Heart ~比翼の鳥~

いっぺい

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Heart  三年詩 ―MITOSEUTA―

第4話  第二章 和彦 (前編)

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 山裾に広がる静かな住宅街。山腹から緩やかに伸びて家並みを見下ろす高台に、一部鉄筋コンクリート構造の交じった木造の建物がある。日も沈んだ宵闇の中、一見小さな学校のようにも見えるその窓には明るい光が灯っていた。

 建物脇の駐車スペース。そこに滑り込むように駐まるミニバン車が一台。
 運転席から降りてきた人物は、急ぎ足で正面玄関へ歩み寄るとその大きな引き戸を開けた。

「――あら、かずくん。いらっしゃい。珍しいわね、平日のこんな時間に来るなんて」

 折しも玄関ホールを通り掛かっていた老年の女性が、驚いたように声を掛け近付いて来る。

「こんばんは、紗智子さちこ先生。今日は隣町の現場詰めだったんで、真っ直ぐこっちに来たんですけど――ああ、ちょうど夕食時間に重なっちゃったみたいですね」

 廊下の奥から漂ってくる温かな匂いに気付く青年。女性はにっこりと彼に微笑み掛けた。

「良かったら和くんも食べていかない? 貴方が一緒だと子供達も喜ぶわ。…あ、でもこれから会社に戻らなくちゃならないんだったら、無理は言えないけれど」


 ――児童養護施設『希光のぞみ園』。
 身寄りの無い、原則として中学校を卒業するまでの児童を養育する民営の福祉施設。常時十五人から二十人の子供達が生活を共にしている。
 規模が縮小され現在は別施設になっているが、数年前まで乳児院も併設されていたそこは、生後間もなく預けられた直人の『実家』であり、養子として司馬家に引き取られ今は立派な青年になった彼――和彦の『故郷』でもあった。


 軽く首を振り、切れ長のまなじりを下げる和彦。学生の時より幾分黒みの強いアッシュグレーがさらりと揺れる。

「いえ、直帰だから大丈夫です。それじゃぁお言葉に甘えて、久し振りにご馳走になっていこうかな」

「じゃ、すぐに用意するわね。もう子供達の配膳は済んでいるから、和くんも食堂に行って待ってて頂戴。――あっ、そうそう。今日はね、あの子も来てるのよ。たくくんが」

 嬉しそうに厨房の方へ向かおうとしてふと振り返ったその人の言葉に、靴を脱ぎ掛けていた和彦の動きがピタリと止まった。

「え…? 拓って…拓実たくみですか?」

「ええ。今日が初のお給料日だったんですって。子供達にお土産を買って来てくれてね、さっき一人一人に配っていたの。皆とっても喜んでいたわ」


「拓くんも食堂にいる筈よ」と言う彼女――紗智子園長に会釈して、和彦は来客用のスリッパを突っ掛け廊下奥の食堂へと歩を進める。戸口に立ち木製の引き戸に手を掛けた時、中から賑やかな話し声が聞こえてきた。

「――なら、拓実兄ちゃんはもう勉強しなくてもいいの?」

「アハハ、そうじゃないよ雄介。勉強だけの期間が終わっただけであって、これからはお仕事もしながらまだまだ沢山勉強していかなきゃいけないんだ。大人って大変なんだぞー。大きくなってから兄ちゃんみたいに勉強ばっかりしないで済むように、雄介も皆も学校でしっかり頑張るんだよ、いいね?」

「はーい!」

 思わず笑みが零れる。
 幼い弟妹きょうだい達のあどけない笑い声の合間から聞こえるセリフは、思い出の中の彼よりも少しばかり大人びていて。なのに、その明るい声音と朗らかな口調はあの頃と全く変わっていないような気がするのだ。なんだか笑えてくる。

 緩む口元を押さえつつガラリと戸を引く。室内の視線が一斉にこちらに向けられた。

「あっ、和兄ちゃんだ!」

「和彦お兄ちゃん、遊びに来てくれたの?」

 食卓に着いて話を聴いていた年少の子供達が、我先にと駆け寄ってくる。小学校の高学年や中学に通う子達も傍に来て、小さい弟妹の外側を取り巻いていた。
 膝に抱き付いてきた女の子を抱え上げ、自分を囲むように集まった面々の頭を一人ずつ撫でてやりながら、穏やかに微笑む和彦。

