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第2章 王都編

(8)ナイジェル・ノースロップ

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 彼が向かったのは、騎士が多く愛用するという居酒屋だった。このような庶民的な店に、彼が立ち寄るとは意外だ。

「おい、エールだ。あとつまみを適当に見繕って持って来い」

 彼は給仕の娘に高圧的に指示を出す。俺たちは入り口に近い、すみの席に着いた。俺は同席することを遠慮したが、彼が命令するものだから、仕方なく。

 まだ明るいうちとはいえ、店内は多くの客で賑わっていたが、どうも俺たちの席は遠巻きにされている。あちこちから視線が投げられ、ヒソヒソと噂されている。どうやらあまり歓迎されていないようだ。

「エール、お待たせしました」

 彼女はおどおどと、エールと簡単なつまみを運んできた。可哀想に、身分の高い騎士に命令されて怯えている。

「ありがとう」

 俺は彼女に、ほんの少しの魅了を交えて微笑んだ。彼女の上にポップしているウィンドウに、「魅了・微」の表示が加わる。これで恐怖は少しは和らぐはずだ。ちょっとしたサービスである。彼女は真っ赤な顔をして、ぺこりとお辞儀をして去って行った。

 相変わらず、俺たちの卓は無言だ。彼が飲めというものだから、口を付ける。俺は庶民のエールを口にしたのは初めてだったが、ぬるくて苦い。しばらくの沈黙ののち、痺れを切らしたナイジェルが、苛立たしそうに口を開いた。

「お前はなぜ王都に?」

「閣下のお気を煩わせるようなことではございません」

「答えろ」

 何故そんなことが知りたいのだろうか。俺は渋々答える。

「人間界まで、旅に出ようと」

「流石は下賤な淫魔だな」

 わざと周りの卓に聞こえるように、声高こわだかに。周りはざわざわしている。小声で「何だあのお貴族様」などと話しているのが分かる。だが彼は気にも留めない。いつものことだ。

「おっしゃる通りです、閣下」

「!」

 何を慌てている。本当のことだ。そもそもこういったことは、今に始まったことじゃない。俺はずっと学生時代から、彼に無抵抗にやられっぱなしだった。どうせ歯向かっても誰も助けてくれないし、気にも留めない。彼は一流貴族で、俺は実家は由緒ある家だとしても、俺自身はみそっかす。そして所詮淫魔だ。学生時代と違うところは、悔しさに拳を握り締めながら黙って耐えていたのを、今は貴族の礼でもって受け流しているところ。

 俺たちのテーブルに、また重苦しい沈黙が流れた。まずいエールをちびちび喉に流し込んでいたが、それも間もなく終わろうとしている。

「ご馳走になりました、閣下」

 目も合わさずにしかめっ面をしているナイジェルに、言葉を投げて立ち去ろうとする。しかし彼は、「待て」と俺の腕を掴み、再び強引に席に着かせた。一体この男は、俺をどうしようというのだろう。俺は困り果て、先程の給仕の娘を呼び、お勧めを聞いて運ばせた。うん、赤ワインは若く、庶民用の安価なものだが、先程のエールよりは大分マシだ。

 彼はそっぽを向いたまま、不機嫌そうにワインをあおっていた。まあ、彼の魂胆は何となく分かる。憂さ晴らしでもしたいのだろう。彼は一流侯爵家の長男とはいえ、母親は名もなきサイレンだ。獣人の名門、虎人族ワータイガーの家系にも関わらず、彼の父は修行の旅の途中でサイレンと恋に落ち、彼が生まれた。しかし侯爵家はかのサイレンをめとることを許さず、また彼女も海から離れられず。彼の父が家を捨てて彼女を選ぼうとした矢先、彼女は愛する男のために、泡となって消えた。後には、彼らの子供だけが残された。

 ナイジェルは表向きは虎人族ワータイガーとして登録されているが、彼には虎人族の身体的特徴はほとんどない。辛うじて父と同じ赤毛ではあるが、外見はまるで人族のよう。そして何より、サイレンと同じく高い知性と魔力を持っている。彼は裏で、「おかに上がったサイレン」と揶揄やゆされている。貴族界では有名な話だ。

