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オタク 荷物 多い なぜ④

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「触るなよ!」

 山本は些細な刺激に激昂し、俺の肩を逆に押した。

「っ!」

「明日川くん!」

 何度でも言うが、俺は山本ほどではないとはいえ、運動神経があまりよろしくない。すでに山を登ってきたこともあり、疲労が足に溜まっていた。山本にそんな意志がないのはわかっているが、少しの衝撃で、バランスを崩す。出っ張った岩を踏み、俺は重力に逆らえなかった。ふわりと投げ出された方向に、道はない。崖になっている。

 落ちる、と思った瞬間、呉井さんが名を呼ぶのが聞こえた。必死に伸ばされた彼女の手が、俺の手を掴む。だが、さすがに呉井さんは、女の子だ。まがりなりにも男子高校生の平均くらいの身長体重の俺を、引っ張りあげて助けることはできない。

 守らなきゃ。

 そう咄嗟に思うことができたのは、奇跡だった。仙川の脅迫が身に沁みついていたのかもしれない。俺ができたのは、彼女を抱き締めてクッションになることと、自分が頭を打ちつけないように背を丸めて落ちることだけだった。

 ひやりとする浮遊感に、悲鳴も上げられなかった。

「……ってぇ……」

 地面に落ちて、一瞬息も止まりそうになる。うめき声とともに呼吸も戻ってきて、ほっとした。身体は痛いけれど、生きている。崖とはいえ、サスペンスドラマのラストシーンで犯人が追いつめられるような、断崖絶壁というわけではない。

「く、呉井さん、大丈夫?」

 うまくクッションになれていたらいいんだが……と、彼女を思い切り抱き締めていたことを思い出す。あわわ、リアル美少女に触れているあわわ。慌てて両手を挙げて全面降伏ポーズを取ると、呉井さんは身体を起こした。

「わ、わたくしは大丈夫ですが、明日川くんは……?」

「俺も大丈夫だから……えっとその、言いづらいんだけど」

 無事そうなら、俺から降りていただけるとありがたいのですが……。

 下手に出て懇願すると、「あら、ごめんなさいね」と、すまなさそうな素振りをまったく見せずに、呉井さんは俺の上からどいた。身のこなしから見て、怪我はしていない。ほっとした。彼女の無事は勿論だが、帰宅後に仙川に殺されることはないだろう。……半殺しくらいですみそうだ。

 俺も身を起こす。その途端、足に激痛が走った。そろりそろりとなめくじよりもゆっくりと動けば、問題はなさそうだ。骨には異常ないと信じよう。病は気から、ということだし。背中が足よりはマシな痛みなのは、リュックがクッションの役割を果たしてくれたからだろう。

 崖上の登山道を見ると、山本が真っ青な顔をしていた。俺と目が合うと、気まずそうな顔をして、すぐに去って行った。謝罪は期待できそうにないな。

「っ、つぅ……」

「明日川くん……」

 応急処置はしておいた方がいいが、救急箱が入っていたのは仙川に渡されたスポーツバッグの方だった。呉井さんを抱きとめるために手放してしまい、崖上に放置されている。俺が持ってきたのはせいぜい虫よけと刺されたとき用のかゆみ止めに、絆創膏くらい。救急箱には消毒薬から添え木に包帯、三角巾が入っていたのに。

 心配そうな呉井さんに、へらへら笑ってみせる。

「大丈夫大丈夫。ちょっと痛いだけだから」

 それでも彼女は不満そうである。笑みを浮かべていることが多いので、唇を尖らせているシーンは珍しい。思わずまじまじと見つめていると、視線に気がついたのか、彼女がこっちを見た。

 慌てて視線を外し、

「そうだ。誰かに連絡しないとな」

 とスマートフォンを取り出した。あの調子では、山本は先生に俺たちのピンチを伝えないかもしれない。というか、頂上にちゃんとたどり着けるのかすら危うい。教師の番号を知らされていないのは、こういうときには不便だ。俺は少し考えた末、トークアプリを立ち上げて、柏木に連絡をする。

