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第1部

プロローグ

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 ――某日。深夜。

『……ほう。あの娘を弐妃候補に選んだのか』

 暗い部屋で、ゆらゆらと宙に浮かぶ灯火が呟く。

『うっス。気になって調べてみたら、相当な逸材だったっスからね』

 灯火は一つだけではなかった。二十八個の灯火が部屋の中に浮かんでいた。
 彼らは今、知識を共有していた。
 各自の脳裏に浮かぶのは黒髪の少女の姿だ。

魂力オドは195か。中々のものだ。美貌もまた申し分ない』『けど、エルナちゃんに比べて暗くない?』『いや、こういう陰を持つ少女の方が主の琴線に触れるかもしれんぞ』

 次々と灯火たちが口を開く。女性の声から、厳つい男性の声と様々だ。

『皆よ。彼女が弐妃候補で異論はないか?』

 最初に話を切り出した灯火がそう尋ねると、

『異論ナーシ!』『うん。いいよ』『異論ありませんわ』

 と、灯火たちが答えた。

『うっス。そんじゃあ、アッシは続けて参妃候補の調査と選出に入るっス』

『うむ。任せる。しかし』

 そこで議長を担う灯火が嘆息する。

『主にも困ったものだ。未だ壱妃エルナに手を出す様子もない』

『まったくっスね。ご主人の堅物っぷりには、本当に困ったもんスよ』

 青年の声の灯火が同意する。と、

『だが、これ以上、手をこまねいていては、散った同胞たちに申し訳がたたん』

 議長の呟きに、灯火たちは沈黙する。
 それは彼のみが体験したこと。しかし、彼らは生まれ落ちた時に記憶だけは共有していた。

『そう暗くなるな。我が弟妹たちよ』

 そんな同胞たちの気遣いに気付いたか、灯火が苦笑の気配を発した。

『重要なのは今だ。主に幸せになってもらうこと。それが同胞たちへの手向けとなる。まずは壱妃から。そして我らはやり遂げるのだ。そう。必ず揃えるのだ』

 そして、彼は告げる。

『我らが主を幸せに導く花嫁たちを』


       ◆


『主よ。弐妃の攻略がつかえているので、今夜にでもエルナを抱いてくれんか?』

「…………は?」

 従者の唐突な台詞に、大型バイクに腰をかけた青年は目を丸くした。
 年齢は二十七歳ぐらいか。身長は百七十台前半ほど。
 黒髪黒瞳の典型的な日本人であり、そこそこ整った顔立ちではあるが、服装は黒いジャンパーと紺のジーンズといった、どこにでもいそうな凡庸な風貌の青年だ。
 飲み過ぎは身体に悪いという理由で一日たった三本しか許されていない缶コーヒーを片手に、青年は唖然としていたが、おもむろに缶コーヒーに口をつける。
 次いで、ゴクゴクと喉が動く音が響いた。それは数秒ほど続き……。

「うむ。美味である」

 満足げに、感想を述べる。

「しかし、本当に多彩かつ美味であるな。しかも、これほどの逸品が安価かつそこら中で手に入るとはな。こればかりはいつも感動するぞ」

『いや、主が缶珈琲を好むのは知っているが、我の話を聞いているか? 主よ』

 と、闇夜に浮かぶ、半透明の猿が言う。
 骨の翼を持つ猿だ。猿は言葉を続ける。

『そもそも、これほど整えられた状況を前にして何故主は動かんのだ?』

「……いや、唐突に何の話だ?」青年は表情を改めて尋ねた。「話が全く見えんぞ」

『見えんも何も、言葉通りだぞ。まったく。主は何故エルナを、あの花嫁を未だ抱かんのだ?』

「……猿忌えんきよ」青年は従者の名を呼び、渋面を浮かべた。

「まずどうしてそんな話になるのかは知らんが、それはこの場でする話なのか?」

 ――現在、彼らが居る場所は普通ではない。
 場所は初冬であることを差し引いても、寒気がするような暗いトンネルの前。
 十二年前に十八名が死亡する凄惨なバスの事故が起きた、いわくつきの場所だった。当然トンネル内に照明などはなく周囲は暗い。まるで地獄へと続く洞のようだ。その上、時刻は深夜二時を過ぎており、周辺は静けさに包まれていた。青年は嘆息して告げる。

