は俺に差し出すようなものは何も持ち合わせてはいなかった。彼には後ろ盾もなければ、家族の愛もなく。この国に未来もなければ、行き場所も居場所もなく。随分と手慣れているかと思えば、口付けを交わしたのも情を交わしたのも俺が最初で。俺は彼の純潔を踏み躙った。
彼が俺と恋人関係になったのは、俺を魅了した責任を感じたからに過ぎない。愛情に飢え、情に脆く流されやすい彼が俺に気を許したのは、ほんの少しの幸運に過ぎなかった。かつて王太子殿下が「僕が先に出会っていれば」と恨み言を吐いたものだが、まさにその通り。彼は強く美しい男たちを次々に魅了し、篤い寵愛を受け、それぞれと深い絆を結んでいる。俺が彼らと肩を並べ、彼の恋人の一人に収まったのは、ほんのわずかなタイミングの差に過ぎなかった。
それでも俺は、彼が俺を選んでくれると信じていた。
週末、少しずつ遠出をして足を伸ばしては、小さな旅を楽しんだ。本領の侯爵邸にも案内したし、母の故郷の海にも初めて足を運んだ。澄んだエメラルドと潮騒が、俺たちを祝福してくれた気がする。俺たちは深く求め合って、溶け合って、ぶつかって、お互いを知り合って、また溶け合った。
そう思っていたのは、俺だけだった。
「いつか浄化が終わって自由になったら、今度はどこに行こうか」
図書館から借りた旅行記や地図、風土記。彼はかつて、この世界から追われるように人間界を目指していた。しかし今度は、俺と一緒。きっと楽しい。そう言って、笑っていたのに。
かつて母が、父上の目の前で泡となって消えたと聞いて、何と残酷で自分勝手な女なのだろうと思った。残された父上はいつまでも心を奪われたまま、許嫁の義母上との婚儀も遅らせて。俺は義母上にとって、裏切りの象徴だ。だけど彼女は、俺のことを温かく受け入れてくれた。彼らがノエルとニコールを儲けたのもずっと後だ。それまで、俺のことを我が子のように慈しみ、育ててくれた。彼女ならきっと、母のことも受け入れて、侯爵家を上手く取り仕切っていたはずだ。
しかし恋に破れ、俺は悟った。俺たちは、最愛のいない世界では生きられない。心臓から最後に聞こえて来たのは、滅びの歌。愛の終わりが、全ての終わり。
彼の目の前で燃え尽きるつもりはなかった。最後に視界に飛び込んで来たのは、メイナードの泣き顔。泣かせるつもりなんかなかった。きっと父上のように、深く傷つけてしまう。
だけどこうも思う。
———忘れないで。命懸けでお前を愛した、愚かな男のことを。
今回はナイジェル視点です
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遥か遠くに、碧く揺らぐ光が見える。その他は何も見えない。そして心臓から届く微かな旋律を除いては、何も聞こえない。上も下も、右も左もない、まるで深い水底のような世界。死とはこんなに穏やかなものなのか。
俺の心は、凪いでいる。温かく柔らかいものに包まれ、揺蕩い———深い安堵の中で、覚醒しているような、眠っているような。俺とは、自我とは、いつまで存在するのだろう。
自分に母親がいないことを不思議に思ったのは、いつだったか。周りの大人のように、虎人族の爪や耳、尻尾がないことを、疑問に思ったのは。俺が父上にそれを問うた時、彼は俺に答える代わりに、どこか遠くを見遣った。そして俺が答えを知るのは、何年も後になる。
俺は自分が母なし子と呼ばれること、そして虎人族の特徴を持たない出来損ないと揶揄される理不尽に抗うため、研鑽を積んだ。爪がなければ剣で、心無い中傷には教養で。獣人は、力に従順だ。力さえ示せば、誰にも文句は言わせない。幸い、父も義母も侯爵家の使用人も、俺を温かく育ててくれた。俺が腐らず力を磨けたのも、彼らのお陰だ。
そんな俺の心をかき乱すのが、メイナード・マガリッジだった。父上には、彼に留意しろと言われて学園に送り出された。俺でも知っている。呪われた一族の、はぐれ者の淫魔。
