隣人の美少女は、オレの嫌いな俳優だった

百山緑風

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03.隣人、佐々原ユキ

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 康平の選んだ有人レジは、あっという間に順番も周り、手早く会計までが終わった。支払いは少女持ちで。康平も、オレが払ったら後でお礼をさせて下さいなんて展開があるんじゃないかと検討だけはしたものの、読み取りの途中で金額を見てすぐ諦めた。なんせお高めスーパーなので。一瞬の気まずさはあったものの、康平は少女が差し出すカードを受け取り、店員へ差し出す仲介人のような動きを遂行した。
 そうして会計をばっちり済ませてから、二人は隅っこのサッカー台で買い込んだ食材をエコバッグとレジ袋へ手分けして詰め込んでいた。緊張したように康平の後ろに隠れていた少女だったが、店員とのやり取りが済んでからは少しだけ表情が柔らかくなっている。
 康平が卵パックをバランスよく入れようとした頃、荷物を詰めながら少女はあのうと小さく呟いた。
「手伝ってくれて、ありがとう」
「いや、なに。大したことじゃないサ……この辺住んでんの? 大学生? 一人暮らしとか?」
「えっと、あ、うんと」
「オレ、小山康平。この辺住んでる一人暮らし彼女なしの大学生」
「あ、僕は佐々原ゆう……」
「うん?」
 名乗りにつられるように答えた少女から、佐々原、と最近散々見た名前が聞こえた気がして、康平は一瞬眉を顰めて顔を上げた。
 見れば少女は口元を押さえながら上目遣いに康平を見上げていて、それがまた、どこかアンニュイな色気を醸し出している。康平を窺うような、周りを気にしているような様子。人見知りらしいことを思い出して、康平は精一杯優しく見えるように口元に笑みを浮かべた。
「大丈夫、オレしか聞いてない」
「え、あ、はあ、はい。僕は、佐々原……ユキ……」
「ユキちゃん! ユキちゃんね」
「は、はい。そう、僕はユキって言います」
 康平が教わった名前を記憶するように二度口にすると、少女ユキもまた同じように名前を繰り返す。
 二人の側に人が居たのならば、会話の空気に首を傾げたかもしれない。けれども、浮かれた康平はなにを訝しむこともなく、しみじみと頷いて甘ったるい笑みを浮かべた。
「可愛い名前じゃん、ユキちゃん」
「あ、あはは、ありがとう。小山さん」
 ユキの肩に入っていた力が抜ける。緊張が緩んだ分なのだろうか。肩に丸みが増したユキは、色っぽかった巫とは違う均整の取れたモデルのようで、康平の好みに刺さった。可愛いくて綺麗で、ちょっと押しに弱くて人見知り。でもオレには話しかけられる。とくにこの最後のひとつが康平の理性をゆるゆるにさせる。
 気が付けば、康平は外に出た目的も忘れて、もう少しユキと過ごす方法で頭がいっぱいになっていた。
「家近いの?」
「遠くはないよ」
「いっぱい買ったし、オレ持つよ。女の子には重いだろ」
 ふ、と慣れないニヒルな笑いを見せれば、ユキが黒い瞳をまじまじと康平へ向ける。
 大きな黒目に、長い睫毛。綺麗だなあと康平がノンキに考えている間に、ユキは少しだけ眉間に皴を寄せた。それから二袋になった荷物の片方に手を伸ばす。
「……じゃあ……近く、まで」
「うん」
 康平が語尾にハートが付いていそうなくらいにデレデレした声で頷くと、ユキは少しだけ首元に手を寄せて、ぎこちない笑みを浮かべた。
 

 康平とて、初日でストーカーまがいのことをするほど節操がないわけじゃない。勿論家に上がってってと言われればやぶさかではないが、誘われなければ今日は引くつもりでいた。
 だが不思議なことに、ユキが先導する道は康平にとってよくよく親しんだ道で。もうちょっと付き合うよ、なんていううちに、目の前のコンビニの角を曲がって、真っすぐ行って左に入って交差点を渡れば、康平の暮らすマンションに着いてしまいそうだった。
「……ここのコンビニ、朝とかレジがプロかって感じで、めっちゃ助かるんだよな」
「そう、なんだ? プロっていうと、えっと」
「急いでる朝とかいつも早くてサイコーってこと」
 コンビニの角を曲がりながら解説を挟み込めば、ユキがふと気付いたように康平の方を振り向く。
「いつも、使ってるの? そういえば、近くに住んでるって、言ってたけど」
「まーね。ここ曲がってまーっすぐ交差点突っ切ったとこのマンション」
 ちょっと良いところに住んでるんだよね、と軽いアピール込みでそう伝えるとユキの整った目が瞬きしながら丸くなった。ゆっくりとユキが片手でマンションの方角を指さす。白く長い指先の先で、整った爪が光った。
「……あっち……もしかして、グランメゾン四ツ河よつかわ?」
「そうそう。知ってる? 赤茶のマンション」
「う、うん。僕も、そこに住んでるから……」
「へぁぁっ? えっ、は、うそ、それマジ?!」
 ユキの言葉に、康平は思わずひっくり返ったような声を返した。
 康平は、自分に向かって追い風が吹いているとしか思えない状況に、思わず唾を飲んだ。
 近所で可愛い女の子を助けて、名前を知って、その上その子は同じマンションの住人だなんて。偶然を超えて、運命を感じる。ぐっと顔を近付け、康平はユキを見詰めた。
「なッ、何階? どうせ同じとこ住んでるし、運ぶよオレ」
 鼻息が荒くならないように静かな声を意識して、康平が尋ねる。
 毎年海でナンパに全敗し続けた康平は、今日も連絡先を聞くタイミングが分からずにいた。ただし、ナンパと違って、今回は次がある。だから、あのスーパーでもう一度会った時にちょっといい雰囲気になったら聞けばいい。いい雰囲気への過度な期待と共にそう考えていたというのに、一足飛びに住所を知る流れになるとは。いささか強い刺激に、康平の心臓は高鳴りを超えて妙なリズムになりそうだった。
 いつの間にか見えてきた交差点を渡れば、もうそこはグランメゾン四ツ河だ。
「ほっ、本当に同じところ?」
 交差点で信号待ちをしながら、ユキが細身の眉をキュッと寄せた。康平が同じ場所に住んでいることを疑っているというよりも、この状況に混乱しているらしい。軽く俯き、上目遣いで康平を見詰めるユキは、スーパーで見た時と同じアンニュイで不安そうな表情をしていた。
「マジだってマジ。ほら鍵。マンションの」
 康平が慌ててポケットに入れてあった鍵を取り出し突き出すと、ユキは空いている左手で恐る恐るそれを手に取った。手渡したマンションの黒い鍵カバーには、しっかりとグランメゾン四ツ河の名前と五〇八号の刻印がされている。三年間使っている都合上、少し傷は入っているが、康平が同じマンションに暮らしている証明にはなるだろう。
 ストーカーだったり不審者だったり、ましてや相手の家へ押し掛けて不埒なことをするつもりはない。そういうことではなく、ただ純粋に彼女が欲しいしユキちゃんとお近づきになりたいだけだから。ユキちゃんオレを信じて。
 康平はそう真剣に不実な思いを込めて、瞬きもせずにユキを見つめた。
「もしかして、五〇八号室……に、住んでる?」
「そう、ね、マジで住人でしょ! 安心してって! マジ!」
「あはは、えっとね……うん、それは、うん」
 たっぷり五秒押し黙ったユキが、確認するように尋ねる。それに赤べこのように首を振りながら、康平は弁明を重ねた。
 それがあんまりに必死だったからか、それとも鍵が本物だったからか、康平の気持ちが通じたのか。小さく笑ってから頷いたユキは、そのままそっと康平へ銀色の鍵を返してくれた。
「どうせだしユキちゃんの部屋の階くらいまでは、オレ」
「あ、ううん。あの、それは、ええとねえ」
「うん?」
 信号とマンションの方を一度振り返ってから、ユキがごそごそと自分のスカートのポケットへ手を入れた。スカートにもポケットって付いてるんだあ。初めて知った女性服の仕組みをぼんやりと噛み締めている間に、康平の前に白い掌と鍵が差し出された。
 長い指と、おうとつの少ない掌。その上の鍵は、見慣れたマンションの鍵。
「これユキちゃんちの」
 やつ、と聞こうとして、康平はその鍵の刻印に目を奪われた。グランメゾン四ツ河、これはいい。問題は五〇七号という、康平と一つ違いの部屋番号の方
 その番号が指し示す部屋がどこにあるかを中々飲み込めず、康平は丸みのある目をさらに大きく見開いたままフリーズした。ぽかんと開いた口から、はへえと気の抜けたような声が漏れる。
 格好をつけていたことも、一瞬全て吹き飛んだ康平は、何度か鍵とユキの顔を見比べた。
「えーっとお」
「僕……小山さんの隣の部屋、です」
 何とも言えない驚きと、戸惑いと、困惑と、都合の良すぎる展開への苦笑いが混ざったように複雑な表情で、ユキが首を傾げる。
 ふんわりと柑橘類と石鹸の匂いが風に流されて来て、康平の中の隣人の記憶を呼び起こした。そういえば先々週、ベランダで友人と電話をしているときに隣から爽やかな香りがした。それはちょうどこんな感じの香りだったかもしれない。
 一度も顔を合わせたことのない隣人の正体を知って、康平は急に顔に熱が昇ってくる気がした。
「……そんなん、もはや奇跡じゃん」
 偶然近所のスーパーで助けて知り合いになった美少女は、隣の部屋の住人だった。偶然じゃなくて運命じゃなくて奇跡のような出会いだ。ついユキにも聞こえそうな声量でそう零すと、ユキは大袈裟だねと笑った。
 いつの間にか、歩行者信号はススメの青へ切り替わっていた。


 まだ夢を見ているような心地がする。
 自宅に戻り鍵を掛けた康平は、そのままずるずると扉へ背を預けて座り込んだ。右手にはスマホ、左手には手渡されたメールアドレスと電話番号のメモ用紙。
 ユキは、本当に康平の隣の部屋に住んでいた。
 聞けば、ほんの一か月前に引っ越してきたらしい。一か月前といえば、康平もまだバイトに忙しくて家にいなかった日も多いし、真面目に大学にも通っていた。会ったことがなかったというのは、納得がいく。
 ちょっと買い物するつもりで出ていたからスマホを置いていたというユキは、康平へ連絡先を書いた紙を渡してくれた。何の変哲もない、買い物予定を書きだした紙の切れ端だ。なのに、それからどこか甘い匂いが漂っている気がする。
 ぼんやりとその連絡先を見詰めてから、康平は自分の頬に手を当てた。頬が熱く、口元がじわじわと緩んで、怪しい笑いが漏れそうになる。
 リビングの窓の外は、相変わらずの晴天だ。一週間でゴミのたまった部屋なのに、何もかもがキラキラと輝いて見える。雲一つない青。奇跡に満ち溢れた世界。
「もう今日最高の日じゃん……空も俺を祝福してるわけだよ」
 出掛ける前とは真逆のことを呟いて、康平はばっと勢いよく立ち上がった。
 失恋はもはや過去のことだ。これからは隣人の美少女の時代。一週間の失恋期間がなんだったのかと思うほどすっきりとした顔で、康平は丹辺へ『春が来た』とたった一言だけのメッセージを送りつける。
 それから、康平はさっと部屋を見回して、手始めに投げ出された洗濯物を拾い上げた。
 いかにも失恋して怠惰に暮らしていた男子大学生の一人暮らしのマンション。これでは、彼女を呼んで一緒に料理をする夢も、ガラステーブル越しに彼女の太腿を拝むことも、ソファで並んで映画を見ることも出来ない。
 いつユキが遊びに来ても恥ずかしくない部屋へ戻さなければ。
「あぁ~、小山さんのお部屋オシャレですね、とか言われちゃうかなあ」
 一足飛びにユキがやって来る妄想をに、調子はずれの鼻歌を零しつつ、康平はすっかり空腹を忘れて部屋の大掃除へ取り掛かかるのだった。
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