31 / 53
ジャスパーの就活
内定が決まりました ※
しおりを挟む
「え?」
ダイニングの時が止まった。
随分間抜けな声が漏れた。目玉が溢れ落ちるかと思った。恐る恐る隣のキース様を見上げると、満面の笑み。彼は「ん?」と首を傾げ、そして侯爵ご夫妻と大勢の使用人の皆さんの面前で、僕に口付けをした。へなへなと足から力が抜けてしまった僕は、彼にぎゅっと抱き留められる。
一体、何が起こっているのだろう。
「———キース」
背後から、夫人の低い声が聞こえる。
「はいっ、母上」
押し付けられた胸から響く、キース様の上機嫌なテノール。
「お前、その様は何なのです」
「どうかなさいましたか」
「どうかではないわッ!!!」
びりびりと雷鳴のような声が響いた。僕までびくりと跳ねた。
「…どう見ても、ジュール君の同意を取り付けたようには見えないのだが?」
バリトンの紳士の声が響く。お父上だろうか。
「はい。本懐は遂げましたので、同意はこれから」
「アホかーーー!!!」
耳をつんざくお母上の雷鳴。
「本懐ってお前、同意もなく他所様のご子息を攫って来て、手ェ出してんじゃねぇぞこのボンクラ息子!!!」
「嫌だなぁ母上。僕たちはちゃんと愛し合ってますよ。ねぇ、ジャスパー?」
「あ、愛?」
さっきから、理解が追いつかない。間抜けな顔で、間抜けな声を発している自覚はある。あるんだけど…
「あー、ジュール君。君、息子に騙されて連れて来られたんじゃないのかね。コイツは昔からどうもそういうところがあって」
「今度という今度は性根を叩き直してくれる!そこへ直れ!!」
「ええと母上。僕はこれから愛を確かめ合って、同意を取り付けなければなりませんので。じゃあジャスパー、行こう」
「うわっ」
僕の視界はぐるんと回転し、キース様の腕にすっぽりと抱え込まれた。いわゆるお姫様抱っこだ。僕は慌ててキース様の首に腕を回した。
「それでは失礼します!」
キース様は一言そう告げると、風のようにダイニングから辞去した。
僕はこれでも成人した男だ。細身だけど、身長は平均ぎりぎり。軽いはずがない。なのにキース様は、まるで羽が生えたように軽やかなステップで、別邸に駆け込んだ。さっき出て行ったばっかりなのに、もう戻って来ちゃった。
朝、一人で目覚めたベッドに、そっと降ろされる。シーツは取り替えられたみたいだけど、ロームはそのまま大人しく、ぽよぽよと留守番していた。
「えっと…」
未だに状況が飲み込めない僕の前に、キース様が跪く。
「ジャスパー。順番が前後してごめんね。君には全て準備が整ってから、申し込みたかったんだ」
彼はベストの胸ポケットから小箱を取り出し、
「どうか、僕の伴侶になってくれないかな」
僕の目の前で、それを開いた。中には、彼の瞳の色のタンジェリンガーネットをあしらった、白金の指輪。
「は、伴侶って…」
僕には言いたいことがたくさんあった、はずだ。僕男ですけど、とか。僕なんかのどこがいいんですか、とか。子供産めませんよ、とか。剣術や槍術のスキルも持ってないし、有力な貴族の子息でもないから何の得にもならないし、容姿だって地味だし、それから、それから。キース様に釣り合うものとか、キース様に差し上げられるものなんか、何もなくて。
でも。
え、でも、あの、とか言いながら固まってる僕の薬指に、キース様はさっさと指輪を通して、耳元で囁いた。
「…嫌?」
そしてそのまま、僕たちは再びベッドの住人となった。
せっかく用意してもらった上等な服も、くしゃくしゃになって。丁寧に結ってもらったリボンも解け。タオルですっきりさせた目から、また涙が溢れ出して。
「ん、ふっ、キース、んちゅっ…」
キース様は、噛み付くようなキスを繰り返し、僕を性急に求める。余裕のない彼は初めてだ。準備もそこそこに繋がろうとする彼を、またロームがあっという間に僕の中に導き入れ、それからずっと強く揺さぶられている。