「当のエルナは、まさに仕事中だぞ」

「――お師さまっ!」

 その時、絶妙なタイミングで、トンネル内から叫び声が響いた。
 それと同時に、薄紫色の羽衣のような布を持った少女が、トンネル内から走ってくる。
 放つ言葉は日本語だったが、意外にも彼女は日本人ではなかった。
 年齢は十代半ばか。透き通るような白い肌に、紫色の瞳を持つ美しい少女だ。短めにカットした銀色の髪は、右耳にかかる片房だけ長く、金糸のリボンを交差させて纏めている。北欧系の血のなせる業か、年齢には不釣り合いなぐらいの見事なプロポーションを持っていた。
 ただ背はさほど高くない。百五十五センチほどだ。学校帰りのため、黒いラインの入った白系統のセーラー服の上に、黄金の龍が刺繍された蒼いジャンパーを身につけている。
 エルナ=フォスター。猿忌が花嫁と呼んだ少女である。
 仕切り直しの撤退なのか、彼女は必死な様子で走っていた――が、

「きゃあっ!?」

 トンネルの入り口。青年が立つ五メートルほど前で、トンネルの闇の中から飛び出してきた黒く異様に長い腕に首を掴まれてしまった。腕はさらに複数伸びてきて彼女の細い両腕、豊かな双丘、黒いタイツに覆われた両足にまで掴みかかる。

「やっ!? わ、わわっ!? む、胸はダメっ! 触らないで!」

 瞬く間に、エルナは黒い腕によって、再びトンネル内に引きずりこまれてしまった。
 青年は、少女が消えたトンネルを見据えて嘆息する。
 すると、猿忌が眉間にしわを寄せて、主人である青年に目をやった。

『主よ。エルナ=フォスターは主の花嫁――それも栄えある壱妃なのだぞ。「我霊」の習性は今さらであろう。万が一にも穢されては主の沽券に関わるぞ』

 と、苦言する従者に、青年は渋面を浮かべた。

「流石にそれを見過ごすつもりはない。だが、まだ大丈夫だろう」

 耳を澄ませば、戦闘音が聞こえる。エルナが何だかんだで頑張っている証だ。
 危険ではあるが、ここで簡単に助けては、彼女の成長に繋がらない。

「それと、エルナを勝手にオレの嫁にするでない。そもそも壱妃とは何だ?」

『無論、一人目の妻の意だ』

「……おい待て。今さらりと一人目と言ったな?」

『まったく。一体何が気に入らないのだ。主よ』

 眉間に指先を当てる青年の呟きを無視し、今度は、猿忌が渋面を見せた。

『エルナ=フォスターは性格・容姿共に申し分ない娘だ。よわいも十四。我らの時代ならば・・・・・・・・充分な歳だ。何より、あの娘の好意には主も気付いているであろう。主が彼女を望めば、恥じらい、動揺はするだろうが、応じるのは間違いないぞ。躊躇う理由があるのか?』

 と、矢継ぎ早に告げる猿忌に、青年は呆れた眼差しを向けた。

「……お前はエルナのことになると、本当に饒舌になるな」

 そんな感想を述べつつ、

「お前がエルナのことを気に入っていることは知っている。己もまた、あの娘のことは気に入っている。まあ、思い込みが激しいところはいささか困ったものだが」

 そう切り出して、トンネルの奥に目をやった。

「次から次へと、もう!」と、エルナの声が反響していた。大丈夫。焦りを抱いているようだが、まだ声に余力があることを確認しつつ、青年は言葉を続けた。

「よいか猿忌よ。あえてお前の話に合わすが、己にはエルナに手を出さぬ理由が三つあるのだ」

 青年は、猿忌に向けて、ピンと人差し指を立てた。

「まず一つ目。エルナは文無し宿無しだった己の恩人であり、現時点の我らが家主殿だ。どれほど魅力的であろうとも手を出すことは恩義に反する」

 続けて、中指を立てる。

「二つ目。外見は大人びていてもエルナの精神はまだ幼い。仮に合意であったとしても、幼い彼女の好意につけ込んで手籠めにすることは人道に反する」

 と、語る青年に対して猿忌は無言だ。ただ漂うように宙空に浮いている。
 青年は、最後に薬指を立てた。

「そして三つ目。己の好みは今代風に言えば、黒髪ロングなのだ。流れるような黒髪が好みなのだ。黒いタイツが映えることも外せぬ。エルナの銀色の髪も美しく、黒いタイツ姿も中々とは思うが、残念ながら黒髪ではない。彼女を口説くのは己の主義に反するのだ」

『………………』

 猿忌はさらに沈黙する。

『……主よ』数秒後、沈黙を破って、猿忌は目を細めた。

『思うに最大の理由は三つ目であろう。完全に「あの女」の容姿ではないか。いつまでも過去に囚われるのはどうかと思うぞ』

 と、囁くように進言する。青年は一瞬だけ真顔になったが、すぐに肩を竦めて、

「囚われているつもりはない。ただ、初めて愛した女というものは、己のような人擬きの化け物であっても厄介だということだ。それに己にとってはまだ一年も経っていないしな」

 と、自嘲じみた笑みで告げる。猿忌は少し目を細めつつも、

『まあよい。しかし主よ。やはり主は一つ重要な事実を失念しておるようだな。主の魂力オドは、生来の分だけでも1300を越えることを』

「……己の魂力だと?」缶コーヒーに再び口をつけつつ、青年は眉をひそめた。

「それが今さら何だ? どうかしたのか?」

『言うまでもなく魂力とは、引導師の根源となる力だ。そして調べたところ、今代の引導師いんどうしの魂力は、平均で100前後だそうだ』

 猿忌の言いたいことが分からず、青年は首を傾げた。
 猿忌は呆れるように嘆息した。

『才ある者でも200前後。エルナほどだな。300で麒麟児。分からぬか? 素の状態で主は異様なのだ。それを偽装するには、主は――』

 一拍おいて猿忌は告げる。

『エルナと同等の魂力を持つ才女を、最低でも七人は娶らねばならんということだ』

「…………は?」

 青年は間の抜けた声を上げた。

『妻が――隷者れいじゃが七人もいれば、主の莫大な魂力にも説得力が出てくるからな。これは、主が素性を隠しつつ、今代で引導師として生きるための必須条件だぞ』

 青年は言葉もなかった。

『ゆえにエルナは壱妃に確定だ。あの才を逃す手はない。そして先日、弐妃候補の選出も完了した。彼女も相当な美貌と才を持つ娘ゆえに、すぐにでも攻略に入るべきだというのが我らの総意だ。だからこそ、壱妃エルナにおいては、今夜にでも名実ともにモノにして欲しいのだが――』

 猿忌はトンネルに視線を向けた。件の少女が悲鳴を上げている。

『流石にそろそろまずいか。われが救出に向かってもよいか?』

 そう言って、青年が腰をかける大型バイクに目をやった。青年は「う、うむ」と頷くと、シートから腰を浮かせて立ち上がった。確かに、エルナもそろそろ限界だろう。

「……許す。エルナを助けよ。迅速にな」

『御意。では壱妃殿の救出に向かう』

「……その話はまた後でだ。今はエルナを頼むぞ」

 主の命に、猿忌はすっと宙空を移動して、バイクの中へと身体を沈めた。
 すると、バイクは脈打つように振動した。
 続けて、大排気量のメガスポーツ系の黒い大型バイクが徐々に変貌していく。質量を増大させつつ、元々装甲を思わせる外装がより鋭利な形状に変質していった。
 そうして数秒が経った頃には、全身が金属で構成された一頭の黒い虎がそこにいた。 

