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第3章 帰領編

(19)私邸

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 翌朝。前回と同じく、マーサとミアにだけ別れを告げ、こっそり王都へ帰ろうとしたところ、玄関で待ち構えていた執事頭に呼び止められた。そして、とある住所を書いた紙と、鍵を渡された。

「お館様やかたさまからでございます」

 この鍵は、王都のタウンハウスとは別に、父個人が所有する小ぶりな一軒家のものだそうだ。タウンハウスから定期的に人が手入れをしに来ているので、いつでも使用可能とのこと。人間界に旅に出るのではなく王宮に仕官するなら、しばらくそこで暮らせば良いだろうということだ。何の事情で押さえてある家なのかは分からないが、有り難く住まわせてもらうことにする。あと、先日もらった旅費についても、返す必要はないそうだ。こちらも助かる。



 王都に飛んで、早速宿を引き払う。ここには約一週間、大変お世話になった。一人部屋に男を連れ込んだり、ちょっとした痴話喧嘩のような騒ぎを立てて申し訳なかった。しかしまあ、そういうことはままあるらしい。地方から王都に出張に来た役人が、ちょっと羽目を外すとか。それがどっからか漏れて、騒ぎになるとか。訳知わけしり顔のフロント係の者が、遠回しに「気にするな」と言った。そう言われると、余計たたまれない。ああ、もうここには泊まれない。

 さて早速だが、メモ書きに書かれていた住所に向かう。富裕な商人や法衣貴族などが住む高級住宅地だ。通りを一本入った静かな場所。庭には木々が植えられ、よく手入れされている。初めて来たのに、ちょっと懐かしい感じのする家だった。

 家の中には、必要な調度品は全て揃っていた。一階には、玄関にリビングダイニング、主要な水回り。二階には、主寝室にゲストルームが二つ。そして奥に、窓のない小さな物置き。

 その扉を開けて、俺は息を呑んだ。中には、俺とそっくりの女が描かれた大小の肖像画が、壁に所狭しと飾られていた。———彼女が、俺の母、ミュリエル。父がなぜこの家を所有しているのか、やっと理解した。



 物置きというかギャラリーというか。そこにいたのはほんの短い時間だったのに、いろんな感情が押し寄せて、ひどく疲れた。いや、最近夜はずっとナイジェルの相手をしていて、昨日仕官が決まったばかり。今日は領からその足で引っ越し。引越しといっても手荷物で事足りる量だが、疲れるのも無理はない。俺はどの寝室を使おうか悩み、ゲストルームは長らく使われた形跡がないので、主寝室を使わせてもらうことにした。きっと父もそれを望んでいる。

 すこしうとうとするつもりが、気づいたら夜半だった。参ったな。外へ何か食べに出かける予定が、狂ってしまった。そういえば、旅に出る予定で水と携帯保存食を買ってあるんだった。俺がどういう理由で王太子殿下に仕える羽目になったのかは定かではないが、どうせそのうちお役御免になるだろう。遅かれ早かれ、旅に出ることになるだろうから、今のうちの予行演習しておいて損はない。

 月明かりの中、荷物を漁ろうとすると、不意にそこに人影があるのに気がついた。大きく窓を取った主寝室に差し込む、見事な満月の光。その中に佇んでいたのは…

「…父上」

 領都にいるはずの彼が、窓辺から俺に、あかい視線を向けていた。



 彼はバスローブ姿だった。俺が眠っている間に浴びたのか。俺も軽く浴びてくることにする。領都の俺の部屋同様、主寝室の隣にも水回りが用意されているのは便利だ。あまり彼を待たせるわけにはいかない。手早く身を清め、ローブを着て、濡れたままの髪で戻る。彼はこの家に置いてあったと思われるグラスと酒を用意して、ソファセットで待っていた。俺が掛けると、黙って俺の分のグラスにも酒を注ぐ。こないだの安酒とは違う、芳醇な香りが漂う。

 赤ワインは、不死種ヴァンパイアが特に好む。血のように紅いからか、それとも彼らにとって何か特別な効果をもたらすのか。もしかしたら、この香りとアルコールのふわふわとした高揚感で、飢えと渇きをを一時いっとき忘れられるのかもしれない。

 父は元来無口な男だ。物心ついて以来、ほとんど話した記憶がない。こうして差し向かいで酒を酌み交わすなど、想像したこともなかった。これまで、彼は俺に対して常に不機嫌で、ずっと見限られているのだと思っていた。だが、魔眼を通して飢餓を知り、昨夜肌を合わせた俺は、彼は彼なりに一杯一杯で、ずっともがき苦しんでいたことを理解した。彼は時折酒をあおりながら、切なそうに視線を揺らす。こんな彼を見たのは初めてだった。

「…すまなかった、メイナード。私は、良い父ではなかった」

 視線を伏せたまま、彼は静かに言葉を紡いだ。

「いつかここで、お前と話がしたかった。だが情けない話、何を話していいのか、それすら分からない」

 彼はそれきり黙って、また酒に口を付けた。そんな彼に、俺もどんな言葉を掛けていいのか分からない。二人とも黙りこくったまま、しばらく盃を傾けた。

 いや、違う。俺たちに必要なのは、言葉じゃない。

 俺は残ったワインを一気に干すと、グラスを静かに置いた。彼がボトルに伸ばそうとした手に手を添えて、指を絡める。

「!」

 彼はハッとした視線を俺に向ける。

「父上。俺は、あなたが欲しい」
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