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第十六章 鼓動の記憶
第53話 後編1
しおりを挟むガランとした部屋の中。壁際にあった棚も、そこに並んでいた絵の道具も既に無い。晶と一緒に囲んだローテーブルや何度も身体を重ねたシングルベッドは、早めに処分していた。
玄関に立ち、空っぽの空間をゆっくりと見渡す。
「……いろいろあったな…。短いようで、凄く長かったような気もする……」
丸五年近く過ごしてきた住処。こことも、今日でお別れだ。
業者による部屋のチェックは既に終わり、この場にいるのは自分のみ。もう少しだけこの空気に浸りたいと居残って、束の間の感慨に耽った。
唯一の荷物である若草色のカバンを肩に提げる。表へ出て静かにドアを閉め、カチリと鍵を掛けた。ドアの金属面にそっと手を触れる。
「――今まで、ありがとう……」
いつも下車する停留所の、一つ手前でバスを降りる。
ショッピングモールに程近い街区に建つ不動産会社へ入ると、受付の事務員にアパートの鍵を渡した。二言三言挨拶程度の言葉を交わし、軽く会釈しながらドアを出る。
――これで全ての整理はついた。
退居の手続きをした時に、担当者には持病の静養の為田舎へ引っ越すのだと説明しておいた。もし何かで自分の死を知る事があったとしても、これなら怪しまれず誤魔化しが利く筈だ。
直人はそこから十分ほどの道程を、歩いて病院へと向かう。多少膝が痛んだが、それでも他の交通手段に頼りたくは無かった。恐らくもう二度と踏むことは無いであろう地面を、たとえ短い距離でも、最後に自分の足で感じておきたかったから。
秋空を仰ぐと、何故か病院で晶にひと目惚れしてしまった頃のことが思い出された。
――会いたくて、顔を見たくて、彼を待つ為に元々は晶と同じ金曜だった診察日を別の曜日に替えて貰った。交際を始めてからもそれは役立ち、院内で出くわして自身の病を彼に気付かれてしまうというような事態を回避することが出来たのだ。
しかし、恋人に重大な隠し事をしていることへの後ろめたさや心痛は、日に日に強くなっていった。
――晶が心臓のことを打ち明けてくれた時に、自分も思い切って真実を口にしていたなら――
何度も何度も後悔しては、叶わぬ過去に自嘲の息を漏らす日々。それも漸く終わりを告げる。目線を戻し前を見据えて、一歩一歩踏み締めるようにゆっくりと歩を進めた。
――月の初め、秀一に確認の連絡を取った。貰った言葉はオーケー。つまり、承諾するという返事だった。
あの優しい秀一が、己を納得させる為どれほど悩み苦しんだかは、想像するに難くない。『約束するよ』と電話口から聞こえてきた真剣な声に、直人は感謝と申し訳無さで胸を詰まらせたまま、思わず涙を流していた。
それから二週間弱の間に最終的な検査と調整を行い、秀一と二人で細かな事柄を打ち合わせた。晶には、彼の誕生日に全てを話して了解を得ること。施術までの二日間を晶の病室で過ごし、秀一もその期間院内に常駐すること。そして、飽くまでも周囲には不自然さの無い病死後の移植だと思わせることなど、手抜かりの無いよう一つ一つ決めていった。失敗すれば、もう二度目は無いのだから。
秀一の返事を聞いた日の夜、晶にも電話を掛けた。誕生日の前日、必ず会いに行くからと。
翌日には真実を伝えなければならない。どうしても、その前に一度会いたかった。
――思うように動かなくなった身体。少しでも調子の良い日には計画実行へ向けた行動を急いで取らねばならず、晶の許を訪ねる時間的余裕は無かった。せめて通院日くらいはと思っても、長い待ち時間に加え負担の大きい検査や対症処置により疲れ切った身体では、とても晶に会うことなど出来なかったのだ。
電話にしても、寝込んでいる時は応対することすら難しく。体調が落ち着いている時であっても、声や言葉で弱っている自分を気取られそうで――いや、それ以上に、不用意に彼の声を聞くと涙が溢れてしまいそうだった。
願いを叶える為となんとか気を張り保っている自身が、ガラガラと崩れてしまうような不安。それから逃れたくて電源を切ったままにした携帯電話は、己の胸――そして恐らく晶の胸にも、まるで抜けないトゲのように絶え間ない痛みを与えていた――。
愛する人と一つになるという最初で最後の我が儘。その為に、自分が彼にどれほど淋しい思いをさせたか、どんなに傷付けてしまったかは分かっている。久し振りに会う自分に彼がどういう行動を取るか、大方予想がついていた。だからこそ消灯まで待ったのだ。
節々が悲鳴を上げる時間を少しでも遅らせる為、神経系に副作用の出る恐れのある鎮痛薬まで飲んだのは、他でもない、自分もそれを望んでいたからだった。
あれほどまでの激情をぶつけられようとは、さすがに思い及ばなかったが――。
無理矢理犯されるように貫かれ、身体がバラバラになりそうだった。