『では、主よ。行ってくる』

 と、重装甲の鎧を纏う黒鉄の虎が牙を鳴らして告げる。青年はプラプラと手を振り、

「早く行け。迅速にと告げたはずだぞ」

 そう返して、黒鉄の虎に救出を急がせた。虎は明朗な声で『御意』と答えると、重装甲とは思えない身軽さでトンネルの奥へと消えていった。青年はその姿を見送り、

「……ままならんな」

 夜空を見上げて、嘆息する。彼の目的は二つあった。
 一つは恩人であるエルナ=フォスターを、一人前の『引導師』に育てること。
 もう一つは、それを見届けた後、自分の伴侶となる女性を見つけることだ。
 まあ、猿忌の指摘で、想像以上に困難になった気もするが。

「人擬きには過ぎた望みだと思うか?」

 青年は夜空に向けて尋ねる。当然応える者はいないが、それでも青年は独白を続けた。

「だが、それが己の望みなのだ。滅びゆく直前でようやく望んだ願いだ。そして、そのために奴らは犠牲になってくれた」

 かつての仲間たちに思い馳せ、青年は黙祷の代わりに沈黙した。
 そうして数秒が経つと、トンネル内から絶叫が聞こえてきた。どうやら猿忌が我霊を始末したようだ。小言やお節介も多いが、やはり頼りになる相棒だ。エルナも無事に違いない。
 だが、この後がいつも大変だ。こういった場合、あの娘はとても不機嫌になる。

「……私一人でも、どうにか出来ました」

 しばらくしてトンネルから出てきた彼女は、案の定、ぶすっとしていた。
 手に持つ羽衣をギュッと掴んでいる。と、その後ろに黒鉄の虎の姿も見えた。
 虎のライトのように光る目は、どこか催促しているようだった。

(……まったく。お前と来たら)

 青年は呆れつつも少女に目をやった。

「一人でやり遂げることよりも、生き残ることの方が重要だ」

「……………」

 エルナは、無言のまま俯いた。
 手が震えている。自分の力量に不甲斐なさを感じているのか。

(いや、違うな)

 まだ十一ヶ月の付き合いだが、弟子の心情ぐらいは読めるようになっている。
 不甲斐なさや、怒りもあるが、彼女はそれ以上に恐怖を拭えないでいる。
 ――危険度カテゴリーCに、単独で挑むのはまだ早すぎたか。
 青年は小さく嘆息した。黒鉄の虎はますます双眸を輝かせている。

(……やれやれ)

 青年は、少女の頭の上に、ポンと手を置いた。
 少女は「え?」と目を見開いて、青年の顔を見上げる。

「お前が無事で何よりだ。今日はもう無理をしなくてもいい」

 青年は両腕をわずかに左右に広げた。途端、エルナは動いた。

(己は必ず伴侶を見つける。絶対にだ。そして幸せになってみせようぞ)

 内心でそう決意する青年に、軽い衝撃が伝わる。エルナが抱きついてきたのだ。
 むにゅう、と大きく歪む途轍もない柔らかさが胸板に伝わってきた。
 ……齢十四でなんたる破壊力か。
 流石にこれには青年も平常心では入られず、わずかばかり眉根を寄せた。

(これは、やはり早めに伴侶を見つけたいところだな。いつか魔が差してしまいそうだ)

 と、エルナの銀色の髪を撫でながら、青年は思うのであった。

 これは、かつて《千怪万妖骸鬼センカイバンヨウガイキノ王》と呼ばれた青年――久遠くどう真刃しんはの物語。
 人として、決して恵まれなかった彼が今度こそ『幸せ』を望む物語だ。

 ただ、

「あの、もう少しだけ、抱きついててもいいですか?」

「……うむ。だがエルナよ。いくら怖かったとは言え、若い娘があまり抵抗もなく男にしがみつくのはどうかと思うのだが……」

「そ、それなら大丈夫です。こんなこと、お師さま以外にはしないから」

 こうして、すでに愛らしい花嫁候補が一人。
 案外、もう幸せを掴んでいるのかも知れない。

『その調子だ。さあ、このまま近くの宿へと直行するのだ。主よ』

「……うるさい。黙れ」

 従者のエール(?)に、今は静かに嘆息する真刃だった。
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