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第十六章 鼓動の記憶
第54話 後編2
しおりを挟む狭い室内。冷え冷えとした薄暗い空間を、蝋燭の灯だけが照らしている。立ち上る線香の煙が辺りをボンヤリと霞ませていた。
硬い床に座り込んで、和彦は虚ろに宙を見る。壁に背を預けたまま身じろぎもしないその手には、一通の手紙が握り締められていた。
――朝から何となく胸騒ぎがしていた。
午後の講義を欠席して直人のアパートを訪れると、そこは既にもぬけのカラ。ドアに嵌めてあった表札のプレートも無く、窓越しにも人の住む一切の気配が失われていて。
胸騒ぎが嫌な予感に変わり、大急ぎで向かったのは総合病院。部屋を引き払ったのは引越しをしたからで、今頃はあいつの病室で笑い合っているのではないか。いや、そうであってくれと、湧き起こる余計な考えを払拭するように祈りながら病棟へ駆け込んだ。
しかし、そこで待っていたのは信じ難い光景。廊下の端からチラリと見えた、運ばれていく幼馴染の姿。シーツで覆われていたものの、翻ったその隙間から覗いたそれは真っ赤に染まっていた。訳も分からず後を追い、閉ざされた手術室の前に取り残される。
――放心状態で、どれくらい待っただろうか。
漸く出てきた寝台に寝かされていたのは、何故かあいつだった。昏睡したままICUに入っていくのを呆然と見送ってから振り返ると、そこにあいつの主治医が立っていたのだ。一体何が起きたのか、直人はどうなったのか、疲れ切った顔で見詰めてくる彼を問い詰めた。
そして聞かされた、衝撃の事実。
身の毛もよだつほどの話に、自分の中の何かが壊れ掛ける。何も考えられず、勝手にあいつの元へ向かおうとする身体を引き止めたのは、つらそうに首を振る医師だった。彼は更なる真実を語り、直人からだという手紙を渡してくれた――。
手紙を握った指がピクリと動く。まるで捨て置かれたマネキン人形のようだった身体に力を入れ、ゆっくりと壁から背を離した。
――本当はあのまま帰るつもりだった。だが、どうしても直人の顔が見たかった。
見れば、恐らく自分は激しい悲しみに襲われるだろう。しかしそれでも、自らの願いを叶えた彼の最期の表情を、心の中に留めておきたかったのだ。いつまでも、いつまでも。
出たばかりの夜間出入り口を再度潜り、一階奥へと足を向ける。そこにある部屋の前で、やがて来るその人を待ち続けた――。
水色の封筒から便箋を抜き出す。綺麗な折り目の付いたそれを広げると、つい数刻前に読んだ文面をもう一度目で追った。
『前略 和彦
こんな手紙を突然送ったりして、ごめんね。
君の元にこれが届く頃、俺はもうこの世にいません。
きっとこれを読む前に、そのことには気付かれちゃうんだろうけど。
…いや。この世にいないって言うのは、語弊があるかな。
だって、俺はまだ生きてるから。晶と一つになって、ちゃんとこの世に存在しているから。
俺の心臓、晶に移植可能だったんだ。いろいろ調べて分かったんだけどね。
それを知った時は、嬉しくて堪らなかった。これで、いつまでも晶と一緒に生きていける。一人ぼっちで死ななくてもいいんだって思ったから……。
晶の主治医の先生にお願いして、少し強引な遣り方だけど移植して貰えることになった。
でも、その所為で先生には凄く迷惑を掛けることになってしまって――。
晶に対してもそうなんだ。
俺、ずっと彼には言えなかった。自分の病気のこと。勿論、移植のことも。
それが彼を傷付けることになるなんて、考えもしなかったんだ。
馬鹿だよね。一番救いたい人を、自分の手で苦しめて……。
――手術の少し前には、全部話すつもりだよ。それで傷を癒せるかは分からないけれど、俺の想いを、願いを、晶にも受け入れて欲しいから――。
和彦。君に話さなかったのも、もうこれ以上心配を掛けたくなかったからだった。
俺は、君のことも随分傷付けたよね。嫌な思いばかりさせて、本当にごめん。
この手紙にまで晶のことを沢山書いているから、不快な気分にさせてるかも知れない。
だけど分かって欲しいんだ。
晶は俺にとって、他の誰よりも愛しい人。
そして君は、掛け替えのない親友なんだ。
俺はどちらとも離れたくない。晶も和彦も、俺には大切な人だから。
だから、和彦。
晶を嫌わないで。出来れば仲良くなって欲しい。
俺の身勝手なお願いだって分かってるけど、そしたらまた、俺達親友になれるだろう?