初めは拒んだものの、晶の心の痛みを考えた時、この身は与えられる苦痛を自然に受け入れていた。それどころか意識の底には、もっと荒々しく、壊れるほどに抱いて欲しいと思う自分がいたのだ。
二度三度、晶の下で喘ぎ激しく乱れながら、願っていたのはたった一つのこと。
――晶。どうか憶えていて。
この声を、この温もりを、この想いを。
俺のすべてを、その体と心に焼き付けて――
誰よりも近くで、この『存在』を、『生命』を共有出来るけれど、触れ合えるのはこれが最後。それ故に、今日は――今日だけは、愛する人との艶事に溺れていたかった。自分の心にも、愛しい彼の姿を刻み付けておく為に――。
煉瓦色の建物が視界に入る。晶に声を掛けられた、正面玄関横にあるあのベンチも見えてきた。
今日は晶の誕生日、そして己にとっての審判の日。孤独の過去と、共生の未来に対する許しを請う大切な日だ。
彼は、このカバンを受け取ってくれるだろうか。
直人は若草色のカバンをしっかりと肩に掛け直して、ガラスの回転扉を潜った。
×××
「直人君っ、私が分かるか?」
必死に呼び掛ける秀一。
手術台上の身を引き攣らせながら、直人は酸素マスクの内側で微かな声を絞り出す。
「…しゅ…ぅ……せん、せ……」
――惨状を目の当たりにした直後、秀一は晶と直人の呼吸を確認してから、すぐに師長とオペ担当看護師数人を呼んだ。
血塗れで折り重なった二人を抱き起こし、ストレッチャーに乗せて三階へと運ぶ。隣り合った手術室に一人ずつ収容して、『緊急処置中』のランプを点した。
他の者に晶の方を任せ、一人直人の傍に付く。
血に濡れてボロボロになったシャツを剥ぎ取ると、白い身体の上には見るも無惨な幾多の傷が、パックリ口を開けて赤い液体を溢れさせていた。内臓に達しているものも幾つかあるようだ。止血ガーゼを押し当てるが、気休め程度にしかならない。既に手遅れの状態だった。
「――すまなかった。晶君の様子に気付けなかった私の責任だ……」
謝罪の言葉に、直人の頭が僅かに揺れる。気を逸して当然の痛みと出血の中、多くの気懸かりを残している為か、彼の意識は未だ保たれていた。紫色の唇が小さく動いて何ごとか紡ごうとする。秀一はひと言も聴き漏らすまいと、その口元に耳を寄せた。
「…や…く…そく……」
ヒュー、ヒューという不規則な呼吸音に混じって、マスクの中から途切れ途切れの声が届く。ハッとして彼の胸に目を遣った。
上半身の前面、至る所が抉られているというのに、心臓の周囲には一つも傷が無い。これだけは今失うわけにいかないと、己の腕で凶刃から護ったのだろう。その証拠に、直人の左腕は傷付いてズタズタになっていた。
秀一は息を詰める。二日早いが、とうとうその時が来てしまったのだ。目を固く閉じて、乱れそうになる鼓動を抑え付ける。
O型Rh-の輸液は、予め手配して数日前に充分な量を確保している。早まっても、施術になんら支障は無い。
どうにか冷静な思考を取り戻し、努めて穏やかな声を瀕死の彼の耳に流し込んだ。
「…うん。必ず守る。君との約束は、ちゃんと果たすから……安心して任せてくれ」
屈み込んでいた身体を起こす。前室寄りの壁に設置されているマイクに近付くと、隣の手術室への通話を『ON』にした。
「香月君の様子はどうですか?」
その呼び掛けに少し間を置いて、上方のスピーカーから師長らしき声が応える。
『意識レベルは回復しませんが、呼吸、脈拍等、その他のバイタル(生命徴候)については正常値です』
「では、そのまますぐに緊急オペの準備に掛かって下さい。彼の心臓に適合するドナーの死亡を確認しました。一刻を争いますから、双方とも整い次第摘出を開始します。それから、坂本先生と平田先生に連絡を」
元々執刀補助を依頼する予定だった医師達を呼びそちら側に待機して貰うよう指示を出して、マイクの電源を切った。
急いで直人の傍へ戻り、その顔を覗き込む。そこには儚げな、しかし心からの喜びに満ちた笑みが浮かんでいた。
細い身体からは大量の血液が流れ出していっているというのに、まだ痛覚が麻痺してこないのかすぐに表情が歪む。意識を飛ばせずに苦しむ姿を見るに堪えず、秀一は視線を逸らして酸素マスクの切替機に右手を伸ばした。
――もう、楽にしてやらなくては――
今一度直人を見詰め、震える左手でくすんだ黒髪を梳いた。静かに最後の言葉を掛ける。
「……直人君。暫くの間、お別れだ。…元気になって…帰っておいで……」
薄く開いた瞼が、まるで頷くように伏せられる。それをしっかり見て取ると、秀一は全ての迷いを断ち切り、麻酔吸入のスイッチを入れた――。
★★★次回予告★★★
手術後の、とある室内の情景と和彦のモノローグ。
彼宛ての手紙の内容も明らかに。
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