しかし彼は、悪い意味で俺の期待を裏切った。ひょろひょろと頼りない容貌、いつもオドオドと俯いて、武術を磨くわけでも教養を磨くわけでもなし、社交に励むでもなし。ただ平民や下級貴族とへらへらと群れて、時間を無為に浪費する。
父上に言われなければ、存在ごと無視していたことだろう。いや、いずれにせよそうしていただろうか。俺は親切にも、彼を呼び出して苦言を呈してやった。すると彼は、俺とコネを持てたことを喜ぶでもなく、俺の忠言に耳を傾けるでもなく、ただ忌々しげに俯き、無言で俺を拒絶した。
裏で俺が何と呼ばれているかは知っている。だが、目の前で俺を拒む者は初めてだった。俺はその後、度々苦言を呈することになる。いや、正直に言えば侮蔑と嘲笑だ。しかし彼は、表面上は無難な礼を取りながら、それらのどれも受け取らなかった。
やがて学園を卒業し、半年ほど経ったあの日。目の覚めるような美貌の彼を目撃した俺は、思わずその花を手に取り、躊躇わずに手折った。そうすることがひどく当然で、俺にはその権利があると思った。清廉でありながら妖艶な魅力を湛えた彼は、まるで誂えたかのように俺を飲み込み、俺の下で淫らに開花した。
しかし二度目は再び拒絶され、仕返しとばかりに組み敷かれ、皮肉にもそれが俺の本性を呼び醒まし、俺の本能は彼を生涯の唯一と定めた。
思えば、最初から全てが間違っていた。
俺には彼から何かを奪うような権利などなく、彼は俺に差し出すようなものは何も持ち合わせてはいなかった。彼には後ろ盾もなければ、家族の愛もなく。この国に未来もなければ、行き場所も居場所もなく。随分と手慣れているかと思えば、口付けを交わしたのも情を交わしたのも俺が最初で。俺は彼の純潔を踏み躙った。
彼が俺と恋人関係になったのは、俺を魅了した責任を感じたからに過ぎない。愛情に飢え、情に脆く流されやすい彼が俺に気を許したのは、ほんの少しの幸運に過ぎなかった。かつて王太子殿下が「僕が先に出会っていれば」と恨み言を吐いたものだが、まさにその通り。彼は強く美しい男たちを次々に魅了し、篤い寵愛を受け、それぞれと深い絆を結んでいる。俺が彼らと肩を並べ、彼の恋人の一人に収まったのは、ほんのわずかなタイミングの差に過ぎなかった。
それでも俺は、彼が俺を選んでくれると信じていた。
週末、少しずつ遠出をして足を伸ばしては、小さな旅を楽しんだ。本領の侯爵邸にも案内したし、母の故郷の海にも初めて足を運んだ。澄んだエメラルドと潮騒が、俺たちを祝福してくれた気がする。俺たちは深く求め合って、溶け合って、ぶつかって、お互いを知り合って、また溶け合った。
そう思っていたのは、俺だけだった。
「いつか浄化が終わって自由になったら、今度はどこに行こうか」
図書館から借りた旅行記や地図、風土記。彼はかつて、この世界から追われるように人間界を目指していた。しかし今度は、俺と一緒。きっと楽しい。そう言って、笑っていたのに。
かつて母が、父上の目の前で泡となって消えたと聞いて、何と残酷で自分勝手な女なのだろうと思った。残された父上はいつまでも心を奪われたまま、許嫁の義母上との婚儀も遅らせて。俺は義母上にとって、裏切りの象徴だ。だけど彼女は、俺のことを温かく受け入れてくれた。彼らがノエルとニコールを儲けたのもずっと後だ。それまで、俺のことを我が子のように慈しみ、育ててくれた。彼女ならきっと、母のことも受け入れて、侯爵家を上手く取り仕切っていたはずだ。
しかし恋に破れ、俺は悟った。俺たちは、最愛のいない世界では生きられない。心臓から最後に聞こえて来たのは、滅びの歌。愛の終わりが、全ての終わり。
彼の目の前で燃え尽きるつもりはなかった。最後に視界に飛び込んで来たのは、メイナードの泣き顔。泣かせるつもりなんかなかった。きっと父上のように、深く傷つけてしまう。
だけどこうも思う。
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