56 / 77
最終章 エピローグ
第56話
しおりを挟むふわりと散する白霞。冷え切った空気に放つ呼気が、刹那の熱を主張してから溶けていく。
一面銀で覆われた景色が、この場の清浄をより深いものにしていた。
深夜まで降り続いていた白雪。何の穢れも表に見せず朝日に煌めくその上を、晶はゆっくりと歩いていく。前方に見知った人物の影を見止めサクサクと音を立てながら近付くと、その眼前で立ち止まった。一瞬だけ相手に向けた視線を、すぐに横へと滑らせる。
「――ここか…」
薄く積もった雪を払い、白っぽいそれを見詰める。磨かれた表面には、楷書で『生命の碑』という銘が彫り込まれていた。
「…やっと、来れたな…」
持っていた小さな花束を銘の下へ置く。手を合わせ、静かに瞑目した。
あの運命の日から四ヶ月――。
その半分を眠りに護られて過ごし、残りの半分は厳しい現実と闘ってきた。選んだ道が甘くは無いことを思い知らされながらも、全身全霊で犯した罪を償おうとする心は決して揺らぐことなど無く。新たな命と共に手に入れた内なる強さが肉体と精神をしっかりと支え、晶は自分の身体、そして自分の罪と向き合い続けたのである。
その最中、ずっと思っていた。『ここに来たい』と――。
合掌を解き、顔を上げる。もう一度碑を見てから屈み込むと、横に立てられた同色の銘板に目を遣った。
連なる幾つかの文字列。右へ行くほど古い日付になるその左端には、愛しい人の名が。
『和泉 直人 二十才 平成十五年十月十六日没』
小さい彫文字をそっと指で撫でてみる。雪の衣を纏った石は、手袋を外した素手にとても冷たかった。
「すまなかったな、わざわざ……」
振り向かず背後に向けて投げる声。碑の横にいた筈がいつの間にか真後ろに立っていた気配の主は、ただ黙って晶の手元を見詰めていた。
――郊外の墓地。その一画に立つ灰白色のそれは、児童養護施設『希光園』が有する合同墓碑だった。入所中に幼くして亡くなった児童や、独り立ちした後で家族を得る前に人生を終えた若者達を弔う為のものだ。
直人の遺骨も、一部がこの下に納められている。
「何かあったら必ず自分にも伝えて欲しい」と秀一に携帯番号を教えていた彼に、晶は秀一を介して連絡を取った。どうしても退院したその足で直人の墓参りがしたい。その伝言に返ってきたのは、墓地の場所と当日そこで待っているという返事。
漸う迎えたこの日、病院から直接訪れたそこに、言葉通り彼――和彦は佇んでいた。
銘板に触れたまま、今度は己が内で生きる人に語り掛ける。この場の他者を忘れたかのように、ポツリポツリと呟いて。
「…なんか変な感じだな、直人。お前はいつでも俺の中にいるのに、こうして墓参りに来るなんて。…だけど、一度でもいい、今日だけはちゃんとって思ってた。もう、当分来れねぇしな……」
漸くそれぞれの闘いを終え、今この身体は幼き頃と変わらぬ健康を取り戻した。削げ落ちていた筋肉が以前よりも若干逞しくなって身を覆っているのは、苦しいリハビリに耐え抜いた気概の賜物だ。
そして、贖罪の意志に対する公の審理も、間もなく開始される。
「――そうさ。終わりじゃねぇ……」
名の上に滑らせていた手を、コート越しに胸へと押し当てる。
あの日から変わらず響く堅実なる鼓動。どんな風にもはためかぬ、真っ直ぐに燃え立つ命の火。そこには、至純の魂ゆえに優しくも強かな力を宿す想い人の存在が、確かにあった。目を閉じて、体内を廻る温もりに彼の息吹を感じ取る。
「…一つ、訊いてもいいか…?」
不意に背中へ落とされた声は、少しばかり躊躇い気味で。その心情が何となく理解出来る晶は、目を伏せたまま姿勢も変えずに言った。
「…何?」
「……直人は…あんたにとって何だったんだ…?」
僅かな間を置いて和彦が尋ねる。
晶はゆるりと瞼を上げ、それと同じ速度で立ち上がった。身体ごと、顔を後ろへ振り向ける。