何故、こんなことになってるんだろう。何故、僕なんだろうか。だけどさっき、キース様はご両親の前で、僕を伴侶だって紹介されて…左手の薬指には、彼の色のリングが輝いている。僕のナカは彼でいっぱいだ。心も。
本当に僕でいいのって、何度も口をついて出そうになるけど、その度に唇は塞がれ、激しく突き上げられ、快楽の波にさらわれて、どんどん上書きされる。
「キ…ああああっ…!!♡」
ひときわ大きくなったキース様が爆ぜて、熱い精が僕の中に染み渡る。
「愛してるよ、ジャスパー。僕の最愛」
荒い呼吸と共に耳元で囁かれる。ああもう僕、今死んでもいい。
「キース様…僕も、お慕いしています…」
お互いの気持ちを確かめ合い、ひとしきり愛し合ってうつらうつらしていると、もうお昼を過ぎてたみたいだ。うっかり朝食を摂り損ねた僕たちは、あまりにお腹が空き過ぎて、目を覚ました。キース様が扉を開けると、廊下には食事の乗ったワゴンがあって、僕たちは照れながら食べた。その後は、またそういう雰囲気になっちゃって、夜半に目が覚めて、同じことを繰り返して。
自分でも、浮かれてるなって思う。馬鹿んなっちゃってる。だけど、初恋の人にプロポーズされて、浮かれるなって方が無理だ。僕はいっぱい泣いて、いっぱいキスされて、ロームと一緒にいっぱい愛されて、すごく幸せだった。
中途半端な時間に眠ってしまったせいか、翌朝はちょっと早く目が覚めた。
僕が目覚めたのを見計らったかのように、控えめなノックの音がする。昨日の侍女さんが、また僕の身支度を手伝ってくれた。今朝もキース様は朝の鍛錬でいらっしゃらないようだけど、何だか窓の外が騒がしい。身支度が終わって目を遣ると、眼下に血まみれのキース様が見えた。
僕は急いで駆けつけた。
別邸の裏手は訓練場。そこには傷だらけのキース様と、サーコートの侯爵様、スリットの深いドレスの夫人がいらした。
「キース様!」
僕が駆け寄ると、夫人に制止された。
「ジュール君。今、息子の性根を叩き直してる所なの。迷惑かけて、本当にごめんなさいね」
そう言って、僕に慈母のような笑みを向けた後、彼女の鞭がヒュパァン!と地面を叩いた。
「オラァ!お前ぇよぉ、惚れた男ォ泣かしてんじゃねぇぞォ!!」
「は、母上ッ」
「ジュール君。カトリーナがこうなったら止められんのだ。しばらく辛抱してくれ」
侯爵様が僕を背後に匿って、小声で囁かれる。だけど、
「待ってください!ぼ、僕もキース様のこと、お慕いしてますからッ!!」
僕はそう言って飛び出して、キース様を抱き起こし、ありったけの魔力を込めて、完全回復を掛けた。
「ジャスパー…」
僕の腕の中で、キース様が驚いた顔をしている。良かった。酷い怪我みたいに見えて慌てちゃったけど、冷静に考えたら、お母上がキース様のこと、そんな大怪我をさせるわけないもんね。恥ずかしい。かすり傷の割には、ちょっと出血が多いようだけど…。
その後のことは、簡単に説明しようと思う。
僕が慌てて完全回復を掛けた結果、込めた魔力が強過ぎて、周りに漏れたらしい。侯爵様の古傷が治り、夫人のお肌がすべすべになったとかで、僕はひどく歓待を受けた。お母上が、キース様に何度も「逃すなよ、絶対逃すなよ」と仰ってたのがちょっと怖い。
結局騎士団については、一応隣接する騎士団の施設も見学させていただいたけど、僕は働いても働かなくてもどっちでもいいと言われてしまった。だけど、事務仕事や治癒師の手が常に不足しているのは、本当らしい。僕に出来ることでお役に立てるなら、精一杯頑張ろうと思う。
帰りの道中は、侍女さんが騎士の装備で馬で付き添われることなった。軍部大臣ケラハー家の侍女たるもの、戦闘能力は有して当たり前らしく、皆さん騎士でもあるそうだ。二人きりになった車内では、その、キース様にあれこれされることになっちゃったんだけど、御者さんや騎士の皆さんは、生暖かい目で見過ごして下さった。
