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「おい。一号、一号? どうしたんだよ、ぼんやりして」

 一号と呼ばれた青年は、ハッとして声の主の顔を見た。自分と同じ顔の男は、明るい緑色の目を心配そうに曇らせている。

 途端に、ずいぶんと長い夢を見ていたことを思い出して、一号は苦笑する。

「なんでもない。ただの白昼夢だよ、二号」

 言って、ひらひらと衣服を翻して先に歩く。裾が長くて歩きにくいが、身体を締めつけない服はしっくりきた。夢の中で着ていたかっちりとしたジャケットや、夏の暑い季節には肌に張りつくズボンよりも。

「白昼夢ってことは、悪い夢だろ。大丈夫かよ」

 心配してついてくる二号……弟に向かってくるりと振り返ると、彼は兄の突然の行動に驚き、足を止めた。自分より少し伸ばした髪を、彼は真ん中できれいに分けている。そこから覗く形よい額に軽く口づけて、「大丈夫だよ」と、一号は笑った。

 一概に悪い夢とは言えなかった。荒唐無稽ではあったけれど。

 あんなに美しい男に、夜ごと情熱的に愛されるなんて。

 思い出すと、ぽっ、と身体の奥に火が灯った。暖かくも切ないその揺らめきの名を欲情というのだと、今の一号は知っている。

 あの行為は、男女が子を成すときの儀式だと思っていたが、男同士でもできるものなのだ。

 またぼんやりと夢に出てきた男のことを思い出す一号に、二号はもはや諦めたとばかりに溜息をつき、やれやれと首を横に振った。

 白銀の長い髪を背に流した男は、空色の目を甘く緩ませ、一号のことを常に見つめていた。あんなに美しい男は、国じゅうを探したっていやしない。

 彼は一号のことを、他の名前で呼んでいた。思い出そうとしてもわからないのが、悔しい。何せその名前は、一号だけに与えられた初めての名前だった。番号ではない、二号にも秘密の名前だ。

「ほら一号。殿下たちのところへ行こうぜ。思う存分遊んでさしあげないと、また機嫌を悪くする」
「あ、ああ……そうだな」
「殿下たちもそろそろ、俺らの仕事が遊び相手じゃないって覚えてくれないかなあ」