 柏木たちのグループは、きっと先生に「山の頂上で、スマホばかり弄って!」と言われようが、スマホをちょくちょくチェックするに違いない。案の定、すぐに既読がつき、コール音がした。

「お~。柏木」

『ちょっとあんた、何やってんのよ!』

 電話口からは、他の女子の声は聞こえなかった。そして柏木は怒っているのに、やたら小声である。あまり俺たちと交流があることを、ばれたくないからだろう。

「悪い悪い。先生に伝えてくれるか? 俺はちょっと足捻ったみたいだけど、呉井さんは無事だよ」

『っ、……怪我、してるの?』

 思ったよりも彼女は心配してくれていて、ちょっと悪かったな、と思う。大丈夫だと重ねて言うと、柏木は話しながら移動していたらしく、担任に代わると言い出した。

 怒鳴られるかと思ったが、担任も「大丈夫か?」と心配してくれた。すんません、と神妙な声で謝罪して、彼の指示をうんうん頷きながら、聞く。

「わかりました。はい。おとなしく待ってます」

 通話を切って、呉井さんに向き直る。

「頂上のセミナーハウスみたいなところに、常駐のレンジャーさん? 的な人がいるから、その人と一緒に助けに来てくれるって」

 そう、と彼女は言う。落ち込んでいる様子の彼女に、積極的に声をかける気にはなれずに、俺はなんとなく沈黙を保った。いつもは意識しない、草木が風に揺れる音がはっきりと聞こえる。目には見えないけれど、虫の羽音も聞こえてきて、俺は虫よけスプレーを自分のリュックから取り出した。

「使う?」

 刺された跡が残ったら大変だ、と先に女の子である呉井さんにスプレーを渡す。彼女は小さく頷いて、露出した首や手に噴射していく。

「どうして、わたくしを助けてくれたんですか?」

「え?」

 スプレーを渡しながら、呉井さんは信じられない質問を投げかけてくる。どうして、と言われても。

「目の前で友達が危ない目に遭ってたら、助けるのは当然」

 咄嗟に身体が動かないこともあるかもしれない。でも今回、俺の身体はスムーズに動き、呉井さんに手を伸ばすことができた。一緒に落ちてしまったのは、格好悪いし、俺の能力が低すぎた結果に過ぎない。

「でも……明日川くんが助けてくれなかったとしても、わたくしはこんなところでは、死にませんよ?」

 まじまじと呉井さんの顔を見る。彼女の目は空っぽの皿のようだ。丸い目はつややかで濁りがないが、何の感情も乗っていない。本気で自分は崖の上から落ちても死なないと、信じているのだと俺は悟る。

 たまたま今回は、運がよかっただけだ。打ちどころが悪ければ、階段から転げ落ちただけで、人間は簡単に死んでしまう。ましてごつごつした岩もある山ならば、本当に死んでしまったとしても、おかしくはなかったのに。

「わたくしが死ぬ理由は、決まっておりますから」

 呉井さんは微笑みを浮かべて俺を見つめる。

 背筋がぞくりと、寒くなった。

 人間は自分がいつ死ぬかなんて、誰もわからない。何事もなければ寿命でこの世を去るだろうが、若いうちに不治の病に侵されてしまうかもしれない。明日、交通事故に遭遇するかもしれない。

 なのに彼女は、笑って確信しているのだ。

 自分自身の寿命さえ、コントロールできるのだと。

 その笑顔は、マッド・クレイジーとあだ名されるにふさわしいものだと思った。異世界転生を夢見て、明後日の方向に向かって努力している姿よりも、時代錯誤な物言いや仕草よりも、よほどマッドで、クレイジーだ。

 どうしてそんな風に感じるのか、このときの俺は、まだ腑に落ちていなかった。よく考えれば、彼女が何を考えているのか、わかったはずなのに。

 ただただ、異様さに圧倒され、救助を待っていた。助け出されたときには、ホッとした。念のために、と呉井さんも一緒に病院に行った。そのときには、すでに彼女の目はいつもどおりの、透き通った美しい瞳に戻っていたので、俺はこの日の彼女の危うさを、忘れていた。
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