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第七章 約束
第19話 後編
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――翌日。
晶が直人の部屋に着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。テーブル横のいつもの場所に座る晶に、直人は温かいミルクティーの入ったマグカップを手渡す。
「お昼は?」
「いや、食ってきたからいいよ」
「良かった。編集長からほとんど強制的にご馳走されちゃって、晶が食べてなかったらどうしようと思ってたんだ」
晶の隣に座って、自分のカップに口を付ける直人。
「今日持ってったのって、こないだ下書きしてたヤツ?」
「そうだよ。一緒に公営グラウンドに行った時の分。でも、すぐ次の頼まれちゃったから、今度のはちょっと急がないと」
「締め切りは?」
「今月末」
「末って…あと二週間しかねぇじゃん。大丈夫なのか?」
「うん。なんとかなるよ」
直人は笑って答えると、カップをテーブルの上に置いた。
「さてと…。話があるって言ってたよね。――何?」
途端に黙り込む晶。その何処か重さを感じる表情に、直人は徒ならぬ気配を感じる。
「…悪い話…?」
それでも晶は何も言わない。口をきゅっと結んで、心の中で何かと葛藤しているようだった。
「言いづらいのなら、無理に話さなくてもいいんだよ? 晶が話したくなった時、いつでも聴くから」
空になった晶のカップを見て、もう一度お茶を淹れようと立ち上がり掛けた直人を、低い声が制する。
「…今、話したいんだ。ここにいてくれ」
迷いを振り切ったようなその言葉に、姿勢を正して座り直す。真剣な顔を晶に向けて、彼の口が開かれるのを待った。
「…前…」
暫くして漸く発せられた声は、酷く苦しげだった。
「俺の体のこと…訊いたことがあったよな…? 何か、病気なんじゃねぇかって……」
「あ…、うん。…その話なの…?」
直人の肩がピクリと揺れる。晶が顔を上げると、不安そうな瞳がこちらを見ていた。
「――一つ…約束してくれるか…?」
「…何?」
「何を聞いても、俺を見捨てないでくれ…。ずっと…傍にいて欲しい……」
彼らしからぬ気弱なセリフ。縋るようにも聞こえるその声音に、見開かれた灰色が淡く曇る。
「そんなの…当たり前じゃないか。俺には晶しかいないのに……。見捨てたりなんてしない…。だから、安心して…」
向けられる優しい声と眼差しが晶の心を包み込んだ。意を決して言葉を紡ぐ。
「俺……」
隣に座る直人の肩先に手を掛けて引き寄せる。胸元に凭れ込んだ恋人の白い手を取って、己の胸の中心に触れさせた。
「晶…?」
「…イカレてんだよ、ここが…」
「え?」
「俺の心臓…欠陥品なんだ……」
直人の顔が凍り付く。
「…心…臓…?」
胸に置かれた手が小刻みに震えていた。
「心臓が…悪い…の?」
「ああ…」
晶は、肩を抱く手にグッと力を籠める。
「正直に言う。…俺…もうあんまし長くねぇんだ……」
瞬間、短く息を吸い込んだ直人の呼吸が止まる。唇を震わせながら小さく首を振ると、手元にある晶のセーターを強く握り締めた。その面は、あまりのショックに血の気を失っている。
「…嘘…だろ…?」
「嘘でこんなこと…言えねぇよ…」
焦点の合わない瞳が宙を彷徨い、必死に晶の顔を捉える。
「…何か…何かないの? 治療法とか、薬とか。何でもいいっ、何か助かる方法がどこかに…っ!」
掴み掛からんばかりの直人を見兼ねて、晶は目を伏せる。
「…方法は…ない。…秀兄ぃは俺の主治医なんだ。あの人に無理なもんは…治しようがねぇ。…持ってあと一、二年…。残された時間はそれだけだ……」
「そん…な…。嫌だ…、そんなの嫌だっ。どうしてさ? どうして晶が? こんなに…こんなに元気じゃないか! 心臓だって、ちゃんと動いてるっ。なのに…それなのにっ、なんでっっ!!」
半狂乱で叫ぶ直人。激しくかぶりを振るその身体を、晶は強く強く抱き締めた。身動きすら許さぬほどに。
