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第3部
第二章 見定める男③
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――トトトトトト、と。
軽快な音が鳴る。まな板を打つ包丁の音だ。
鋭く磨かれた包丁は、豆腐を等間隔で切り分けていく。
「おお。素晴らしい切れ味だな」
エルナが通販で購入したというダマスカス包丁に真刃は感嘆の声を零した。
豆腐を切り分けた後、包丁に目をやる。
「下手をすると、己の軍刀よりよく切れるぞ」
『いや、軍刀と包丁を比べるのはどうかと思うぞ』
と、隣で浮かぶ猿忌が言う。
そこは、フォスター邸のキッチンだった。
今そこにいるのは、エプロン姿の真刃と猿忌だけだった。
かつて帝都を滅ぼし、後世においては災厄とまで呼ばれた男。
その男が、今は味噌汁を作っていた。
今晩のメニューの一つである。
同居人が増えて、食事に関して問題が出て来た。
料理を担当するエルナに、かなり負担がかかるようになってきたのである。
さて。そうなってくると、他のお妃さまたちの腕前はどうかといえば、刀歌は……まあ、武に一直線な性格通り、料理の類は苦手だった。
そして意外かも知れないが、かなたはもっと苦手だったのである。
というより、包丁を握ったこともないらしい。今回、初めて知ったことだ。
あれほど見事にハサミは使いこなすのに。
彼女に料理をお願いすると出てくるのは、十秒でチャージできる類の品だった。
『十秒で事が済みますから』
というのが、彼女の弁だった。
人形のように生きてきた影響が食にまで出ているらしい。
ともあれ、全く料理が出来ない同居人たち。
二人ともこれを機に料理を憶えるつもりのようだが、不慣れすぎて見ていて怖くなる。人前に出せる品となると、相当時間がかかるのが想像できた。
そこで真刃は決断した。
本業の勉学も、戦闘訓練も疎かに出来ない以上、基本的に暇を持て余している真刃が、料理を憶えることにしたのである。
かつての友や紫子、そして『彼女』が見ればどう思うだろうか。
そんなことを考えながら始めた料理だったが、思いの外、面白かった。
元々、料理は食べるのも見るのも好きなのだ。
今や、料理のレパートリーは、エルナにも匹敵する真刃だった。
「さて」
真刃は豆腐をまな板ごと持ち上げ、包丁を使って鍋に落とし込んだ。
「今日は、もう二品ほど用意するか」
言って、冷蔵庫に向かう。
その後ろ姿を猿忌はまじまじと見据えて嘆息した。
そしてポツリと呟く。
『本当に、主夫が板についてきたな。主よ』
◆
主人が呑気に手料理に頑張っていることなど知る由もなく。
赤蛇と蝶花は、お妃さまたちに追い詰められていた。
「さあ、話しなさい」
エルナが、ずずいっと前のめりに屈みこんで睨みつけてくる。
かなた、刀歌も一歩も引かない表情だ。
『ど、どうしよう、赤蛇兄さん』
蝶花が赤蛇の周囲を舞って、動揺の声を上げた。
赤蛇は『うむむ』と唸るが、お妃さまたちは容赦してくれる雰囲気ではない。
『……ぜ、全部は無理だ』
と、前置きして、
『けど、オレの判断で教えられそうなとこまでは教えてやるよ』
「……ほう。そうか」
大きな胸を支えるように腕を組んで、刀歌が双眸を細めた。
「ならば、まず、これから聞いておこう」
一拍おいて、
「『紫子』とは誰だ?」
『――はあ!? なんで刀歌嬢ちゃんが、紫子嬢ちゃんのことを知ってんだ!?』
赤蛇は目を剥いた。すると、蝶花が『あわわ』と声を上げて、
『ご、ごめん! 赤蛇兄さん! 私、ちょっと前に名前出しちゃった!』
『お、おい! 蝶花!』
赤蛇が蝶花に鎌首を向けて叱責する。
『お前な!』
『ごめん兄さん! あの頃は目覚めたばかりで無駄にテンション高かったの!』
激しく動揺する従霊たち。すると、
「……誰それ?」
冷たい声が響いた。
目をやると、表情を消したエルナと、普段以上に無表情なかなたが赤蛇を見据えていた。
二人は、刀歌の方にも視線を向ける。
「刀歌? どういうこと?」
エルナがそう尋ねると、刀歌は「……すまない」と申し訳なさそうに答えた。
「黙っていたが、実は、私は天堂院家で主君の秘密らしきものを見ている。あの人が全力で戦う姿を目の当たりにしたのだ。ただ、それはあまりに非現実的すぎて……」
呟きながら、思わず刀歌は眉をひそめる。
あの戦いは、あまりにも桁違いだった。
天を衝くような巨獣同士の激しいぶつかり合い。
自分でも、あれは夢だったのではないかと思う時がある。
それだけに、エルナたちに伝えるのも憚れていた内容であった。
「……それに、主君は、そのことについてはいずれ教えてくれると言っていたので、あえて口を閉ざしていたのだが……」
そこで、蝶花にジト目を向けた。
七色の蝶は『ふわわ!』と酷く焦って、ふらふらと舞った。
「流石に知らない女の名は看過できん。紫子とは何者だ? やはり肆妃なのか?」
「……肆妃。四人目の妃ですか」
小さな声で呟くかなた。
「それは、刀歌さんと同時期に、もう一人候補がいたということですか?」
そう尋ねると、赤蛇は『うぐぐ』と呻いた。
『いや、まあ、そのな……』
赤い蛇は言葉を濁す。
沈黙が降りた。
そうして、
「……なるほどね」
エルナが、紫色に輝く双眸を細めた。
「確かに、それは看過できない案件よね」
「………はい」
かなたも頷く。
刀歌も「もちろんだ」と首肯した。
そして三者三様の眼差しで二体の従霊を睨み据えた。
お妃さまたちの無言の圧力に、赤蛇と蝶花は震えあがった。
このままでは、雑巾絞りの刑が待っていそうで怖い。
『……仕方がねえな……』
赤蛇は決断した。
『話せるとこまで話してやるよ。まず紫子嬢ちゃんのことだが……』
一拍おいて、
『あの子は肆妃じゃねえ。肆妃はまだ候補もいねえ。あの子はご主人にとっての最初の隷者。あえて言うなら「零妃」なんだよ』
「「「――零妃!?」」」
エルナたちは目を剥いた。
『銀髪嬢ちゃんたちを除けば、ご主人が隷者にしたのはあの子だけだ。猿忌さまもあの子を一番推していたよ。ご主人の正妻にはあの子が相応しいって』
「……そんな人がいたのですか?」
かなたの呟きに、赤蛇が『ああ』と首肯する。
『オレは知識でしか知らねえけど、可愛い子だったよ。健気で優しくて。そんで心が強い子だった。ご主人は、あの子を本当に大切にしていた――ん?』
そこまで告げたところで、赤蛇は首を傾げた。
二人のお妃さま。かなたと刀歌の方は、とても複雑な表情を見せていた。
なにせ他の女の話だ。当然ながら愉快ではないのだろう。
しかし、そんな中、エルナだけは……。
『……なァ、銀髪嬢ちゃん』
「……え? なに?」
キョトンとするエルナに、赤蛇が首を傾げて尋ねた。
『なんで、そんなに嬉しそうな顔なんだ?』
「…………え?」
エルナは目を丸くした。
思わず口元に手を添えると、自分の口角が緩んでいることに気付く。
どうやら、自分は微笑んでいたようだ。
(え? なんで?)
困惑する。
そもそも、壱妃である自分よりも格上とも言える零妃の話。そんな女の話を聞いているというのに、嫌な感じが一切しないのはどうしてか。
(??? なんで?)
