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五年前の冬のことだった。
デニスとアメリアはまだ家にいて、三人で穏やかに暮らしていた。そこに時折アンジェロが加わると、賑やかになるのがちょうどよい刺激になっていた。
前夜の雪が積もり、小屋の扉を開けるのにも苦労した朝。
ユリウスが無心で雪かきをしていると、小さな子どもの泣き声が、遠くで聞こえた。一瞬、気のせいかとも思ったが、次第に近づいてくる気がする。
慌ててシャベルを放り出し、ユリウスは声のする方へと走る。
冬には土地柄、雪が積もることが多いために慣れているのだが、さすがに踏み固められていない新雪の上は、歩きにくい。
靴の中が冷たくなるのも構わずに、ユリウスは「誰かいるのか!」と、声を張り上げた。雪が音を吸収してしまうのか、明確な返事はない。ただ、泣き声はずっと続いている。
転びそうになりながらも、ユリウスは懸命に歩く。そして、東のグローヴィル王国から森に入ってしばらくした地点に、声の主を見つけた。
「大丈夫か!?」
泣き腫らした目の男児の足元には、母親であろう女性が倒れていた。
「おか、おがあさんが……!」
他に人影はなく、母子は二人で旅をしてきたようだ。子どもは粗末ながらも靴を履いていたが、母親の足は、原型を留めていない、布が巻きつけられているだけの状態だった。
ユリウスは小さく舌打ちをする。ひとりで来るんじゃなかった。ただでさえ非力なのに、自分は右手を使えない。細身で小柄な女性であっても、担いで小屋まで行くことはできない。
せめて子どもは泣き止ませて、自分の足で歩いていってもらわなければならない。
ユリウスは必死に子どもを宥めるが、彼はわんわんと泣くばかり。残念ながらユリウスは、アンジェロしか、子どもの世話をしたことがなかった。自分に異様に懐く子どもとは、訳が違う。
だんだんこちらまで泣きたい気分になってきたときに、「どうした?」と、雪かきを放置してどこかへ行ってしまったユリウスを心配してやってきた、アメリアが到着した。
彼女はユリウスの説明を聞くまでもなく、状況を把握した。すぐさま母親の容体を調べると、その背に担ぎ上げ、子どもと手を繋いだ。
「ユリウス! 先に行って、デニスに伝えて!」
「わかった!」
本当は、男である自分が負うべき役目を担うアメリアに、羞恥が芽生えないとは言わない。ただ、今は一刻を争う事態だ。自分を情けないと詰るのは、後からでもできる。
ユリウスは小屋までの道を駆け戻り、息を切らしてデニスに、アメリアからの伝言を伝えた。
アメリアが母子と一緒に帰ってきたときには、湯を沸かし、必要になるかもしれない薬も各種揃えていた。母親は高熱にうなされていたため、熱冷ましを投与して、様子を見ることになった。
客間のベッドに彼女を横たわらせると、次は息子の番だ。
デニスは柔らかく微笑んで、「お名前、教えてくれる? 君とお母さんの」と、しゃがみ込んで、子どもと目線を合わせた。無愛想のユリウスにはできない芸当で、子どもは鼻をぐすぐす鳴らしつつも、「タビオ。お母さんは、ミランダ」と、はっきりと言った。
タビオも手や足がひどいしもやけになってしまっているので、アメリアが薬を塗り、温かいものを飲ませた。その間も母を心配して、ちらちらと視線を送っているタビオに、ユリウスはなんとも言えない気持ちになったものだった。
三日後、ようやく熱の下がったミランダは、息子と感動の再会を果たした。
「おかあさんっ!」
勢いよく飛びつこうとしたタビオは、途中で失速した。ゆっくりと近づき、母の足元に抱きつき、頭を撫でられるのを待った。か細い指が、タビオの赤い髪を巻き取っていく。
ミランダは元々、病に冒されていた。原因不明、不治の病だ。
