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第十三章 懊悩
第40話 前編
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ジメジメと鬱陶しかった梅雨が漸く去り、空には夏の青さが広がっている。
滑り出し窓の小さな隙間から入り込む緑の香を含んだ風が、病室内を緩やかに流れていた。微かに髪を揺らす気流と中庭の蝉声を感じて、晶はゆっくりと目を開く。その眼は、空の青とは対照的に暗く曇っていた。
「…目が覚めた?」
落ちてくる声に、曇天模様の瞳に光が差す。見上げると、柔らかな微笑を湛えた直人の顔がそこにあった。
「…いつからいたんだ…?」
「ついさっき来たばかりだよ。よく眠ってたから、起こすのもどうかと思ってね」
晶は前髪を掻き上げて身を起こす。椅子に腰掛けた直人は、カバンからいつもの弁当箱を取り出してキャビネットの上に置いた。
「? …やけに早いな。晩飯だろ? 確か今日は夕方来るって――」
まだ日は高い。時計を見ると午後2時半。夕食を持って来るには早過ぎる時間だ。どうしたのかと訊く晶に、直人がすまなそうに言った。
「急に出掛けなきゃならなくなっちゃったんだ。それで、せめてお弁当だけでも届けたくて」
「なんだ。じゃ、すぐ帰っちまうのか?」
「うん。…それと、嫌な話ばっかりで悪いんだけど、暫く来れなくなりそうなんだ。凄く大きな仕事が入ったもんだから…。なるべく顔を出すようにするけど、お弁当はちょっと無理みたい。…本当にごめんね…」
謝る直人の、ベッドの上に置かれた白い手に触れる。優しく撫でてから手首を掴むと、口元に寄せてその甲に軽くキスした。
「いいよ、仕方ねぇもんな。…けど、出来るだけ早く上げてくれよ?」
薄く笑んだ晶の言葉を聴いて、直人はコクリと頷く。
もう一度キスしようと直人の手に目を落とした晶は、その人差し指の先に巻かれた絆創膏に気が付いた。
「指、どうかしたのか?」
「え? ああ、料理してる時にちょっと包丁でね。でも、大したことないから大丈夫だよ」
「ふーん、お前でもドジることあるんだ。意外だな」
ちゅっと音を立てて口付けると、彼の手を離した。
半時ほど話をして、「そろそろ帰るから」と立ち上がった直人はカバンを肩に掛ける。それを見送ろうと晶がベッドの縁に手を掛けた、その時だった。
「……っ」
ズキリと走る痛み。晶は胸を押さえてベッドの上に蹲った。
「晶っ!」
直人は晶の横へ駆け寄り、その背を摩る。
「また痛むの? 薬は?」
「…い…や、いらねぇ…。このくらい…なら…、すぐ…おちつ…く…から…」
寝衣の胸元を握り締め、疼痛に耐える晶。浅い呼吸を少しでも和らげようと、直人はひたすら背を摩り続けた。
「…もう、大丈夫…」
押さえていた手を下ろして、横に立つ直人に緩く笑んで見せる。その顔にはじっとりと脂汗が滲んでいた。
「休んだ方がいいよ。ちゃんと横になって、ね?」
肩を支える直人の心配そうな声音に、素直に頷く。ベッドに横たわった晶の胸まで布団を着せ掛け、手持ちのハンドタオルを濡らした直人はそれで彼の汗を拭った。
「……悪かったな。帰り際に……」
冷たいハンドタオルの感触が心地好いのか、晶が目を閉じたまま呟く。直人は自嘲気味に微笑んで首を横に振った。
「いつも自分のことばかりで、なかなか傍にいてあげられない…。やっぱり、今日は夜までここにいるよ。だから安心して休んで……」
用事は…と言い掛けた唇に、そっと直人の指が押し当てられる。そのまま横へと滑り優しく頬を撫でる手の温かさが、晶の心を安らがせた。
このところ、頻繁に胸痛の発作が起きるようになった。昨晩も夜半に突然痛み出し、鎮痛剤を飲んでなんとか落ち着いたのだ。
慢性的に妙な息苦しさまで感じ始めた晶の中で、忍び寄る現実に対する焦りや怖れといった抑えられない感情が交錯し、その占拠領域を着実に広げていた。
しかしそんな中にあっても、こうしてすぐ傍に直人を感じるだけで、心中に広がるそれらの不安が少しばかり鳴りを潜める。まるで漸く母親を見付けた迷い子のようだと、晶は直人に依存している己の弱さを認めていたのだった。
――だが、この時の晶はまだ気付いてはいなかったのだ。周りが見えなくなるほどの執着心。依存度が高ければ高いほど激しく陥る、麻薬のようなその真の恐ろしさに――。
