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しおりを挟む「おはよう、アンジェロ」
地下室へと向かい、アンジェロに声をかけるのが日課になっていた。
ディオンに事が露見してから、ミランダは元々彼女が使っていた部屋のベッドに移動させた。
そのため、薄暗い部屋には、アンジェロとユリウスしかいない。
ユリウスは布を湯で濡らしたあとで硬く絞り、アンジェロの顔を拭いた。
「気持ちいいか?」
触覚も聴覚も機能していない可能性が高いが、アンジェロを黄金に変えてから、毎日ユリウスは清拭した。地下室は、掃除をしているとはいえ、日常的に埃っぽい。彼が薄汚れるのは、自分が我慢できなかった。
穏やかな寝顔にしか見えない彼の頬に触れ、ユリウスは口づけた。
一度だって応えることはなかった。アンジェロが黄金になり、触ってもこれ以上変化することがなくなったことで、ユリウスは初めて安心して、彼に素直になることができる。
「早く、直接言いたいな……」
夢の中にすら、一度も出てきてはくれないのだ。恨みゆえにか、それとも自分の祈りが届かないせいなのか。考えれば考えるほど、暗くなってしまう。首を横に振り、よくない思考を打ち消す。
ユリウスは溜息をひとつついて、布を桶に入れて、一階に戻ろうと、階段に足をかけた。
そこでディオンに声をかけられる。
「おい、ユリウス。兄君が来てるぞ」
兄が来るのは久しぶりであった。ユリウスがアンジェロを金に変えてしまったことは、書状にしたためて知らせてあった。返事は走り書きで、「少し待て」とのこと。
アンジェロはディオンだけではなく、エドアルドにも牙を剥いており、その度に、嫌そうな顔をしていた。
だからてっきり、「あの男のことはどうでもいい」、最悪、「捨て置け」とでも言われるかと思っていたのだが、兄の慌てようや、急な来訪からすると、急いで対応してくれたようだ。
ユリウスが居間に姿を現すと、椅子に座ることすらしていなかったエドアルドが近づいてくる。弟の右手のことなど忘れたかのように、掴みかかる勢いで、頬は紅潮している。
兄上、落ち着いて……と、宥めようとしたが、兄の興奮は止まない。
「わかったんだ! 白き泉の謎が!」
アンジェロがずっと探していた、病や怪我や呪いをすべて解除するという伝説の泉である。輝きの森の中にあると言われているが、泉といえる場所はなく、捜索は難航していた。
エドアルドは、手にした巻物をテーブルに広げた。
「兄上、これは?」
「タングル王国の使節が持っていた地図だ。向こうの方が、測量技術が優れていてな。我々の地図とは、かなり違う」
タングル王国は、山脈の向こう側に位置する国である。高い山を行き来しなければならないため、こちら側の三国との一般階級での交流はあまりないのだが、アルビオム王国は鉱山を有しているため、タングルの技術者を招聘したり、留学生を送ったりと、国家間ではやりとりがある。
自分の国の書物や情報だけでは、ユリウスの呪いを解除する方法を見つけられなかったエドアルドは、国王と謁見をした直後の使節を捕まえて、様々なことを尋ねた。
呪い子や祝い子は、各国で生まれるから、その扱い。呪いを受けた人間を治す方法。
当然、山の技術について教えに来た使節団の人間は、エドアルドの矢継ぎ早な質問に、目を白黒させた。それでも、嫌な顔ひとつせずにあれこれと教えてくれたのは、次期国王の後見人と目されるエドアルドに、恩を売っておこうという算段が働いたのか、それとも単なるお人好しなのか。
とにかく、エドアルドは彼らの話を聞いて、気がついたのである。
彼は地図上の一点を指す。山脈の向こう側の国とは、言語体系がまるで異なるために、書いてある字は読むことができないが、周囲が緑色一色で塗られていることから、輝きの森の一地点であることは、容易に知れた。
「我々が大河だと思っていた水場があるだろう? タングルの地図で確認すると、あれは」
ここだ。
