金の右手は初恋に触れる

葉咲透織

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 晩秋の森には、すでに冬の気配すら感じられる。強い風に吹きつけられ、ユリウスは首元から入り込む冷気に、ぶるりと身を震わせた。コートの前をしっかりとかき合わせ、ふらふらとあちこちへ足を運ぶ。

 この時期は、冬眠前の動物たちが食べ物を漁り尽くしてしまう。ユリウスが扱う草のほとんどは、苦い。そのため、普段は競合することがほとんどないのだが、今は食い尽くされてしまっている。

 地面を掘ると、根の部分は残されており、ユリウスは手を突っ込んで、引き抜いた。きれいに洗って乾燥させ、煎じると虫下しの薬になる植物だが、他の薬草の根も絡まっているので、乾燥後に仕分けをしなければならない。

 目に見えない部分の判別は、目に見える部分以上に難しい。ひとつ間違えば、効果がないどころか、毒となる可能性がある。一度の失敗が、薬師生命を断つ事態になりかねない。

 人付き合いも、たぶん薬草の鑑定と同じだと、ユリウスは思った。

 見た目が美しいだとか好みだとかは、一目でわかりやすい。けれど、中身はじっくりと向き合わないとわからない。薬草の効果を、先人たちがずっと調べてきたのと同じように、ひたすら観察しなければならない。

 一番付き合いが長い人間、それは自分自身だ。けれどユリウスは、草花を見て有益・有毒を判じるほど、自分のことを掴めてはいないと思う。

 他人に触れられないせいで、人付き合いが得意ではない。表情筋が堅くて、何を考えているのかわからないと思われがち。薬を作ることはできるのに、料理となるとてんで駄目……。

 悪い部分ばかりが目につく。

 なのに、アンジェロはユリウスの別の側面ばかり見る。

 人を突き放そうとするのは、自分の呪いの犠牲にならないように、気を遣っているからでしょう?

 笑顔が硬い? でも、ユリウスはおれの前ではよく笑うよね。気持ちの波長が合う人とだけ笑えれば、それでいい
と思うよ。

 料理はできる人がやればいい。よく効く薬を作るのは、ユリウスにしかできないことだ!

 アンジェロは、短所をすべてひっくり返した。あまりに自信たっぷりに言われるものだから、そうかもしれないと思ってしまう、妙な説得力があった。

 ユリウスは、彼が二歳のときから見てきた。

 特に子ども受けをする性質ではないユリウスに懐き、いつもべったりだった。

 いたずらもした。ユリウスがやめろと言っても、やってみたいんだ! と主張する彼は、好奇心の塊で。アンジェロのお目付役という言い訳がなければ、ユリウスが経験しなかっただろう物事は、思い返せばいくつもあった。

 木にのぼったり、川で泳いだり。デニスの調合室に忍び込んで、勝手に調合の真似事をしたこともあったっけ。いつも穏やかで優しい養父が、あのときだけは拳骨を繰り出した。ぶたれた頭の痛みに涙を浮かべたふたりを抱き締めると、彼は「もう二度としてはいけない」と、約束をさせた。

 懐かしい思い出とともに、ユリウスはふらふらと森をうろつく。掘り返した根を入れた袋をぶら下げて、奥へ、奥へ。

 森は、ユリウスとアンジェロにとっては遊び場だった。枝を使って地面に絵を描き、草をすり潰して色水を作る。土は裸足で走り回っても、柔らかく受け止めてくれたし、花を摘んでは冠を作って持って帰った。 そこかしこに、幼い頃の自分たちの残像が見える気がして、ユリウスは足を止めた。

 小屋にも森にも、アンジェロがここで過ごしていたときの記憶がこびりついていて、気分転換になりはしない。

 あそこの茂みで、木の根に躓いて足を捻ったユリウスを見て、アンジェロはわんわん泣いた。小さくて、五つ年上のユリウスを背負って家に連れて帰ることができない自分が嫌だと、「ごめんね、ユリウス」「ぼく、もっとつよくなるから」と、不明瞭な声で言った。

「ごめんね、か」

 最後に聞いた彼の言葉もまた、謝罪だった。あの言葉の真意がわからないまま、アンジェロはユリウスの前から姿を消した。

 いっそのこと覚悟を決めて、一度、自分から彼に会いに行くべきだろうか。謝罪の意味も聞きたいし、自分からも謝りたい。たとえ今後の付き合いを完全に断ち切ることになったとしても、今のこの、中途半端な状態では、泣くに泣けない。

 いつもいつも、彼が森に来るのを待っているだけだった。薬をつくるのに忙しいのを言い訳にしていたが、アンジェロだって、自分との取引以外にも仕事をしていたのに、わざわざ時間をつくって、商談以上の交流を持っていたのだ。

 やれるよ、きっと。

 小さい頃の、アンジェロに連れ回されてあちこち出かけていた自分が、背中を押してくれる気がした。

 絶縁するかもしれないことは、少し怖い。それでもユリウスは、行こうと決めた。早いうちがいいだろう。明日の早朝、出発しよう。

 覚悟を決めたユリウスの行動は早かった。小屋に戻って支度しなければ。タビオたちに土産のリクエストも聞いておこうか。何せ、ユリウスにとっては初めてのひとり旅だから――……。

 踵を返したユリウスは、背後の木が動く気配に固まった。もちろん、この森は普通の森だ。植物が動いたりするはずがない。けれど、確実に「何か」がいる。

 恐る恐る、ゆっくりと振り向く。

 何かの正体は、すぐに判明した。大きな身体の熊だ。そこで初めて、ユリウスは出がけにぼんやりして、獣よけの鈴やポプリを持ってくるのを忘れたことに気がついた。

 冬眠前のこの季節、毛皮は分厚く、食いだめをした分、脂肪も厚くなっているのが普通だが、この熊は、痩せ細っていた。食糧を巡る争いに破れたのかもしれない。野生の世界は弱肉強食だ。

