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第4部

第三章 旅路➂

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 ――『咲川温泉』。
 温泉街として名を知られるそこは、森の奥に築かれた街だった。
 豊かな森林に、街を横切る澄んだ川。
 旅館や土産店が多く軒を連ねる街全体も徹底した整地が行われており、山沿いのため、やや道程に傾斜こそあるが、観光としても良い場所だ。
 特に今の季節は、桜が絶景だ。
 強い風が吹けば、森から街の至る所に桜が舞ってくるのである。

 難点としては最寄り駅から遠いことか。
 辻馬車を使っても、途中で道が狭くなるため、温泉街にまでは到着できない。
 途中から、徒歩になるのである。
 ただ、木漏れ日が差し込む、涼やかな森に覆われたその道はとても趣があり、若い夫婦や恋人には密かな人気があるのだが、それは知る者のみが知る話だ。

 この街は、彼にとっては、思い出のある街だった。
 ――そう。彼……黒田信二にとっては。

(……僕は)

 彼は、華族・黒田家の次男として生まれた。
 性格は温厚であり、誰に対しても平等。
 友人も多い方だ。
 しかし、家族にはあまり期待はされていなかった。
 当然だ。家督は兄が継ぐのだから。
 注目や期待はすべて兄に集まり、次男である信二に目を向ける者は少なかった。

 そんな中、唯一、彼の傍にいたのが、女中の菊だった。
 歳は信二より五歳上。幼少時より信二に仕えてくれた女中である。
 少女の頃から、至って素朴な顔立ちであり、さほど目立つ容姿でもない。
 強いて挙げるなら、長い黒髪が綺麗なぐらいか。

 黒田家に限らず、名家に仕える女中は美しい者が多い。
 身も蓋もない言い方をすれば、主人にお手付きされる者も少なからずいるからだ。
 むしろ、そこは、使用人の方が配慮するという暗黙の了解があった。
 しかし、菊は彼女の実家の都合と、その有能さから黒田家に仕えていた。
 従って、凡庸な容姿の菊をお手付きする者はいなかった。

 ――いや、これまではいなかったというべきか。
 二年前。十八歳を迎えた信二が、彼女をお手付きにするまでは。

 信二は、幼き日から、ずっと菊に恋慕の情を抱いていた。
 その想いを、菊に伝えたのである。

 菊は躊躇いながらも、信二の想いを受け止めた。立場的に拒絶が出来ないこともあったが、彼女自身、信二に密かな想いを寄せていたこともあった。
 それから二年間。二人は密かな交際を続けた。
 二人の蜜月だった。

 だが、二週間前のことだった。

『信二さま。私にお暇をくださいませ』

 唐突に。
 菊が、信二にそう告げたのだ。
 ――いとま。要は今の職を辞めたいと。
 無論、信二は困惑した。
 そして菊を問いただしたところ、こう答えたのである。

『お子を、授かりました』

 信二はしばし唖然とした。が、すぐに、

『~~~~っっ!』

 歓喜で震えた。
 菊が、自分の子を授かった。
 これが喜ばずにいられるものか。
 しかし、菊は、

『私と信二さまでは身分が違います』

 悲しげに笑って。

『信二さまのお名前は隠し、この子は私が育てます』

 そんなことを告げるではないか。

『――菊!』

 信二は菊の肩を掴んだ。
 しかし、続く言葉が思いつかない。
 その時、信二はこの温泉街のことを思い出した。
 八年前。家族で訪れた秘湯。少女だった菊も同行した温泉街だ。
 思えば、その頃から、自分は菊に心惹かれていたのかも知れない。

『……どうだい? その話の前に少し温泉に行かないか?』

『え?』

 菊は目を瞬かせた。が、数瞬後には視線を伏せて、『はい』と答えた。
 表情が悲しげなのは、これが最後の思い出だと思っているからだろう。
 だが、信二の真意は全く違う。
 信二の心は、いかに菊を説得するかに向いていた。

 彼女を説得し、改めて愛を伝えて、菊とお腹の子を守る。
 二十歳になったばかりの青年は、すでに男の顔になっていた。

 この旅行を終えた後には父も説得するつもりだった。
 二人の仲を認めてもらい、菊を正式に妻として迎えるために。
 二人は一部の使用人にだけ行き先を告げて旅行に出た。
 二人だけの初めての旅行だ。

 そうして、懐かしき温泉街に着いた夜。
 奇しくも、少年期に泊った宿の一室にて、信二は困惑する菊を強く抱きしめて、自分の意志をはっきりと伝えた。

『菊。君を離すつもりはない』

『……信二さま』

 菊は震え、躊躇しつつも信二にその身を預けた。
 二人は、改めて愛を紡いだ。
 一心不乱に、強く、激しく互いを求めあった。
 恐らく二人の生涯においても、最も熱い夜だったことだろう。
 ――だが、その深夜のことだった。