爪先で弾く場所を、ユリウスは丹念に見直した。山奥の水源から流れ、やがて行く果ては大海へと繋がっているとばかり思っていた。だがそこは、地図上では陸地に囲まれた湖になっている。
まじまじと見つめ、「本当に?」と、エドアルドに問う。
「こちら側の国の地図を確認したが、輝きの森は聖地とも呼ばれ、人の出入りは少ない土地柄だ。測量が正しくできていないことも頷ける」
「泉というには広すぎるような気もするが」
ディオンの問いに、エドアルドは首を横に振った。湖と泉では、似たような意味なのに、受ける印象が違う。前者の方が広いように感じられる。
「ラジアン1世が発見したときには、本当に小さな泉だったのかもしれない。その後、雨や地面の変化によって、大きくなったのかも」
聡明なエドアルドの言い分に、ディオンも納得して、神妙な顔で地図を見た。
あるいは、こちら側の三国の地図は、泉を争いの種にすることを嫌ったラジアン1世の思惑も働いているのかもしれない。ユリウスが思ったことを告げると、「その可能性も大いに考えられるな」と、兄は頷いた。
「病気も怪我も、呪いも治るのだから、この泉を手に入れてしまえば、兵士の回復も簡単にできる。戦争ではまず負けない」
もともと同じ民族である、アルビオム・レタリア・グローヴィルの三国が、血で血を洗う戦争状態に陥る可能性は高かった。
ユリウスたちは連れ立って、実際の泉を見に行くことにした。
子どもの足や、エドアルドのひ弱な体力であっても、ゆっくり行けばあまり疲れない道のりである。
ただ、ユリウスは気がせいて、兄の「もうちょっとゆっくり歩いてくれ! 靴擦れがひどい」という泣き言を聞くまで、大股で早歩きをしていることに気がつかなかった。
タビオはさすがに慣れているので、エドアルドほど文句を言うこともなく、淡々と歩いていたが、さすがに疲れているようだ。
ユリウスは軽く謝罪をするが、それでもやはり、少し早足になってしまう。仕方なく、エドアルドはディオンが背負った。
「本当ならタビオをおんぶしてやりたいところなんだが……」
タビオは首を横に振って拒み、エドアルドは顔を真っ赤にして俯いている。緊張感のかけらもない、愉快な道中ではあるが、それもこれも全部、ユリウスの心を緩めるために演じてくれているのだと、気づいていた。
ありがたいことだけれども、構ってはいられない。ユリウスは遠慮なく足を捌き、とうとう深い森を抜け、大河――泉へと辿り着いた。
あまりに速く歩いたので、息が少し上がっている。深呼吸をひとつして、懐に入れていたナイフで、指を少しだけ切る。ぷっくりと血の玉が滲むのを見て、エドアルドが慌ててやってきた。
「ユリウス! 何を」
「大丈夫です。少し切ったからといって、死にはしない」
刃物で切った後の、じくじくとした痛みに顔を少しだけ歪め、ユリウスは泉に手を入れた。水は冷たく、じんじんとする痺れが、切り傷の痛みに取って代わった。
五分、十分。次第に手の感覚がなくなってきたところで、ユリウスは手を引き上げる。
水によって血の痕は洗い流され、出血も止まっている。だが、傷自体は塞がらずに、ぱっくりと皮膚が切れたままになっている。
「まあ、そうだろうな……」
大河だと認識していた頃から、夏になると遊泳を楽しんでいた場所である。小さい頃はそれこそ、今よりも断然、生傷が絶えなかった。何もないところですっころんでは、地面に膝を強打して、擦りむいていた。この水に浸かって完治したという記憶は、ひとつもない。
だいたい、目の前に広がっているのは湖には違いないが、伝説には「白き」という冠がつくのだ。秋の暮れ、分厚い雲の奥からかすかに覗く太陽の光を浴びて、鈍く光ってはいるものの、白くは見えない。
せっかく進展したと思ったのに、うまくいかず、情報をもたらしたエドアルドはがっかりしている。
「伝説の白き泉、か」
ディオンは指先をちょん、と水に浸けながら、ぽつりと呟いた。
謎はもうひとつ残っている。
湖が白くなるとすれば、それはいったい、どういう仕組みなのだろう。
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