困惑するが、答えは出てこない。
かなたと刀歌も、不思議そうな顔でエルナに視線を送っていたが、エルナとしては、小首を傾げるだけだった。
『まァいいが、とにかくだ』
赤蛇は話を続けた。
『紫子嬢ちゃんに関しては、オレが語れるのはここまでだな。後はご主人に聞いてくれ』
「……おい」
刀歌が、据わった目で赤蛇を睨みつける。
「ふざけるな。ほとんど話してないぞ。その女は今どこに――」
と、前屈みになって詰め寄った時だった。
『……死んでんだよ』
刀歌の台詞を、赤蛇が一言で断ち切った。
刀歌はもちろん、エルナとかなたも目を剥いた。
『紫子嬢ちゃんは、もう故人なんだよ。あの子と直接的には面識のないオレや蝶花がこれ以上のことを語れると思うか? そもそもだ』
赤蛇は、刀歌を睨み据えた。
『ご主人は、刀歌嬢ちゃんにいずれ教えるって言ったんだろ。それは、銀髪嬢ちゃんたちにだって該当するはずだ。なら、ここは妃としては待つべきじゃねえのか?』
「そ、それは……」
肘を片手で抑えて、刀歌は視線を逸らした。
「だって、それは……」
すると、エルナが、ポツリと呟いた。
「……いつになるのか、全然分からないじゃない……」
その声には、とても強い不安が宿っていた。
刀歌は眉をひそめ、かなたの方は視線を逸らして沈黙している。
『ああ、なるほどな』『うん。そういうことだね』
お妃さまたちの様子に、赤蛇、そして蝶花は得心を得た。
赤蛇は『ジャハハ!』と笑った。
『そっかそっか。要は、嬢ちゃんたちは正式に隷者になったのに、いつまでたっても何も教えてくれねえご主人に不安になっちまって、そんで拗ねちまったってことか』
「い、いや、それはだな……」
「す、拗ねてなんかいないわよ!」
「…………」
お妃さまたちの反応は、実に分かりやすかった。
だったら、赤蛇が取る戦術は一つだ。
『なら、とっておきの情報を教えてやるぜ』
一拍おいて、
『安心しな。どんなに遅くてもお嬢たちが十六になった夜には教えてくれるはずだぜ』
「え?」
「十六だと?」
「……どういうことです?」
エルナ、刀歌、かなたがそう尋ねると、赤蛇は『ジャッハーッ!』と笑った。
『ご主人はな。遂に宣言したんだよ。お嬢たちが一人前になる日。結婚も出来る十六になった夜には、名実ともにお嬢たちを自分の女にするってな!』
…………………………………………………。
………………………………………。
…………長い沈黙。
「「「――えええッ!?」」」
エルナたちは、声を張り上げた。
そして、同時にボンッと顔を真っ赤にした。
エルナは、視線を下に逸らして、片手で口元を抑えて。
かなたは、両手でスカートをギュッと握りしめて、深く俯き。
刀歌は、胸元を片手で強く掴んで大きな吐息を零していた。
三者三様だが、彼女たちの心臓は、揃って激しく高鳴っていた。
『だから、安心しな』
赤蛇が言う。
『もう少し待ってくれや。ご主人の口からそれを告げられる夜までな』
沈黙が続く。
けれど、ややあって。
……こくん、と。
三人の少女は、揃って頷いた。
赤蛇は、満足そうに目を細めた。
『おう。そんじゃあ、オレらは戻るぜ。しばらく昼寝するよ』
『うん。おやすみ~』
言って、従霊たちは、かなたの喉元へ、刀歌の髪へと戻っていった。
残されたエルナたちは、完全にオーバーヒートの状態だった。
が、しばらくして、
「エ、エルナ。かなた」
刀歌が喉を鳴らして、唇を動かした。
名前を呼ばれた二人は、ギギギと顔を刀歌の方に向けた。
「な、なに?」「な、なんでしょうか?」
そう尋ねると、
「お前たちの、誕生日はいつなのだ?」
刀歌が、緊張した面持ちでそう聞いた。
エルナたちは、ビクッと全身を震わせた。
「わ、私は」
エルナが、ゴクンと喉を動かす。
「一月九日。来月、十五になるよ」
「私は……」かなたも息を呑む。「今月です。二十九日に誕生日を迎えます」