『……ふふ。何とも激しいことだな』

『―――ッ!?』

 信二は目を見開いて、わずかにかかっていた布団を跳ね上げた。
 そして、無防備な姿の菊をかばって立ち上がる。
 菊は言葉もなく、窓際に腰をかける小男を凝視していた。
 脱ぎ捨てていた浴衣で肌を隠し、カタカタと歯を鳴らしている。

『誰だ! 強盗か!』

『いやいや。そこまで無粋な輩ではないよ』

 円筒帽子シルクハットを被る小男は、そう告げる。

『吾輩は、言わば、君たちの火のごとき愛に魅せられて現れた蛾のようなモノだ』

『……何を言っているんだ。お前は……』

 信二は困惑した。
 すると、

『ふふ。分からずともよい。ともあれ、君は……』

 小男は嬉しそうに笑い、

『合格だ。素晴らしき絆だ。その愛の力。存分に吾輩に見せてくれ』

 そう告げた。
 そして――……。


 ――ザンッ!


 斬撃音が響く。
 月と星が輝く夜。
 黒田信二は、刀を振るっていた。
 黒田家は名家である。
 その生まれである信二は、幼少の頃から護身術として武芸を叩きこまれている。
 そのことに、今回ほど感謝したことはない。

「……ぐるうッ!」

 信二に腕を斬り裂かれたその化け物は、片腕を抑えて呻いた。
 恐ろしいほどの切れ味だ。本来ならば、ここまで容易く刃は通らない。

 ――公平さを期すために。
 そう嘯いて、あの男から渡された刀剣。
 あの男は、どこから、これほどの業物ばかりを集めてきたのだろうか。
 疑念には思うが、いま考えるべきことではない。

 小さく呼気を吐く。
 信二は刀を正眼に構えて、化け物と対峙した。
 蜘蛛のように長い腕を持つ人型の化け物だ。
 長い尾に、雌なのか、乳房もある。化け物は両腕を地につけて身構えていた。

 信二は、微かに喉を鳴らした。
 すでに二夜を越えているとはいえ、何度対峙しても恐怖を覚える相手だった。

「ぐるゥうッ!」

 化け物は牙を剥く。
 信二に斬られた腕からは今も血が溢れているが、この程度の負傷では怯むことはない。
 その化け物は、涎を撒き散らして信二に襲い掛かった!
 恐怖で、信二が顔を強張らせる。と、
 ――ズンッ!
 信二の頭の横から、一本の槍が突き出された。
 それは化け物の眉間を貫き、化け物は一度大きく震えてから両膝をついた。

「大丈夫かい? 黒田くん」

 そう声を掛けられる。信二は振り向いた。
 そこには和装の男性。槍を手にした三十代ほどの人物がいた。
 武具こそ手にしているが、細腕、細面の男性だ。

「……武宮先生」

 信二は安堵の息を零しながら、その人物の名を呼ぶ。
 この異常な事件で出逢った人物だ。何でも小説の先生らしい。

「相変わらず、凄い腕前ですね」

「はは」

 細面の人物――武宮志信たけみやただのぶは笑う。

「実家の都合で少しばかりかじったことがあってね」

 コホ、コホ、と少しせき込みながらそう答える。と、

「おいおい、先生。坊ちゃんよ」

 斧を肩に担いだ大柄な青年が声を掛けてきた。
 歳は二十代半ばほどか。彼も和装なのだが、職柄通りの文豪の印象を持つ志信に比べると、まるで大昔の武士のような男だ。名は金堂こんどう岳士たけし。本業は大工らしい。
 この街には、夫婦になった八年目を記念して、奥方と共に来たそうだ。

「油断すんなよ。まだ夜明けまでは遠い」

「ええ。分かっていますよ」

「はい」

 志信も信二も頷いた。
 ――と、
 ……グルゥゥ。
 唸り声が森の奥から響く。
 三人は、それぞれの武具を構えた。

「死ぬんじゃねえぞ。二人とも」

「当然です」

「もちろんですよ」

 岳士の声に、志信と信二が応える。
 唸り声は、徐々に大きくなってくる。

(……僕は死ねない)

 信二は強く、刀の柄を握りしめた。

(必ず生き延びる! だから待っていてくれ!)

 愛しいひとの顔を心に焼き付ける。

(――菊! 君を必ず助け出す!)

 信二たちは駆け出した。

 ――その日。
 勇敢な男が、八人死んだ。
 それが、第三夜に起きたことだった。
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