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楼蘭妃の憂鬱
家出しました
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漆黒の闇の中を、ぽつりぽつりと見える地上の明かりを頼りに、南東へと進む。約半年掛けて、陸路を辿って来た街道を遥か下に見ながら、私は同じ道のりを遡る。
龍の番は二人で一つ。レナードの、地上のどの生き物よりも速く翔ぶ能力は、私にも備わっているらしい。それも知らなかった。私はただ、毎日窓の外に飛び立って行くレナードを、自分に与えられた宮殿で待つだけだった。それに不満は無かった。だけど------
執務から帰る夫と顔を合わせたくなくて、夕刻前に飛び出した。東に進むほど、空は闇の色に飲まれて行く。真っ直ぐ全力で翔べば、もっと速く進めるだろう。だが、夫と仲睦まじく過ごした長い馬車旅、土地勘のない私には、慎重に人の営みを辿るしかなかった。
上空は澄んだ空気。頭上には満天の星と、冴え冴えとした月が浮かんでいる。見慣れたと思っていた夜空が、全く別の顔を持っていたと、初めて知った。私にはまだ知らないことが多すぎる。
やがて東の空が白み始めた頃、やっと見慣れた景色を見つけた。一年前、もう二度と帰ることもないだろうと出奔した王都。城壁の兵士に見つからぬように注意を払い、私はそっとリドゲート家の門の前に降り立つ。
異国の装束を纏い、いきなり目の前に現れた私を、門番は驚きながらも速やかに館の中へ迎え入れた。未だ夜明け前だというのに、間もなく家令が玄関までやって来て、私をかつての自室へ案内した。私も初めての遠出で気を張っていたようだ。昔のように、蜂蜜を溶かしたホットミルクを供されて、私は泥のように眠った。
目覚めると、陽は既に高く昇っていた。私はメイドに促され、ゆっくりと湯を浴びて身支度をした。私の部屋は、家具や持ち物もそのまま残されていた。しかし子を孕み、微かだが膨らんだ腹を収めるのに、一年前の服は窮屈だった。取り急ぎ、体格の良い次兄の服を一式貰い受け、メイドが急いで丈を詰め、それを着せられた。
ダイニングに降りると、母上が私を待っていた。
「お帰りなさい、ローレンス」
使用人がいるにも関わらず、広げられた腕の中で、私は幼い頃より久方ぶりに、声を上げて泣いた。
簡単な食事を摂り、私は母上の部屋に通された。彼女は人払いし、根気良く私の話に耳を傾けた。私は心の内を吐露するのが得意ではない。また、親子といえど話せないことはたくさんある。だが、決して急かされず、何も求められず、ただ側に寄り添ってもらえることがどれだけ心を慰められるか、私は思い知った。
「ローレンス。結婚とは、ゴールではなくて、スタートなのですよ」
私が落ち着いた頃、母上はぽつりと呟いた。同じ国内の貴族の家から嫁いでも、お互い育って来た文化も、当たり前だと思っていた常識も、全く違う。まして国や種族が違えば尚更だ。それをお互い話し合い、時にはぶつかり傷つけ合って、そして夫婦は成長して行くものなのだと。そして。
「お説教はここまでよ。…ふふ。男の人って、いつまでも赤ちゃんなのよ」
ここからは「女同士の話」だと、母上はウィンクした。そしてそこから、彼女の怒涛の愚痴大会が始まった。曰く、一番上の兄上の時には仕事にかまけて一週間経っても城から帰らず、名前も付けようとしなかったこと。二番目の兄上を懐妊した時には、あろうことか「出来てしまったのか」と口走ったこと。三番目の兄上の時には上二人の反省を踏まえて毎日うざったいほどチヤホヤした挙句、名前も決めて立ち合い出産に臨んだが、あまりの壮絶さに気を失って邪魔にしかならなかったこと。そして私が生まれた時は、ついに翼龍に嫁に行く男子が生まれてしまったと、この世の終わりのように嘆き悲しんだこと。