胸に押し付けられた直人の耳が、確かな鼓動を拾い上げる。規則正しく繰り返されるその音に、じわりと滲んだ銀の双眸から澄んだ涙が溢れた。
「…嫌だよ…、晶が死んじゃうなんて…。こんなにしっかり音が聞こえるのに……。他の誰が認めても…、俺は…絶対に認めない……」
そのまま声を立てずに咽び泣く。しゃくり上げる頬から零れ落ちる雫が、晶の黒いセーターを濡らした。
――やはり、傷付けた――
現実を拒否しようとする直人の髪に頬を擦り付けて、ただ静かに、泣き続ける愛しい存在を抱き締める。そうして、どれほどの時間が経ったのだろう――。
漸く落ち着きを取り戻した直人を腕から解放し、その顔を見詰める。涙に濡れた瞳の奥の光が、晶を見返していた。
「――ホントのところ、話すかどうか迷ったんだ。でも、お前にだけは本当の自分を晒さなきゃって…。全部打ち明けて、俺のすべてを愛して欲しかったから……」
頬に貼り付く黒髪を払おうと手を伸ばすと、それを直人の両手が捕らえて優しい口付けを落とす。
「…ごめんね、晶。取り乱して…。一番つらいのは晶なのに…、本当に…ごめん……」
晶の手を握り締め、言葉を続ける。
「愛してるよ。今までと同じ――ううん、今までよりもっともっと愛してる。だから…晶も約束して? …離れないって。俺と一緒に精一杯生きるって、約束して欲しい……」
訴え掛けるような切ない表情を浮かべる彼の頬に、そっと触れた。
「…ああ、分かった。約束だ。もう無気力になんてなったりしない。時間の許す限り、俺は全力で生きる。お前に…一生分の愛情を注ぎたいから」
指切りの代わりに唇を重ねる。晶のそれで余す所なく覆った直人の唇は、涙の味がした。ゆっくりとカーペットの上に押し倒すと、「大丈夫…?」と気遣う声を掛けてくる。それに笑みを返して、晶は白い肌に口付けた――。
どうか、今この瞬間に永遠を
愛する人との、幸せに満ちた時間を留める為に
他に願いなど有りはしない
それだけが、たった一つの望みだから
★★★次回予告★★★
病院へ秀一を訪ねる直人。
詳しく話を聴いた彼は何を思うのか――。
晶が直人の部屋に着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。テーブル横のいつもの場所に座る晶に、直人は温かいミルクティーの入ったマグカップを手渡す。
「お昼は?」
「いや、食ってきたからいいよ」
「良かった。編集長からほとんど強制的にご馳走されちゃって、晶が食べてなかったらどうしようと思ってたんだ」
晶の隣に座って、自分のカップに口を付ける直人。
「今日持ってったのって、こないだ下書きしてたヤツ?」
「そうだよ。一緒に公営グラウンドに行った時の分。でも、すぐ次の頼まれちゃったから、今度のはちょっと急がないと」
「締め切りは?」
「今月末」
「末って…あと二週間しかねぇじゃん。大丈夫なのか?」
「うん。なんとかなるよ」
直人は笑って答えると、カップをテーブルの上に置いた。
「さてと…。話があるって言ってたよね。――何?」
途端に黙り込む晶。その何処か重さを感じる表情に、直人は徒ならぬ気配を感じる。
「…悪い話…?」
それでも晶は何も言わない。口をきゅっと結んで、心の中で何かと葛藤しているようだった。
「言いづらいのなら、無理に話さなくてもいいんだよ? 晶が話したくなった時、いつでも聴くから」
空になった晶のカップを見て、もう一度お茶を淹れようと立ち上がり掛けた直人を、低い声が制する。
「…今、話したいんだ。ここにいてくれ」
迷いを振り切ったようなその言葉に、姿勢を正して座り直す。真剣な顔を晶に向けて、彼の口が開かれるのを待った。
「…前…」
暫くして漸く発せられた声は、酷く苦しげだった。
「俺の体のこと…訊いたことがあったよな…? 何か、病気なんじゃねぇかって……」
「あ…、うん。…その話なの…?」
直人の肩がピクリと揺れる。晶が顔を上げると、不安そうな瞳がこちらを見ていた。
「――一つ…約束してくれるか…?」
「…何?」