 記憶が混乱しているのか、自分が仕え、守らなければならない相手である王子と姫の顔が、一瞬思い浮かばなかった。夢に引っ張られすぎている。

 一号は二号と連れ立って、二人の待つ離宮へと急いだ。

「遅いよ! 一号も二号も!」
「今日はわたしとお人形で遊ぶって約束したでしょう、一号!」

 案の定、待ちきれずにいた二人に文句を言われる。二号と顔を見合わせて苦笑し、一号は姫の相手をし、二号は王子にせがまれて肩に乗せてやったりする。

「二号、竜牧場に行こうよ!」

 王子の明るい誘い文句に、二号は難色を示す。

 二号の圧倒的戦闘力によって捕まえてきた竜を、馬代わりにするために飼い慣らすべく、太い首と足を鎖で繋いでいる。

 王子は肝試しのつもりで遊びに行きたがるが、まだ完全に牙の抜けていない竜は、危険だ。

 何度も行きたいとせがむ王子に、二号は折れた。肩車をしたまま、二人は竜のところへ行く。

「王女殿下は、行かれますか?」
「行くわけないじゃない! あんな怖い場所!」

 一応尋ねてみたが、王女は首を横に振った。当然である。

 国王たちは竜を制御できると考えているようだが、一号にはとても可能とは思えない。

 あの恐ろしい風貌。剥き出しの牙。怒りの感情しか持たないような、獰猛さ。

 それでも愚かなことだと言わずに従うのは、捨てられた自分たちを拾い、役割を与えてくれたから。

 もちろん、いいことばかりではなかったけれど……。

「一号! ほら、あなたの番ですわよ!」

 手のひらを見つめてぼんやりしていた一号を、王女殿下は叱責した。慌てて裏声を使い、彼女の気に入りの人形を動かしながら演じる。

「カミルは、姫様のことが大好きですにゃあ」

 カミル、メリー、アルゴン、サフィール。

 人形にすらちゃんとした名前があるというのに、一号たちには名前がない。国王夫妻はもちろん、子供たちもそのことについて、何ら疑問を抱いている節はない。

 結局のところ、自分たちは彼らにとっては同じ人間ではないのだ。ペットですらない。愛情を向ける価値なんてない。

 一号は人形遊びに付き合いながら、白銀の男のことを考える。

 ああ、彼はいったい、自分のことをなんと呼んでいたのだったか。

 知りたい。自分に唯一の名前をつけてくれたあの男のことを。

 何度もぼんやりすることに、痺れを切らした王女は、「もういい!」と、機嫌を損ねた。

「一号じゃなくて、×××と遊ぶわ」

 王女が呼んだのは、十日ほど前に拾った白い蛇であった。王宮の庭に現れたときには怪我をしていたが、今はすっかり完治していた。野生の動物の治癒力は、めざましいものがある。

 子供の腕ほどもある太さの蛇にも怖がることなく、赤い瞳を見つめて、「遊びましょ」と、王女は声をかける。蛇も彼女の言葉を理解しているのか、チロチロと細い舌を出し、付き従う。

 仮に保護しただけの蛇にすら名前があるのに、どうして俺たちには。

 一号は先導する王女と白蛇についていく。

「あなたのお気に入りの場所を教えて」

 なかなかにお転婆なお姫様である。行き先を蛇に任せ、探検しようというのである。危険なことだけはさせてはならない。一号は、いざというときには身を挺して庇うことを誓う。

 蛇は自由気ままに見えて、歩幅の狭い幼女、彼女に合わせて進むほかない従者のことを、時折這い進むのを止めて、待っていた。まるで人間のようだ。

「あなた、頭がいいのね」

 上へ行ったり下へ行ったり、結局疲れて一号の腕に抱き上げられることになった王女は、「一号より役に立つわ!」と、生意気なことを言った。ただの子供だったら、この場で落としているところである。

 何も言うことができない一号に、「ふふん」と勝ち誇った笑みを浮かべた王女、そして物言わぬ蛇の一行は、蛇の生まれ故郷であろう、敷地内の森へと足を踏み入れた。

 ここは禁足地ではないのか。一号は不安になる。

 王家の者以外が足を踏み入れると、呪われる。そんな噂のある場所は、いくらでもある。城の外といえば、庭師の丹精した庭園しか知らない王女は、体力が回復したこともあり、今度は自分の足で歩くと言ってきかなかった。

「転ばないように、気をつけてください」
「うるさいわね! そんな間抜けじゃないわ!」

 つん、と言ったそばから木の根につまずきそうになっている王女に、やれやれと手を差し出すと、彼女はおずおずと握ってきた。根は素直なのである。

「×××はどこへ行こうとしているのかしら?」

 先程から、何度か彼女は白蛇の名前を呼んでいるのだが、一号には聞き取ることができない。名づけをした場面にも居合わせているので、「なんていう名前でしたっけ」と尋ねるのも不敬にあたる。

 蛇が目的を持ってどこかへ連れていこうとしていることだけは、一号にもわかった。王女の覚束ない足下に注意しつつ、蛇の後を追う。土と苔の地面の中、白い色はとても目立った。見失うことはなさそうだ。

 どのくらい歩いただろうか。王女はぐずることなく、よく頑張った。蛇が動きを止めた場所を見て、彼女は「わぁ」と声を上げ、一号の手を離し、駆け寄った。

 大きな広葉樹の森の中、そこだけ太陽のための舞台だというように、開けて木漏れ日が差し込んでいる。ふわふわキラキラと舞っているのは、空気に混じる塵に違いないが、王女が妖精だというのなら、そうに違いない。きゃっきゃ、と声を上げてはしゃぐ王女を眺めつつ、一号はちょうどいい塩梅に存在する切り株を椅子代わりに、腰かけた。

