金の右手は初恋に触れる

葉咲透織

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 そよ、と吹いたかと思った春の風は、気まぐれだ。一瞬強く吹き寄せて、森の木々だけではなく、金の髪を乱していく。

 ユリウスは砂埃が入らないように細めた目で、太陽を見上げた。

 昨日までの長雨が嘘のような天気だったが、雲の様子を見るにつけ、明日からは再び曇天になるだろう。晴れているうちにやらなければならないことは、山ほどある。

 洗濯物の入った籠を掴んだユリウスだったが、小さな手がそれを押しとどめた。

「タビオ?」

 赤い巻き毛の少年が、可愛らしい顔を精一杯作って怖い顔をしてみせて、首を横に振っている。真剣な顔で、

「この間も、シーツ落として汚したでしょ」

 と、まるで母親のように小言を言うものだから、ユリウスは苦笑して、籠から手を離した。二人分の洗濯物とはいえ、かなり溜まってしまっている。えっちらおっちらと物干し場まで運んでいく後ろ姿を、ユリウスはぼんやりと見送った。

 いつまでも子どものお手伝いの域を出ないと思っていたのは、どうやら自分の思い込みだったようだ。立派に家事をこなす幼い姿を見守りつつ、ユリウスは自分にしかできない仕事に取りかかるべく、長い袖を捲り、邪魔にならないように紐で括った。

「さて」

 庭と森の境界に畑を作り、よく使う薬草を植えてある。そこには、タビオにも近づかないように言ってある。野菜の世話は一緒にするが、ユリウスの仕事に使う薬草は、素人目には雑草と区別がつかない。扱いに注意が必要であるため、こちらの世話はユリウスがひとりでやっている。

 昨日までの長雨で根腐れが起きていないかを確認し、ぼうぼうと生い茂った雑草を引き抜く。野生のものとの生育状況を比べるために記録して、頃合いの薬草は収穫する。葉や茎に棘が存在するものもあり、注意をしていても、とくには引っかけてしまう。

 しばらく作業ができなかったから、大変だ。額に浮かぶ汗をぬぐい、ユリウスは頭上を見やる。空は青く澄み渡り、自然と口元が緩んだ。

 久しぶりの太陽を喜んでいるのは、ユリウスだけではない。

 観賞用の植物とは違う。ささやかな色合いの花々の間を、黒い翅の大きな蝶が、ひらひらと飛んでいく。陽光に透ける色合いが、神秘的で美しかった。

 不意に誘われて、手を伸ばす。触れるか触れないかの寸でのところで、手首に括った鈴が、リンと鳴った。作業をしているときとは違う鋭さで、耳を刺す。

 子どもではないのだから、好奇心に負けてはいけない。

 手に入れたいと思って触れたとき、その生命の輝きは失われてしまうのだ。

 ユリウスが動きを止めている間も、黒蝶は挑発するかのように、無軌道にゆったりと翅を動かし、花々を縫った。ようやく離れていったときには、ホッと息をついた。肩から力が抜け、どっと疲労感が襲ってくる。

 細心の注意を払っている人間相手のときよりも、虫や小動物に相対したときの方が、気をしっかりと保たなければならない。ついうっかり、は一度たりとも、あってはならないのである。

 気を取り直したユリウスが、薬草の収穫を再開すべく、腰を曲げたときである。

「おーい。おーい!」

 呼び声は明らかに成人男性のもので、タビオではない。ユリウスは姿勢を正した。声は次第に近づいてきて、男が姿を現す。

 夜の森を思わせる、漆黒の髪。日に焼けた肌。大きな鼻や口、華やかな顔立ち。自分とは色彩も、纏う印象も、正反対の男である。

 琥珀色の目をきらきらと輝かせて小走りにやってくる彼の背後に、ぶんぶんと大きく横に揺れる尾が見えるのは、錯覚だろうか。

「アンジェロ」

 呟きに過ぎない声を、彼は聞き逃さない。大きな袋を担いだ屈強な男が、喜び勇んで走り迫ってくるのは、慣れているとはいえ、少々逃げ出したくもなる。もっともユリウスは、アンジェロが傷つくことはしないと決めているので、ただじっと、彼が辿り着くのを待つのみであった。

「ユリウス! 三日ぶり!」
「ああ、うん」

 王侯貴族ならば、まだベッドの中で寝ぼけているだろう時間だが、アンジェロは元気だった。調子よく、「頼まれたもの、安く手に入ったんだぜ」と、戦利品をその場で出そうとするので、慌てて止める。

「タビオに言って、先に荷物を家に置いてくればいいのに」

 毎回同じ小言を言うが、アンジェロは少々しょぼくれるだけだ。

「だってタビオ、おれのことが嫌いだろ? おれは仲良くしたいと思ってるんだけど」

 アンジェロの方は、こちらに来る度にタビオにも手土産を買ってくるくらい気を遣ってくれている。

 養父曰く、「君はとてもきれいだけれど、笑顔が苦手だからね。仕草や言葉遣いには、気をつけるんだよ」と、忠告を受けるほど、冷たく見られがちなユリウスなどよりもよほど、子ども受けはよいはずだ。表情豊かで、商人なんて向いていないと思うくらい。なのにどうしてか、タビオはアンジェロを前にすると、緊張しているようだった。

 元来、人見知りの性質はあったが、アンジェロとはすでに知人の域にもかかわらず、顔を見れば、即座に姿を隠し、気配を消すのである。

 洗濯物を干し終えて、先に家に戻っていたタビオにアンジェロの来訪を告げると、案の定、彼はまともに挨拶をせずに、台所へ逃げた。ユリウスが注意するべく踏み込もうとするのを、アンジェロは止めた。

「いいんだ。いつか自然と仲良くなれる日が来ると思うし」

 楽観的なアンジェロには、呆れることもあるが、救われることの方が多い。

 ユリウスは彼を伴い、自分の調合室を開け放った。途端にアンジェロは、鼻をひくひくさせて、おまけにくしゃみをひとつ。

「相変わらず、変な匂い」
「そうか?」

 すりつぶしたり煮詰めたりして、凝縮した薬草の成分は、野にあるときよりも濃い。その香りは、ユリウスにとっては慣れっこで、かぐわしいものと感じられるのだが、アンジェロはいつも、しかめっ面だ。

 さっさと出て行きたいという気持ちがありありと浮かんだ顔を見上げて、ユリウスは早速、今回の売り上げについての収支を受け取った。

「春の長雨のあとは、鼻風邪が流行るからね。よく売れたよ」

 レタリア王国・ヴァリーノ家。国内外にその名を知られた商会の四男坊が、アンジェロだ。跡取りの地位から最も遠い末子に、ユリウスは自分の手がけた薬のすべてを託している。輝きの森の番人特製の薬は、代々よく効くと評判で、アンジェロの商売は、彼の年にしては、上々であった。

 昔は他の商人に卸すこともあったけれど、アンジェロが成人し、家業に携わるようになってからは、ヴァリーノ商会の専売とした。やっかまれることも多いが、アンジェロは持ち前の愛嬌と機転で、どうにかうまくやっているらしい。

「それから、頼まれてた薬草」

 森に自生するものだけでは限界がある。薬を売った金で、ついでに仕入れもアンジェロに任せている。

 彼は幼少の頃、ユリウスとともに養父のもとで過ごしていた時期があるが、専門家ではない。最初の頃は、よく似た植物や質の悪いものを掴まされて帰ってきたこともあるが、彼は勤勉だ。

 ひとつひとつを手に取って確認したユリウスの唇は、微笑みの形を作った。それだけで、アンジェロにはすべて伝わった。拳を握り、高く突き上げて、「よっしゃ!」と、やり遂げた顔で笑う。

「うん……質もいい」
「でしょ? 値引き交渉が白熱してさ。もちろん、おれが勝ったんだけどね」

 ずっしりと銭貨が残った袋を持ち上げたアンジェロは、虫を捕って得意げにしていた子どもの頃と、何も変わらない。ユリウスも、あのときと同様に、手をパチパチと叩いて、「えらいえらい」と褒めた。

 すると、アンジェロは変貌する。

 具体的に、どこがどう変わったのかを、ユリウスは説明することができない。

 確かに笑っている。ここまでと何ら変わらぬ、五つ年下の青年の顔だ。けれどどこか、その目には熱いものが潜んでいて、ユリウスはそれが恐ろしいような気がする。

 アンジェロは、低い声で言う。

「じゃあ、ご褒美くれる?」

 と。

 離れているのに、直接耳孔に吹き込まれるような吐息とともに、おねだりをされる。台詞は子どもそのものだが、彼の求めるものはきっと、あの頃とは違う。ぴかぴかに磨いた石だとか、きれいな花を差し出したところで、彼はもう、喜ばない。

「ねえ、ユリウス」

 立ち尽くすユリウスに、近づいてくるアンジェロ。そして彼の手が伸びてきて、ようやくユリウスは、拒絶する。

 彼が求めるものを与えることは、許されない。この肉体が、罪を犯した過去が、ユリウスを縛りつけるのだ。

「触るな。触ればどうなるかは、わかっているだろう」

 努めて冷たく、きっぱりと拒む。アンジェロの琥珀の目をじっと睨みつける。

 しばらく視線はかち合ったままだったが、諦めたのはアンジェロの方だった。目元を和らげた彼は、薬草以外の買い物が入ったままの袋を持つと、「運ぶよ。台所でいい?」と、調合室を出て行った。

 その背中に伸ばしかけた手を、鈴の音が引き留める。触れてはいけない。触れられてもいけない。事故では済まされない結果が待っている。

 ユリウスが腕を下ろしたのと同時に、アンジェロが振り返った。

「そういえば、なんかいい茶葉やら菓子やら頼まれてたけど、誰かお客さんでも来るの?」

 アンジェロの問いかけに、ユリウスは答えなかった。
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