その他、髪型を変えても邸内の設を変えても気付きもせず、結婚記念日は毎年忘れられ、流行り病で生死の境を彷徨った時には、ようやく回復してから慌てて帰宅する。エトセトラ、エトセトラ。
「まったく…ローレンス。凡そ男というものに、察しの良さを期待してはなりません」
ローレンスは、自分の父親が想像以上の朴念仁だったことに衝撃を受け、そしてきっとレナードも同じことをしそうだと二度衝撃を受けた。更に、自分がもし妻を娶っていたら、やはり同じことをしそうだと思い当たり、強かに打ちのめされた。
「でもね、ローレンス。男の察しが良いのは、女を口説く時だけ。察しの良い男とは、遊び人か、男性の姿をした乙女だけですのよ」
「男とは得てして釣った魚に餌をやらないものです。大人しく餌を待っていてはいけませんよ。その手から餌を食いちぎり、奪い取るのです」
「こちとら、誰の子を命懸けで孕み、産み育てていると思っているのかしら。女を舐めんじゃねぇぞコラ、ということですわ」
「いいですかローレンス。相手を大人だと思ってはなりません。夫は5歳児。『産んだ覚えのない長男』なのです」
恐ろしい。いつも柔らかい笑みを絶やさない温厚な母上が、内面にこのようなドス黒い怒りを隠し持っていたとは。しかし分かる。分かり過ぎる。思わず身を乗り出して、ひたすら頷いていると、
「ああローレンス。うちは男の子ばかりでしたから、こうしてあなたと女の秘密を分かち合えて、私は嬉しいわ」
そう言って、彼女は母親の顔に戻ると、
「お腹に赤ちゃんがいると、とても心が不安定になるの。だから、お家に籠もっていたら塞いでしまうわ。せっかく実家に帰って来たんだもの、たまにはのんびりしていらっしゃい」
私を柔らかくハグして、微笑んだ。
それから私は、母上の言葉通り、のんびりと過ごした。龍神に嫁ぎ、龍の卵を二つ携え、腹にもう一つ抱えて戻った私のことを、母上のみならず、父上も使用人も皆、温かく受け入れてくれた。特に、母上を差し置いて父上が、卵を見て大泣きし、そして私の腹を見て更に号泣していた。長兄には既に子がいて、初孫でもあるまいに。母上は「内孫と外孫では、また感じるものが違うのでしょう」と穏やかに微笑んでいたが、「私の時には無関心だったくせに」という黒い呟きを私は聞き逃さなかった。
昼間は、茶を嗜みながら母上や侍女たちと刺繍。卵たちが孵化するのはまだ先のことだが、彼らのために、鈴の付いたリボンを作ろうということになった。卵から孵った子供たちは、恐らくかつてのレナードのような小さな翼蛇であろう。人間の子供と違い、産着を用意するわけには行かない。ならばせめて首に小さなリボンでも付けてやりたい。
侍女たちとおしゃべりをしながらの手芸は楽しかった。まず無心になれるのがいい。そして母上のみならず、女性は多かれ少なかれ、大体彼女のような不満を抱き、しかしその上で男を手のひらの上で転がす強かさを持っていた。私もいずれ、見習わなければなるまい。
時折、気晴らしにと王都の街へと繰り出した。ほんの一年前まで暮らしていた街なのに、今では目に映るものが全く違う。子供向けのおもちゃの店、女性向けの装飾品の店、菓子店や茶店など。我が子が喜ぶだろうか、女官や姉上、アネシュカたちの手土産にどうだろうか。そんなことばかり考えている。そして紳士洋品店を覗いては、あれは夫に似合うだろうか、あれは彼の色のタイピン…などと。でもまだ彼に会いたくない。顔を見たら、きっと冷静では居られなさそうだ。
母上の仰る通りだ。子を授かって、少し感傷的になっているらしい。季節は間もなく春。学園ではそろそろ卒業パーティーが開かれ、同期の学生たちが新しい門出を迎えようとしているのだろう。私は一年早く巣立ったが、彼らは健勝だろうか。
「…う…」
その時、腹部に違和感を感じた。この違和感を、私は知っている。陣痛------