 一方俺は、不死種ヴァンパイアの名門の家に生まれた、出来損ないの淫魔インキュバス。だから、彼にとっては俺は、格好のサンドバッグだ。同じような境遇で、しかも自分より遥かに劣る俺をののしることで、彼は自分への嫌悪を晴らし、学園で自我を保っていた。だが俺が無き今、彼は自分を持て余しているのだろう。

 だがしかし、彼の葛藤を俺が何とかしてやる義理はない。これは彼自身の問題だ。今回は犬に噛まれたと思って忘れようと思うが、次回からはなるべく彼に会わないように、裏通りを通るようにするか。いやいっそ、王都を出るのを早めなければならない。厄介なことこの上ない。

 目を合わせないように黙々とワインを傾け、チーズを齧り、早くこの居心地の悪い時間が過ぎないかとひたすら耐えていたところ。目の前でゴトリと音がして、彼が机に突っ伏した。コイツ、酒飲めないのか?何でこんなところに俺を誘ったんだ。思ったより馬鹿なんだろうか。

 周囲の目が遠慮なしにこちらに集まる。ああ、もういたたまれない。俺は「ごちそうさま」と言って、金貨をじゃらりと置いて立ち去った。給仕の娘は「頂き過ぎです!」と追いかけて来ようとしたが、「みんなで飲んで」と言って、彼に肩を貸すようにして担いで、店を出た。



 とはいうものの、彼を一体どこに送り届ければ良いのだろう。一口に騎士団と言っても、王都には沢山の組織がある。サーコートの紋章と色からすると、王城に直接士官しているようだが、それなら尚更どこに運べばいいのか。それに街はもう暗い。俺は仕方なく、彼を自分の部屋に連れ帰った。宿の者には水を用意してもらい、キュアーで解毒を掛ける。彼はベッドですやすやと眠っている。人の気も知らないで、酔っ払って狭い部屋のベッドを占領して、いい気なもんだ。

 とりあえず、俺にはやる事がある。昼間図書館で書き写した内容を、自分にとって分かり易く並べ替え、自分なりにノートにまとめていく。これは夢の中の俺がやっていたことだ。俺はまともに勉強なんか取り組んだことがなかったから、あちらのやり方は参考になる。やがていい感じに集中して、ノートにペンが快調に滑り出した頃。

「———メイナード」

 背後から、のっそりとナイジェルが起き上がる音がして、声を掛けられた。

「閣下。お目覚めになられましたか」

「ここはどこだ」

「私が借りている部屋でございます」

 俺は正直うんざりしていたが、務めて感情を乗せず、冷静に返す。彼は不機嫌そうに水差しからコップに水を注ぎ、一気に飲み干すと、乱暴に盆の上に置いた。

「お前のその態度が気に食わない!」

「申し訳ございません」

 俺は復習の手を止め、昼間そうしたように、彼の前に跪いてこうべを垂れた。狭い部屋の中なので、ほとんどベッドに腰掛けた彼の足元になるが。

「まったくどいつもこいつも…お前もそうだ。内心俺のことを馬鹿にしているんだろう!」

「そんなつもりは」

 ああ、面倒臭い奴だ。さっさといつものように、気が済むまで罵詈雑言を吐いて、気持ちよく帰って欲しい。そんな俺の雰囲気を察してか、彼はしばらく興奮したように荒い息を繰り返し、そして「くっ」と声を漏らした。沈黙が辛い。俺はもともと口数が多い方ではないが、こんな重苦しい沈黙は、誰だって苦手だ。

「ええい、くそっ…!」

 彼は俺の髪を掴み、ぐっと上を向かせる。そして辛そうな顔が、一転下卑た笑みに変わり、

「そうだ。下賤の淫魔に、いいものをくれてやろう」

 彼は履いていたものを降ろし、俺の前にそれを突きつけた。

「しゃぶれ」
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