「あいつは、俺の半身――いや、俺のすべてだ。今までも……そして、これからもずっと」
まるでそう訊かれることが分かっていたかのような、迷いの無い答え。自分の瞳を正面から見返して紡がれた言葉に和彦は一瞬だけ目を瞠り、だがすぐにそれは細められる。「そうか…」と言いつつ逸らした視線は、何処か遠くを見詰めていた。
「…さてと、そろそろ時間か」
腕時計に目を遣って、小さく息を吐きながら前髪を掻き上げる晶。ふと気付いて、指に絡んだ束を上目遣いに見る。
微かに赤みを帯びた黒髪。どちらともつかない地毛色の半端さが嫌で、高校を辞めた直後から染め始めた。心に燃える、内なる炎のシェンナー。直人が好きだと言ったその色は、己の髪にもう全く残っていなかった。
「戻ってきたら、また染めるからな」
墓碑を顧みて穏やかに微笑むと、静かにその場を後にする。
しかし、黙した和彦の横を抜け数歩進んだ時、突然何か思い出したように振り返った。大股で戻り、怪訝顔の和彦の前に立つ。
「頼みがあるんだ」
コートのポケットに突っ込んでいた両手を出す。
「これを…預かってくんねぇか…?」
そう言って左手首から外したのは、二つのリングブレスだった。
――目を覚ました日、手術前に外されていたそれを秀一から手渡された。「二つとも君の許に在るべきものだよ」という言葉と共に――。
朝日を受けて輝く表。連れ添ってくれと告げたイブの夜と同じく放たれる光は、愛しさや悲しさ、時に切なさに潤んだ直人の瞳が湛えていた彩と寸分違わなかった。
和彦は何も言わずに右手を持ち上げ、差し出されたものを受け取る。冬の外気に晒され冷え切っている筈のその金属がとても温かく感じるのは、決して晶の体温が移った所為ばかりでは無いのだろう。
手中の銀に目を落としただじっと立ち尽くす彼に背を向けて、「じゃぁな」と晶は歩き出す。
少しずつ遠ざかっていく足音を聴きながら和彦は目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。右手をそっと握り締める。指の間から、カチャリと微音が零れ落ちた。
「――香月」
呼ばれて、歩みを止める。
「どんな結果が出ても」
先刻までとは違う――
「会いに、行くからな」
――淀みない声。
「直人と、あんたに――」
――だから、俺に、見せてみろ――
内包された声無き言葉。それを、晶は確かに受け止める。
「…ああ。待ってるぜ」
前方を見据えたままの口元が薄く笑む。軽く片手を上げると、墓地の出入り口へと再び歩み始めた。そこに待つ、背広姿の人影に――いや、全ての始まりに向かって。
――これからだ。全部、これから――
直人と一つになって、漸く見えた本当の『生』。分かち合い、与え合ったその重さこそが『生命』の証だった。
(俺達の生き方、あいつに見せてやろうぜ。なぁ、直人)
――そう、彼等は比翼の鳥。
己だけでは何処へも飛べぬ、片翼の生命。
きっと、この世に生まれ出でたその瞬間から、対たる互いを求めてきた。
翼を広げ、寄り添う鳥は今大空へ飛び立ってゆく――。
明るさを増していく日の光。僅かに払われる辺りの冷気。
眩しく映える白銀を踏み締め前へと進む晶の背中を、恋人の温もりに似た柔らかな日差しが優しく包み込んでいった。
愛する人とずっと一緒にいたいと思うのは
いけないことですか? 許されないことですか?
離れたくない、傍にいたい…
その気持ちは、この先何があっても変わらないのです
永遠に……
俺は、いつでも君の傍にいます
君が、ここに在り続ける限り―――
fin.
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
33
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる