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オタク 荷物 多い なぜ③

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 呉井さんの歩みは、最初のときと違って遅い。普段平地の道端に生えていたら、気にも留めないような草花を見つけては、虫眼鏡をポケットから取り出す。そして、俺に空いている方の手を差し出すのだ。俺は黙って、該当の図鑑をその手に載せる。わがままお嬢様の無言の要求にすべて応える、有能な執事になった気分だった。お嬢様の鳴らすベルに、銀のトレイから適温の紅茶をカップに注ぐ、そんなイメージだ。オタクとして、執事に片眼鏡は必須アイテムだ。

 そんなしょうもない妄想をしてしまうくらいには、飽きていた。呉井さんも、小中学校の授業でしか、植物観察はやったことがないらしい。しっかりと区別がつかないため、同じ植物を何度も何度も、図鑑で確認する羽目になる。

 呉井さんは、そんな繰り返しも楽しいらしいが、俺としては勘弁してもらいたい。余裕はあるとはいえ、時間も気になるところだ。少なくとも、昼食をゆっくり摂りたい。腕時計を確認する回数が増えた。

「うーん。やはり、苔の図鑑も持ってくるべきでしたわ」

 岩肌には緑色の苔がわさわさと生えている。この分だと、顕微鏡もあれば……と、言い出しかねない。

「苔はさすがに、転生先で役に立つかどうか……」

 少なくとも、俺は苔マニアの転生者を見たことはない。そんなことを言うなら、キノコマニアもだけど。なぜか転生者は、マニアでもないくせにいらんことを覚えているんだよな。

「あら、わかりませんわ。転生先が、この世界よりもひどい温暖化に悩まされていれば、苔による緑化は有用ですし。ミズゴケの類は、昔はスポンジ代わりに使われていたそうですよ」

 こんな風にな。

 無駄知識の多さでいうなら、きっと呉井さんには転生者になる資格がある。悲しいかな、ここは現実世界なのだ。彼女の夢見る転生は、一生研究を積んだとしても、できやしない。

「苔は滑るから、あんまり近づかないように」

 俺はそれで、苔トークを打ち切った。呉井さんも、そこまで苔に愛着はないようで、特に食い下がることはなかった。

「そろそろ真面目に登らないと、昼の休憩時間がなくなるよ」

 俺が指さした時計ではなく、彼女は自分の腕時計を見る。さすがにいつも学校につけていくような華奢なブレスレットタイプの装飾性の強いものではなく、スポーツウォッチだ。白を基調としたウォッチは、おそらく最新性で、呉井家の財力を窺い知る。俺のは中学の入学祝いにもらったのを、ずっと使っているというのに。

「まだ余裕がありますわ」

「あのね」

 呉井さんの体力と脚力なら余裕かもしれないけど、俺! 俺の体力と気力と足が限界なの! なんでこんな情けないことを自分で白状しなきゃならないんだ。そして呉井さんが、「ああ」と納得したような表情を浮かべるのがまた、物悲しいことこのうえない。

 やっぱり体力づくりに何かを始めよう。ゲームや漫画の時間を削るのは惜しいが、少しでも彼女の突飛な行動に追いつけるように……と考えて、自分があまりにも彼女に毒されていることに気がついた。

 俺は仙川や瑞樹先輩とは立場が違う。いわゆる身内という奴ではない。ひょんなことから目をつけられ、望んでもいないのにお気に入りにされてしまった。俺はラノベの巻き込まれ型主人公か、と思わずツッコんでしまう。そして数々の平々凡々で非凡な主人公たちと同じように、俺はとんでもヒロインから逃げる気を、すでに失っている。そういうことだ。

 呉井さんは、完璧な美少女だ。けれど、アンバランスで危うい面もある。オタクでもなければ、現実世界からの逃避を望んでいる節もない。また、転生を夢見る厨二病罹患者は、大抵の場合、転生先での野望を抱いている場合がほとんどだ。俺だって、「もしも転生するなら」と妄想するなら、チート能力を授かって、魔法を使って、勇者になって美人のお姫様と結婚して……と考える。そういう妄想の結果が、転生系小説だ。

 彼女には、何もない。転生をしたい。そのための準備をする。ただそれだけだ。王子様に見初められたいわけでも、内政無双をしたいわけでもない。ただ、誰かからの入れ知恵によって、行動を決めている。そんな風に見える。

 オタクコンテンツに慣れ親しんだ俺や柏木と知り合ってからは、俺たちの言うことに左右されている。地面をじっと観察し、めぼしい植物を見つけたら図鑑を開き、学ぼうとする。俺たちが雑談していなければ、呉井さんは思いつかなかった。

 連休中のかくれんぼは、以前から定期的に行っていたという。仙川はお嬢様命の堅物だ。彼女の命令となれば、なんでもするだろう。いくらでも小説や漫画を読み、勉強する。でも、俺は仙川が転生系の物語に触れるのを見たことがないし、自分からあれこれ提案することもない。呉井さんがしたいことを、彼女が満足するまで行わせる。徹底的に。

 瑞樹先輩も似たようなものだ。にこにこと呉井さんの行動を見守っていて、口出しはしない。止めることもなければ、何か他のアイディアを出すこともない。彼は仙川よりは、物語に親しんでいるようだが、俺には遠く及ばない。

 約二か月の間、俺は最も近い場所で、彼ら三人の閉じた関係を見てきた。それゆえに、ある疑問が浮かぶ。

 呉井さんに、最初に異世界転生のことを教えたのは、誰だ?

 仙川でも瑞樹先輩でもない。まして、呉井さんが自らネット小説をスコップして発見するなんてことはない。以前、何とはなしに尋ねた彼女の愛読書は、海外ミステリや名作文学だった。どこにもライトノベルのタイトルは、出てこなかった。

 誰かが、知識を植えつけたに違いない。そしてその人物は今、彼女の傍にはいない。

 大きなザックが歩いているように見える彼女の背中を見つめる。呉井さんの行く末に、彼女を異世界へ導くその「誰かさん」は待っているのだろうか。

「明日川くん? やっぱり疲れていらっしゃるんですか?」

 振り返る呉井さんの目は、俺を見ている。

「大丈夫。行こう」

 被服室にいたのかもしれない四人目ではなく、今ここにいる、クラスメイトの俺を。

 十分ほど真面目に、立ち止まらずに登り続けると、ようやく同級生の姿が見えた。ひょろりとした男子が一人、肩で息をしながら、だらだらと歩いている。おーい、と声をかけようとしてやめた。相手が誰だかわかったからだ。

 呉井さん、と小さな声で呼び止めようとした。が、先を歩く同級生に聞かれたくないと思うあまりに、小声になり過ぎたようだ。彼女は俺には反応せず、目の前の男子に声をかけた。

「山本くん。大丈夫ですか?」

 山本は、億劫そうに振り返る。表情は登山の苦悶のせいだけではなく、険しい。

 あちゃあ、と俺は人知れず押さえる。

 山本は、万年学年二位のクラスメイトだ。中間テストのときにウザ絡みしていた奴である。ガリ勉のイメージどおり、俺よりも貧弱な肉体に青白い顔、今どき珍しい分厚いレンズと重いフレームの、いわゆる瓶底メガネをかけている。神経質にメガネポジションを直すと、被害妄想を爆発させる。

「僕を笑うために、わざわざ最後に登ってきたのか?」

 見かけ通り、彼は俺以上に体力がなく、運動神経も鈍い。タチの悪い同級生は、体育の授業で彼の失敗を嘲笑う。その記憶がこびりついているせいで、呉井さんも同じようにからかってくるのだと、勘違いしている。

「わ、わたくしは、そんな……」

 変わり者だと遠巻きにされることには慣れている呉井さんだが、直接悪意をぶつけられることは慣れていない。俺は自然と、彼女の前に進み出た。

「呉井さんは、そんなゲスなことをして喜ぶような人じゃない」

 彼女の緊張した息遣いを、背後に感じる。俺も同じくらい緊張しているが、ここで呉井さんを守ろうとしなければ、男が廃るってもんだ。し、仙川に逃げたことがばれたら、殺されるかもしれん。仙川に後で追っかけられるくらいなら、今、山本と対峙して睨みつける方が簡単だ。

「ほら。山本も一緒に登ろうぜ。あと少しだからさ」

 肩の力を抜いて、あえて笑って山本に呼びかける。敵対する意志はみじんもない。だが、山本は他人の笑顔に、ネガティブな方向に敏感だった。

「なんだよ。笑ってるんじゃないぞ、明日川。お、お前なんかなぁ、呉井がバックについてるからって、何にも怖くなんか、ないんだからな!」

「はぁ?」

 言葉とは裏腹に、山本の声はひっくり返る。メガネに触れる度、先程までは鳴っていなかったカチャカチャという音がするのは、指が上手く動かないせいだろう。俺は山本の顔をまっすぐ見ているのに対し、彼は視線をさまよわせ、目が合うことはない。

 山本にとって、自分に向けられる他人の笑みは、悪意を伴うものなのだ。彼にだって友人はいる。他のクラスの秀才タイプの男女と、廊下で話しているのを見たことがある。何か真面目に議論している様子で、談笑するという雰囲気ではなかったが、それでも親しいのだろうことは伝わってきた。

 友人たちに真顔以外の表情を向けられることだってあるだろうに、山本は自意識過剰で、被害妄想過多だった。

「おい。俺たちは別に、お前のことなんて……」

 これは明らかに、俺の失言だった。おどおどした目を、途端に鋭くし、山本は俺を睨みつけた。

「ほら、やっぱり僕のことを馬鹿にしているんだ!」

「だから、違うって!」

 山本が一部の人間からからかわれ、嘲笑されているのは、ガリヒョロのガリ勉くんだからではない。

「僕は本当なら、東京の超有名校に通っているはずだったんだからな」

 見当違いのプライドで、同級生全員を見下している山本が、好かれるはずがないのだ。悪意には悪意を鏡のように反射している。山本は自分だけが下に見られ、馬鹿にされていると思っているようだが、本当は自分が、周りの人間すべてを馬鹿にしている。

 受験のときにひどい風邪を引き、本命校の受験に失敗した。数人を除いて(山本と似たような境遇の連中だ)、馬鹿ばかりの学校だと思っている。当然、何もしないでも自分が学年一位になれると思っていた。なのに、この学校には、呉井さんがいた。

 クレイジー・マッドと遠巻きにされているとはいえ、彼女は山本とは違い、人格者である。学級委員として教師からの信頼も厚い。呉井さんを馬鹿にしている奴もいるが、そういう連中はもれなく、美人すぎる呉井さんをいやらしい目で見ている連中だ。

「もういいよ。俺たちは後から行くから、先に行けよ」

 波風を立てないようにしようと、へらへら笑って仲良く一緒に登ろうと提案してみたが、交渉は決裂。俺は山本の肩を叩き、先に行くことを促した。
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