侍女が私の名を叫びながら馬車を呼んでいる。揺れて暗転した視界の遠く向こうで、私はその声をぼんやりと聞いていた。
龍の番は二人で一つ。レナードの、地上のどの生き物よりも速く翔ぶ能力は、私にも備わっているらしい。それも知らなかった。私はただ、毎日窓の外に飛び立って行くレナードを、自分に与えられた宮殿で待つだけだった。それに不満は無かった。だけど------
執務から帰る夫と顔を合わせたくなくて、夕刻前に飛び出した。東に進むほど、空は闇の色に飲まれて行く。真っ直ぐ全力で翔べば、もっと速く進めるだろう。だが、夫と仲睦まじく過ごした長い馬車旅、土地勘のない私には、慎重に人の営みを辿るしかなかった。
上空は澄んだ空気。頭上には満天の星と、冴え冴えとした月が浮かんでいる。見慣れたと思っていた夜空が、全く別の顔を持っていたと、初めて知った。私にはまだ知らないことが多すぎる。
やがて東の空が白み始めた頃、やっと見慣れた景色を見つけた。一年前、もう二度と帰ることもないだろうと出奔した王都。城壁の兵士に見つからぬように注意を払い、私はそっとリドゲート家の門の前に降り立つ。
異国の装束を纏い、いきなり目の前に現れた私を、門番は驚きながらも速やかに館の中へ迎え入れた。未だ夜明け前だというのに、間もなく家令が玄関までやって来て、私をかつての自室へ案内した。私も初めての遠出で気を張っていたようだ。昔のように、蜂蜜を溶かしたホットミルクを供されて、私は泥のように眠った。
目覚めると、陽は既に高く昇っていた。私はメイドに促され、ゆっくりと湯を浴びて身支度をした。私の部屋は、家具や持ち物もそのまま残されていた。しかし子を孕み、微かだが膨らんだ腹を収めるのに、一年前の服は窮屈だった。取り急ぎ、体格の良い次兄の服を一式貰い受け、メイドが急いで丈を詰め、それを着せられた。
ダイニングに降りると、母上が私を待っていた。
「お帰りなさい、ローレンス」
使用人がいるにも関わらず、広げられた腕の中で、私は幼い頃より久方ぶりに、声を上げて泣いた。
簡単な食事を摂り、私は母上の部屋に通された。彼女は人払いし、根気良く私の話に耳を傾けた。私は心の内を吐露するのが得意ではない。また、親子といえど話せないことはたくさんある。だが、決して急かされず、何も求められず、ただ側に寄り添ってもらえることがどれだけ心を慰められるか、私は思い知った。
「ローレンス。結婚とは、ゴールではなくて、スタートなのですよ」
私が落ち着いた頃、母上はぽつりと呟いた。同じ国内の貴族の家から嫁いでも、お互い育って来た文化も、当たり前だと思っていた常識も、全く違う。まして国や種族が違えば尚更だ。それをお互い話し合い、時にはぶつかり傷つけ合って、そして夫婦は成長して行くものなのだと。そして。
「お説教はここまでよ。…ふふ。男の人って、いつまでも赤ちゃんなのよ」
ここからは「女同士の話」だと、母上はウィンクした。そしてそこから、彼女の怒涛の愚痴大会が始まった。曰く、一番上の兄上の時には仕事にかまけて一週間経っても城から帰らず、名前も付けようとしなかったこと。二番目の兄上を懐妊した時には、あろうことか「出来てしまったのか」と口走ったこと。三番目の兄上の時には上二人の反省を踏まえて毎日うざったいほどチヤホヤした挙句、名前も決めて立ち合い出産に臨んだが、あまりの壮絶さに気を失って邪魔にしかならなかったこと。そして私が生まれた時は、ついに翼龍に嫁に行く男子が生まれてしまったと、この世の終わりのように嘆き悲しんだこと。
その他、髪型を変えても邸内の設を変えても気付きもせず、結婚記念日は毎年忘れられ、流行り病で生死の境を彷徨った時には、ようやく回復してから慌てて帰宅する。エトセトラ、エトセトラ。
「まったく…ローレンス。凡そ男というものに、察しの良さを期待してはなりません」