★★★次回予告★★★
晶は直人の訪れを心待ちにしながらも、日々衰えていく身体が不安で堪らない――。
滑り出し窓の小さな隙間から入り込む緑の香を含んだ風が、病室内を緩やかに流れていた。微かに髪を揺らす気流と中庭の蝉声を感じて、晶はゆっくりと目を開く。その眼は、空の青とは対照的に暗く曇っていた。
「…目が覚めた?」
落ちてくる声に、曇天模様の瞳に光が差す。見上げると、柔らかな微笑を湛えた直人の顔がそこにあった。
「…いつからいたんだ…?」
「ついさっき来たばかりだよ。よく眠ってたから、起こすのもどうかと思ってね」
晶は前髪を掻き上げて身を起こす。椅子に腰掛けた直人は、カバンからいつもの弁当箱を取り出してキャビネットの上に置いた。
「? …やけに早いな。晩飯だろ? 確か今日は夕方来るって――」
まだ日は高い。時計を見ると午後2時半。夕食を持って来るには早過ぎる時間だ。どうしたのかと訊く晶に、直人がすまなそうに言った。
「急に出掛けなきゃならなくなっちゃったんだ。それで、せめてお弁当だけでも届けたくて」
「なんだ。じゃ、すぐ帰っちまうのか?」
「うん。…それと、嫌な話ばっかりで悪いんだけど、暫く来れなくなりそうなんだ。凄く大きな仕事が入ったもんだから…。なるべく顔を出すようにするけど、お弁当はちょっと無理みたい。…本当にごめんね…」
謝る直人の、ベッドの上に置かれた白い手に触れる。優しく撫でてから手首を掴むと、口元に寄せてその甲に軽くキスした。
「いいよ、仕方ねぇもんな。…けど、出来るだけ早く上げてくれよ?」
薄く笑んだ晶の言葉を聴いて、直人はコクリと頷く。
もう一度キスしようと直人の手に目を落とした晶は、その人差し指の先に巻かれた絆創膏に気が付いた。
「指、どうかしたのか?」
「え? ああ、料理してる時にちょっと包丁でね。でも、大したことないから大丈夫だよ」
「ふーん、お前でもドジることあるんだ。意外だな」
ちゅっと音を立てて口付けると、彼の手を離した。
半時ほど話をして、「そろそろ帰るから」と立ち上がった直人はカバンを肩に掛ける。それを見送ろうと晶がベッドの縁に手を掛けた、その時だった。
「……っ」
ズキリと走る痛み。晶は胸を押さえてベッドの上に蹲った。
「晶っ!」
直人は晶の横へ駆け寄り、その背を摩る。
「また痛むの? 薬は?」
「…い…や、いらねぇ…。このくらい…なら…、すぐ…おちつ…く…から…」
寝衣の胸元を握り締め、疼痛に耐える晶。浅い呼吸を少しでも和らげようと、直人はひたすら背を摩り続けた。
「…もう、大丈夫…」
押さえていた手を下ろして、横に立つ直人に緩く笑んで見せる。その顔にはじっとりと脂汗が滲んでいた。
「休んだ方がいいよ。ちゃんと横になって、ね?」
肩を支える直人の心配そうな声音に、素直に頷く。ベッドに横たわった晶の胸まで布団を着せ掛け、手持ちのハンドタオルを濡らした直人はそれで彼の汗を拭った。
「……悪かったな。帰り際に……」
冷たいハンドタオルの感触が心地好いのか、晶が目を閉じたまま呟く。直人は自嘲気味に微笑んで首を横に振った。
「いつも自分のことばかりで、なかなか傍にいてあげられない…。やっぱり、今日は夜までここにいるよ。だから安心して休んで……」
用事は…と言い掛けた唇に、そっと直人の指が押し当てられる。そのまま横へと滑り優しく頬を撫でる手の温かさが、晶の心を安らがせた。
このところ、頻繁に胸痛の発作が起きるようになった。昨晩も夜半に突然痛み出し、鎮痛剤を飲んでなんとか落ち着いたのだ。
慢性的に妙な息苦しさまで感じ始めた晶の中で、忍び寄る現実に対する焦りや怖れといった抑えられない感情が交錯し、その占拠領域を着実に広げていた。
しかしそんな中にあっても、こうしてすぐ傍に直人を感じるだけで、心中に広がるそれらの不安が少しばかり鳴りを潜める。まるで漸く母親を見付けた迷い子のようだと、晶は直人に依存している己の弱さを認めていたのだった。
――だが、この時の晶はまだ気付いてはいなかったのだ。周りが見えなくなるほどの執着心。依存度が高ければ高いほど激しく陥る、麻薬のようなその真の恐ろしさに――。
★★★次回予告★★★
晶は直人の訪れを心待ちにしながらも、日々衰えていく身体が不安で堪らない――。
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