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第4部
第八章 バケモノ談義⑩
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深く、深く意識を沈める。
音も、光も、気配も遮断して。
心の奥に思い描くのは、真円の月の姿だ。
そうして、
『……桜華さま』
胸元の白冴が問う。
『この剣は?』
桜華の前。横にして掲げた柄の刀身には、白き光が輝いていた。
けれど、ただの光ではない。
その光の白刃は、小さな三日月を描いていた。
それが交互に裏返るように、六つ連なって刀身に成っているのだ。
「月輪の太刀と呼んでいる」
桜華は言う。
「白の位をさらに極めた型だ。自分がいずれ久遠と立ち会う時のために編み出した、自分だけの秘剣だ。だが、これではまだ足りない」
そう呟くと、六連の月輪は、ゆっくりと回転をし始めた。
「すべての三日月は、いずれ新月と成る。その時こそ、この太刀は完成するのだが」
桜華は、グッと下唇を噛んだ。
「自分の魂力の量では加速が遅い。新月に至るまで、どうしても三分はかかる」
『そうでありますか……』
白冴は呟く。
『我が君と戦うための秘剣というのはいささか思うところもございますが、ならばこの白冴。桜華さまが整うまで、いかなる災厄からも桜華さまをお守りいたしましょう』
「いや、白冴」
桜華はかぶりを振った。
「お前の参戦はまずい。餓者髑髏が動き出す」
『それならばご安心を』
白冴は言う。
『先程、黒田さまが御堂にご到着される様子を視認いたしました。その直後から、近くの我霊どもが退くのも確認しております』
「ッ! そうか!」
桜華は目を見開いた。
「黒田さまは、彼らは成し遂げたのだな」
『はい。お見事でございました』
白冴の賞賛に、桜華も微笑を浮かべる。
「ならば、後顧の憂いはない。頼んだぞ。白冴」
『お任せください。桜華さま』
水晶の首飾りが浮かび、恭しく白冴は告げる。
『奥方さまをお守りすることが、白冴の至上命令にてございますゆえに』
◆
多江は、苦戦していた。
――ガッ、ゴンッ、ドゴンッ!
多江が身に着けた防御能力。
肉体を鋼鉄化して自動防御する能力も関係なく、エリーゼは乱打してくる。
見た目は華奢な少女。その拳も多江の掌に納まるほどに小さい。
だが、その威力は、凶悪そのものだった。
上から下。右から左。真っ直ぐに貫く拳もある。
時折、その華奢な脚をしならせて首を狩り取りに来る。
まさしく縦横無尽の猛威。まるで戦場。砲弾の嵐のようだった。
その上、小柄になった利点か、恐ろしく素早い。
多江が鉄砲を繰り出しても、容易くかわして、次の瞬間には殴られていた。
多江の自動防御がなければ、とうの昔に殴殺されていたことだろう。
多江の一の動作に対して、エリーゼは十の動作を行う。
互いの時間の感覚に、大きな差異がある。
そう感じるほどの速さだった。
「人間なんかにエリーが負けるものか!」
エリーゼの猛攻は続く。
地を這うような拳が上昇、多江のあごを射抜く。
多江は、すでに満身創痍だというのに、エリーゼは全くの無傷だった。
何十という拳を繰り出しても、化け物ゆえに息が切れる様子さえもない。
「人間なんて塵のくせに!」
感情を剥き出しに、そう叫ぶエリーゼ。
顔を殴られ、大きく仰け反りながらも多江の表情に怒りの感情が浮かんだ。
――こいつのせいで。
こいつのせいで、どれほどの人間が悲しみ、死んでいったか――。
「ふざけんじゃないよ!」
多江は叫び、重心を低くして突進した。
不意な突進にエリーゼは目を瞠る。いや、正確には、頭部すべてが銀色に輝く多江の姿に驚いたというべきか。
いずれにせよ、エリーゼは額に、多江のぶちかましをまともに喰らってしまった。
小柄になったエリーゼだが、今の体重は桁違いだ。
彼女自身も言っていた通り、すべての触舌を圧縮して筋力にしているのだから当然だ。
だが、そんな超重量も物ともせず、多江はエリーゼを吹き飛ばした。
そして、地を削って体勢を整えようとするエリーゼの間合いをつめて、
「今こそあんたを張っ倒す!」
大きく、右手を振りかぶった。
硬く、硬く、硬く。
強くそう念じて、腕に力を込める。
血管が浮かび上がり、腕の筋肉も膨れ上がる。
心の奥に、虚ろな眼差しの少女の顔を思い浮かべて。
(すずりちゃん!)
渾身の掌底を、エリーゼの横面に叩きつけた!
その威力は凄まじい。
エリーゼは木々を粉砕して吹き飛び、森の一角を削った。
全霊を込めたためか、多江は大きく息を乱していた。
「こ、のうッ!」
だが、エリーゼは、すぐさま立ち上がった。
初めて負傷をし、口の端から血を流しているが、今の一撃を喰らってもなお、明らかに余力がある様子だった。
「人間が! 人間如きが!」
荒い息の多江を睨みつけて、そう叫んだ時だった。
「……お前も、元は人間だったのだろう」
不意に、その声が耳に届いた。
エリーゼが一瞬、唖然とすると、ふわりと桜色の振袖が舞った。
すぐ目の前。そこには、身を屈める桜華の姿があった。
エリーゼは声を発するよりも速く、拳を突き出していた。
――が、
「引導をくれてやる。もう一度、人としてやり直せ」
地から天へと。一筋の光が奔った。
エリーゼは、目を瞬かせた。
衝撃も、何も感じなかったからだ。
顔を上げる。そこには、六つに連なる白い新月が輝いてた。
そうして、
「……え?」と呟く。いきなり左腕が落ちたのだ。
……ズズズズ。
次いで、エリーゼの胴体が斜めずれ始めた。右腰から左脇にかけてだ。
エリーゼは青ざめるが、驚愕の悲鳴を上げる前に、切断面から触舌を解き放ち、後方の木を絡めとって、上半身を退避させようとする。
「逃がしはしない!」
後方に逃げ出したエリーゼを、桜華が追う。
その桜華を妨害しようと、倒れ伏していたエリーゼの下半身が立とうとするが、
――ズンッ!