学園に帰ると、キース様は早速僕らの婚約をケネス殿下に報告した。
「あら、キースにしては遅かったんじゃありませんの?」
とクリスティン様。知らなかったのは僕だけで、どうやらキース様が僕との婚約を計画されていたのは、周知の事実だったみたいで…。
「『将を射んと欲すればまず馬を射よ』遠い国のことわざですよ」
キース様はさらりと答えられる。
「皆ジャスパーを狙っていたのに、お前の牽制は凄かったからな」
「ジャスパー、あなたこの男の外面に騙されてますのよ」
「え、騙…」
「嫌だなぁクリスティン様。人聞きの悪い」
「この男に愛想が尽きたら、いつでもケインズに来い。君なら大歓迎だ」
何だろう。みんなにこやかなのに、この不穏な空気は。
その後、ケネス殿下やクリスティン様の仰っていたことが、ちょっとずつ分かって来た。
侯爵領から帰って数日後、実家から一通の手紙が届いた。中にはたった一文、
『問題ない、万事侯爵家の意に沿うようにせよ』
とだけ。実家は遠い。差し出しの日付は、僕が面接に出かけるしばらく前だった。
後で帰省した時に訊いたら、キース様から何度も婚約の打診と条件のすり合わせがあったそうだ。もちろん、寄り親の辺境伯家とも。それも随分前からだ。父上も母上も、僕がとっくに了承して話を進めているのだと思っていた、とのこと。
進路指導の先生は、僕が婚約して騎士団に就職すると知ると、「やっとか、よかった」とため息を吐かれた。僕の知らない間に、キース様から根掘り葉…詳細な問い合わせが後を絶たなかったそうだ。個人情報だからと突っぱねて下さったが、相手は侯爵家で、難儀したと。進路については、僕はキース様に隠し事なんかしなかったのだけど、それでも何度も「確認」が入ったらしい。
他にもある。僕が知らない間に、婚約の手続きはほとんど終わっていた。王宮に提出する書類も既に取り寄せられていて、後は僕がサインするだけ。そして来年の卒業記念パーティーで着るための礼服や、結婚披露宴の会場、日程、招待客の選定と招待状などの手配なども、全て。
…もし僕がキース様の求婚を断っていたら、どうなっていたんだろう。
だけど、
「ああ、可愛いジャスパー。愛してるよ」
指輪を贈られたあの日から、キース様は僕に過剰なほど愛情表現を欠かさない。
「僕は臆病な男だ。君に拒絶されたらと思うと、どうしても先に気持ちを伝えられなかったんだ。回りくどいことをして、済まなかった。…こんな男に、愛想が尽きてしまったかい?」
あの日、泣き腫らした僕が乗合馬車のことを聞いた侍女さん。彼女はキース様のお母上の側近で、乳母だったらしい。乳母?僕とちょっとしか違わないように見えたんだけど?キース様のお母上もそうだ。ケラハー家の女性陣は、外見年齢がちょっとおかしい。
思考が逸れた。彼女は僕の様子がおかしいと、あの後すぐにお母上に告げたらしい。カトリーナ夫人は、キース様が他所の子息を騙し討ちのように連れ込んで、思いも告げずに手籠にしたことにたいそうご立腹で、あの後も再三折檻…いや、お説教を繰り返していらっしゃるそうだ。流石にキース様も、あれはまずかったということで、時折こうして僕に赦しを乞うようなことを仰る。———僕をキスで籠絡させてから。
僕が断れないの知ってて、こういうことをする。なんかちょっと、クリスティン様の「騙されてる」って仰るの、分かった気がする。分かった気がするけど、
「いいえ、キース様。…大好きです…」
そう言って、今度は僕から口付けた。
こうして文官を目指していた僕は、試験を受ける前に、永久就職が決まってしまった。もちろんその後もいろいろあったんだけど、それはまた別のお話。
✳︎✳︎✳︎
これでジャスパーの就職までのストーリーは完結です。
次回からは、キース視点になります。
読んでくださって、ありがとうございます!
