骸鬼王と、幸福の花嫁たち【第5部まで公開】

雨宮ソウスケ

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第5部

第一章 その執事。鉄拳にて①

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 ――三十年前。
 とある校舎の教室にて。
 その死闘は、密やかに繰り広げられていた。

「――はあッ!」

 吐き出される裂帛の呼気。少年は強く床を蹴った。
 年齢は十六。黒い学生服の襟首には一年生を示す組章があった。
 未だ幼さの残る顔つきだが、その加速は一流の格闘家も比較にならないほどだった。

『おお。怖い。怖い』

 対する相手は、人ではなかった。
 サイズこそ人だが、両腕、両足が異様に長い人形。
 関節が不自然に曲がる、とんがり帽子を被ったピエロの人形である。
 カラフルな燕尾服を纏う不気味なピエロは、トンッ、トンッ、と教室内の机を次々と蹴り飛ばして、後方へと逃げる。

「逃がさねえよ!」

 少年は、邪魔な机や椅子を拳で払い、跳躍する。
 拳に魂力オドを集中させる。纏わりつくような気配に集中力が削られるが、
 ――ガンッ!
 少年は、両の拳を胸板の前で叩きつけた!
 ジジジッ、と拳に電気が奔り、一瞬後、袖を焼き尽くすほどの猛烈な炎が灯った。

『へえ! 凄いや!』

 ピエロは、カクンと首を横に傾けた。

『範囲を縮小した代わりに、術式阻害を強化したオイラの結界領域ステージの中で、まだそこまで強い系譜術クリフォトを使えるのかい!』

 ピエロがそう声を上げた直後、氾濫する机の引き出しから影が飛び出してきた。
 長い髪、裂けた口元。両手に包丁を握りしめた不気味な影だ。
 それらが五体。少年に襲い掛かる!

「邪魔すんな!」

 それらを、炎の拳で打ち払った。
 影女たちは、瞬く間に炎に包まれて燃え落ちた。

「この程度で俺の炎を止められるかよ!」

 少年はピエロに迫る。と、

『うわあ! 怖ァい!』

 言って、ピエロは燕尾服から一つの宝石を取り出した。
 真紅に輝く、美しい紅玉石ルビーだ。
 その宝石は、ピエロが素早く指を動かすと消えた。
 と、その直後、

「――なッ!」

 少年は目を瞠った。
 ピエロの長い腕。その中に一人の少女が捕えられていたからだ。
 セーラー服に包まれたスレンダーな肢体に、赤みを帯びた長い髪の少女。
 校内一の美少女と呼ばれるその美貌は、今は苦しそうに歪んでいた。
 少年にとっては、よく知る少女だった。

 星野ほしのあや。同じクラスの女生徒。少年の特殊過ぎる家庭の事情ゆえに、校内で孤立していた彼にも声を掛けるようなお節介な奴だ。

(――星野ッ!)

 少年は、その場で硬直してしまった。

『オイラはさ』

 そんな少年に、ピエロは言う。

『特殊な眼を持っててさ。少し見れば、そいつの大切な人間ってのが分かるのさ』

 そう告げて、全く動かない唇の間から、長い舌を出した。
 ぬめりと輝く、人形の体からは考えられない生々しい舌だった。
 その舌は、少女の頬を舐め、首筋を伝い、そのまま胸元にまで入り込んでいく。
 少女は「う、あ」と声を零した。
 少年の顔が、カァァッと赤くなった。

「てめえッ!」

 まるで荒ぶる火山のように。
 少年は、拳の炎をさらに燃やして、ピエロに襲い掛かった。
 完全に頭に血が上った状態だ。鬼の形相である。
 しかし、ピエロは動じなかった。
 少女の肌に舌を這わせつつ、彼女の慎ましい左の乳房も指先で弄んで、