その背中を、多江が踏みつける!
まるで亡者を踏みつける明王のようだ。
「やっちまいな! 桜華!」
「――無論だ!」
桜華は加速する。その右手には、白く輝く月輪の太刀を携えていた。
エリーゼは次々と触舌を木々に絡ませて逃げようとするが、桜華の方が速い。
「い、いや……」
その顔が、恐怖に染まる。
もう桜華は、目前にまで迫っていた。
「いやッ、いやあああああ――ッ! 助けて! 助けて!」
かつて、誰も聞き届けてくれなかった悲鳴を口にする。
月輪の太刀が天に掲げられた。
が、その時。
『――桜華さま!』
緊迫した声で、白冴が叫んだ。
桜華の攻撃の妨害になると承知の上で、前面に幾重にも水晶の防御壁を展開するが、それらは地より生まれ出た、無数の刃で容易く斬り刻まれる。
それでも数瞬の停滞はあった。桜華は負傷だけは避けることが出来た。
「――くそッ!」
どうにか攻撃を凌いだ桜華は、後方へと跳ぶ。
次いで、前方を見やると、
「……ひっく。お館さまぁ……」
上半身だけとなって泣きじゃくるエリーゼを抱きしめる男がいた。
――《恒河沙剣刃餓者髑髏》。
この事件の首謀者。エリーゼの主人である。
「……おお、吾輩の可愛いエリー」
餓者髑髏は、エリーゼの頬に触れた。
黄金の少女の目尻を、親指で拭う。
「可哀そうに。こんなにも傷つけられて。こんなにも泣いてしまって」
「……お館さまぁ……。怖かったぁ、怖かったのォ……」
「大丈夫だ。エリー」
餓者髑髏はエリーゼを抱きかかえて、優しく微笑む。
「吾輩が来たのだ。これ以上、怖い想いをすることはない」
「……お館さまぁ」
エリーゼは涙を残した顔で瞳を閉じ、あごを少し上げた。
「ふふ。エリーは甘えん坊だな」
道化紳士は苦笑を浮かべつつ、愛する妻の口付けのおねだりに応えた。
桜華と、多江は、険しい表情を浮かべるばかりだ。
しゅんっ、と。
その時、多江が踏みつけていたエリーゼの下半身、落ちていた左腕の断面から触舌が伸びてエリーゼの上半身に繋がる。左腕と下半身は、多江も撥ね退けて、勢いよく上半身に引き寄せられると、瞬く間にエリーゼは再生した。
エリーゼの唇は銀色の糸を引いて、主から離れた。
「少し待ってて。お館さま」
エリーゼは微笑みながら言う。
「もう大丈夫だから。こいつらをすぐに殺すから」
そう言って、地面に降りようとするが、
「……お館さま?」
どうしてか、主人は、彼女の腰を掴んだままで降ろしてくれない。
エリーゼが小首を傾げると、餓者髑髏はかぶりを振った。
「残念ながら、それはダメだよ。エリー」
「お館さま? どうして?」
エリーゼは少し不満そうな顔をした。
「エリー、こいつら殺したい。エリーはまだ負けていないから」
「うむ。可愛いエリーの我儘だ。聞いては上げたいのだが、少々ね」
そこで、パチンと指を鳴らす。
途端、刀身の山が、地から噴き上がった。
月輪の太刀を構えて餓者髑髏たちへと跳躍した桜華に向けてだ。
「――クッ!」
「桜華!」
桜華が舌打ちし、多江が声を張り上げる。
刀身の山は、容赦なく、桜華へと襲い掛かる!
桜華の秘剣である月輪の太刀は、切断力においては並ぶモノはない。幾重もの斬閃で餓者髑髏の刃さえも斬り裂いていくが、その数はあまりにも膨大だった。
振袖や着物の肩口を刃で刻まれ、桜華の白い肌や鎖骨、胸元が露出する。
『桜華さま!』
白冴が水晶の結界を発現する。
そのおかげで、どうにか刃の猛攻は凌ぐことは出来たが、
「――くうッ!」
勢いそのものは殺せない。
噴火のごとく噴出した刃の勢いを受け、桜華の小柄な体は空高くに吹き飛ばされた。
「桜華!」
多江が桜華を受け止めようと走り出すが、ふと餓者髑髏が呟いた。
「しまった。これは悪手だったか」
微かに、渋面を浮かべる。
「さらに逆鱗に触れてしまったか。エリー。しっかり吾輩に掴まるのだよ」
「え? お館さま?」
餓者髑髏の肩を掴むエリーゼが目を瞬かせた、その時だった。
――ゴウッ!
柱の如き、巨大な六角棍が振り下ろされる!