「今日は近くで仕事してたし、早く終わったからね。暫く来れなかったからと思って皆の顔を見に来たんだ」

「良い子にしてたか?」と尋ねると、沢山の元気な頷きが返ってきてふわりと心が和む。ついと目線を上げ部屋の奥に目を遣った。

 ――美味しそうな夕餉の食器が並ぶ三台の長食卓、その最も上座に当たる席。そこには、先刻まで輪の中心であった人物が椅子から半分腰を浮かした状態で固まっている。大きな目を見開き、ついでに口までポカンと開けてこちらを凝視する様に堪え切れず、小さく吹き出しながらその名を呼んだ。


「拓」


 瞬間、ピクッと揺れる彼の肩。

「……か、和兄かずにぃ…? ホントに和兄ぃなの?」

「ああ。久し振りだな、拓」

 返された柔らかな返答に、彼の顔には満面の笑みが広がる。
 椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった弾みに、ガタリと揺れた食卓の上の食器がカチャカチャと音を立てた。気にせずバタバタと走ってくると和彦の前に立つ。彼等の足元で間に挟まれる形になった男の子が、キョトンと二人の顔を見上げた。
 左腕に女児を抱いたまま、和彦は右手で彼の髪をくしゃりと撫でる。

「三年半振り…か? 前より随分デカくなったな」

「そうだよ、和兄ぃ。俺、もう子供じゃないんだから、そんなふうに撫でたりすんなよな」

 少し剥れながら、けれど懐かしそうに笑う。



 ――本条拓実ほんじょうたくみ
 六つ年下の彼が、和彦と同じように両親を亡くしてここへ入所してきたのは2歳の時。
 当時小学二年に進級しちょっとしたお兄さん気分に浸っていた和彦と直人は、新しく家族になった幼子をとても可愛がった。着替えを手伝ったり、遊び相手をしながらいろいろな言葉を教えたりと、二人で先を争うようにして彼の世話を焼いたものだ。

 直人が入院していた時期の和彦は落ち着かず、他のことまで気に掛ける余裕はほとんど無かったが、退院が決まってからは直人の分まで頑張ろうと率先して拓実の面倒を見ていた。病を抱えたまま施設に戻ってきた直人も、絵本を読んでやるなど自分に出来ることで精一杯の愛情を注ぎ、拓実は二人を実の兄同然に慕うようになっていったのだった――。



 大好きな兄の一人が引き取られていく時も激しく泣きじゃくった彼。直人に宥められ真っ赤に腫らした目を上げた幼顔を、和彦は今もはっきりと思い出すことが出来る。
 施設を出てからも頻繁にここを訪れ、日増しに大きくなっていく拓実の成長を楽しみにしていた自分。無事に中学まで卒業した彼が住み込みで働きながら学ぶ道を選んだ為、退所以来その姿を見ることが無かったのである。

 三年余り顔を合わせなかった弟――生来小柄で低い低いと気にしていたその身長は、会わない間に10センチ以上伸びたようだった。

「今、何センチなんだ?」

「163だよ――って、どうせまだチビじゃんて思ってんだろ?」

 180を越える兄に同次元で見られては堪らないと、上目遣いのその瞳が語っていた。


「いや――。本当に、大きくなった……」


 拓実の頭に載せた手がポンポンと優しくそれに触れる。
 懐旧の思いに細めた眼差し。じっと拓実に向けられていたそれは、ゆるりと閉じた瞼に一度遮られた後、諫めるような年長者あにの目線に変わっていた。

「――それにしても…配膳の済んでる食堂で走るなんて行儀が悪いぞ。拓だけじゃない、皆もだ。もうすぐ園長先生達も来る。ほら、ちゃんと席に着いて一緒に晩ご飯を食べよう」








「――で、これはこっちの公式になるわけだ」

「あ、そっか」

「教科書の演習問題と考え方は同じだから、例題と併せてしっかり復習しておくんだぞ」

「うんっ。和彦兄ちゃん、ありがとう!」

 英語や数学の勉強道具を抱え、中学生の男女四人が席を立つ。「また教えてねー」と言いつつ自室へ戻っていく後ろ影を見送って、和彦も立ち上がった。


 ――夕食後の食堂。
 難しい所を教えて欲しいと言う彼等に付き合うこと一時間弱。解り易く噛み砕いた説明で理解度の増した四人は、宿題プリントの問題を次々に解いていった。満面の喜色を思い返して自身も笑みながら、住宅街を望む窓際に立つ。

 見慣れた家々の灯り。その数が今より二割ほど少なかった頃、同じ窓から街を眺めて一緒に火影を数えた大切な人の横顔を思い出す。澄んだ灰色の瞳に映る外の光がとても綺麗だった。
 その幼い面立ちが、早送りするように大人のかんばせへと変わる。天使のような清らかさを纏うその人の隣に、赤い髪の彼の風姿が浮かんだ。



『――よう、久し振り。変わりねぇか?』


 塀の内側へ初めて面会に行った日――ニッと笑って声を掛けてきた晶に、自分が投げたセリフは何処か硬くぎこちなかった。

「……そっちこそ、体調は大丈夫なのか? 直人に負担掛けるような真似したら許さねぇからな」


 親族同然である奈美や秀一と違い、面会するにも申請が必要だった自身。更生に有効であると認められ許可されたこの身の内では、まだ己にも把握しきれない幾多の感情が渦巻いていた。
 それを知ってか知らずか、面会中一度も自分から目を逸らさなかった晶。笑んだまま「分かってるさ」と返した彼の面には、年齢以上の落ち着きが見て取れた――。



 細身のネクタイを軽く緩める。そのまま胸元で広げた右の掌に、和彦は目を落とした。



『触ってみるか…?』


 預り物を返した直後に言われた言葉。
 覚えず瞠った目の前で、晶がダウンコートの前を開いていた。

「ちゃんと自分で確かめろよ。俺が約束破ってねぇかどうか」

「……いいのか?」

「構わねぇぜ。――幾らでも、気の済むまであいつを感じればいい」

 手袋を外し、彼の胸にそっと押し当てた掌に伝わった確かな鼓動。セーター越しの心悸は、直人の柔らかな微笑みを思い起こさせる。
 顔と目を伏せじっと動きを止めたままの自分を、晶はただ黙って見守っていてくれた――。



 出所の日以来会っていない彼。短く揃えられていた微かに赤み掛かる黒髪は、きっとまた襟に届く程度に伸ばされて以前のように赤く染められているだろう。
 初めて顔を合わせた冬の日の記憶。ウルフカットのようにも見える無造作な髪型は、癖の強さも手伝って獅子のたてがみのようだった。まるで彼の性格そのものだなと、今更ながら笑いが漏れる。


「――和くん、先生役は終わったかしら?」

 軽いノックと静やかな声に気付くと、園長が食堂へ入ってくるところだった。傍へ来て和彦を見上げた彼女が申し訳なさそうに苦笑する。

「疲れてるでしょうに、子供達に付き合わせてごめんなさいね。――でも、毎回根気良く教えてくれてありがとう。あの子達いつも言ってるのよ。学校の先生より貴方に教わる方が解り易いって」

「俺は、特別なことは何も――。自分から学ぼうっていう気持ちがなかったら、誰が何を教えたって身には付かないと思うし……あいつらきっと勉強自体好きなんだろうな。――高校、希望してるんじゃないですか?」


 中学卒業までが基本だが、本人との面談で高校進学等の強い意向がある場合には、協議の上入所期間の延長が認められる。
 びっしりと細かい文字や赤線が書き込まれていた教科書に、和彦は彼等の熱心な勉学姿勢を見た気がした。


「そうなのよ。晴くんは一年生だからまだ考えてないみたいだけど、二年生の三人はもう志望校も決めててね。ゆかりちゃんと真菜ちゃんは全日の商業高校へ行きたいって。延長養育も決定しているわ。公くんは就職して定時制に行くって言ってるから、退所になるでしょうね」

「まだ時間は大丈夫?」と訊くその温顔を優しく見返す和彦。

「ええ。慌てて帰らなきゃならないような用事もないし、明日は休暇取ってますから。それに――少し先生と話がしたいと思ってたので」

「そうなの? じゃ、温かいココアでも淹れてゆっくりお話ししましょうか」

 頷く彼を見て園長は食堂隅のミニキッチンに向かう。ミルクパンに注いだ牛乳を温めながら、くるりと辺りを見回した。

「そういえば拓くんは?」

「あいつなら、レクルームで皆の遊び相手になってくれてますよ」

 手近の椅子に腰掛けた和彦が廊下の方を見遣る。玄関ホールを挟んだ向かいのレクリエーション室から、弟妹達の楽しげにはしゃぐ声が聞こえていた。


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