「私は、二月十日だ」
三人は、互いの誕生日を確認した。
そしてエルナと刀歌が、かなたの方を見つめた。
かなたが、ビクッと震えた。
「わ、私が、最初……?」
「そ、そうなるな」「う、うん……」
刀歌とエルナが頷くと、かなたは、カアアと顔を真っ赤にして、
「わ、私、私が、真刃さまに……」
そう呟いて、フラフラと後ずさりして、そのまま長椅子に座り込んだ。
それに呼応するように、エルナと刀歌も長椅子に座った。
そしてプシュウ、と。
三人は、頭から湯気を噴き上げるのであった。
彼女たちは、見回りに来た教師に帰宅を促されるまでそこにいた。
帰り路でも、フラフラと、完全に熱病に浮かされているような足取りだった。
ちなみに。
「ふむ。今日は帰りが遅いな」
エプロン姿の真刃が結構待ちぼうけを喰らわされるのだが、それは別の話である。
軽快な音が鳴る。まな板を打つ包丁の音だ。
鋭く磨かれた包丁は、豆腐を等間隔で切り分けていく。
「おお。素晴らしい切れ味だな」
エルナが通販で購入したというダマスカス包丁に真刃は感嘆の声を零した。
豆腐を切り分けた後、包丁に目をやる。
「下手をすると、己の軍刀よりよく切れるぞ」
『いや、軍刀と包丁を比べるのはどうかと思うぞ』
と、隣で浮かぶ猿忌が言う。
そこは、フォスター邸のキッチンだった。
今そこにいるのは、エプロン姿の真刃と猿忌だけだった。
かつて帝都を滅ぼし、後世においては災厄とまで呼ばれた男。
その男が、今は味噌汁を作っていた。
今晩のメニューの一つである。
同居人が増えて、食事に関して問題が出て来た。
料理を担当するエルナに、かなり負担がかかるようになってきたのである。
さて。そうなってくると、他のお妃さまたちの腕前はどうかといえば、刀歌は……まあ、武に一直線な性格通り、料理の類は苦手だった。
そして意外かも知れないが、かなたはもっと苦手だったのである。
というより、包丁を握ったこともないらしい。今回、初めて知ったことだ。
あれほど見事にハサミは使いこなすのに。
彼女に料理をお願いすると出てくるのは、十秒でチャージできる類の品だった。
『十秒で事が済みますから』
というのが、彼女の弁だった。
人形のように生きてきた影響が食にまで出ているらしい。
ともあれ、全く料理が出来ない同居人たち。
二人ともこれを機に料理を憶えるつもりのようだが、不慣れすぎて見ていて怖くなる。人前に出せる品となると、相当時間がかかるのが想像できた。
そこで真刃は決断した。
本業の勉学も、戦闘訓練も疎かに出来ない以上、基本的に暇を持て余している真刃が、料理を憶えることにしたのである。
かつての友や紫子、そして『彼女』が見ればどう思うだろうか。
そんなことを考えながら始めた料理だったが、思いの外、面白かった。
元々、料理は食べるのも見るのも好きなのだ。
今や、料理のレパートリーは、エルナにも匹敵する真刃だった。
「さて」
真刃は豆腐をまな板ごと持ち上げ、包丁を使って鍋に落とし込んだ。
「今日は、もう二品ほど用意するか」
言って、冷蔵庫に向かう。
その後ろ姿を猿忌はまじまじと見据えて嘆息した。
そしてポツリと呟く。
『本当に、主夫が板についてきたな。主よ』
◆
主人が呑気に手料理に頑張っていることなど知る由もなく。
赤蛇と蝶花は、お妃さまたちに追い詰められていた。
「さあ、話しなさい」
エルナが、ずずいっと前のめりに屈みこんで睨みつけてくる。
かなた、刀歌も一歩も引かない表情だ。
『ど、どうしよう、赤蛇兄さん』
蝶花が赤蛇の周囲を舞って、動揺の声を上げた。
赤蛇は『うむむ』と唸るが、お妃さまたちは容赦してくれる雰囲気ではない。
『……ぜ、全部は無理だ』
と、前置きして、
『けど、オレの判断で教えられそうなとこまでは教えてやるよ』
「……ほう。そうか」
大きな胸を支えるように腕を組んで、刀歌が双眸を細めた。
「ならば、まず、これから聞いておこう」
一拍おいて、
「『紫子』とは誰だ?」
『――はあ!? なんで刀歌嬢ちゃんが、紫子嬢ちゃんのことを知ってんだ!?』
赤蛇は目を剥いた。すると、蝶花が『あわわ』と声を上げて、
『ご、ごめん! 赤蛇兄さん! 私、ちょっと前に名前出しちゃった!』
『お、おい! 蝶花!』
赤蛇が蝶花に鎌首を向けて叱責する。
『お前な!』
『ごめん兄さん! あの頃は目覚めたばかりで無駄にテンション高かったの!』
激しく動揺する従霊たち。すると、
「……誰それ?」
冷たい声が響いた。
目をやると、表情を消したエルナと、普段以上に無表情なかなたが赤蛇を見据えていた。
二人は、刀歌の方にも視線を向ける。
「刀歌? どういうこと?」
エルナがそう尋ねると、刀歌は「……すまない」と申し訳なさそうに答えた。
「黙っていたが、実は、私は天堂院家で主君の秘密らしきものを見ている。あの人が全力で戦う姿を目の当たりにしたのだ。ただ、それはあまりに非現実的すぎて……」
呟きながら、思わず刀歌は眉をひそめる。
あの戦いは、あまりにも桁違いだった。
天を衝くような巨獣同士の激しいぶつかり合い。
自分でも、あれは夢だったのではないかと思う時がある。
それだけに、エルナたちに伝えるのも憚れていた内容であった。
「……それに、主君は、そのことについてはいずれ教えてくれると言っていたので、あえて口を閉ざしていたのだが……」
そこで、蝶花にジト目を向けた。
七色の蝶は『ふわわ!』と酷く焦って、ふらふらと舞った。
「流石に知らない女の名は看過できん。紫子とは何者だ? やはり肆妃なのか?」
「……肆妃。四人目の妃ですか」
小さな声で呟くかなた。
「それは、刀歌さんと同時期に、もう一人候補がいたということですか?」
そう尋ねると、赤蛇は『うぐぐ』と呻いた。
『いや、まあ、そのな……』
赤い蛇は言葉を濁す。
沈黙が降りた。
そうして、
「……なるほどね」
エルナが、紫色に輝く双眸を細めた。
「確かに、それは看過できない案件よね」
「………はい」
かなたも頷く。
刀歌も「もちろんだ」と首肯した。
そして三者三様の眼差しで二体の従霊を睨み据えた。
お妃さまたちの無言の圧力に、赤蛇と蝶花は震えあがった。
このままでは、雑巾絞りの刑が待っていそうで怖い。
『……仕方がねえな……』
赤蛇は決断した。
『話せるとこまで話してやるよ。まず紫子嬢ちゃんのことだが……』
一拍おいて、
『あの子は肆妃じゃねえ。肆妃はまだ候補もいねえ。あの子はご主人にとっての最初の隷者。あえて言うなら「零妃」なんだよ』
「「「――零妃!?」」」
エルナたちは目を剥いた。
『銀髪嬢ちゃんたちを除けば、ご主人が隷者にしたのはあの子だけだ。猿忌さまもあの子を一番推していたよ。ご主人の正妻にはあの子が相応しいって』
「……そんな人がいたのですか?」
かなたの呟きに、赤蛇が『ああ』と首肯する。
『オレは知識でしか知らねえけど、可愛い子だったよ。健気で優しくて。そんで心が強い子だった。ご主人は、あの子を本当に大切にしていた――ん?』
そこまで告げたところで、赤蛇は首を傾げた。
二人のお妃さま。かなたと刀歌の方は、とても複雑な表情を見せていた。
なにせ他の女の話だ。当然ながら愉快ではないのだろう。
しかし、そんな中、エルナだけは……。
『……なァ、銀髪嬢ちゃん』
「……え? なに?」
キョトンとするエルナに、赤蛇が首を傾げて尋ねた。
『なんで、そんなに嬉しそうな顔なんだ?』
「…………え?」
エルナは目を丸くした。
思わず口元に手を添えると、自分の口角が緩んでいることに気付く。
どうやら、自分は微笑んでいたようだ。
(え? なんで?)
困惑する。
そもそも、壱妃である自分よりも格上とも言える零妃の話。そんな女の話を聞いているというのに、嫌な感じが一切しないのはどうしてか。
(??? なんで?)