餓者髑髏は左腕を刀剣の山に変えて、それを受け止めた。
完全に一撃は防ぎ切る。が、それでも両足は、ズズンと地に沈みこんだ。
「―――なっ!」
エリーゼは目を見開いた。
突如、攻撃を加えてきたのは、巨大な獅子の僧だった。
獅子僧は『ふん』と鼻を鳴らすと、巨躯とは思えない身軽さで後方に跳んだ。
次いで、すぐ近くにいた多江を小脇に抱えた。
「はあっ!? 何者だい!?」
『案ずるな。味方である』
獅子僧は、そう告げる。
「いやいや、ええええッ!?」
当の多江は、激しく狼狽していたが。
だが、餓者髑髏に、それらを気にするような余裕もない。
続けて、恐ろしい暴風が襲い掛かって来たからだ。
直線状に渦巻く暴風。
それは、黄金の角を持つ、蒼い巨狼のアギトから放たれていた。
エリーゼの黄金の髪が大きく振り乱れる中、餓者髑髏は足の裏から、地中深くにまで刀剣を突き刺して暴風を凌いだ。
ややあって、暴風は収まるが、
――ぞわり。
餓者髑髏は、背中に悪寒を感じた。
そして、次の瞬間。
何もなかった。
何もなかったはずの空間に、突如、投擲された槍が現れたのだ。
瓢箪と鈴の飾り。穂先に炎を纏う槍である。
それは一筋の光と成って、もう回避できない距離にまで迫っていた。
まるで時間でも飛ばされたかのような出現の仕方だ。
(さては時間停止か)
そう判断しつつ、餓者髑髏は刀剣と成った左腕で槍を受け止める!
――が、
(――ッ! これは)
微かに眉をひそめる。
信じ難い反動だ。この威力。ただの投擲とは思えない。
左腕の刀剣は、次々と砕かれていく。
だというのに槍の勢いが削がれる様子もない。
このままでは、左腕の防御を突破されるのも時間の問題だ。
(止むを得まい)
餓者髑髏は、左腕の形状を変えた。
受け止めるのではなく、受け流す形に。
切っ先を添えられ、千成瓢箪の槍は、軌道をわずかに変えて後方へと飛んだ。
それは、木々も、大気も、地表までも削って、遥かなる後方へと消えていった。
どうにか、槍の猛威も凌いだ餓者髑髏は、ふっと口角を崩した。
「なにも、ここまで怒らなくてもいいのではないかね」
空を見上げる。
木々の上。月光を背に。
そこには、白い少女を傍らに、黒龍の背に腰をかける久遠真刃がいた。
が、それ以外にも、もう一人いる。
彼は、吹き飛ばされたはずの奥方を膝の上に抱えていた。
「く、久遠……」
奥方――桜華は、赤い顔で真刃の横顔を見上げている。
「……何も言うな。御影」
真刃は眼下の餓者髑髏を見据えたまま、嘆息する。
「……何が悲しくて、またしても男を受け止めなければならんのか」
心底、嫌そうにそう呟く。
桜華は「う、五月蠅い……」と言いつつ、刃に刻まれたせいで開けかけている胸元を慌てて隠して、身を縮こませていた。
「道化よ」
真刃は言う。
「不干渉の約定を破ったのは貴様だ。己が怒るのも当然だろう」
「フハハ。それに関してはお詫びするよ」
そう答えつつ、餓者髑髏は、茫然としているエリーゼの頬を撫でる。
「なにせ、あのままでは、エリーを失いかねないほどの危機だったからね。君も愛妻家ならばどうかご容赦願いたいな」
「ふん。だからと言って、己の妻を殺されてたまるか」
言って、真刃は左手で桜華の頬に触れた。
桜華は、ビクッと震えた。
これは真刃にしてみれば、相手に合わせた意趣返しだ。
御影が大切な妻であることを示して、餓者髑髏たちを警戒させるつもりだった。
ただ、これは、桜華にとっては、とんでもないことだった。
「(ま、待て! 久遠! お前、何を……)」
桜華は、小さな声で制止の声を上げようとするが、真刃は手を止めない。
互いにとって、不快であることは重々承知している。
御影は美麗ではあるが男なのだ。男の頬を撫でるなど、何の罰則なのか。
しかし、それでもここは、御影に手を出すことは、真刃にとって逆鱗であると、奴らに示しておかねばならないのだ。
「(不快なのはお互い様だ。だが我慢しろ。ここは夫婦に徹しろ。いいな。御影)」
より抱き寄せて小声でそう告げる。桜華は言葉もなかった。
そうして真刃は、桜華の首筋にも触れた。
桜華は 、細い肩を震わせて、ギュッと瞳を閉じる。
その後、ずっと何かに堪えるような顔をしていたが、おもむろに真刃の指先が動くと「あ」と声を零した。ぞわぞわと背筋に雷が奔る。
愛撫はさらに続く。その都度、桜華は身を震わせた。白い肌は赤みを差し、胸元だけはどうにか片手で抑えつつも、時折うっすらと開く瞳も次第に潤んでいった。
「怪我はないか? 桜華」
「……は、はい……」
真刃の腕の中で、熱い吐息を零してこくんと頷く桜華。
真刃は、続けて言う。
「桜華。いいか。お前は己の妻だ。無闇に傷つくことは許さぬぞ」
そうして、その横髪に指先で触れる。
すると、御影は、熱病に浮かされたような眼差しを向けた。
数瞬の沈黙。
そして、
「……はい。承知しています。真刃さま」
真刃の同僚は答える。
「桜華は、あなたの女ですから」
そんな台詞まで告げてくる。
さらには、身を委ねるように真刃の肩に頭を乗せてきた。
(ほう。大したものだな。御影の奴め)
何とも見事な演技力である。これならば男だと気付く者などいまい。
御影の意外な才に、真刃は心から感心する。
余談だが、真刃たちの隣に座る時雫は、桜華の真実味がありすぎる反応を間近で目撃しており、終始、驚くような顔をしていた。
ややあって。
「さて。道化よ」
改めて桜華を強く抱きしめ、真刃は告げる。
「約定を破った上、よりにもよって己の妻を手にかけようとしたのだ。貴様にはしかるべき報いを受けてもらうぞ」
「……ほう」
餓者髑髏は双眸を細めた。
「ここで吾輩とやり合う気かね?」
「そのつもりはない」
真刃もまた、双眸を細めた。
「この夜の乗り越えた彼らの努力を、その勝利を無にするつもりはない。だが一撃だけ。約定の罰則として、あえて貴様には受けてもらうぞ」
「……ふむ」
エリーゼを片腕に、餓者髑髏はあごに手をやった。
「確かにそれは筋ではあるね。いいだろう。甘んじて受けようではないか」
「二言はないな」
真刃は尋ねる。餓者髑髏は「もちろん」と答えた。
真刃は、ふっと笑った。
次の瞬間。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッッ!
世界が揺れた。
餓者髑髏のみならず、エリーゼも目を瞠った。
「お、お館さまっ……」
「大丈夫だよ。エリー。しかし、久遠君」
顔を上げてそれを見やり、餓者髑髏は苦笑を浮かべた。
「君は、本当に驚かせてくれるな」
餓者髑髏の視線の先。
そこには、巨大な怪物がいた。
牡牛の如き二本角。灼岩で造られた羆に似た頭部。
胸部には炎がたゆたう火口を持ち、溶岩流と灼けた岩で造られたその巨躯は、恐らく顕現しているのは上半身だけだろうが、それでも木々の高さを優に超えていた。
千年の時を生き永らえた餓者髑髏をもってしても、ここまで巨大な式神は見たことがない。
桜華、多江もその威容に息を呑むほどだ。
赤い巨刃を背負う灼岩の怪物は、巨大なアギトをゆっくりと開いた。
膨大な炎が、牙の間から零れ始める。
「さて。一撃を受けてもらうぞ」
「いやはや、君は」
餓者髑髏は、ふっと笑った。
「本当に人間なのかね?」
「さあな」
桜華の顔を一度だけ一瞥し、真刃は言う。
「化け物の談義は聞いてやったが、貴様から人間の談義など聞きたくもないな」
そう呟き、銃口を示すかのように左手の人差し指を向けた。
そして――。
―――ゴウッッ!
灼岩の巨獣のアギトから、赫光は迸る!
それは、餓者髑髏とエリーゼを呑み込むと、そのまま大地を直線状に裂き、その断裂から火柱を噴き上がらせた。
山に地響きが轟く。それは、まさに天変地異の一撃だった。
「お、お前、これはやりすぎだろう!」
正気に返った桜華が、片手で真刃の肩を掴んで言う。
「そうか?」
真刃は言う。
「この程度では奴を仕留めるには程遠いぞ。そもそもだ」
一拍おいて、皮肉気に笑った。
「己の妻を傷つけようとしたのだ。これはまだ温い方だと思うのだがな」
「………う」
真刃としては冗談だったのだが、桜華は言葉を詰まらせてしまった。
「もう。もう。お前、ずるい」と、真刃でも聞き取れない声で呟く。『……天然でございますね。我が君は』と、白冴が感心した様子の呟きをした。
真刃当人は「どうした?」と首を傾げているが、隣に座る時雫は、興味深そうに桜華を見やり、ピコピコと兎耳を動かしてた。
「へえ。桜華。あんたみたいな凛々しい子でも、旦那の前だと女なんだね」
不意に、そんな声を掛けられた。
桜華はハッとした顔で、眼下に目をやる。
そこには、赫獅子の傍らに立つ多江の姿があった。
あの《屍山喰らい》相手に殴り合いをしたのだ。無傷とはとても言えないが、助力してくれた引導師の無事な姿に、ホッと安堵の息を零す。が、
「だ、誰が女だ! 自分は男だ!」
「へ? 男?」
多江は目を丸くする。
それから、美脚を晒しつつ、青年の腕の中に納まる桜華をまじまじと見つめて。
「いやいや。何それ。冗談かい? それはないよ」
陽気に笑って、パタパタと手を振った。
「い、いや、その、と、ともかく自分は男なのだっ! それよりも!」
何だかんだで、真刃の腕の中から出ようとはしない桜華が告げる。
「助力には助かったぞ。感謝する。しかし、お前はどこの家の引導師なのだ?」
「へ? 『いんどうし』って何さ?」
「え?」
キョトンとした様子で尋ね返す多江に、桜華は目を瞬かせた。
そんな彼女たちをよそに、
「…………」
真刃は、自分の最強の化身が薙ぎ払った地表を見やる。
熱量ならば、爪牙状態の《災禍崩天》も上回る一撃。
だが、それを以てしても、あの男を倒すには至らないだろう。
あの男に守られていた《屍山喰らい》もだ。
恐らく、奴らとはいつか再び出遭う予感がする。
(……ふん)
真刃は、双眸を細めた。
(別に構わんか。その際、倒せるならば倒すだけだ)
不快な男だった。
生かしておくべきではないとも思う。
だが、それは、
(己にとっての大切な者を懸けてまで貫くことではない)
無意識の内に、御影の肩を強く握りつつ。
今は、そう思う真刃だった。
音も、光も、気配も遮断して。
心の奥に思い描くのは、真円の月の姿だ。
そうして、
『……桜華さま』
胸元の白冴が問う。
『この剣は?』
桜華の前。横にして掲げた柄の刀身には、白き光が輝いていた。
けれど、ただの光ではない。
その光の白刃は、小さな三日月を描いていた。
それが交互に裏返るように、六つ連なって刀身に成っているのだ。
「月輪の太刀と呼んでいる」
桜華は言う。
「白の位をさらに極めた型だ。自分がいずれ久遠と立ち会う時のために編み出した、自分だけの秘剣だ。だが、これではまだ足りない」
そう呟くと、六連の月輪は、ゆっくりと回転をし始めた。
「すべての三日月は、いずれ新月と成る。その時こそ、この太刀は完成するのだが」
桜華は、グッと下唇を噛んだ。
「自分の魂力の量では加速が遅い。新月に至るまで、どうしても三分はかかる」
『そうでありますか……』
白冴は呟く。
『我が君と戦うための秘剣というのはいささか思うところもございますが、ならばこの白冴。桜華さまが整うまで、いかなる災厄からも桜華さまをお守りいたしましょう』
「いや、白冴」
桜華はかぶりを振った。
「お前の参戦はまずい。餓者髑髏が動き出す」
『それならばご安心を』
白冴は言う。
『先程、黒田さまが御堂にご到着される様子を視認いたしました。その直後から、近くの我霊どもが退くのも確認しております』
「ッ! そうか!」
桜華は目を見開いた。
「黒田さまは、彼らは成し遂げたのだな」
『はい。お見事でございました』
白冴の賞賛に、桜華も微笑を浮かべる。
「ならば、後顧の憂いはない。頼んだぞ。白冴」
『お任せください。桜華さま』
水晶の首飾りが浮かび、恭しく白冴は告げる。
『奥方さまをお守りすることが、白冴の至上命令にてございますゆえに』
◆
多江は、苦戦していた。
――ガッ、ゴンッ、ドゴンッ!
多江が身に着けた防御能力。
肉体を鋼鉄化して自動防御する能力も関係なく、エリーゼは乱打してくる。
見た目は華奢な少女。その拳も多江の掌に納まるほどに小さい。
だが、その威力は、凶悪そのものだった。
上から下。右から左。真っ直ぐに貫く拳もある。
時折、その華奢な脚をしならせて首を狩り取りに来る。
まさしく縦横無尽の猛威。まるで戦場。砲弾の嵐のようだった。
その上、小柄になった利点か、恐ろしく素早い。
多江が鉄砲を繰り出しても、容易くかわして、次の瞬間には殴られていた。
多江の自動防御がなければ、とうの昔に殴殺されていたことだろう。
多江の一の動作に対して、エリーゼは十の動作を行う。
互いの時間の感覚に、大きな差異がある。
そう感じるほどの速さだった。
「人間なんかにエリーが負けるものか!」
エリーゼの猛攻は続く。
地を這うような拳が上昇、多江のあごを射抜く。
多江は、すでに満身創痍だというのに、エリーゼは全くの無傷だった。
何十という拳を繰り出しても、化け物ゆえに息が切れる様子さえもない。
「人間なんて塵のくせに!」
感情を剥き出しに、そう叫ぶエリーゼ。
顔を殴られ、大きく仰け反りながらも多江の表情に怒りの感情が浮かんだ。
――こいつのせいで。
こいつのせいで、どれほどの人間が悲しみ、死んでいったか――。
「ふざけんじゃないよ!」
多江は叫び、重心を低くして突進した。
不意な突進にエリーゼは目を瞠る。いや、正確には、頭部すべてが銀色に輝く多江の姿に驚いたというべきか。
いずれにせよ、エリーゼは額に、多江のぶちかましをまともに喰らってしまった。
小柄になったエリーゼだが、今の体重は桁違いだ。
彼女自身も言っていた通り、すべての触舌を圧縮して筋力にしているのだから当然だ。
だが、そんな超重量も物ともせず、多江はエリーゼを吹き飛ばした。
そして、地を削って体勢を整えようとするエリーゼの間合いをつめて、
「今こそあんたを張っ倒す!」
大きく、右手を振りかぶった。
硬く、硬く、硬く。
強くそう念じて、腕に力を込める。
血管が浮かび上がり、腕の筋肉も膨れ上がる。
心の奥に、虚ろな眼差しの少女の顔を思い浮かべて。
(すずりちゃん!)
渾身の掌底を、エリーゼの横面に叩きつけた!
その威力は凄まじい。
エリーゼは木々を粉砕して吹き飛び、森の一角を削った。
全霊を込めたためか、多江は大きく息を乱していた。
「こ、のうッ!」
だが、エリーゼは、すぐさま立ち上がった。
初めて負傷をし、口の端から血を流しているが、今の一撃を喰らってもなお、明らかに余力がある様子だった。
「人間が! 人間如きが!」
荒い息の多江を睨みつけて、そう叫んだ時だった。
「……お前も、元は人間だったのだろう」
不意に、その声が耳に届いた。
エリーゼが一瞬、唖然とすると、ふわりと桜色の振袖が舞った。
すぐ目の前。そこには、身を屈める桜華の姿があった。
エリーゼは声を発するよりも速く、拳を突き出していた。
――が、
「引導をくれてやる。もう一度、人としてやり直せ」
地から天へと。一筋の光が奔った。
エリーゼは、目を瞬かせた。
衝撃も、何も感じなかったからだ。
顔を上げる。そこには、六つに連なる白い新月が輝いてた。
そうして、
「……え?」と呟く。いきなり左腕が落ちたのだ。
……ズズズズ。
次いで、エリーゼの胴体が斜めずれ始めた。右腰から左脇にかけてだ。
エリーゼは青ざめるが、驚愕の悲鳴を上げる前に、切断面から触舌を解き放ち、後方の木を絡めとって、上半身を退避させようとする。
「逃がしはしない!」
後方に逃げ出したエリーゼを、桜華が追う。
その桜華を妨害しようと、倒れ伏していたエリーゼの下半身が立とうとするが、
――ズンッ!
その背中を、多江が踏みつける!
まるで亡者を踏みつける明王のようだ。
「やっちまいな! 桜華!」
「――無論だ!」
桜華は加速する。その右手には、白く輝く月輪の太刀を携えていた。
エリーゼは次々と触舌を木々に絡ませて逃げようとするが、桜華の方が速い。
「い、いや……」
その顔が、恐怖に染まる。
もう桜華は、目前にまで迫っていた。
「いやッ、いやあああああ――ッ! 助けて! 助けて!」
かつて、誰も聞き届けてくれなかった悲鳴を口にする。
月輪の太刀が天に掲げられた。
が、その時。
『――桜華さま!』
緊迫した声で、白冴が叫んだ。
桜華の攻撃の妨害になると承知の上で、前面に幾重にも水晶の防御壁を展開するが、それらは地より生まれ出た、無数の刃で容易く斬り刻まれる。
それでも数瞬の停滞はあった。桜華は負傷だけは避けることが出来た。
「――くそッ!」
どうにか攻撃を凌いだ桜華は、後方へと跳ぶ。
次いで、前方を見やると、
「……ひっく。お館さまぁ……」
上半身だけとなって泣きじゃくるエリーゼを抱きしめる男がいた。
――《恒河沙剣刃餓者髑髏》。
この事件の首謀者。エリーゼの主人である。
「……おお、吾輩の可愛いエリー」
餓者髑髏は、エリーゼの頬に触れた。
黄金の少女の目尻を、親指で拭う。
「可哀そうに。こんなにも傷つけられて。こんなにも泣いてしまって」
「……お館さまぁ……。怖かったぁ、怖かったのォ……」
「大丈夫だ。エリー」
餓者髑髏はエリーゼを抱きかかえて、優しく微笑む。
「吾輩が来たのだ。これ以上、怖い想いをすることはない」
「……お館さまぁ」
エリーゼは涙を残した顔で瞳を閉じ、あごを少し上げた。
「ふふ。エリーは甘えん坊だな」
道化紳士は苦笑を浮かべつつ、愛する妻の口付けのおねだりに応えた。
桜華と、多江は、険しい表情を浮かべるばかりだ。
しゅんっ、と。
その時、多江が踏みつけていたエリーゼの下半身、落ちていた左腕の断面から触舌が伸びてエリーゼの上半身に繋がる。左腕と下半身は、多江も撥ね退けて、勢いよく上半身に引き寄せられると、瞬く間にエリーゼは再生した。
エリーゼの唇は銀色の糸を引いて、主から離れた。
「少し待ってて。お館さま」
エリーゼは微笑みながら言う。
「もう大丈夫だから。こいつらをすぐに殺すから」
そう言って、地面に降りようとするが、
「……お館さま?」
どうしてか、主人は、彼女の腰を掴んだままで降ろしてくれない。
エリーゼが小首を傾げると、餓者髑髏はかぶりを振った。
「残念ながら、それはダメだよ。エリー」
「お館さま? どうして?」
エリーゼは少し不満そうな顔をした。
「エリー、こいつら殺したい。エリーはまだ負けていないから」
「うむ。可愛いエリーの我儘だ。聞いては上げたいのだが、少々ね」
そこで、パチンと指を鳴らす。
途端、刀身の山が、地から噴き上がった。
月輪の太刀を構えて餓者髑髏たちへと跳躍した桜華に向けてだ。
「――クッ!」
「桜華!」
桜華が舌打ちし、多江が声を張り上げる。
刀身の山は、容赦なく、桜華へと襲い掛かる!
桜華の秘剣である月輪の太刀は、切断力においては並ぶモノはない。幾重もの斬閃で餓者髑髏の刃さえも斬り裂いていくが、その数はあまりにも膨大だった。
振袖や着物の肩口を刃で刻まれ、桜華の白い肌や鎖骨、胸元が露出する。
『桜華さま!』
白冴が水晶の結界を発現する。
そのおかげで、どうにか刃の猛攻は凌ぐことは出来たが、
「――くうッ!」
勢いそのものは殺せない。
噴火のごとく噴出した刃の勢いを受け、桜華の小柄な体は空高くに吹き飛ばされた。
「桜華!」
多江が桜華を受け止めようと走り出すが、ふと餓者髑髏が呟いた。
「しまった。これは悪手だったか」
微かに、渋面を浮かべる。
「さらに逆鱗に触れてしまったか。エリー。しっかり吾輩に掴まるのだよ」
「え? お館さま?」
餓者髑髏の肩を掴むエリーゼが目を瞬かせた、その時だった。
――ゴウッ!
柱の如き、巨大な六角棍が振り下ろされる!
餓者髑髏は左腕を刀剣の山に変えて、それを受け止めた。
完全に一撃は防ぎ切る。が、それでも両足は、ズズンと地に沈みこんだ。
「―――なっ!」
エリーゼは目を見開いた。
突如、攻撃を加えてきたのは、巨大な獅子の僧だった。
獅子僧は『ふん』と鼻を鳴らすと、巨躯とは思えない身軽さで後方に跳んだ。
次いで、すぐ近くにいた多江を小脇に抱えた。
「はあっ!? 何者だい!?」
『案ずるな。味方である』
獅子僧は、そう告げる。
「いやいや、ええええッ!?」
当の多江は、激しく狼狽していたが。
だが、餓者髑髏に、それらを気にするような余裕もない。
続けて、恐ろしい暴風が襲い掛かって来たからだ。
直線状に渦巻く暴風。
それは、黄金の角を持つ、蒼い巨狼のアギトから放たれていた。
エリーゼの黄金の髪が大きく振り乱れる中、餓者髑髏は足の裏から、地中深くにまで刀剣を突き刺して暴風を凌いだ。
ややあって、暴風は収まるが、
――ぞわり。
餓者髑髏は、背中に悪寒を感じた。
そして、次の瞬間。
何もなかった。
何もなかったはずの空間に、突如、投擲された槍が現れたのだ。
瓢箪と鈴の飾り。穂先に炎を纏う槍である。
それは一筋の光と成って、もう回避できない距離にまで迫っていた。
まるで時間でも飛ばされたかのような出現の仕方だ。
(さては時間停止か)
そう判断しつつ、餓者髑髏は刀剣と成った左腕で槍を受け止める!
――が、
(――ッ! これは)
微かに眉をひそめる。
信じ難い反動だ。この威力。ただの投擲とは思えない。
左腕の刀剣は、次々と砕かれていく。
だというのに槍の勢いが削がれる様子もない。
このままでは、左腕の防御を突破されるのも時間の問題だ。
(止むを得まい)
餓者髑髏は、左腕の形状を変えた。
受け止めるのではなく、受け流す形に。
切っ先を添えられ、千成瓢箪の槍は、軌道をわずかに変えて後方へと飛んだ。
それは、木々も、大気も、地表までも削って、遥かなる後方へと消えていった。
どうにか、槍の猛威も凌いだ餓者髑髏は、ふっと口角を崩した。
「なにも、ここまで怒らなくてもいいのではないかね」
空を見上げる。
木々の上。月光を背に。
そこには、白い少女を傍らに、黒龍の背に腰をかける久遠真刃がいた。
が、それ以外にも、もう一人いる。
彼は、吹き飛ばされたはずの奥方を膝の上に抱えていた。
「く、久遠……」
奥方――桜華は、赤い顔で真刃の横顔を見上げている。
「……何も言うな。御影」
真刃は眼下の餓者髑髏を見据えたまま、嘆息する。
「……何が悲しくて、またしても男を受け止めなければならんのか」
心底、嫌そうにそう呟く。
桜華は「う、五月蠅い……」と言いつつ、刃に刻まれたせいで開けかけている胸元を慌てて隠して、身を縮こませていた。
「道化よ」
真刃は言う。
「不干渉の約定を破ったのは貴様だ。己が怒るのも当然だろう」
「フハハ。それに関してはお詫びするよ」
そう答えつつ、餓者髑髏は、茫然としているエリーゼの頬を撫でる。
「なにせ、あのままでは、エリーを失いかねないほどの危機だったからね。君も愛妻家ならばどうかご容赦願いたいな」
「ふん。だからと言って、己の妻を殺されてたまるか」
言って、真刃は左手で桜華の頬に触れた。
桜華は、ビクッと震えた。
これは真刃にしてみれば、相手に合わせた意趣返しだ。
御影が大切な妻であることを示して、餓者髑髏たちを警戒させるつもりだった。
ただ、これは、桜華にとっては、とんでもないことだった。
「(ま、待て! 久遠! お前、何を……)」
桜華は、小さな声で制止の声を上げようとするが、真刃は手を止めない。
互いにとって、不快であることは重々承知している。
御影は美麗ではあるが男なのだ。男の頬を撫でるなど、何の罰則なのか。
しかし、それでもここは、御影に手を出すことは、真刃にとって逆鱗であると、奴らに示しておかねばならないのだ。
「(不快なのはお互い様だ。だが我慢しろ。ここは夫婦に徹しろ。いいな。御影)」
より抱き寄せて小声でそう告げる。桜華は言葉もなかった。
そうして真刃は、桜華の首筋にも触れた。
桜華は 、細い肩を震わせて、ギュッと瞳を閉じる。
その後、ずっと何かに堪えるような顔をしていたが、おもむろに真刃の指先が動くと「あ」と声を零した。ぞわぞわと背筋に雷が奔る。
愛撫はさらに続く。その都度、桜華は身を震わせた。白い肌は赤みを差し、胸元だけはどうにか片手で抑えつつも、時折うっすらと開く瞳も次第に潤んでいった。
「怪我はないか? 桜華」
「……は、はい……」
真刃の腕の中で、熱い吐息を零してこくんと頷く桜華。
真刃は、続けて言う。
「桜華。いいか。お前は己の妻だ。無闇に傷つくことは許さぬぞ」
そうして、その横髪に指先で触れる。
すると、御影は、熱病に浮かされたような眼差しを向けた。
数瞬の沈黙。
そして、
「……はい。承知しています。真刃さま」
真刃の同僚は答える。
「桜華は、あなたの女ですから」
そんな台詞まで告げてくる。
さらには、身を委ねるように真刃の肩に頭を乗せてきた。
(ほう。大したものだな。御影の奴め)
何とも見事な演技力である。これならば男だと気付く者などいまい。
御影の意外な才に、真刃は心から感心する。
余談だが、真刃たちの隣に座る時雫は、桜華の真実味がありすぎる反応を間近で目撃しており、終始、驚くような顔をしていた。
ややあって。
「さて。道化よ」
改めて桜華を強く抱きしめ、真刃は告げる。
「約定を破った上、よりにもよって己の妻を手にかけようとしたのだ。貴様にはしかるべき報いを受けてもらうぞ」
「……ほう」
餓者髑髏は双眸を細めた。
「ここで吾輩とやり合う気かね?」
「そのつもりはない」
真刃もまた、双眸を細めた。
「この夜の乗り越えた彼らの努力を、その勝利を無にするつもりはない。だが一撃だけ。約定の罰則として、あえて貴様には受けてもらうぞ」
「……ふむ」
エリーゼを片腕に、餓者髑髏はあごに手をやった。
「確かにそれは筋ではあるね。いいだろう。甘んじて受けようではないか」
「二言はないな」
真刃は尋ねる。餓者髑髏は「もちろん」と答えた。
真刃は、ふっと笑った。
次の瞬間。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッッ!
