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第4部

第四章 夜が来る①

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 山に覆われた咲川温泉。
 そこから二里 (およそ8キロメートル)ほど離れた森の中。
 そこには、大きな御堂があった。
 明治中期に建てられた、比較的に新しい御堂である。
 名も無き山の神を祀ったという御堂であり、その上、山道から外れた山の中腹に建てられたため、参拝者はほとんどなく、地元の人間でも近づかない場所であった。
 管理者もすでに亡くなっており、そのため、御堂は劣化の激しい状態にある。
 夕刻を迎えた今は、不気味な趣まで発していた。
 ――いや、趣どころではないか。
 もしこの場に参拝者がいれば、背筋を凍らせることだろう。
 人知れずに建つ御堂。
 今、そこからは、女のすすり泣く声が聞こえてくるのだから。

「……先生。先生ェ……」

 少女の声がする。
 御堂の中。そこには、座り込む十代後半ほどの少女の姿があった。
 うなじで結いだ長い髪に、赤い飾紐リボン。袴姿の良家のお嬢さまという趣の少女だ。
 名を、立花すずりと言った。

「しっかりおし。すずりちゃん」

 そんな少女を、大柄な女性が強く抱きしめる。
 年の頃は二十代前半ほどか。髪は浅黄色。強く巻かれた癖毛が印象的だ。異国の血を引いているらしく、褐色の肌を持つ女性である。
 着物こそ着ているが、男勝りの気風の良さを感じさせる女性だった。
 彼女は、少女に言う。

「諦めるんじゃないよ。あんたの先生はまだ頑張っているんだから」

「……お多江さん」

 少女は、泣き顔を上げた。

「けど、先生は病弱な方なんです。こんな無茶なことを、あと四夜も……」

「それでも三夜、生き延びたんだよ」

 多江と呼ばれた女性は、少女の肩を強く掴んだ。

「信じな。あんたの愛した男をさ」

 この場にいる女性は、二人だけではなかった。
 御堂の中で、あちこちに分かれて固まっている。
 総勢で三十九人。かつては六十七人いた。
 多江ほど気丈な人物は稀だ。ほぼ全員が怯えた顔をしている。
 その中には、黒田信二の愛する女性――菊の姿もあった。

(……信二さま)

 菊の胸は、今にも張り裂けそうだった。
 自分のせいで今、信二は死地に立っている。
 あの見たこともない化け物たち。
 虎よりも大きく、怖気が奔るほどに醜い怪物たち。
 あれらの相手を、七夜に渡って強いられているのだ。

『――七夜、生き延びた時』

 第一夜の時。あの不気味な男はこう約束した。

『君たちと、君たちの愛する伴侶たちを解放することを約束しよう』

 その時、ふざけるなと叫んで、男に立ち向かった者たちもいた。
 その憤りは当然だ。
 しかし、彼らは瞬時に殺害された。
 男の傍に立つ、黄金の髪の女に。
 何をしたのかは分からない。
 全く動かない女の前で、瞬時に五体が切り裂かれたのである。
 その光景は、女たちの前でも行われた。
 女たちは、絶叫を上げた。
 特に、殺害された男たちの伴侶たちは半狂乱だった。
 愛する男の亡骸の前に駆け寄って膝をつき、泣き叫んでいた。
 そんな彼女たちは、その場で気絶させられ、男に連れていかれた。
 果たして、どこに連れていかれたのかは分からない。

 ただ、一つだけ悟ったことがある。
 あの男に挑んでも、即座に殺されるだけだ。

 それならば、化け物相手に挑む方がまだ勝算がある。
 男たちは、武具を手に取った。

 そうして一夜で十一人。二夜で九人。三夜で八人。
 男たちは、死んだ。

 殺された男たちの伴侶である女は、夜が明けるごとに別の場所へと連れていかれた。
 彼女たちが、どうなったのかも分からない。
 不要になったとして、解放されたのかもしれない。
 ただ、伴侶を殺された彼女たちの心は、すでに死んでいるであろうが。
 今、この場にいる女たちは、まだ男たちが『死の七夜』に抗っている証でもあった。

(……信二さま)

 菊は、グッと唇を噛んだ。
 信二は愛する男性である前に、自分の主人だ。
 だというのに、自分は何もできず、ここでただ無事を祈るだけとは……。
 本来ならば、即座に自決すべきだった。
 自分のために、信二さまの御身を死地に追いやるなどもっての外だ。

 しかし、それも出来ない。
 自分の命は、すでに自分だけのモノではないからだ。
 この身には、尊き命が宿っているのである。

(どうか、どうか、信二さま)

 自分の腹部を両腕で抑えて、ひたすら祈る。

(ご無事で。何卒ご無事で)

 菊の頬に、涙が伝う。
 山の神を祀るこの御堂で、果たして彼女の祈りは届くのか。
 それは、誰にも分からないことだった。
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