「何を聞いても、俺を見捨てないでくれ…。ずっと…傍にいて欲しい……」
彼らしからぬ気弱なセリフ。縋るようにも聞こえるその声音に、見開かれた灰色が淡く曇る。
「そんなの…当たり前じゃないか。俺には晶しかいないのに……。見捨てたりなんてしない…。だから、安心して…」
向けられる優しい声と眼差しが晶の心を包み込んだ。意を決して言葉を紡ぐ。
「俺……」
隣に座る直人の肩先に手を掛けて引き寄せる。胸元に凭れ込んだ恋人の白い手を取って、己の胸の中心に触れさせた。
「晶…?」
「…イカレてんだよ、ここが…」
「え?」
「俺の心臓…欠陥品なんだ……」
直人の顔が凍り付く。
「…心…臓…?」
胸に置かれた手が小刻みに震えていた。
「心臓が…悪い…の?」
「ああ…」
晶は、肩を抱く手にグッと力を籠める。
「正直に言う。…俺…もうあんまし長くねぇんだ……」
瞬間、短く息を吸い込んだ直人の呼吸が止まる。唇を震わせながら小さく首を振ると、手元にある晶のセーターを強く握り締めた。その面は、あまりのショックに血の気を失っている。
「…嘘…だろ…?」
「嘘でこんなこと…言えねぇよ…」
焦点の合わない瞳が宙を彷徨い、必死に晶の顔を捉える。
「…何か…何かないの? 治療法とか、薬とか。何でもいいっ、何か助かる方法がどこかに…っ!」
掴み掛からんばかりの直人を見兼ねて、晶は目を伏せる。
「…方法は…ない。…秀兄ぃは俺の主治医なんだ。あの人に無理なもんは…治しようがねぇ。…持ってあと一、二年…。残された時間はそれだけだ……」
「そん…な…。嫌だ…、そんなの嫌だっ。どうしてさ? どうして晶が? こんなに…こんなに元気じゃないか! 心臓だって、ちゃんと動いてるっ。なのに…それなのにっ、なんでっっ!!」
半狂乱で叫ぶ直人。激しくかぶりを振るその身体を、晶は強く強く抱き締めた。身動きすら許さぬほどに。
胸に押し付けられた直人の耳が、確かな鼓動を拾い上げる。規則正しく繰り返されるその音に、じわりと滲んだ銀の双眸から澄んだ涙が溢れた。
「…嫌だよ…、晶が死んじゃうなんて…。こんなにしっかり音が聞こえるのに……。他の誰が認めても…、俺は…絶対に認めない……」
そのまま声を立てずに咽び泣く。しゃくり上げる頬から零れ落ちる雫が、晶の黒いセーターを濡らした。
――やはり、傷付けた――
現実を拒否しようとする直人の髪に頬を擦り付けて、ただ静かに、泣き続ける愛しい存在を抱き締める。そうして、どれほどの時間が経ったのだろう――。
漸く落ち着きを取り戻した直人を腕から解放し、その顔を見詰める。涙に濡れた瞳の奥の光が、晶を見返していた。
「――ホントのところ、話すかどうか迷ったんだ。でも、お前にだけは本当の自分を晒さなきゃって…。全部打ち明けて、俺のすべてを愛して欲しかったから……」
頬に貼り付く黒髪を払おうと手を伸ばすと、それを直人の両手が捕らえて優しい口付けを落とす。
「…ごめんね、晶。取り乱して…。一番つらいのは晶なのに…、本当に…ごめん……」
晶の手を握り締め、言葉を続ける。
「愛してるよ。今までと同じ――ううん、今までよりもっともっと愛してる。だから…晶も約束して? …離れないって。俺と一緒に精一杯生きるって、約束して欲しい……」
訴え掛けるような切ない表情を浮かべる彼の頬に、そっと触れた。
「…ああ、分かった。約束だ。もう無気力になんてなったりしない。時間の許す限り、俺は全力で生きる。お前に…一生分の愛情を注ぎたいから」
指切りの代わりに唇を重ねる。晶のそれで余す所なく覆った直人の唇は、涙の味がした。ゆっくりとカーペットの上に押し倒すと、「大丈夫…?」と気遣う声を掛けてくる。それに笑みを返して、晶は白い肌に口付けた――。
どうか、今この瞬間に永遠を
愛する人との、幸せに満ちた時間を留める為に
他に願いなど有りはしない
それだけが、たった一つの望みだから
★★★次回予告★★★
病院へ秀一を訪ねる直人。
詳しく話を聴いた彼は何を思うのか――。
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