ダイニングの時が止まった。
随分間抜けな声が漏れた。目玉が溢れ落ちるかと思った。恐る恐る隣のキース様を見上げると、満面の笑み。彼は「ん?」と首を傾げ、そして侯爵ご夫妻と大勢の使用人の皆さんの面前で、僕に口付けをした。へなへなと足から力が抜けてしまった僕は、彼にぎゅっと抱き留められる。
一体、何が起こっているのだろう。
「———キース」
背後から、夫人の低い声が聞こえる。
「はいっ、母上」
押し付けられた胸から響く、キース様の上機嫌なテノール。
「お前、その様は何なのです」
「どうかなさいましたか」
「どうかではないわッ!!!」
びりびりと雷鳴のような声が響いた。僕までびくりと跳ねた。
「…どう見ても、ジュール君の同意を取り付けたようには見えないのだが?」
バリトンの紳士の声が響く。お父上だろうか。
「はい。本懐は遂げましたので、同意はこれから」
「アホかーーー!!!」
耳をつんざくお母上の雷鳴。
「本懐ってお前、同意もなく他所様のご子息を攫って来て、手ェ出してんじゃねぇぞこのボンクラ息子!!!」
「嫌だなぁ母上。僕たちはちゃんと愛し合ってますよ。ねぇ、ジャスパー?」
「あ、愛?」
さっきから、理解が追いつかない。間抜けな顔で、間抜けな声を発している自覚はある。あるんだけど…
「あー、ジュール君。君、息子に騙されて連れて来られたんじゃないのかね。コイツは昔からどうもそういうところがあって」
「今度という今度は性根を叩き直してくれる!そこへ直れ!!」
「ええと母上。僕はこれから愛を確かめ合って、同意を取り付けなければなりませんので。じゃあジャスパー、行こう」
「うわっ」
僕の視界はぐるんと回転し、キース様の腕にすっぽりと抱え込まれた。いわゆるお姫様抱っこだ。僕は慌ててキース様の首に腕を回した。
「それでは失礼します!」
キース様は一言そう告げると、風のようにダイニングから辞去した。
僕はこれでも成人した男だ。細身だけど、身長は平均ぎりぎり。軽いはずがない。なのにキース様は、まるで羽が生えたように軽やかなステップで、別邸に駆け込んだ。さっき出て行ったばっかりなのに、もう戻って来ちゃった。
朝、一人で目覚めたベッドに、そっと降ろされる。シーツは取り替えられたみたいだけど、ロームはそのまま大人しく、ぽよぽよと留守番していた。
「えっと…」
未だに状況が飲み込めない僕の前に、キース様が跪く。
「ジャスパー。順番が前後してごめんね。君には全て準備が整ってから、申し込みたかったんだ」
彼はベストの胸ポケットから小箱を取り出し、
「どうか、僕の伴侶になってくれないかな」
僕の目の前で、それを開いた。中には、彼の瞳の色のタンジェリンガーネットをあしらった、白金の指輪。
「は、伴侶って…」
僕には言いたいことがたくさんあった、はずだ。僕男ですけど、とか。僕なんかのどこがいいんですか、とか。子供産めませんよ、とか。剣術や槍術のスキルも持ってないし、有力な貴族の子息でもないから何の得にもならないし、容姿だって地味だし、それから、それから。キース様に釣り合うものとか、キース様に差し上げられるものなんか、何もなくて。
でも。
え、でも、あの、とか言いながら固まってる僕の薬指に、キース様はさっさと指輪を通して、耳元で囁いた。
「…嫌?」
そしてそのまま、僕たちは再びベッドの住人となった。
せっかく用意してもらった上等な服も、くしゃくしゃになって。丁寧に結ってもらったリボンも解け。タオルですっきりさせた目から、また涙が溢れ出して。
「ん、ふっ、キース、んちゅっ…」
キース様は、噛み付くようなキスを繰り返し、僕を性急に求める。余裕のない彼は初めてだ。準備もそこそこに繋がろうとする彼を、またロームがあっという間に僕の中に導き入れ、それからずっと強く揺さぶられている。