困惑するが、答えは出てこない。
かなたと刀歌も、不思議そうな顔でエルナに視線を送っていたが、エルナとしては、小首を傾げるだけだった。
『まァいいが、とにかくだ』
赤蛇は話を続けた。
『紫子嬢ちゃんに関しては、オレが語れるのはここまでだな。後はご主人に聞いてくれ』
「……おい」
刀歌が、据わった目で赤蛇を睨みつける。
「ふざけるな。ほとんど話してないぞ。その女は今どこに――」
と、前屈みになって詰め寄った時だった。
『……死んでんだよ』
刀歌の台詞を、赤蛇が一言で断ち切った。
刀歌はもちろん、エルナとかなたも目を剥いた。
『紫子嬢ちゃんは、もう故人なんだよ。あの子と直接的には面識のないオレや蝶花がこれ以上のことを語れると思うか? そもそもだ』
赤蛇は、刀歌を睨み据えた。
『ご主人は、刀歌嬢ちゃんにいずれ教えるって言ったんだろ。それは、銀髪嬢ちゃんたちにだって該当するはずだ。なら、ここは妃としては待つべきじゃねえのか?』
「そ、それは……」
肘を片手で抑えて、刀歌は視線を逸らした。
「だって、それは……」
すると、エルナが、ポツリと呟いた。
「……いつになるのか、全然分からないじゃない……」
その声には、とても強い不安が宿っていた。
刀歌は眉をひそめ、かなたの方は視線を逸らして沈黙している。
『ああ、なるほどな』『うん。そういうことだね』
お妃さまたちの様子に、赤蛇、そして蝶花は得心を得た。
赤蛇は『ジャハハ!』と笑った。
『そっかそっか。要は、嬢ちゃんたちは正式に隷者になったのに、いつまでたっても何も教えてくれねえご主人に不安になっちまって、そんで拗ねちまったってことか』
「い、いや、それはだな……」
「す、拗ねてなんかいないわよ!」
「…………」
お妃さまたちの反応は、実に分かりやすかった。
だったら、赤蛇が取る戦術は一つだ。
『なら、とっておきの情報を教えてやるぜ』
一拍おいて、
『安心しな。どんなに遅くてもお嬢たちが十六になった夜には教えてくれるはずだぜ』
「え?」
「十六だと?」
「……どういうことです?」
エルナ、刀歌、かなたがそう尋ねると、赤蛇は『ジャッハーッ!』と笑った。
『ご主人はな。遂に宣言したんだよ。お嬢たちが一人前になる日。結婚も出来る十六になった夜には、名実ともにお嬢たちを自分の女にするってな!』
…………………………………………………。
………………………………………。
…………長い沈黙。
「「「――えええッ!?」」」
エルナたちは、声を張り上げた。
そして、同時にボンッと顔を真っ赤にした。
エルナは、視線を下に逸らして、片手で口元を抑えて。
かなたは、両手でスカートをギュッと握りしめて、深く俯き。
刀歌は、胸元を片手で強く掴んで大きな吐息を零していた。
三者三様だが、彼女たちの心臓は、揃って激しく高鳴っていた。
『だから、安心しな』
赤蛇が言う。
『もう少し待ってくれや。ご主人の口からそれを告げられる夜までな』
沈黙が続く。
けれど、ややあって。
……こくん、と。
三人の少女は、揃って頷いた。
赤蛇は、満足そうに目を細めた。
『おう。そんじゃあ、オレらは戻るぜ。しばらく昼寝するよ』
『うん。おやすみ~』
言って、従霊たちは、かなたの喉元へ、刀歌の髪へと戻っていった。
残されたエルナたちは、完全にオーバーヒートの状態だった。
が、しばらくして、
「エ、エルナ。かなた」
刀歌が喉を鳴らして、唇を動かした。
名前を呼ばれた二人は、ギギギと顔を刀歌の方に向けた。
「な、なに?」「な、なんでしょうか?」
そう尋ねると、
「お前たちの、誕生日はいつなのだ?」
刀歌が、緊張した面持ちでそう聞いた。
エルナたちは、ビクッと全身を震わせた。
「わ、私は」
エルナが、ゴクンと喉を動かす。
「一月九日。来月、十五になるよ」
「私は……」かなたも息を呑む。「今月です。二十九日に誕生日を迎えます」
「私は、二月十日だ」
三人は、互いの誕生日を確認した。
そしてエルナと刀歌が、かなたの方を見つめた。
かなたが、ビクッと震えた。
「わ、私が、最初……?」
「そ、そうなるな」「う、うん……」
刀歌とエルナが頷くと、かなたは、カアアと顔を真っ赤にして、
「わ、私、私が、真刃さまに……」
そう呟いて、フラフラと後ずさりして、そのまま長椅子に座り込んだ。
それに呼応するように、エルナと刀歌も長椅子に座った。
そしてプシュウ、と。
三人は、頭から湯気を噴き上げるのであった。
彼女たちは、見回りに来た教師に帰宅を促されるまでそこにいた。
帰り路でも、フラフラと、完全に熱病に浮かされているような足取りだった。
ちなみに。
「ふむ。今日は帰りが遅いな」
エプロン姿の真刃が結構待ちぼうけを喰らわされるのだが、それは別の話である。
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