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第四章 雨に濡れて…
第13話 後編3
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閉め切ったカーテンを抜けて入り込んでいた赤い光は既に無く、代わりに訪れた夜の暗さが窓の外を覆う。
静寂が漂う室内。そこに規則正しい呼吸音を放ちながら、二人はベッドの中で寄り添っていた。自分の胸に頭を預ける直人の肩を抱いて、晶は黒髪を弄ぶ。
「…つらくなかったか?」
問い掛けられて首を横に振る直人の前髪が、晶の胸を撫でた。
「…大丈夫。少し痛みはあるけど、晶が優しくしてくれたから……」
胸に頬を擦り寄せる直人の顎を捕らえて上向かせ、ちゅっと軽い音を立てて唇に口付ける。直人はくすぐったそうに身を竦めた。
「良かったぜ、最高に…。我慢してた甲斐があったってもんだな」
その言葉に頬を赤らめながら、直人は晶の顔を見詰める。その瞳には何処となく真剣な色が窺えた。
「…そんなに…我慢してたの…?」
「ん? ああ、まぁな。こんだけお前の傍にいて、考えるなって方が無理だろ。でも、やっぱ無理矢理ってのはちょっと気が引けてさ。今の今まで抑えてたってわけ」
それを聴くと、直人はその顔に一瞬切なそうな表情を浮かべて、腕を晶の首に絡ませた。伸び上がりその頬に口付けを落とす。
「…ごめんね。もっと早く言ってくれてたら、そんなに無理させずに済んだのに……」
「…? 直人…?」
その行動とセリフの真意を測り兼ね、晶は訝しげな眼を直人に向ける。廻した腕に力を入れて身体をより一層晶に寄せた彼は、一つ大きな溜息をついた。
「……もう…言っちゃおうかな……」
「?」
暫しの沈黙。きゅっと噛み締めた唇を緩めて、直人が言葉を紡ぐ。
「あのね、晶。俺、本当は……」
「うん?」
「……君のこと、知ってた。声掛けられるずっと前から――」
「――え?」
一瞬、思考が止まる。
「…そりゃ…どういうことだよ…?」
「あの日よりもっと――三ヶ月くらい前かな。前庭の雪景色が描きたくて病院に行ったんだ。そこで見掛けて…。最初は、変わった髪色だなって思ったくらいだった……ううん、そう思い込んでた。それが、その次に病院へ行った時にも、君の姿を無意識に探してる自分がいて……」
「…なお…と。あの…」
「……ひと目惚れ…だったんだなって……」
頭の中が真っ白になった。――ヒトメボレ? 直人が、俺に? んな馬鹿な。なんだって、こんなふざけた奴なんかを――
「変だよね。名前も何にも知らないのに、どうしても君のことが頭から離れなくて。それから毎日、病院のロビーで待ってた。ひょっとしたらまた来るかも知れない、そう思ってね」
直人はそこで自嘲めいた笑みを浮かべる。
「馬鹿だと思うだろ? でも、それしか方法がなかったから…。何日か経ってやっと見付けた時は、嬉しくて堪らなかった。だけど、声なんて掛けるほどの勇気はなかったし。結局、その後も暫くは病院に通い詰めて……。そのうちに、君が隔週の金曜日に通院してることに気付いたんだ。だから、俺もその日には必ず朝からあのベンチに座って、君が出てくるのを待ってた。君の顔さえ見られれば、それで満足だったんだよ」
漸く頭の中に色彩が戻り始めた晶が、驚きの為まだよく回らない舌で呟いた。
「…待ってたって……じゃ、…あの時…も…?」
「うん。絵を描きに来たって言ったのは嘘。だって、本当のことなんか言えるわけないじゃないか。…だけど、本当にびっくりしたよ。君の方から声掛けてくるんだもん。ちょっと考え事してた間に、すぐ傍に来ててさ。俺がどんなにドキドキしてたか、分かる?」
「あ……」
確かに、あの時の直人の様子にはおかしな所が多かった。声を掛けた晶の顔を見詰めたまま動きが止まってしまったり、自分の絵を覗き込む晶に優しい笑顔を向けていたり――。
「おまけに『付き合わない?』なんて言い出して……信じられなかったよ。ふざけてるの分かってたけど、それでも嬉しかった。これでもう、ただ見てるだけじゃない。傍にいて、当たり前のように言葉を交わすことが出来る、そう思ったから。……今だってそう。さっきはあんまり急だったから怖くて躊躇ってしまったけど――晶とこんなふうになれて…俺は幸せなんだ。本当に」