ローレンスは、自分の父親が想像以上の朴念仁だったことに衝撃を受け、そしてきっとレナードも同じことをしそうだと二度衝撃を受けた。更に、自分がもし妻を娶っていたら、やはり同じことをしそうだと思い当たり、強かに打ちのめされた。
「でもね、ローレンス。男の察しが良いのは、女を口説く時だけ。察しの良い男とは、遊び人か、男性の姿をした乙女だけですのよ」
「男とは得てして釣った魚に餌をやらないものです。大人しく餌を待っていてはいけませんよ。その手から餌を食いちぎり、奪い取るのです」
「こちとら、誰の子を命懸けで孕み、産み育てていると思っているのかしら。女を舐めんじゃねぇぞコラ、ということですわ」
「いいですかローレンス。相手を大人だと思ってはなりません。夫は5歳児。『産んだ覚えのない長男』なのです」
恐ろしい。いつも柔らかい笑みを絶やさない温厚な母上が、内面にこのようなドス黒い怒りを隠し持っていたとは。しかし分かる。分かり過ぎる。思わず身を乗り出して、ひたすら頷いていると、
「ああローレンス。うちは男の子ばかりでしたから、こうしてあなたと女の秘密を分かち合えて、私は嬉しいわ」
そう言って、彼女は母親の顔に戻ると、
「お腹に赤ちゃんがいると、とても心が不安定になるの。だから、お家に籠もっていたら塞いでしまうわ。せっかく実家に帰って来たんだもの、たまにはのんびりしていらっしゃい」
私を柔らかくハグして、微笑んだ。
それから私は、母上の言葉通り、のんびりと過ごした。龍神に嫁ぎ、龍の卵を二つ携え、腹にもう一つ抱えて戻った私のことを、母上のみならず、父上も使用人も皆、温かく受け入れてくれた。特に、母上を差し置いて父上が、卵を見て大泣きし、そして私の腹を見て更に号泣していた。長兄には既に子がいて、初孫でもあるまいに。母上は「内孫と外孫では、また感じるものが違うのでしょう」と穏やかに微笑んでいたが、「私の時には無関心だったくせに」という黒い呟きを私は聞き逃さなかった。
昼間は、茶を嗜みながら母上や侍女たちと刺繍。卵たちが孵化するのはまだ先のことだが、彼らのために、鈴の付いたリボンを作ろうということになった。卵から孵った子供たちは、恐らくかつてのレナードのような小さな翼蛇であろう。人間の子供と違い、産着を用意するわけには行かない。ならばせめて首に小さなリボンでも付けてやりたい。
侍女たちとおしゃべりをしながらの手芸は楽しかった。まず無心になれるのがいい。そして母上のみならず、女性は多かれ少なかれ、大体彼女のような不満を抱き、しかしその上で男を手のひらの上で転がす強かさを持っていた。私もいずれ、見習わなければなるまい。
時折、気晴らしにと王都の街へと繰り出した。ほんの一年前まで暮らしていた街なのに、今では目に映るものが全く違う。子供向けのおもちゃの店、女性向けの装飾品の店、菓子店や茶店など。我が子が喜ぶだろうか、女官や姉上、アネシュカたちの手土産にどうだろうか。そんなことばかり考えている。そして紳士洋品店を覗いては、あれは夫に似合うだろうか、あれは彼の色のタイピン…などと。でもまだ彼に会いたくない。顔を見たら、きっと冷静では居られなさそうだ。
母上の仰る通りだ。子を授かって、少し感傷的になっているらしい。季節は間もなく春。学園ではそろそろ卒業パーティーが開かれ、同期の学生たちが新しい門出を迎えようとしているのだろう。私は一年早く巣立ったが、彼らは健勝だろうか。
「…う…」
その時、腹部に違和感を感じた。この違和感を、私は知っている。陣痛------
侍女が私の名を叫びながら馬車を呼んでいる。揺れて暗転した視界の遠く向こうで、私はその声をぼんやりと聞いていた。
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