世界が揺れた。
餓者髑髏のみならず、エリーゼも目を瞠った。
「お、お館さまっ……」
「大丈夫だよ。エリー。しかし、久遠君」
顔を上げてそれを見やり、餓者髑髏は苦笑を浮かべた。
「君は、本当に驚かせてくれるな」
餓者髑髏の視線の先。
そこには、巨大な怪物がいた。
牡牛の如き二本角。灼岩で造られた羆に似た頭部。
胸部には炎がたゆたう火口を持ち、溶岩流と灼けた岩で造られたその巨躯は、恐らく顕現しているのは上半身だけだろうが、それでも木々の高さを優に超えていた。
千年の時を生き永らえた餓者髑髏をもってしても、ここまで巨大な式神は見たことがない。
桜華、多江もその威容に息を呑むほどだ。
赤い巨刃を背負う灼岩の怪物は、巨大なアギトをゆっくりと開いた。
膨大な炎が、牙の間から零れ始める。
「さて。一撃を受けてもらうぞ」
「いやはや、君は」
餓者髑髏は、ふっと笑った。
「本当に人間なのかね?」
「さあな」
桜華の顔を一度だけ一瞥し、真刃は言う。
「化け物の談義は聞いてやったが、貴様から人間の談義など聞きたくもないな」
そう呟き、銃口を示すかのように左手の人差し指を向けた。
そして――。
―――ゴウッッ!
灼岩の巨獣のアギトから、赫光は迸る!
それは、餓者髑髏とエリーゼを呑み込むと、そのまま大地を直線状に裂き、その断裂から火柱を噴き上がらせた。
山に地響きが轟く。それは、まさに天変地異の一撃だった。
「お、お前、これはやりすぎだろう!」
正気に返った桜華が、片手で真刃の肩を掴んで言う。
「そうか?」
真刃は言う。
「この程度では奴を仕留めるには程遠いぞ。そもそもだ」
一拍おいて、皮肉気に笑った。
「己の妻を傷つけようとしたのだ。これはまだ温い方だと思うのだがな」
「………う」
真刃としては冗談だったのだが、桜華は言葉を詰まらせてしまった。
「もう。もう。お前、ずるい」と、真刃でも聞き取れない声で呟く。『……天然でございますね。我が君は』と、白冴が感心した様子の呟きをした。
真刃当人は「どうした?」と首を傾げているが、隣に座る時雫は、興味深そうに桜華を見やり、ピコピコと兎耳を動かしてた。
「へえ。桜華。あんたみたいな凛々しい子でも、旦那の前だと女なんだね」
不意に、そんな声を掛けられた。
桜華はハッとした顔で、眼下に目をやる。
そこには、赫獅子の傍らに立つ多江の姿があった。
あの《屍山喰らい》相手に殴り合いをしたのだ。無傷とはとても言えないが、助力してくれた引導師の無事な姿に、ホッと安堵の息を零す。が、
「だ、誰が女だ! 自分は男だ!」
「へ? 男?」
多江は目を丸くする。
それから、美脚を晒しつつ、青年の腕の中に納まる桜華をまじまじと見つめて。
「いやいや。何それ。冗談かい? それはないよ」
陽気に笑って、パタパタと手を振った。
「い、いや、その、と、ともかく自分は男なのだっ! それよりも!」
何だかんだで、真刃の腕の中から出ようとはしない桜華が告げる。
「助力には助かったぞ。感謝する。しかし、お前はどこの家の引導師なのだ?」
「へ? 『いんどうし』って何さ?」
「え?」
キョトンとした様子で尋ね返す多江に、桜華は目を瞬かせた。
そんな彼女たちをよそに、
「…………」
真刃は、自分の最強の化身が薙ぎ払った地表を見やる。
熱量ならば、爪牙状態の《災禍崩天》も上回る一撃。
だが、それを以てしても、あの男を倒すには至らないだろう。
あの男に守られていた《屍山喰らい》もだ。
恐らく、奴らとはいつか再び出遭う予感がする。
(……ふん)
真刃は、双眸を細めた。
(別に構わんか。その際、倒せるならば倒すだけだ)
不快な男だった。
生かしておくべきではないとも思う。
だが、それは、
(己にとっての大切な者を懸けてまで貫くことではない)
無意識の内に、御影の肩を強く握りつつ。
今は、そう思う真刃だった。
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