肺を病み、一度咳き込むと、なかなか止まらなくなる。やがて血を吐き、苦しんで死に至る。
彼女が決死の思いで、真冬の輝きの森にやってきたのは、慈愛の賢者と呼ばれるデニスを頼ってのことだった。輝きの森に住む薬師は、いつの時代も最高の知識と腕で、困っている人々を助ける。
デニスはミランダの身体の状態や症状を見て、ユリウスとともに先人たちの知恵の結晶である記録を漁った。中に走り書きの紙切れがないか、すべてのページを調べた。
けれど、デニスは首を横に振った。特効薬は、ない。対症薬を処方して、咳を緩和することはできるが、根本的な治療にはならない。いずれは、肺を潰して死ぬ運命だ。
「申し訳ない」
頭を下げたデニスに、ミランダは気丈に微笑んだ。デニスの後ろに立ち、ユリウスは彼が自分の無力さに苛立っているのを感じた。そして自分の中にも、同じく渦巻く情けなさ。
以降、ミランダ母子は小屋で一緒に暮らし始める。夫のいない彼女たちの暮らしはそもそも苦しかったのに、病気になってからは、自分の薬代までかかる。到底、身体にいい生活とは言えない。
せめて、最期のときは安らかに。
デニスたちの申し出を、ミランダは恐縮しつつ、受けた。愛する息子のためであったに違いない。貧しくて、まともに教育を受けられなかったタビオに、ユリウスは文字の読み書きを、一から教え込んだ。
元気なとき、ミランダは率先して、家の細々とした家事をした。タビオも積極的に手伝った。その分、デニスは調薬に集中できた。
しばらくは、大人数での生活が続いた。ミランダは明るく、アメリアとは気が合い、姉妹のように仲がよかった。アンジェロが初めて遊びに来たときは、何も伝えていなかったので、驚いていた。タビオを上から見下ろしていたが、もしや彼が避けられているのは、初対面のときの恐怖が残っているせいだろうか。
時が経ち、ユリウスが独り立ちをするにあたって、養親たちは二人で長い旅に出ることになった。
目的は、ふたつ。
ひとつはミランダの病に効く薬を作るために、まだ見ぬ薬草や調合レシピを学ぶこと。
もうひとつは、ユリウスの呪いを解く方法を探すためだった。
彼らの不在時も、ミランダ親子はよく働いた。ユリウスは彼女のために咳止めを常備していたし、タビオの不意の怪我にも備えて、傷薬も常に絶やさなかった。
デニスとアメリアが旅に出て、しばらくしてのことだった。
ミランダが倒れた。これまで効果のあった咳止めを処方しても、一向に収まる気配はない。彼女が吐いた痰の中に、真っ赤な血が混じっているのを見たとき、ユリウスは死期が近いのだと悟った。
「お願いが、あるの」
息も絶え絶えのミランダが、枕元にユリウスを呼んだ。嫌な予感しかしなかった。
彼女は最後の願いを、金の賢者に託す。
「私が死ぬ前に、金に変えて」
ミランダたちが住み着いてからも、何度も下品な成金たちは、ユリウスの能力目当てに森に足を運んだ。その度に断っている姿を、彼女は見ていた。
ユリウスは首を横に振る。
「そんなこと、できません」
生き物を、特に人間を金にすることは禁忌だ。もう二度とやらないと、ユリウスは育ての親と約束していた。
ミランダは特効薬以外にも、ある期待をして森を訪れたことを、苦しみながら告白した。
「タビオには、苦労ばかりをかけたから……」
もしも、森の賢者でも自分の病を治すことができなければ、金の呪い子の力で、自分の身体を黄金に変えてもらおう。それを使って、タビオの後の生活が楽になるように、学校にだって行けるように、と。
病気の克服が不可能となり、瀕死の状態である今、それが彼女の唯一の希望だった。目はギラギラと輝いており、自身の生への執着よりも、遺してゆく我が子への余りある愛情に、ユリウスは恐れをなした。
これが、母親というものなのか。
思えば、ユリウスがその姿を金に変えてしまった人間は、女性……母親がほとんどだった。