 そして腹が減ると気が立つのは、人間も動物も同じだった。

「グルルル……」

 喉の奥から恐ろしい唸り声を上げ、ユリウスを睨みつけてくる。剥き出しになった牙、口元から滴り落ちる涎から、熊が自分のことを外敵ではなく、食糧と見なしていることは、容易に知れた。

 ユリウスは動けない。隙を見せたその瞬間、熊は襲いかかり、ユリウスを食い殺す。いや、黙って睨み合っていたところで、最終的な結果は同じだろう。熊は空腹で、今は警戒していても、相手が非力な人間だと、すぐに理解する。

 持っている根を差し出したところで、逃げる隙ができるとも思えなかった。ほんのわずかな植物よりも、ユリウスの方が食いでがあるのは間違いない。

 最終手段は、熊が襲ってきたその瞬間、右手で触れることであった。そうすれば、熊は金に変わる。

 しかし、熊の俊敏さに勝てるとは、到底思えなかった。

 獣から目を逸らさずに、瞬きすら最小限に抑えたまま、じりじりと後退する。こちらが一歩引けば、向こうは大きく一歩を踏み出す。歩幅の違いから、徐々に距離が縮まっていく。地面には、熊の垂らした大量の涎が溜まっていく。どうやら空腹の限界が近いらしい。

 もう、駄目だ。熊の射程距離に入ったことが、体感的にわかる。次の瞬間には、熊の爪と牙の餌食になる。ユリウスは右手を突き出した。ほんの指先でもいいから触れれば、逃げ延びることができる。

 賭けだった。ユリウスは、目の前の獣を見ていることができずに、目をぎゅっと閉じた。途端、恐ろしい唸り声を上げて、熊が襲いかかってくるのを、風圧を通して感じた。

 だが、痛みは来なかった。代わりに、「ユリウス!」という叫びとともに、突き飛ばされた。そして絶叫。人のもの、それから獣の断末魔。

 まさか、という驚きとともに目を開ける。

「……アンジェロ?」

 血を流し、地面に倒れ伏しているのがアンジェロだということを、脳が理解を拒否した。でもそれも一瞬のことで、ユリウスは慌てて駆け寄った。

「大丈夫か、ユリウス!」

 熊を切り倒したのは、ディオンだった。おそらく、獣除けを持っていき忘れたユリウスに気づき、助けに来てくれたのだろう。たまたま訪ねてきたアンジェロも、ユリウスの捜索に同道したのだ。

 そして襲われているところに遭遇して、アンジェロは。

 アンジェロは。

「アンジェロ! アンジェロ!」

 彼は熊の爪による一撃を、胸にまともに受けていた。ディオンとは違い、軍人ではない彼は、普段着だ。鎧などの防具は身につけておらず、衣服どころか、皮膚に肉まで到達し、傷口からは白い骨が見えている。

 辺りは真っ赤な血で染まったが、まだ彼の意識はあった。焦点の合わない目で、懸命にユリウスの姿を探し、金の髪がようやく視界に入ると、微笑みを浮かべた。

「よかった……ユリウス」
「よくない! どうして。どうしてお前……」

 取り乱すユリウスの目からは、止めどなく涙が零れた。薬師だから、わかる。わかってしまう。この傷を今すぐに塞がなければ、彼の命はない。しかし、この場で瞬時に塗り薬を作ることができたとしても、効果がないことも理解している。

 すなわち、アンジェロは助からない。

「泣か、ないで。ユリウス……おれは、あなたに泣かれる、の、やだ」

 自分が死にかけている今でさえ、アンジェロはユリウスへの愛情を吐露する。痛みで息が止まりかけているにもかかわらず、彼は唇に、かすかに微笑みを浮かべている。

「守れて、よかった……」

 もう声を出すのも辛い様子で、アンジェロは不意に真顔になり、潤んだ目で見つめてきた。そして、声を出すことなく、口の動きだけで何事かを言う。

 愛している、ユリウス。

 確かに彼は、そう言った。涙で歪む視界であっても、はっきりと彼の唇は読めた。

 何度も口説かれたし、好きだと言われたけれど、こんなにも胸を打つ「愛している」は初めてだ。最期の「愛している」になることに気づき、ユリウスは瞬時に、覚悟を決めた。

「私を信じてくれるか、アンジェロ」

 ユリウスの声が届いているのかどうか。アンジェロは微かに頷き、すっと目を閉じた。その瞬間に、ユリウスは彼に手を伸ばす。

「ユリウス!」

 ディオンの制止も聞かず、ユリウスは右手で、アンジェロの傷を負った胸に触れた。

 当然だが、右手は恐怖に震えた。鈴の音が、耳を突き刺す。

 タビオの気持ちが、今初めてわかった。愛する人の命を救うためとはいえ、動けない、話すこともできない状態にするなど、自分はなんて、恐ろしいことを。

 それでも、アンジェロをこのまま殺してしまうよりは、はるかにましだ。

「アンジェロ」

 眠りに落ちたような安らかな表情は、ミランダと同じだ。金色にキラキラと輝く彼の頬の上に、ユリウスは涙を一粒落として、ぐちゃぐちゃになった顔を拭った。

 泣くのはいつだってできる。今は、そんな暇はない。

 考えろ。見つけるのだ。

 自分の呪いに、打ち勝つ術を。


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