『ダメダメ。戦闘は冷静さを失った方が負けなのさ』

 言って、空いた右手の人差し指を、少年の額に向けた。
 次の瞬間、
 ――ズドンッッ!
 ピエロの指先は凄まじい速さで伸び、少年の額を撃ちつけたのだ。
 少年は目を瞠ったまま、大きく仰け反った。
 額から大量の鮮血が散る。そうして床に体を突きつけられた。

『名付けてピノキオショット。なんちゃって』

「て、めえ……」

 仰向けに倒れた少年は、手を震わせながら口を動かす。
 しかし、額を強打された少年は、酷い脳震盪の状態だった。
 それでも眼光だけは鋭いまま、

「星、野を、離せ……」

 どうにか顔だけを上げて、ピエロに言う。

『アハハ。大した執念だね』

 ピエロは、仮面の表情を一切変えずに笑った。

引導師ボーダー誇りプライドって奴かな? ううん。違うか。この子がオイラの瞳に観えたってことは、君はこの子のことが好きなんだよね』

 そう告げた時、「う、あ、やぁ……」と、少女が体を大きく身じろぎさせた。
 その息は荒く、首筋、胸元は火照り始めている。
 ピエロは、舌をさらに深く這わせて、クツクツと笑う。

『オイラの舌には媚薬の効能もあってね。この子も仕上がってきたみたいだ』

 ピエロは、未だ立ち上がれない少年を見やる。

『そうだね。オイラの宝石箱も充分にストックできたし、たまには凌辱もいいかな? まあ、凌辱も化け物の嗜み・・・・・・だしね』

「……て、めえッ!」

 少年は声を吐き出した。

「星野に手を出してみろ! ぶっ殺すぞ!」

『アハハ! 怖いね!』

 ピエロは笑う。

『うん。決めた。今から君の目の前で彼女を――』

 そう告げようとした時だった。
 ――ガララララ、と。
 突如、教室のドアが開かれたのだ。
 少年も、ピエロも唖然とした。

「……おや」

 教室の入り口に立つ人物。それは、灰色の紳士服スーツを着た男性だった。
 年齢は、三十代になったばかりほどか。
 彫りの深い、精悍な顔つきの人物である。

「……そこに倒れているのは、火緋神君ですか?」

 硬直するピエロと少年をよそに、男性は教室に入ってくる。
 次いで、ピエロの方にも目をやる。
 ――いや、正確には、その腕の中にいる少女にだ。

「……そこにいるのは星野君ですね。そして」

 男性は、ピエロに尋ねる。

「あなたは、どう見ても我が校の生徒には見えませんな」

『……驚いたね』

 ピエロは、舌を少女から離して呟く。

『ここは一般校なんだろ? まさか二人も引導師ボーダーが紛れ込んでいたなんて』

「何を言っているのかは分かりませんが」

 コツコツと歩き、男性はピエロとの間合いを詰めていく。

「我が校の生徒たちに暴行を加えた以上、あなたを見過ごす気はありません」

 言って、拳を強く固めた。

「やめろ! 馬鹿!」

 少年が倒れたまま叫ぶ。

「そいつは我霊エゴスだ! しかも名付きネームド我霊エゴスだ! 本物の化け物なんだよ! 中国拳法をかじったとか知んねえけど、一般人のあんたが勝てる相手じゃねえんだよ!」

「先生に対して馬鹿とはなんですか。相変わらず口が悪いですね。火緋神君」

 そう返すと、コオオ、と男性は呼気を吐いた。
 少年は「え?」と目を瞠った。
 男性の全身に、魂力オドとは違う活力がみなぎったように感じたからだ。

「そこなる不審者」

 トン、と一歩前に、右足を踏み出す。
 そして、

「私の名は山岡辰彦やまおかたつひこ。本校にて、世界史を教える教師です」

 左拳を胸板の前に、右の拳を静かに前へと突き出した。

「星野君を離しなさい。そしてあなたを警察に突き出させていただきます」
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