 いい場所だ。今度は王子と二号も連れてこよう。

「あら、ダメよ一号。ここはわたしと、×××と、一号の秘密の場所にするの!」

 王女の可愛らしい我が儘に、一号は頷くほかなかった。

 ここでしばらく休んでから、城に帰ろう。あまり遅くなると、二号や乳母たちが心配する。

「お前はここでお別れか? それとも一緒に城に帰るのか?」

 王女を見習って、とぐろを巻いている白蛇に話しかけてみるも、反応はなかった。どうやら蛇は、自分を一号よりも上に位置づけているらしい。卑しい者の言葉を聞く必要はないというように、目を閉じていた。 

 機嫌が降下しても、一号が八つ当たりできる相手はいない。仕方なくぶちぶちと生えている草を抜き、視界の端に王女をしっかりと映しておく。

 彼女が疲れてきただろう頃合いを見計らって、一号は声をかけた。

「殿下。そろそろ帰りましょう。お兄様もお待ちですよ」
「はぁい」

 おそらく帰りは、抱き上げて帰らなければならない。もうすでに目はとろりと眠そうだ。立ち上がった一号に駆け寄ってきた王女は、案の定無言で抱きついてくる。

 こういうところはやはり、年相応で可愛い。

 一号が破顔しつつ、王女を抱き上げようとした、まさにそのときであった。

 白蛇が目を開け、舌を出したその瞬間、地が揺れ、轟音が耳をつんざいた。王女の耳を塞ぐのは間に合わず、突然のことに彼女は驚き、「なにっ? なんなの!?」と、恐慌状態に陥っている。

 落ち着いて、と王女の背を撫でていると、ふと陰ったので、空を見上げる。

「!」

 白銀の鱗に覆われた身体が、上空に浮いていた。ずっととどまっているように見えたのは錯覚で、あまりにも体長が長いため、空を隠している時間が長かっただけだ。猛烈な勢いで、その生き物はまっすぐに飛んでいく。

 目的地は、城に違いない。あそこには、竜も多くいる。

 あの恐ろしい生き物は、おそらく竜たちの王。人間に捕らえられた仲間たちを、開放するために襲来したのだ。

 牧場には、王子たちがいる。合流し、我が身に変えても、国王一家を逃がさなければならない。

 一号は王女を担ぎ上げ、城への道を引き返そうとした。

「シャー!」
「!」

 だが、蛇が行く手を阻んだ。踏みつけてでも帰らなければならないのに、一号はできなかった。

「どいてくれ! 帰らなければ……」
「シャー」

 赤い目が、じっと一号を見つめてくる。蛇の言葉なんてわかるはずがないのに、心に伝わってくるのは説得しようとする意志。

「あきらめろと、言うのか?」

 王城にいるのは、二号や王子殿下、国王夫妻だけじゃない。一号たちにも優しくしてくれる料理長や、二号が淡い想いを抱く女官。一号が今まで関わってきた人たちは皆、あの場所にいるのだ。

「俺と姫様以外、全員見殺しにしろというのか!?」

 白蛇は頷いた。一号の腕に抱かれた王女は、事態の深刻さに怯え、声を上げて泣いた。宥めることができないほど、一号は怒りに震えていた。

『守る者よ』

 声が、心に直接響く。白蛇のものであろう。男とも女ともつかぬ、深く低い声に、思わず跪きそうになって、一号は膝を叩いて堪える。

 そうだ。守る者だ。俺の身体は他より頑丈で、小さな子供を抱えて、楯になることしかできない。反乱を起こした竜を迎撃するのは、兵士と二号の役目だ。

『力を望むか?』

 それでも俺は。俺だって、戦う術さえあれば。

 一号は王女を一度下ろし、蛇に近づいた。震える手を伸ばすと、ぬるりと身体をくねらせて、絡みついて登ってくる。緊張に息を詰めていると、蛇はやがて、一号の肩で止まった。

『お前は誰を、その力で守らんとす?』
「俺は……」

 俺の愛する者を、この手で。

 ――ル……リル。

 耳の奥で木霊するのは、夢の中で自分を愛した白銀の男。いや、どちらが夢なのか。

 木漏れ日溢れる森は崩れ落ち、一号の前からは王女の姿も消える。

 ――ル、ベリル。ベリル、ベリル。私の唯一。

 ああ、愛してる。

 ……シルヴェステル。

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