何故、こんなことになってるんだろう。何故、僕なんだろうか。だけどさっき、キース様はご両親の前で、僕を伴侶だって紹介されて…左手の薬指には、彼の色のリングが輝いている。僕のナカは彼でいっぱいだ。心も。
本当に僕でいいのって、何度も口をついて出そうになるけど、その度に唇は塞がれ、激しく突き上げられ、快楽の波にさらわれて、どんどん上書きされる。
「キ…ああああっ…!!♡」
ひときわ大きくなったキース様が爆ぜて、熱い精が僕の中に染み渡る。
「愛してるよ、ジャスパー。僕の最愛」
荒い呼吸と共に耳元で囁かれる。ああもう僕、今死んでもいい。
「キース様…僕も、お慕いしています…」
お互いの気持ちを確かめ合い、ひとしきり愛し合ってうつらうつらしていると、もうお昼を過ぎてたみたいだ。うっかり朝食を摂り損ねた僕たちは、あまりにお腹が空き過ぎて、目を覚ました。キース様が扉を開けると、廊下には食事の乗ったワゴンがあって、僕たちは照れながら食べた。その後は、またそういう雰囲気になっちゃって、夜半に目が覚めて、同じことを繰り返して。
自分でも、浮かれてるなって思う。馬鹿んなっちゃってる。だけど、初恋の人にプロポーズされて、浮かれるなって方が無理だ。僕はいっぱい泣いて、いっぱいキスされて、ロームと一緒にいっぱい愛されて、すごく幸せだった。
中途半端な時間に眠ってしまったせいか、翌朝はちょっと早く目が覚めた。
僕が目覚めたのを見計らったかのように、控えめなノックの音がする。昨日の侍女さんが、また僕の身支度を手伝ってくれた。今朝もキース様は朝の鍛錬でいらっしゃらないようだけど、何だか窓の外が騒がしい。身支度が終わって目を遣ると、眼下に血まみれのキース様が見えた。
僕は急いで駆けつけた。
別邸の裏手は訓練場。そこには傷だらけのキース様と、サーコートの侯爵様、スリットの深いドレスの夫人がいらした。
「キース様!」
僕が駆け寄ると、夫人に制止された。
「ジュール君。今、息子の性根を叩き直してる所なの。迷惑かけて、本当にごめんなさいね」
そう言って、僕に慈母のような笑みを向けた後、彼女の鞭がヒュパァン!と地面を叩いた。
「オラァ!お前ぇよぉ、惚れた男ォ泣かしてんじゃねぇぞォ!!」
「は、母上ッ」
「ジュール君。カトリーナがこうなったら止められんのだ。しばらく辛抱してくれ」
侯爵様が僕を背後に匿って、小声で囁かれる。だけど、
「待ってください!ぼ、僕もキース様のこと、お慕いしてますからッ!!」
僕はそう言って飛び出して、キース様を抱き起こし、ありったけの魔力を込めて、完全回復を掛けた。
「ジャスパー…」
僕の腕の中で、キース様が驚いた顔をしている。良かった。酷い怪我みたいに見えて慌てちゃったけど、冷静に考えたら、お母上がキース様のこと、そんな大怪我をさせるわけないもんね。恥ずかしい。かすり傷の割には、ちょっと出血が多いようだけど…。
その後のことは、簡単に説明しようと思う。
僕が慌てて完全回復を掛けた結果、込めた魔力が強過ぎて、周りに漏れたらしい。侯爵様の古傷が治り、夫人のお肌がすべすべになったとかで、僕はひどく歓待を受けた。お母上が、キース様に何度も「逃すなよ、絶対逃すなよ」と仰ってたのがちょっと怖い。
結局騎士団については、一応隣接する騎士団の施設も見学させていただいたけど、僕は働いても働かなくてもどっちでもいいと言われてしまった。だけど、事務仕事や治癒師の手が常に不足しているのは、本当らしい。僕に出来ることでお役に立てるなら、精一杯頑張ろうと思う。
帰りの道中は、侍女さんが騎士の装備で馬で付き添われることなった。軍部大臣ケラハー家の侍女たるもの、戦闘能力は有して当たり前らしく、皆さん騎士でもあるそうだ。二人きりになった車内では、その、キース様にあれこれされることになっちゃったんだけど、御者さんや騎士の皆さんは、生暖かい目で見過ごして下さった。