「直人……」
首元に顔を埋めて気持ちを告げる直人。その唇の端が晶の胸に当たって、まるで心に直接語り掛けられているようだった。
「…でもね…」
と、晶の腕の中の身体がピクリと震える。
「晶にそんなつもりがないことは充分解ってるんだ。半分は遊びだってことも…。だけど、それでもいい。自分の気持ちを押し付けようなんて思ってないから。君が『もう要らない』って言うなら、終わりにしても構わない。――俺はただ…君のことを想っていたいだけなんだから……」
悪意の欠片も無い、ただただ素直な直人の気持ち。だが、その言葉は晶の心にチクリと突き刺さる。まるで自分の罪を暴かれ、その罪悪感に苦しむかのように胸が締め付けられた。
僅かに歪む彼の面に気付いて、直人は心配そうに声を掛ける。
「どうしたの? 大丈夫?」
「…ああ、いや、何でもねぇよ」
笑って誤魔化そうとした晶の表情が、次に発せられた直人のひと言で凍り付いた。
「やっぱり何処か…悪いの?」
直人は身を起こして晶を見る。
「あんなに頻繁に通うくらいだもの。何か持病でも持ってるんだろうとは思ってた。……でも――」
晶の頬を両手で包み、顔を寄せる直人。互いの吐息が触れるほどに近付いて、直人の口が慈しみの言葉を呟く。
「言いたくないのなら、言わなくていいよ。これ以上は訊かない」
それを聴いて、晶は目の前の細い身体を強く抱き締めた。
言えない、言える筈が無い。
自分を気遣う直人の優しさが痛くて、それにいい加減な気持ちでしか応えられない自分が腹立たしくて、晶は貪るように直人の唇を吸った。直人も舌を絡ませ、精一杯晶に応えようとする。その甘さが、少しずつ晶の痛みを包み込んでいった――。
――重なる素肌の温もりが心地好い。
さすがに疲れたのだろう、直人の瞼が閉じ掛かっていた。
「直人、疲れたろ? もう寝よ」
「うん。……晶…」
「ん?」
「……愛してる……」
そう呟いて、直人は眠りに落ちた。晶は一瞬だけ目を見開く。
「…直人…」
自分の胸で穏やかな寝息を立てる直人の顔を、晶はいつまでも見詰めていた。
★★★次回予告★★★
変わりゆく自分の気持ちを秀一に垣間見せる晶。
痛みを伴うのを承知の上で、彼は真の幸せに気付くことが出来るのか――。
静寂が漂う室内。そこに規則正しい呼吸音を放ちながら、二人はベッドの中で寄り添っていた。自分の胸に頭を預ける直人の肩を抱いて、晶は黒髪を弄ぶ。
「…つらくなかったか?」
問い掛けられて首を横に振る直人の前髪が、晶の胸を撫でた。
「…大丈夫。少し痛みはあるけど、晶が優しくしてくれたから……」
胸に頬を擦り寄せる直人の顎を捕らえて上向かせ、ちゅっと軽い音を立てて唇に口付ける。直人はくすぐったそうに身を竦めた。
「良かったぜ、最高に…。我慢してた甲斐があったってもんだな」
その言葉に頬を赤らめながら、直人は晶の顔を見詰める。その瞳には何処となく真剣な色が窺えた。
「…そんなに…我慢してたの…?」
「ん? ああ、まぁな。こんだけお前の傍にいて、考えるなって方が無理だろ。でも、やっぱ無理矢理ってのはちょっと気が引けてさ。今の今まで抑えてたってわけ」
それを聴くと、直人はその顔に一瞬切なそうな表情を浮かべて、腕を晶の首に絡ませた。伸び上がりその頬に口付けを落とす。
「…ごめんね。もっと早く言ってくれてたら、そんなに無理させずに済んだのに……」
「…? 直人…?」
その行動とセリフの真意を測り兼ね、晶は訝しげな眼を直人に向ける。廻した腕に力を入れて身体をより一層晶に寄せた彼は、一つ大きな溜息をついた。
「……もう…言っちゃおうかな……」
「?」
暫しの沈黙。きゅっと噛み締めた唇を緩めて、直人が言葉を紡ぐ。
「あのね、晶。俺、本当は……」
「うん?」
「……君のこと、知ってた。声掛けられるずっと前から――」
「――え?」
一瞬、思考が止まる。
「…そりゃ…どういうことだよ…?」
「あの日よりもっと――三ヶ月くらい前かな。前庭の雪景色が描きたくて病院に行ったんだ。そこで見掛けて…。最初は、変わった髪色だなって思ったくらいだった……ううん、そう思い込んでた。それが、その次に病院へ行った時にも、君の姿を無意識に探してる自分がいて……」
「…なお…と。あの…」
「……ひと目惚れ…だったんだなって……」
頭の中が真っ白になった。――ヒトメボレ? 直人が、俺に? んな馬鹿な。なんだって、こんなふざけた奴なんかを――
「変だよね。名前も何にも知らないのに、どうしても君のことが頭から離れなくて。それから毎日、病院のロビーで待ってた。ひょっとしたらまた来るかも知れない、そう思ってね」
直人はそこで自嘲めいた笑みを浮かべる。
「馬鹿だと思うだろ? でも、それしか方法がなかったから…。何日か経ってやっと見付けた時は、嬉しくて堪らなかった。だけど、声なんて掛けるほどの勇気はなかったし。結局、その後も暫くは病院に通い詰めて……。そのうちに、君が隔週の金曜日に通院してることに気付いたんだ。だから、俺もその日には必ず朝からあのベンチに座って、君が出てくるのを待ってた。君の顔さえ見られれば、それで満足だったんだよ」
漸く頭の中に色彩が戻り始めた晶が、驚きの為まだよく回らない舌で呟いた。
「…待ってたって……じゃ、…あの時…も…?」
「うん。絵を描きに来たって言ったのは嘘。だって、本当のことなんか言えるわけないじゃないか。…だけど、本当にびっくりしたよ。君の方から声掛けてくるんだもん。ちょっと考え事してた間に、すぐ傍に来ててさ。俺がどんなにドキドキしてたか、分かる?」
「あ……」
確かに、あの時の直人の様子にはおかしな所が多かった。声を掛けた晶の顔を見詰めたまま動きが止まってしまったり、自分の絵を覗き込む晶に優しい笑顔を向けていたり――。
「おまけに『付き合わない?』なんて言い出して……信じられなかったよ。ふざけてるの分かってたけど、それでも嬉しかった。これでもう、ただ見てるだけじゃない。傍にいて、当たり前のように言葉を交わすことが出来る、そう思ったから。……今だってそう。さっきはあんまり急だったから怖くて躊躇ってしまったけど――晶とこんなふうになれて…俺は幸せなんだ。本当に」
「直人……」
首元に顔を埋めて気持ちを告げる直人。その唇の端が晶の胸に当たって、まるで心に直接語り掛けられているようだった。
「…でもね…」
と、晶の腕の中の身体がピクリと震える。
「晶にそんなつもりがないことは充分解ってるんだ。半分は遊びだってことも…。だけど、それでもいい。自分の気持ちを押し付けようなんて思ってないから。君が『もう要らない』って言うなら、終わりにしても構わない。――俺はただ…君のことを想っていたいだけなんだから……」
悪意の欠片も無い、ただただ素直な直人の気持ち。だが、その言葉は晶の心にチクリと突き刺さる。まるで自分の罪を暴かれ、その罪悪感に苦しむかのように胸が締め付けられた。
僅かに歪む彼の面に気付いて、直人は心配そうに声を掛ける。
「どうしたの? 大丈夫?」
「…ああ、いや、何でもねぇよ」
笑って誤魔化そうとした晶の表情が、次に発せられた直人のひと言で凍り付いた。
「やっぱり何処か…悪いの?」
直人は身を起こして晶を見る。
「あんなに頻繁に通うくらいだもの。何か持病でも持ってるんだろうとは思ってた。……でも――」
晶の頬を両手で包み、顔を寄せる直人。互いの吐息が触れるほどに近付いて、直人の口が慈しみの言葉を呟く。
「言いたくないのなら、言わなくていいよ。これ以上は訊かない」
それを聴いて、晶は目の前の細い身体を強く抱き締めた。
言えない、言える筈が無い。
自分を気遣う直人の優しさが痛くて、それにいい加減な気持ちでしか応えられない自分が腹立たしくて、晶は貪るように直人の唇を吸った。直人も舌を絡ませ、精一杯晶に応えようとする。その甘さが、少しずつ晶の痛みを包み込んでいった――。
――重なる素肌の温もりが心地好い。
さすがに疲れたのだろう、直人の瞼が閉じ掛かっていた。
「直人、疲れたろ? もう寝よ」
「うん。……晶…」
「ん?」
「……愛してる……」
そう呟いて、直人は眠りに落ちた。晶は一瞬だけ目を見開く。
「…直人…」
自分の胸で穏やかな寝息を立てる直人の顔を、晶はいつまでも見詰めていた。
★★★次回予告★★★
変わりゆく自分の気持ちを秀一に垣間見せる晶。
痛みを伴うのを承知の上で、彼は真の幸せに気付くことが出来るのか――。
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