――小さい頃から、ずっと俺を支えてくれた和彦。
今まで本当にありがとう。
そしてこれからもよろしくね。
俺は、晶の中でいつも君を見てるから。
――優しくて強い君が大好きだよ。どうか、泣かないで――
草々 直人より』
乱れた文字列に指を這わせる。動かぬ手でこれを認めた時の直人の気持ちを思い、我知らず熱いものが頬を伝う。
上着の袖で目元を擦り、丁寧に便箋を畳むと封筒に戻した。ゆるゆると腰を上げ、眼前の寝台の横に立つ。
移植直後――つまり『和泉直人』という肉体の死の直後では、ショックが大き過ぎる。もう、出来るだけ親友を悲しませたくない。そんな想いから、直人は「手術の数日後に投函して欲しい」と秀一に手紙を託していた。
研究室のデスクに仕舞っておいた封書を取ってきて、渡しながらそのことを告げた秀一の声を、和彦は何度も思い返す。穏やかなそれは、初対面の筈の自分を思い遣るとても温かい声だった。
「あの先生に…お前は救われたのか……」
寝台に横たわるその人の手を、己の両手で包み込む。胸の前で固く組まれたそれは青白く、彼の苦しみを物語るように骨張っていた。
手を離して枕元に寄る。そこにあるのは、驚くほど安らかな顔。まるで眠っているかのような表情は、生前と変わらず天使と見紛うばかりの清らかさを湛えていた。しかし――
冷え切った面、色の無い頬。そこに、二度と朱が差すことは無い。
綺麗な瞳を覆う瞼も、柔らかな言葉を紡いでいた唇も、もう開くことは無いのだ。
思わず、息が止まりそうなほどの心の痛みに囚われる。悲しむ必要は無いと、涙は望まぬと手紙で告げられても、つら過ぎる現実は容易に許容出来るものでは無かった。
唇にそっと指を触れてみる。幾分弾力の残るそれが、確かに存在していた想い人の証のような気がした。
縁をなぞり、ゆっくりと身を屈めて顔を寄せる。冷たい肌に掛かる呼気。昔から恥ずかしがり屋だった彼の、ほんのり赤らむ白面が浮かぶ。
「……ごめんな、直人。お前の言うこと、頭では分かってる。…お前はもう…直人であって直人じゃない。本当のお前はあいつの中に息衝いていて、ここにいるのはその抜け殻なんだ、って――。でも…でもな、そう簡単に割り切ることなんて出来ない。俺は、強くなんかないんだ。女々しくて弱くて、情けない男さ。…身勝手なのは…俺の方だよ……」
静かに唇を合わせる。死の色を纏ったそれから伝わるのは、氷のような冷たさだけだった。慈しむように何度も何度も啄んでから身を起こすと、徐に背を向ける。
「……少し…時間が欲しい…。きっと、お前の傍に戻ってくるから……」
小さく、だが己に言い聞かせるように呟いて、和彦は静寂の霊安室を後にした――。
★★★次回予告★★★
次回は武井先生と秀一の番外です。
が、本編とかなり絡ませた為、ほぼ本編の一部分と化しております。
ご了承下さいませ。
応援ありがとうございます!
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