学園に帰ると、キース様は早速僕らの婚約をケネス殿下に報告した。
「あら、キースにしては遅かったんじゃありませんの?」
とクリスティン様。知らなかったのは僕だけで、どうやらキース様が僕との婚約を計画されていたのは、周知の事実だったみたいで…。
「『将を射んと欲すればまず馬を射よ』遠い国のことわざですよ」
キース様はさらりと答えられる。
「皆ジャスパーを狙っていたのに、お前の牽制は凄かったからな」
「ジャスパー、あなたこの男の外面に騙されてますのよ」
「え、騙…」
「嫌だなぁクリスティン様。人聞きの悪い」
「この男に愛想が尽きたら、いつでもケインズに来い。君なら大歓迎だ」
何だろう。みんなにこやかなのに、この不穏な空気は。
その後、ケネス殿下やクリスティン様の仰っていたことが、ちょっとずつ分かって来た。
侯爵領から帰って数日後、実家から一通の手紙が届いた。中にはたった一文、
『問題ない、万事侯爵家の意に沿うようにせよ』
とだけ。実家は遠い。差し出しの日付は、僕が面接に出かけるしばらく前だった。
後で帰省した時に訊いたら、キース様から何度も婚約の打診と条件のすり合わせがあったそうだ。もちろん、寄り親の辺境伯家とも。それも随分前からだ。父上も母上も、僕がとっくに了承して話を進めているのだと思っていた、とのこと。
進路指導の先生は、僕が婚約して騎士団に就職すると知ると、「やっとか、よかった」とため息を吐かれた。僕の知らない間に、キース様から根掘り葉…詳細な問い合わせが後を絶たなかったそうだ。個人情報だからと突っぱねて下さったが、相手は侯爵家で、難儀したと。進路については、僕はキース様に隠し事なんかしなかったのだけど、それでも何度も「確認」が入ったらしい。
他にもある。僕が知らない間に、婚約の手続きはほとんど終わっていた。王宮に提出する書類も既に取り寄せられていて、後は僕がサインするだけ。そして来年の卒業記念パーティーで着るための礼服や、結婚披露宴の会場、日程、招待客の選定と招待状などの手配なども、全て。
…もし僕がキース様の求婚を断っていたら、どうなっていたんだろう。
だけど、
「ああ、可愛いジャスパー。愛してるよ」
指輪を贈られたあの日から、キース様は僕に過剰なほど愛情表現を欠かさない。
「僕は臆病な男だ。君に拒絶されたらと思うと、どうしても先に気持ちを伝えられなかったんだ。回りくどいことをして、済まなかった。…こんな男に、愛想が尽きてしまったかい?」
あの日、泣き腫らした僕が乗合馬車のことを聞いた侍女さん。彼女はキース様のお母上の側近で、乳母だったらしい。乳母?僕とちょっとしか違わないように見えたんだけど?キース様のお母上もそうだ。ケラハー家の女性陣は、外見年齢がちょっとおかしい。
思考が逸れた。彼女は僕の様子がおかしいと、あの後すぐにお母上に告げたらしい。カトリーナ夫人は、キース様が他所の子息を騙し討ちのように連れ込んで、思いも告げずに手籠にしたことにたいそうご立腹で、あの後も再三折檻…いや、お説教を繰り返していらっしゃるそうだ。流石にキース様も、あれはまずかったということで、時折こうして僕に赦しを乞うようなことを仰る。———僕をキスで籠絡させてから。
僕が断れないの知ってて、こういうことをする。なんかちょっと、クリスティン様の「騙されてる」って仰るの、分かった気がする。分かった気がするけど、
「いいえ、キース様。…大好きです…」
そう言って、今度は僕から口付けた。
こうして文官を目指していた僕は、試験を受ける前に、永久就職が決まってしまった。もちろんその後もいろいろあったんだけど、それはまた別のお話。
✳︎✳︎✳︎
これでジャスパーの就職までのストーリーは完結です。
次回からは、キース視点になります。
読んでくださって、ありがとうございます!