産みの母であるアルビオム王妃はもちろん、乳をくれた乳母たちは、ユリウスと同じ月齢の赤ん坊の母親だったのだ。
そして、それから……。
目の前のミランダとのあまりの違いにクラクラするが、唯一自分の意志で触れた「あの女」も、一応は母親だった。思い出すだけで、反吐が出そうになるため、普段はユリウスも、秘密を共有するデニスたちも、触れないようにしている。
『ほら、早く金にしちゃってよ! あたしにはこんな奴、いらないの!』
「どうか、お願い。私があの子に遺してあげられるのは、こんなものしかないの」
両の耳に、別々の母親の懇願が聞こえる。飲み込まれそうになる。
苦しそうな表情のユリウスに、ミランダは、ふっと目元を和らげた。
「……あの子を呼んでくれる?」
言われたとおりに、ひとりで居間にいたタビオを呼び入れた。二人きりの方がいいだろうと、ユリウスは気を利かせて、寝室を出て行く。
しばらくの間、タビオの泣き喚く声が聞こえた。ユリウスはただただ無心に、薬草をすりつぶしていた。
もっと効く咳止めを作れば、ミランダも、あんな馬鹿なことを言い出さないだろう。
そんな祈りを籠めて、淡々と、丁寧に。
完成してあとは粗熱を取るだけになったところで、タビオと手を繋ぎ、ミランダがベッドから這い出てきた。すぐに居間で座らせ、出来たばかりの薬を、「まだ熱いからゆっくり飲んで」と、手渡す。
あまりの苦さに顔を歪めつつも、飲み干したミランダの顔色は、少しだけよくなった。
ホッと安心するとともに、彼女がわざわざ出てきた理由を察して、ユリウスの心臓は嫌な音を立てる。
ミランダは、ユリウスに深々と頭を下げた。タビオも隣で、母に倣って同じ行動をしている。
「この子にも、言い聞かせました。だから、お願いします」
私に触れて。
その呪いの手で。
右手にぶら下がった鈴が鳴ったのは、ユリウスが無意識に身体を揺らしたせいだった。音を止めようと左手で押さえつけるも、細かく震える自分自身を止めなくては、効果がない。
ユリウスはつっかえながら、彼女の勘違いについて諭す。
金になったとしても、その場で死ぬわけではない。ユリウスは自分が変えてしまった相手を、金塊と割り切ることはできないから、売ったり割ったりすることは、到底できない。
ユリウスが死んだとして、呪いが解けて元に戻ることができるという保証はない。未来永劫、そのままかもしれない。
ユリウスの説得に、ミランダは屈しない。強き母の目をした彼女には、迷いが一切ない。
母親とは、なんと身勝手なものなのだろう。
子どものためだと言い、自分の我を押し通す。
ユリウスにとっては、その日二度目の衝撃であった。息子を思うあまりに、彼の意志を無視している。
タビオは鼻を鳴らし、ユリウスの視線に頷いた。納得はしていない。できるわけがない。
ユリウスは、タビオだけと話をすることにした。ミランダを寝室に戻した。咳止めの中には、眠気を誘う成分も含まれていて、ベッドに横になった彼女は、すぐに眠りに落ちた。
何もなしで話をするのも、手持ち無沙汰だ。茶を淹れようとしたところで、タビオに止められ、彼に任せることになる。
彼の淹れた美味い茶を一口。ユリウスは自分の覚悟を、少年にもわかるように告げる。
「私は、ミランダの願いを叶えたいと思う」
パッと顔を上げたタビオは、青ざめていた。首を横に振り、強い目で、まだ何もしていないのに、ユリウスに憎悪をぶつけてくる。
「けれどそれは、彼女のことを守るためだ」
金に変わった後、ミランダはその身を砕かれて使われることを望んでいるが、ユリウスはそのつもりはみじんもない。
彼女の身体を蝕む病の進行を、食い止めるために。
これまでに試したことはない。だが、金になったところで、死ぬわけではないということは、経験でわかっている。
「私は自分の師匠を、父を信じているんだ」
材料ときっかけさえあれば、デニスは特効薬を作ることができるという、絶対的な信頼を寄せている。ただ、今のままでは、ミランダは間に合わない。デニスが帰還する前に、確実に命を落としてしまう。
だからといって、ユリウスの呪いを発動させるのも、問題だらけだ。それでも、覚悟を決めた。
「呪いがいつ解けるのか、そもそも解く方法があるのか、私にもわからない」
死にもしなければ、生きてもいない。ミランダを金にするということは、ちょうど境界線上の存在にするということだ。
ユリウスは、選べとは言わなかった。
こんな子どもに、母親の運命を選べと言うのは可哀想だ。重い責任を負うのは、自分だけでいい。
「絶対にいつか、ミランダを元に戻す。それまでの間、私は君の面倒を見る。だから、右手で触れる」
許可を求めるのではなく、「やる」という宣言であった。
恨むならば、自分を存分に恨め。理不尽な運命を乗り越えるために、憎しみの対象は必要だ。
思えば、自分にはそういう存在がいなかった。生まれながらに呪われた王子は、すぐさま王や国の要人とは、引き離される。自分を疎み、忌むべきだと唱えるのも彼らなのだが、その場面をユリウスは、直接見るわけではない。だから、他人に対して正であろうと負であろうと、特別な感情を抱くことが難しい。
国を離れ、デニスやアメリアが自分の代わりに怒ったり、嘆いたりするのを見て、ユリウスは初めて、人らしい心を手に入れたのだ。
タビオの場合は、すでに物心はついているが、心身ともに、まだまだ発展途上だ。自分の決断のせいで、母親が生きてもいない、死んでもいない中途半端なかたちになってしまったことが、どう影響するかわからない。
自分自身を憎むくらいなら、傍に居る大人を、自分を憎め。
タビオはユリウスの宣言に戸惑っている。そんな彼を背にして、ユリウスはミランダの寝室へと向かう。
そして――……
デニスとアメリアはまだ家にいて、三人で穏やかに暮らしていた。そこに時折アンジェロが加わると、賑やかになるのがちょうどよい刺激になっていた。
前夜の雪が積もり、小屋の扉を開けるのにも苦労した朝。
ユリウスが無心で雪かきをしていると、小さな子どもの泣き声が、遠くで聞こえた。一瞬、気のせいかとも思ったが、次第に近づいてくる気がする。
慌ててシャベルを放り出し、ユリウスは声のする方へと走る。
冬には土地柄、雪が積もることが多いために慣れているのだが、さすがに踏み固められていない新雪の上は、歩きにくい。
靴の中が冷たくなるのも構わずに、ユリウスは「誰かいるのか!」と、声を張り上げた。雪が音を吸収してしまうのか、明確な返事はない。ただ、泣き声はずっと続いている。
転びそうになりながらも、ユリウスは懸命に歩く。そして、東のグローヴィル王国から森に入ってしばらくした地点に、声の主を見つけた。
「大丈夫か!?」
泣き腫らした目の男児の足元には、母親であろう女性が倒れていた。
「おか、おがあさんが……!」
他に人影はなく、母子は二人で旅をしてきたようだ。子どもは粗末ながらも靴を履いていたが、母親の足は、原型を留めていない、布が巻きつけられているだけの状態だった。
ユリウスは小さく舌打ちをする。ひとりで来るんじゃなかった。ただでさえ非力なのに、自分は右手を使えない。細身で小柄な女性であっても、担いで小屋まで行くことはできない。
せめて子どもは泣き止ませて、自分の足で歩いていってもらわなければならない。
ユリウスは必死に子どもを宥めるが、彼はわんわんと泣くばかり。残念ながらユリウスは、アンジェロしか、子どもの世話をしたことがなかった。自分に異様に懐く子どもとは、訳が違う。
だんだんこちらまで泣きたい気分になってきたときに、「どうした?」と、雪かきを放置してどこかへ行ってしまったユリウスを心配してやってきた、アメリアが到着した。
彼女はユリウスの説明を聞くまでもなく、状況を把握した。すぐさま母親の容体を調べると、その背に担ぎ上げ、子どもと手を繋いだ。
「ユリウス! 先に行って、デニスに伝えて!」
「わかった!」
本当は、男である自分が負うべき役目を担うアメリアに、羞恥が芽生えないとは言わない。ただ、今は一刻を争う事態だ。自分を情けないと詰るのは、後からでもできる。
ユリウスは小屋までの道を駆け戻り、息を切らしてデニスに、アメリアからの伝言を伝えた。
アメリアが母子と一緒に帰ってきたときには、湯を沸かし、必要になるかもしれない薬も各種揃えていた。母親は高熱にうなされていたため、熱冷ましを投与して、様子を見ることになった。
客間のベッドに彼女を横たわらせると、次は息子の番だ。
デニスは柔らかく微笑んで、「お名前、教えてくれる? 君とお母さんの」と、しゃがみ込んで、子どもと目線を合わせた。無愛想のユリウスにはできない芸当で、子どもは鼻をぐすぐす鳴らしつつも、「タビオ。お母さんは、ミランダ」と、はっきりと言った。
タビオも手や足がひどいしもやけになってしまっているので、アメリアが薬を塗り、温かいものを飲ませた。その間も母を心配して、ちらちらと視線を送っているタビオに、ユリウスはなんとも言えない気持ちになったものだった。
三日後、ようやく熱の下がったミランダは、息子と感動の再会を果たした。
「おかあさんっ!」
勢いよく飛びつこうとしたタビオは、途中で失速した。ゆっくりと近づき、母の足元に抱きつき、頭を撫でられるのを待った。か細い指が、タビオの赤い髪を巻き取っていく。
ミランダは元々、病に冒されていた。原因不明、不治の病だ。
肺を病み、一度咳き込むと、なかなか止まらなくなる。やがて血を吐き、苦しんで死に至る。
彼女が決死の思いで、真冬の輝きの森にやってきたのは、慈愛の賢者と呼ばれるデニスを頼ってのことだった。輝きの森に住む薬師は、いつの時代も最高の知識と腕で、困っている人々を助ける。
デニスはミランダの身体の状態や症状を見て、ユリウスとともに先人たちの知恵の結晶である記録を漁った。中に走り書きの紙切れがないか、すべてのページを調べた。
けれど、デニスは首を横に振った。特効薬は、ない。対症薬を処方して、咳を緩和することはできるが、根本的な治療にはならない。いずれは、肺を潰して死ぬ運命だ。
「申し訳ない」
頭を下げたデニスに、ミランダは気丈に微笑んだ。デニスの後ろに立ち、ユリウスは彼が自分の無力さに苛立っているのを感じた。そして自分の中にも、同じく渦巻く情けなさ。
以降、ミランダ母子は小屋で一緒に暮らし始める。夫のいない彼女たちの暮らしはそもそも苦しかったのに、病気になってからは、自分の薬代までかかる。到底、身体にいい生活とは言えない。
せめて、最期のときは安らかに。
デニスたちの申し出を、ミランダは恐縮しつつ、受けた。愛する息子のためであったに違いない。貧しくて、まともに教育を受けられなかったタビオに、ユリウスは文字の読み書きを、一から教え込んだ。
元気なとき、ミランダは率先して、家の細々とした家事をした。タビオも積極的に手伝った。その分、デニスは調薬に集中できた。
しばらくは、大人数での生活が続いた。ミランダは明るく、アメリアとは気が合い、姉妹のように仲がよかった。アンジェロが初めて遊びに来たときは、何も伝えていなかったので、驚いていた。タビオを上から見下ろしていたが、もしや彼が避けられているのは、初対面のときの恐怖が残っているせいだろうか。
時が経ち、ユリウスが独り立ちをするにあたって、養親たちは二人で長い旅に出ることになった。
目的は、ふたつ。
ひとつはミランダの病に効く薬を作るために、まだ見ぬ薬草や調合レシピを学ぶこと。
もうひとつは、ユリウスの呪いを解く方法を探すためだった。
彼らの不在時も、ミランダ親子はよく働いた。ユリウスは彼女のために咳止めを常備していたし、タビオの不意の怪我にも備えて、傷薬も常に絶やさなかった。
デニスとアメリアが旅に出て、しばらくしてのことだった。
ミランダが倒れた。これまで効果のあった咳止めを処方しても、一向に収まる気配はない。彼女が吐いた痰の中に、真っ赤な血が混じっているのを見たとき、ユリウスは死期が近いのだと悟った。
「お願いが、あるの」
息も絶え絶えのミランダが、枕元にユリウスを呼んだ。嫌な予感しかしなかった。
彼女は最後の願いを、金の賢者に託す。
「私が死ぬ前に、金に変えて」
ミランダたちが住み着いてからも、何度も下品な成金たちは、ユリウスの能力目当てに森に足を運んだ。その度に断っている姿を、彼女は見ていた。
ユリウスは首を横に振る。
「そんなこと、できません」
生き物を、特に人間を金にすることは禁忌だ。もう二度とやらないと、ユリウスは育ての親と約束していた。
ミランダは特効薬以外にも、ある期待をして森を訪れたことを、苦しみながら告白した。
「タビオには、苦労ばかりをかけたから……」
もしも、森の賢者でも自分の病を治すことができなければ、金の呪い子の力で、自分の身体を黄金に変えてもらおう。それを使って、タビオの後の生活が楽になるように、学校にだって行けるように、と。
病気の克服が不可能となり、瀕死の状態である今、それが彼女の唯一の希望だった。目はギラギラと輝いており、自身の生への執着よりも、遺してゆく我が子への余りある愛情に、ユリウスは恐れをなした。
これが、母親というものなのか。
思えば、ユリウスがその姿を金に変えてしまった人間は、女性……母親がほとんどだった。
産みの母であるアルビオム王妃はもちろん、乳をくれた乳母たちは、ユリウスと同じ月齢の赤ん坊の母親だったのだ。
そして、それから……。
目の前のミランダとのあまりの違いにクラクラするが、唯一自分の意志で触れた「あの女」も、一応は母親だった。思い出すだけで、反吐が出そうになるため、普段はユリウスも、秘密を共有するデニスたちも、触れないようにしている。
『ほら、早く金にしちゃってよ! あたしにはこんな奴、いらないの!』
「どうか、お願い。私があの子に遺してあげられるのは、こんなものしかないの」
両の耳に、別々の母親の懇願が聞こえる。飲み込まれそうになる。
苦しそうな表情のユリウスに、ミランダは、ふっと目元を和らげた。
「……あの子を呼んでくれる?」
言われたとおりに、ひとりで居間にいたタビオを呼び入れた。二人きりの方がいいだろうと、ユリウスは気を利かせて、寝室を出て行く。
しばらくの間、タビオの泣き喚く声が聞こえた。ユリウスはただただ無心に、薬草をすりつぶしていた。
もっと効く咳止めを作れば、ミランダも、あんな馬鹿なことを言い出さないだろう。
そんな祈りを籠めて、淡々と、丁寧に。
完成してあとは粗熱を取るだけになったところで、タビオと手を繋ぎ、ミランダがベッドから這い出てきた。すぐに居間で座らせ、出来たばかりの薬を、「まだ熱いからゆっくり飲んで」と、手渡す。
あまりの苦さに顔を歪めつつも、飲み干したミランダの顔色は、少しだけよくなった。
ホッと安心するとともに、彼女がわざわざ出てきた理由を察して、ユリウスの心臓は嫌な音を立てる。
ミランダは、ユリウスに深々と頭を下げた。タビオも隣で、母に倣って同じ行動をしている。
「この子にも、言い聞かせました。だから、お願いします」
私に触れて。
その呪いの手で。
右手にぶら下がった鈴が鳴ったのは、ユリウスが無意識に身体を揺らしたせいだった。音を止めようと左手で押さえつけるも、細かく震える自分自身を止めなくては、効果がない。
ユリウスはつっかえながら、彼女の勘違いについて諭す。
金になったとしても、その場で死ぬわけではない。ユリウスは自分が変えてしまった相手を、金塊と割り切ることはできないから、売ったり割ったりすることは、到底できない。
ユリウスが死んだとして、呪いが解けて元に戻ることができるという保証はない。未来永劫、そのままかもしれない。
ユリウスの説得に、ミランダは屈しない。強き母の目をした彼女には、迷いが一切ない。
母親とは、なんと身勝手なものなのだろう。
子どものためだと言い、自分の我を押し通す。
ユリウスにとっては、その日二度目の衝撃であった。息子を思うあまりに、彼の意志を無視している。
タビオは鼻を鳴らし、ユリウスの視線に頷いた。納得はしていない。できるわけがない。
ユリウスは、タビオだけと話をすることにした。ミランダを寝室に戻した。咳止めの中には、眠気を誘う成分も含まれていて、ベッドに横になった彼女は、すぐに眠りに落ちた。
何もなしで話をするのも、手持ち無沙汰だ。茶を淹れようとしたところで、タビオに止められ、彼に任せることになる。
彼の淹れた美味い茶を一口。ユリウスは自分の覚悟を、少年にもわかるように告げる。
「私は、ミランダの願いを叶えたいと思う」
パッと顔を上げたタビオは、青ざめていた。首を横に振り、強い目で、まだ何もしていないのに、ユリウスに憎悪をぶつけてくる。
「けれどそれは、彼女のことを守るためだ」
金に変わった後、ミランダはその身を砕かれて使われることを望んでいるが、ユリウスはそのつもりはみじんもない。
彼女の身体を蝕む病の進行を、食い止めるために。
これまでに試したことはない。だが、金になったところで、死ぬわけではないということは、経験でわかっている。
「私は自分の師匠を、父を信じているんだ」
材料ときっかけさえあれば、デニスは特効薬を作ることができるという、絶対的な信頼を寄せている。ただ、今のままでは、ミランダは間に合わない。デニスが帰還する前に、確実に命を落としてしまう。
だからといって、ユリウスの呪いを発動させるのも、問題だらけだ。それでも、覚悟を決めた。
「呪いがいつ解けるのか、そもそも解く方法があるのか、私にもわからない」
死にもしなければ、生きてもいない。ミランダを金にするということは、ちょうど境界線上の存在にするということだ。
ユリウスは、選べとは言わなかった。
こんな子どもに、母親の運命を選べと言うのは可哀想だ。重い責任を負うのは、自分だけでいい。
「絶対にいつか、ミランダを元に戻す。それまでの間、私は君の面倒を見る。だから、右手で触れる」
許可を求めるのではなく、「やる」という宣言であった。
恨むならば、自分を存分に恨め。理不尽な運命を乗り越えるために、憎しみの対象は必要だ。
思えば、自分にはそういう存在がいなかった。生まれながらに呪われた王子は、すぐさま王や国の要人とは、引き離される。自分を疎み、忌むべきだと唱えるのも彼らなのだが、その場面をユリウスは、直接見るわけではない。だから、他人に対して正であろうと負であろうと、特別な感情を抱くことが難しい。
国を離れ、デニスやアメリアが自分の代わりに怒ったり、嘆いたりするのを見て、ユリウスは初めて、人らしい心を手に入れたのだ。
タビオの場合は、すでに物心はついているが、心身ともに、まだまだ発展途上だ。自分の決断のせいで、母親が生きてもいない、死んでもいない中途半端なかたちになってしまったことが、どう影響するかわからない。
自分自身を憎むくらいなら、傍に居る大人を、自分を憎め。
タビオはユリウスの宣言に戸惑っている。そんな彼を背にして、ユリウスはミランダの寝室へと向かう。
そして――……
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