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Heart 三年詩 ―MITOSEUTA―
第6話 第二章 和彦 (中編2)
しおりを挟むココアを飲み終え、席を立った和彦が再び窓辺に歩み寄る。その背を見詰めて物思いに耽る園長。
赤子の時の弱々しさが嘘のように、心身とも逞しく育った彼。ワイシャツに包まれた広い背中は既に一人前の男のそれだった。
そのシルエットがもっと小さく感じていた頃、いつもその傍らにいたもう一つの影を思い出す。和彦と対照的に線の細い身体。10歳から抱えてしまった大患に苦しんでいた筈のその顔は、自分達職員の前では常に穏やかな笑みを湛えていた。
和彦のことを考える時、必ず一緒に甦ってきてしまうその人の思い出が脳裏を掠め、彼女は込み上げる熱いものを懸命に堪えようとする。しかし、年齢の所為か昔より緩くなってしまった涙腺には、僅かに溢れた感情の雫を止めることが叶わなかった。
「――先生?」
振り返った和彦の目が、園長の白面を捉えて静止する。ぽろりと零れた涙を彼女は慌てて拭った。
「…あ、ごめんなさいね。貴方を見てると、どうしても直くんを思い出してしまって……。和くんがこんなに立派に成長してくれたから、尚更――」
自重の息を漏らし、和彦に緩く微笑んで見せる。彼の蒼黒の瞳が憂いを帯びて揺れていた。
――和彦が入所した三ヶ月あとに園へ来た乳飲み子。稚いうちから愛らしかった瓊姿は、長ずるに連れてその静かな美しさを増していった。
長年多くの子供を育て社会に送り出してきた自分達が、それまで見たことも無いほど純真で清麗な心と身体を持っていた男の子。限られた天命を知りながら誰にでも優しく接し、退所後も皆の胸に温もりを与えてくれていた彼の最期を知った時、思わず泣き崩れてしまった自分。発症当時から望んでいた奇跡が最後まで得られなかった理不尽さと、覚悟したものと懸け離れていた別れのショックに、暫く立ち直れなかった。
天使のようだったその存在はやはりひと時だけの神様からの贈り物であったのかと、嘆きと落胆の思いに囚われた自身の精神。――そう。彼を手に掛けた恋人の中にその命が息衝いていると、和彦から聴かされるまでは――。
園にいた間、片時も直人から離れようとしなかった和彦。ずっと支えてきた人を失った時の彼の悲しみは、自分とは比べようも無いほど深く激しいものだった筈。
切なそうに翳りを載せたその表情に、未だ胸に余る想いを抱えた彼の苦衷が窺えた。
「――明日、行くの…?」
「ええ」
「…あれからもう四年になるのね…。貴方達の小さかった頃のことが、まるで昨日の出来事みたいにはっきりと浮かんでくるのに……」
言って目線を遠くに投げる声の主。とある日の光景が頭を過ったらしい彼女が、懐かしそうに薄く笑った。
「……やっぱり、何年経っても変わらないわね、和くんは。自分の希望を叶える為なら、どんな面倒も骨折りも苦労とは思わない。――直くんが入院した時も、貴方はずっと病院に通い詰めてた。最初の三日間は学校にすら行かずに…。どんなに叱っても宥めても、『僕も病室に泊まる。僕が直人を護るんだから』って聞かなくて。遠いのに通う中学を譲らなかった時もそう。……本当に、一途だったのね――」
「……」
自分の気持ちを理解してくれる温かい声音。それに誘われるように、和彦も過去の自身を追想する。幼い日の自分は、数年前の己以上に雄々しく彼を護っていた。
――一体いつからそれほど想うようになったのか、もう憶えていない。気付いた時には、既に誰より何より大切な存在だった。
恋情を自覚し思春期を迎えて、何度も奪いたいと思った唇、穢れないその身体。病と向き合いながら無邪気に自分を頼ってくる彼が身も心も苦しむことになると分かっている自身に、それは出来得ることでは無かった。
感情のままにぶつければ、大切な人を壊してしまい兼ねない激しい想い。それを封じて高校からは敢えて離れた環境に身を置いたのに、その透きを衝くようにして恋しい人は突然横合いから攫われていった――。
小さく嘆息して、和彦は窓ガラスの表面を見る。服役中の晶の様子が再度思い起こされた。
『――これ、どう思う?』
何度目かの面会時、アクリルの仕切り板越しに一冊のノートを見せてきた彼。真っ青に塗り潰されているように見えたページには、青鉛筆で四角張った建物の絵が描かれていた。朧げな記憶を頼りに描いたのであろうそれは、直人が住んでいた二階建てのアパート。細部が多少怪しいものの、写真も何も無い状況で全体の印象を的確に描き出したその青い絵に、暫し言葉を失った。
「――これは……」
「たまにだけど、急に描きたくなることがあるんだ。色鉛筆なんて小学校ん時以来持った覚えねぇのにさ」
苦笑しながらノートを捲り、他にも幾つか描き込んだ練習画を見せる。仕切り板に顔を寄せてまじまじと見入ったそれらには、必ず感じる想い人の気配があった。
「…梶原先生から聞いてはいたけど、本当に描くんだな。――何となく…直人のタッチに似てるような……」
「あー。まぁ、そりゃそうだろ。今まで直人の絵以外真剣に見たことなんてねぇし。頭ん中にあいつの描き方しか入ってねぇから、似るのも当然っつーか――。いや、勿論上手い、下手は別の話だけどな」
些か稚拙な線や塗りムラが目立つ晶の絵は、直人と比べるとまだまだ素人の領域だろう。だが、紙の上を覆う丁寧な塗り跡の一つ一つから、彼の内に宿るその人の想いが伝わってくる気がする。
細めて向けた目線の先で、陽光のような温みを持った眼差しが手の中のノートを見詰めていた。
「――俺は、あいつが描きたいと思ったものを、こうして形にしてやることくらいしか出来ねぇから――」
「けど、それならもっと上手くならなきゃな」と笑っていた晶。人好きのする笑顔と、直人に再会出来るようなその絵を、弟妹達にも見せてやりたいと思った。そして、彼女にも――。
「紗智子先生。明日の夕方、あいつをここに連れてこようかと思ってるんですけど――構いませんか?」
急に投げ掛けられた問いに、ぼんやりとカップを見ながら指で取っ手を撫でていた園長の睫毛が心持ち揺れる。和彦に向けた瞳が微かに戸惑いの色を滲ませた。
「……明日って――もしかして、香月君を…?」
「はい」
彼の貌に広がる円かな表情。少しだけ下方へ逸らした視線をその胸元に置いて、園長は心懸かりを口にする。
「――でも、貴方は……」
緩めた頤から息を漏らすように、和彦が自然な笑みを零した。
蟠りが全く無いと言えば嘘になる。大切な人を奪っていった男。彼に取り返しのつかない苦痛を与えた男。
――けれど、彼が心から愛し、その生の全てを共有するたった一人の男なのだ。
四年前から直人と二人で歩み出している晶。出遅れた自分は、同じ場所まで追い付くのにあとどれくらい掛かるだろうか。
「……あいつ、以前はそんな趣味もなかったらしいのに、最近絵を描くようになったんです。それが何処か直人の描き方に似てるんですよ。……先生も、見たらきっと――」
聴いた彼女の細面が上向き、和彦の目線と正面から向かい合う。目縁に浮かぶ柔和な微笑が、静かに承諾の意思を伝えていた。
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