76
お気に入りに追加
326
あなたにおすすめの小説

オッサン、エルフの森の歌姫【ディーバ】になる
クロタ
BL
召喚儀式の失敗で、現代日本から異世界に飛ばされて捨てられたオッサン(39歳)と、彼を拾って過保護に庇護するエルフ(300歳、外見年齢20代)のお話です。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【完結】実はチートの転生者、無能と言われるのに飽きて実力を解放する
エース皇命
ファンタジー
【HOTランキング1位獲得作品!!】
最強スキル『適応』を与えられた転生者ジャック・ストロングは16歳。
戦士になり、王国に潜む悪を倒すためのユピテル英才学園に入学して3ヶ月がたっていた。
目立たないために実力を隠していたジャックだが、学園長から次のテストで成績がよくないと退学だと脅され、ついに実力を解放していく。
ジャックのライバルとなる個性豊かな生徒たち、実力ある先生たちにも注目!!
彼らのハチャメチャ学園生活から目が離せない!!
※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも投稿中
男子高校生だった俺は異世界で幼児になり 訳あり筋肉ムキムキ集団に保護されました。
カヨワイさつき
ファンタジー
高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。
今年のメインイベントは受験、
あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。
だがそんな彼は飛行機が苦手だった。
電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?!
あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな?
急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。
さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?!
変なレアスキルや神具、
八百万(やおよろず)の神の加護。
レアチート盛りだくさん?!
半ばあたりシリアス
後半ざまぁ。
訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前
お腹がすいた時に食べたい食べ物など
思いついた名前とかをもじり、
なんとか、名前決めてます。
***
お名前使用してもいいよ💕っていう
心優しい方、教えて下さい🥺
悪役には使わないようにします、たぶん。
ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
こわいかおの獣人騎士が、仕事大好きトリマーに秒で堕とされた結果
てへぺろ
恋愛
仕事大好きトリマーである黒木優子(クロキ)が召喚されたのは、毛並みの手入れが行き届いていない、犬系獣人たちの国だった。
とりあえず、護衛兼監視役として来たのは、ハスキー系獣人であるルーサー。不機嫌そうににらんでくるものの、ハスキー大好きなクロキにはそんなの関係なかった。
「とりあえずブラッシングさせてくれません?」
毎日、獣人たちのお手入れに精を出しては、ルーサーを(犬的に)愛でる日々。
そのうち、ルーサーはクロキを女性として意識するようになるものの、クロキは彼を犬としかみていなくて……。
※獣人のケモ度が高い世界での恋愛話ですが、ケモナー向けではないです。ズーフィリア向けでもないです。
婚約破棄された俺の農業異世界生活
深山恐竜
BL
「もう一度婚約してくれ」
冤罪で婚約破棄された俺の中身は、異世界転生した農学専攻の大学生!
庶民になって好きなだけ農業に勤しんでいたら、いつの間にか「畑の賢者」と呼ばれていた。
そこに皇子からの迎えが来て復縁を求められる。
皇子の魔の手から逃げ回ってると、幼馴染みの神官が‥。
(ムーンライトノベルズ様、fujossy様にも掲載中)
(第四回fujossy小説大賞エントリー中)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる