36 / 77
第十二章 溢れる想い
第36話 前編
しおりを挟む「ごちそーさん♪ いつも言ってるけど、やっぱ直人の料理が一番だな。出来るなら毎日食いてぇよ」
寝台用のサイドテーブルに箸を置いて、晶が満足げに腹を摩る。直人は空になった弁当箱をカバンに仕舞いつつ、笑みながら言った。
「駄目だよ、我が儘言っちゃ。病院食は考えて作ってあるんだから、ちゃんと食べなきゃね」
「だって、マジに不味いんだもん。作ってる奴、絶対味見なんかしてねぇと思うぜ」
――入院して二週間を過ぎた頃、晶は「病院食ばかりだと食欲不振に陥りそうだから」と直人に差し入れを頼んだ。食事制限があるわけでは無いので何でも大丈夫だと伝えると、次の日の夕方に期待通りのものを持って来てくれた。晶の好物をふんだんに入れた手作り弁当だ。大喜びで平らげて「また食いたい」と言うと、晶の食いっぷりに驚いていた直人は嬉しそうに笑って、時々作ってくると約束してくれた。それから数日置きに昼食か夕食を直人の弁当で摂るようになったのだが、昼の回診時に重なってしまって、秀一から「愛妻弁当だな」などとからかわれたりすることもしばしばだった――。
「食後にと思ってリンゴ持って来たけど、食べる?」
「勿論」
ベッド横のキャビネットから果物ナイフを取り出すと、直人は真っ赤に熟したリンゴを剥き始めた。ナイフは無論、秀一に許可を貰って持ち込んだものだ。全てを受け入れている晶に、今更『万が一』などという心配は無用と判断してのことだった。
――器用に手の上で割ったリンゴを、食べ易いよう小さいくし形に切って皿に載せる。それにフォークを添え晶の前に置くと、洗面台でナイフを濯いだ。
ベッドの傍へ戻りナイフを元の所へ仕舞った直人は、じっと自分に注がれている晶の視線に気付く。リンゴにはまだ手が付けられていない。
「? 食べないの?」
「…いや、食うよ。けど、先に――」
言うが早いか、伸ばされた手が直人の腕を捕らえる。空いた手でテーブルを横へ押し遣りながら彼を胸元へ引き寄せた。腿がベッドの端に当たって、つんのめるように晶の膝に倒れ込む。間髪容れず下りてきた唇に、直人は手にしたものを押し付けた。
「むぐっ?!」
倒れ込む瞬間、咄嗟に伸ばした手が掴んだのはリンゴ数切れ。それを口中に押し込まれて、晶は目を白黒させると直人を放した。
「…ふぅ。今日は駄目。これから行かなきゃならない所があるから。――それに、少し体調も良くないんだろ…? 一昨日したばかりなんだから、あんまり無理すると体に負担を掛けちゃうよ。だから、ね?」
口を押さえてどうにかこうにかリンゴを飲み込んだ晶の額にキスをする。
「苦しかった? ごめんね、晶。また明日来るから」
綺麗な笑みを残して、直人は帰っていった。
急に静まり返ってしまった室内の空気に溜息をついて、晶は窓辺へ行こうとベッドを降り掛けた。その時、ベッドの縁に突いた両手に違和感を覚える。
「クソ…っ、またか…」
ぎこちなく顔の前に持ってきた手は、微かに痺れていた。指先の血色が失われている。指を曲げようと力を入れるが、それは叶わなかった――。
全身の血流が明らかに悪くなっている。こうして手や足先が痺れる回数が、次第に増えてきているのだ。薬は飲んでいるが、改善されるどころかますます酷くなっていく気がする。
――眉を寄せて、両腕を思い切り上下に振る。暫くして漸く感覚の戻った手を、腕組みするように両脇に抱え込んだ。
入院から早や二ヶ月。急激な変調が無いとはいえ、こんな僅かな軋みが少しずつ身体に積み重なっていく。それは、否応無しに晶の不安を煽った。
窓外の澄んだ空に目を向けて独り言ちる。
「…触れても、温もりすら感じ取れなくなるのか…? そんな事…考えたくもねぇな……」
だが、そんな晶の心中を更に掻き乱す出来事が起こる。五月の暖かい陽気の中、突然現れてそれをもたらしたのは『彼』だった――。
★★★次回予告★★★
晶の病室へ向かう途中、直人は和彦に呼び止められる。
連れ出された中庭で聴く彼の言葉に、直人は――。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
33
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる